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良心聖書に対する洞察,第2巻
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他の人の良心を考慮に入れる 物事を正しく評価するには良心が神の言葉によって十分に,また的確に訓練されていなければならないことを考えると,訓練されていない良心は弱いと言えるでしょう。つまり,その良心は容易に,また賢明ではない仕方で抑制されるかもしれず,その人は悪行が全く関係していない場合でも,他の人の言動によって感情を害されるかもしれないということです。パウロは食べることや飲むこと,また特定の日がほかの日に勝ると判断することに関連してその例を挙げました。(ロマ 14:1-23; コリ一 8:1-13)知識を持ち,良心を訓練されたクリスチャンは,良心の弱い人に対して思いやりを示し,酌量するよう命じられており,自分の自由を最大限に用いたり,個人的な“権利”すべてを主張したり,いつも自分のしたいと思うとおりにしたりしてはなりません。(ロマ 15:1)仲間のクリスチャンの弱い良心を傷つける人は「キリストに対して罪をおかして」います。(コリ一 8:12)他方パウロは,自分が弱い兄弟の感情を害するようなことをしたためにその兄弟がパウロを裁く,というようなことが生じないよう望むと共に,その弱い人も同様に自分の兄弟を思いやるべきであり,自分の良心を容易に害されて他の人を悪く見るということがないよう,知識を増し加え,訓練を積んで円熟に向かって奮闘すべきである,という意味のことを述べています。―コリ一 10:29,30; ロマ 14:10。
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自由聖書に対する洞察,第1巻
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使徒パウロはキリストを通して得た自由を享受しましたが,その自由を自分を喜ばせることに用いたり,人に害を与えるほどに行使したりすることは差し控えました。パウロはコリントの会衆にあてた手紙の中で,聖書的に見れば自分は自由に行なえる事柄であっても,知識の少ない他の人たちはそれを疑問視しており,パウロの行動によって良心を害されるおそれがある場合,自分はそうしたことを行なって他の人の良心を損なうようなことはしない意向であることを示しました。その人々の良心はパウロの行動のために苦しむかもしれないのです。そして,一つの例として,市場に売りに出される前に偶像に差し出された肉を食べることを引き合いに出しています。そのような肉を食べれば,弱い良心を持つ人はパウロの正当な行動の自由を批判し,そのようにしてパウロの裁き人として行動するかもしれませんが,それは正しいことではありません。それで,パウロはこう述べました。「わたしの自由がほかの人の良心によって裁かれるということが,どうしてあってよいでしょうか。わたしが感謝を抱いてあずかっているのであれば,わたしが感謝をささげているものについて,なぜあしざまに言われるべきでしょうか」。それでも,パウロは自分の自由を有害な仕方ではなく,築き上げる仕方で行使することを決意していました。―コリ一 10:23-33。
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