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パウロ,I聖書に対する洞察,第2巻
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パウロは以前にクリスチャンを迫害していたため,自分が使徒と呼ばれるのはふさわしくないと考え,自分が使徒となったのはひとえに神の過分のご親切によることを認めていました。自分に示されたこの過分のご親切が無駄にならないように心を砕いていたパウロは,他の使徒たち以上に労苦しました。しかし彼は,自分が奉仕の務めを続けられるのも,ひとえに神の過分のご親切によるということを悟っていました。(コリ一 15:9,10)「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」とパウロは述べました。(フィリ 4:13)多くのことを耐え忍びましたが,不平はこぼしませんでした。彼は自分の経験と他の人たちの経験を比較してこう書きました(西暦55年ごろ)。「その労苦はさらに多く,獄に入れられたこともさらに多く,殴打を受けたことは過度に及び,死にひんしたこともしばしばでした。ユダヤ人たちからは四十より一つ少ないむち打ちを五回受け,三度棒むちで打ちたたかれ,一度石打ちにされ,三度難船を経験し,一昼夜深みで過ごしたこともあります。幾度も旅をし,川の危険,追いはぎの危険,わたし自身の民族からの危険,諸国民からの危険,都市での危険,荒野での危険,海での危険,偽兄弟たちの間での危険に遭い,労し苦しみ,眠らぬ夜を幾度も過ごし,飢えと渇きを知り,食物を取らないことが何度もあり,寒さと裸を経験しました。そうした外的な事柄に加えて,日ごとに押し寄せて来るもの,すなわちすべての会衆に対する心配があります」。(コリ二 11:23-28; 6:4-10; 7:5)このすべて,また後年に増し加わった問題に加えて,パウロは『肉体の一つのとげ』と闘わなければなりませんでした。(コリ二 12:7)そのとげとは,彼の目もしくはその他の問題に関係した悩みだったのかもしれません。―使徒 23:1-5; ガラ 4:15; 6:11と比較。
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いばら聖書に対する洞察,第1巻
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いばらは,危害を招いたり厄介な問題の種になったりする人や物事を表わしています。(民 33:55; 箴 22:5; エゼ 28:24)パウロの『肉体のとげ』(コリ二 12:7)とは,苦痛の種となっていた目もしくは体の他の部分のことだったか(使徒 23:1-5; ガラ 4:15; 6:11を参照),あるいはパウロの使徒職や業の正当性を疑った偽使徒や他の妨害者たちのことだったかもしれません。(コリ二 11:5,6,12-15; ガラ 1:6-9; 5:12; 6:17を参照。)エホバはご自分の預言者エレミヤを通して,ユダの者たちとエルサレムの住民の心を,いばらで,つまり不真実や不公正や不義で覆われた地面になぞらえられました。(エレ 4:1-4。ホセ 10:12,13と比較。)いばらが樹木で置き換えられることは,適切にも神の恵みの回復を表わしています。―イザ 55:13。「おどろ」; 「雑草」; 「茂み,かん木」; 「野いばら」; 「ロータスの木」を参照。
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