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  • 柱
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 比喩的な用法 建造物の柱は,その材料や働きのゆえに堅固な支えのふさわしい象徴となりました。それらは,確実な擁護を与えるものの例証となりました。クリスチャン会衆は宗教上の誤りとは対照的な真理を擁護するので,「真理の柱また支え」と呼ぶことができます。(テモ一 3:15)ヤコブとケファとヨハネに関しては,初期の会衆の『柱に思えた』と言われており,彼らは堅く据えられ,会衆の強力な支持者でした。(ガラ 2:9)征服するクリスチャンは神の「神殿」の中の柱とされ,霊的な建造物における恒久的な立場を得ます。(啓 3:12)柱が堅固であるという概念は,強力なみ使いの足を描写するのに柱について述べる箇所に見いだせます。(啓 10:1)シュラムの娘の愛する人であった羊飼いの脚は「大理石の柱」のようで,麗しく,強力でした。―歌 5:15。

  • 神聖な奥義
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 敬虔な専心に関する神聖な奥義 パウロはテモテにこう書きました。「わたしがこれらのことを書くのは,……神の家の者たちの中でどのように行動すべきかをあなたに知ってもらうためです。それは生ける神の会衆であり,真理の柱また支えなのです。明らかなことですが,この敬虔な専心に関する神聖な奥義はまことに偉大です。すなわち,『彼[イエス・キリスト]は肉において明らかにされ,霊において義と宣せられ,み使いたちに現われ,諸国民の中で宣べ伝えられ,世で信じられ,栄光のうちに迎え上げられた』のです」― テモ一 3:14-16。

      「生ける神の会衆」は真理を持っており,真の敬虔な専心に関する秘義,つまり「神聖な奥義」を正確に知っていました。また会衆は,そのような敬虔な専心の形だけでなく,力を持っていました。(テモ二 3:5と対比。)したがって会衆は,誤りや偽りの宗教,すなわちサタンとサタンが思いをくらました人々にとっては神聖と思われる“秘義”の満ちる世のただ中で,「真理の柱また支え」となることができました。(コリ二 4:4)イエス・キリストご自身について言えば,その敬虔な専心は,霊感を受けたヘブライ語聖書の中で予告され,説明されていました。神の主権に対する挑戦が投げかけられ,人間の忠誠が疑問視された時以来幾世紀にもわたり,悪魔から圧迫を加えられても,完全で変わることのない,きずのない敬虔な専心を十分に保てる人がいるかどうかということは,秘義,すなわち「神聖な奥義」でした。試みのもとでも耐え抜き,エホバに対する全き専心のうちに,全く清く,罪も汚れもない状態を貫くことのできる人がだれかいるでしょうか。これと関連があるのは,蛇の頭を砕く「女の胤」となるのはだれかという疑問でした。この点は,キリストが「肉において明らかにされ,霊において義と宣せられ,み使いたちに現われ,諸国民の中で宣べ伝えられ,世で信じられ,栄光のうちに迎え上げられた」時,十分に啓示されることになっていました。(テモ一 3:16; 6:16)これは確かに偉大な事柄でした。敬虔な専心に関するこの大きな問題は,イエス・キリストという一人の人物を中心としていました。キリストの敬虔な専心の歩みは,実に偉大でした。それは大いに人類を益し,エホバのみ名を高めています。―「敬虔な専心」を参照。

  • 真理,真実
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 「真理の柱また支え」 クリスチャン会衆は「真理の柱また支え」としての役目を果たし,真理の浄さを保ち,真理を擁護し,真理を支持します。(テモ一 3:15)そのようなわけで,会衆の監督をゆだねられた人たちが「真理の言葉」を正しく扱えるというのは特に重要な事柄です。神の言葉をふさわしく用いれば,彼らは会衆内の偽りの教えと闘い,「好意的でない人たち」を教え諭すことができます。「神が彼らに悔い改めを授け,真理の正確な知識に至らせてくださるかもしれないからです」。(テモ二 2:15-18,25。テモ二 3:6-8; ヤコ 5:13-20と比較。)すべての人が会衆内でそのような教え諭す資格や教える資格を持っているわけではありません。苦々しいねたみや闘争心を抱く人たちには,自分に教える資格があるなどと自慢できる理由はありません。そう主張したとしても,それは偽りです。弟子ヤコブが書いたとおりです。「あなた方の中で知恵と理解力のある人はだれですか。その人は,知恵に伴う温和さをもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい。しかし,あなた方が心の中に苦々しいねたみや闘争心を抱いているなら,真理に逆らって自慢したり偽ったりしてはなりません」― ヤコ 3:13,14。

      クリスチャン会衆が「真理の柱また支え」となるために,その会衆の成員は自分たちの生活における立派な行状によって真理を表わさなければなりません。(エフェ 5:9)彼らはちょうど『真理を帯として巻いて』いるかのように首尾一貫して正しい行状を示し,それからそれてしまうことがないようにすべきです。(エフェ 6:14)クリスチャンは個人として浄さを保つことに加え,会衆の浄さにも関心を持たなければなりません。使徒パウロはクリスチャン会衆を清く保って不法な人々に汚されないようにする必要性を強調した際,このように書きました。「古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです。ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」。(コリ一 5:7,8)イエス・キリストは過ぎ越しの子羊の実体としてただ一度だけ犠牲にされたので(ヘブ 9:25-28と比較),無酵母パンの祭りに匹敵するクリスチャンの生き方全体は,有害な事柄や邪悪な事柄を含んでいてはなりません。個人や会衆の浄さを保ち,そのようにして『誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なう』ためには,罪深い事柄を進んで取り除く態度がなければなりません。

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