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完全聖書に対する洞察,第1巻
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ある人々は,聖書は他の多くの本よりも読みにくくて,相当の努力と集中力を要する本だと思うかもしれず,また分からない点が多いと思うかもしれません。中には,聖書が完全な本なら,表面的な食い違い,もしくは自分たちの規準から見て矛盾しているように思えることさえあってはならないと主張する批判的な人もいるかもしれません。しかし,そのような事柄はどれ一つとして聖書の完全性を損なうものではありません。というのは,聖書の完全性を示す真の尺度は,それがエホバ神のお定めになった優良さに関する規準にかなっており,聖書の真の著者であられる神によりこの書のために定められた目的もしくは意図が達成されていると共に,出版された真理の神のみ言葉として偽りがないということだからです。使徒パウロは,「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」と述べて,「聖なる書物」の完全性を強調しています。(テモ二 3:15-17)イスラエル国民がヘブライ語聖書の教えを守り行なった時に受けた益,また1世紀のクリスチャン会衆が完成した聖書から受けた益,ならびに現在の人々が聖書から受ける益は,神がご自分の目的を成し遂げるためにお用いになる理想的な手だてとしての聖書の特質を示す,説得力のある証拠です。―コリ一 1:18と比較。
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聖書,聖句聖書に対する洞察,第1巻
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キリストや使徒たちがよりどころとする イエス・キリストやクリスチャン聖書の筆者たちは,モーセや預言者たちの書が神の霊感を受けたものであることを根拠に,自分たちの教えや業の典拠としてこれらの書をよりどころとしましたが,その際にグラフェーという語をよく用いました。ヘブライ語で書かれたこれら何冊もの書はひとまとめにしてしばしば「聖書」(Scriptures)と呼ばれました。(マタ 21:42; 22:29; マル 14:49; ヨハ 5:39; 使徒 17:11; 18:24,28)特定の聖句が引用される場合,ヘブライ語聖書全体の一部としてのその句を指して,「聖書[もしくは,聖句]」(Scripture)という単数形が用いられることもありました。(ロマ 9:17; ガラ 3:8)そして,信頼すべき言葉であるという意味で,単一の聖句が「聖句」(scripture)と呼ばれました。(マル 12:10; ルカ 4:21; ヨハ 19:24,36,37)テモテ第二 3章16節やペテロ第二 1章20節で,パウロとペテロは霊感を受けて記されたヘブライ語とギリシャ語の書物の両方を「聖書」(Scripture)と呼んでいるようです。ペテロはペテロ第二 3章15,16節で,パウロが書いたものを「聖書」(Scriptures)の一部として類別しています。
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聖書,聖句聖書に対する洞察,第1巻
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クリスチャンにとって不可欠 イエス・キリストはご自分の教えの裏付けとしてヘブライ語聖書を絶えずよりどころとされたので,イエスの追随者たちもそれからそれないようにするのは大切なことです。使徒パウロはヘブライ語聖書の価値とそれがなくてはならないものであることを強調して次のように述べています。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」― テモ二 3:16,17。
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霊聖書に対する洞察,第2巻
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神の僕たちのために用いられた霊 神の霊の主要な働きは,物事を知らせたり,解明したり,啓示したりする能力と関係があります。ですから,ダビデは,「あなたのご意志を行なうことをわたしに教えてください。あなたはわたしの神だからです。あなたの霊は善良です。それがわたしを廉直の地に導き入れてくれますように」と祈ることができました。(詩 143:10)それよりもずっと以前に,ヨセフはファラオの預言的な夢を解き明かしましたが,神の助けによってそうすることができたのです。エジプト人のその支配者は神の霊がヨセフの内で働いていたことを認めました。(創 41:16,25-39)物事を解明する霊のこの力は預言の場合,特に著しいものがあります。使徒が示しているように,預言は状況や出来事に関する人間の解釈から生じたものではありませんでした。それはそのような事柄の意味や意義を説明したり,来たるべき出来事の成り行きを予測したりするために,預言者が生まれつき持ち合わせていた何らかの能力が働いた結果ではありませんでした。むしろ,そのような人たちは「聖霊に導かれ」,つまり神の活動する力によって情報を伝えられ,心を動かされ,また導かれました。(ペテ二 1:20,21; サム二 23:2; ゼカ 7:12; ルカ 1:67; 2:25-35; 使徒 1:16; 28:25。「預言」; 「預言者」を参照。)同様に,霊感を受けて記された聖書はすべて,「神の霊感を受けた」もので,この表現は字義的には「神が息を吹き込んだ」という意味のギリシャ語テオプネウストスを訳したものです。(テモ二 3:16)神の霊はそのような人たちと意思の伝達を図ったり,彼らを導いたりする際,様々な仕方で働き,ある場合には幻や夢を見させたりしましたが(エゼ 37:1; ヨエ 2:28,29; 啓 4:1,2; 17:3; 21:10,11),いずれの場合でも,彼らの思いや心に働きかけて,神の目的にしたがって彼らに動機づけを与えたり,彼らを導いたりしました。―ダニ 7:1; 使徒 16:9,10; 啓 1:10,11。「霊感」を参照。
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