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    聖書に対する洞察,第2巻
    • 聖の聖なる所に油をそそぐ イエスはバプテスマの際,聖霊で油そそがれました。その時聖霊は,目に見えるはとのような形でイエスの上に下って来ました。しかし,「聖の聖なる所」に油をそそぐことは,メシアに油をそそぐことだけを指しているのではありません。なぜなら,この表現はいかなる人を指すものでもないからです。「聖の聖なる所」,つまり「至聖所」は,エホバ神の聖なる所を指して用いられる表現です。(出 26:33,34; 王一 6:16; 7:50)ですから,ダニエル書に出ている「聖の聖なる所」に油をそそぐことは,偉大な大祭司イエス・キリストが「ご自身の血を携え(て)」入られた「手で造ったのではない……より偉大で,より完全な天幕」と関係があるに違いありません。(ダニ 9:24; ヘブ 9:11,12)イエスがご自分の人間としての犠牲の価値をみ父に差し出された時,天そのものは,幕屋や後代の神殿の至聖所が表わしていた霊的な実体の様相を呈しました。それで,神の天の住みかは確かに,イエスが西暦29年に聖霊で油そそがれた時に存在するようになった偉大な霊的神殿の取り決めの「聖の聖なる所」として油そそがれた,つまり取り分けられていたのです。―マタ 3:16; ルカ 4:18-21; 使徒 10:37,38; ヘブ 9:24。

  • 幕屋
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 比喩的な用法 使徒パウロは幕屋の図式的な意義に光を当てています。パウロは幕屋とその中で行なわれた奉仕によって作られた型について論じた文脈の中で,「聖なる場所,そして,人間ではなくエホバの立てた真の天幕の公僕」としてのイエス・キリストについて述べています。(ヘブ 8:2)そしてさらに,『キリストはすでに実現した良い事柄の大祭司として,手で造ったのではない,すなわち,この創造界のものではない,より偉大で,より完全な天幕を通って来た』と述べています。(ヘブ 9:11)荒野の天幕は,神の命令によって設けられた,真の崇拝において神に近づくための取り決め,すなわち罪を予型的に取り除くための取り決めでした。それは例えであって(ヘブ 9:9),大祭司イエス・キリストがその中で奉仕し,実際に罪を取り除くことのできるご自分の犠牲の価値を携えて天の父のみ前に現われることができた,神の設立された取り決めを予示していました。(ヘブ 9:24-26。「神殿」を参照。)この取り決めを通して,忠実な人々は本当に神に近づくことができます。(ヘブ 4:16)使徒ヨハネは天の「証しの天幕[つまり,幕屋]の聖なる所」を幻の中で見ました。―啓 15:5。

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