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考古学聖書に対する洞察,第1巻
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考古学の相対的な価値 考古学のお陰で,聖書に関係のある遺跡を同定する(大抵の場合,暫定的)のに助けとなる有用な情報が提供され,聖書を書くのに用いられた原語をよりよく理解するのに役立つ記録された文書が出土し,聖書の中で言及されている古代の民族や支配者たちの生活状況や活動が解明されてきました。しかし,聖書の信ぴょう性や信頼性,それに聖書に対する信仰,聖書の教え,神の約束や目的に関する聖書の啓示などに関する限り,神のみ言葉の真理を考古学によって補足することは肝要ではなく,考古学によって確証する必要もないと言わなければなりません。使徒パウロもそのことをこう言い表わしています。「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。信仰によって,わたしたちは,事物の諸体制が神の言葉によって配列され,それゆえ,見えるものが,現われていないものから出ていることを悟ります」。(ヘブ 11:1,3)「わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」― コリ二 5:7。
とはいえ,これは,見えるものの中にはキリスト教の信仰の根拠は一つもないとか,その信仰は無形のものしか問題にしないという意味ではありません。むしろ,どの時期にも,どの時代にも,人々の周囲に,さらには人々自身や各自の経験のうちにその時代の証拠,つまり聖書は神からの啓示の真の源であること,また聖書には実証できる事実と調和しない事柄は何一つ含まれていないことを確信できる証拠が十分あったことは確かです。(ロマ 1:18-23)考古学上の発見という観点から見た過去に関する知識は興味深いものがあり,高く評価されますが,肝要なものではありません。必要不可欠で,完全に信頼できるのは,聖書の観点から見た過去に関する知識だけです。考古学の有無にかかわりなく,聖書は現在の真の意味を示し,将来のことを明らかにします。(詩 119:105; ペテ二 1:19-21)信仰を補強したり,支えたりするのに,崩れたれんが,壊れたつぼ,崩壊した城壁などに頼らなければならないとすれば,それは実際,弱い信仰です。
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信仰聖書に対する洞察,第1巻
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信仰
(しんこう)(Faith)
「信仰」という言葉は,おもに確信,信頼,堅い信念という考えを表わすピスティスというギリシャ語を訳したものです。ギリシャ語のこの言葉は文脈によって「忠実さ」,または「忠信な態度」を意味すると解されることもあります。―テサ一 3:7; テト 2:10。
聖書によると,「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。(ヘブ 11:1)「保証された期待」という表現はギリシャ語のヒュポスタシスという言葉を訳したものです。この語はパピルスを用いた古代の商業文書によく見られます。この語は,目に見える状態の根底にあって,将来における所有を保証するものという考えを伝えます。このことを考えて,モールトンとミリガンは,「信仰は望んでいる事柄の権利証書である」と訳すことを提案しています。(「ギリシャ語新約聖書語彙集」,1963年,660ページ)「明白な論証」と訳されているギリシャ語のエレンコスという言葉は,ある事柄,それも特に事実と思えることに反する事柄を論証するために証拠を提出するという考えを伝えます。そのため,この証拠は以前には識別されていなかった事柄を明らかにし,そうすることにより事実と思われていたに過ぎない事柄を論ばくします。「明白な論証」,つまり確信のための証拠は極めて明確,もしくは強力なので,信仰は明白な論証に相当すると言われています。
ですから,信仰は希望の根拠であり,見えない実体に関する確信を与える証拠なのです。イエス・キリストと霊感を受けたその弟子たちによって伝えられた真理全体は,キリスト教の真の「信仰」の本質を成しています。(ヨハ 18:37; ガラ 1:7-9; 使徒 6:7; テモ一 5:8)キリスト教の信仰は,イエスやクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちが自分たちの述べる言葉を裏付けるものとして頻繁に言及したヘブライ語聖書を含む,完全にそろった神のみ言葉に基づいています。
信仰は実際の証拠に基づいています。目に見える創造の業は目に見えない創造者の存在を証ししています。(ロマ 1:20)イエス・キリストが宣教に携わり,地上で生活しておられた間に実際に起きた出来事は,イエスが神のみ子であられることを明らかにしています。(マタ 27:54。「イエス・キリスト」を参照。)神がご自分の地上の被造物に必要なものを備えておられることに関する記録は,神が確かにご自分の僕たちに必要なものを備えてくださることを信じる正当な根拠となり,命の授与者ならびに回復者としての神の記録は復活の希望の真実性を示す十分な証拠となります。(マタ 6:26,30,33; 使徒 17:31; コリ一 15:3-8,20,21)さらに,神のみ言葉が信頼でき,その預言が正確に成就するということは,神の約束がすべて実現するという確信を抱かせるものです。(ヨシュ 23:14)したがって,このように様々な仕方で,「信仰は聞く事柄から生じるのです」。―ロマ 10:17。ヨハ 4:7-30,39-42; 使徒 14:8-10と比較。
ゆえに,信仰は軽信ではありません。信仰をあざける人自身も,頼りになる,信頼のおける友に信仰を置きます。科学者は自分の扱う科学の分野の原理に信仰を置いています。そして,過去の発見を基に新たな実験を行ない,すでに真実であると確証された事柄に基づいて新たな事柄を発見しようとします。同様に,農夫は,必要な水分と日光を受ければ種は前年と同じように発芽し,植物は生長すると期待して土壌を整え,種をまきます。ですから,宇宙を支配している自然の法則の安定性に対する信仰は,実際に人間の種々の計画や活動の基盤を成しているのです。「伝道の書」の賢明な筆者は暗にそのような安定性を指してこう述べています。「日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎながら来るのである。風は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に帰ってゆく。冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである」― 伝 1:5-7。
ヘブライ語聖書では,アーマンという言葉,およびその語と密接な関連のある他の幾つかの言葉が,信頼性,忠実,安定,確固たる態度,堅く立てられること,長く続くことなどの意味を表わしています。(出 17:12; 申 28:59; サム一 2:35; サム二 7:16; 詩 37:3)関連のある一つの名詞(エメト)は普通,「真実」を意味していますが,「忠実」や「信頼できること」を意味することもあります。(代二 15:3,脚注; サム二 15:20。ネヘ 7:2,脚注と比較。)「アーメン」(ヘ語,アーメーン)というなじみの深い語もアーマンから来ています。―「アーメン」を参照。
古代の信仰の模範 パウロが挙げた「これほど大勢の,雲のような証人たち」(ヘブ 12:1)は各々,信仰の正当な根拠を持っていました。例えば,アベルは「蛇」の頭を砕く「胤」に関する神の約束について確かに知っていました。そして,エデンで自分の両親に対してエホバが下された宣告の成就を示す現実の証拠を見ました。地面がのろわれたためにいばらとあざみが生じていたので,アダムとその家族はエデンの外で顔に汗してパンを食べました。アベルは多分,エバが夫を慕い求め,アダムが妻を支配する様子を見たことでしょう。アベルの母は妊娠に伴う苦痛について述べたに違いありません。それにまた,エデンの園の入口はケルブたちと剣の燃える刃で守られていました。(創 3:14-19,24)このすべては「明白な論証」となり,救出は『約束の胤』を通して来るという保証をアベルに与えるものとなりました。そのため,アベルは信仰に促されて,「犠牲を神にささげ」ました。その犠牲はカインのそれよりもさらに価値のあるものであることが証明されました。―ヘブ 11:1,4。
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希望,望み聖書に対する洞察,第1巻
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信仰にとって肝要なもの 希望は信仰にとっても肝要なものです。それは信仰の基礎ですし,基盤です。(ヘブ 11:1)そして,信仰は希望をより明るく,より強いものにします。使徒パウロはクリスチャンを強めるために,アブラハムの立派な模範を引き合いに出しています。アブラハムと妻サラにとって,人間的な見地からすれば,子供をもうけることは達しがたい希望であった時,「達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰を抱きました。それは,『あなたの胤もそのようであろう』と言われたところにしたがって,彼が多くの国の民の父となるためでした」と言われています。アブラハムは子供をもうけることに関する限り,自分の体もサラの体も「死んだも同然」であることを知っていました。しかし,彼は信仰においては弱くなりませんでした。なぜでしたか。『神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になった』からです。―ロマ 4:18-20。
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