-
み子の足跡に従うという挑戦ものみの塔 1988 | 5月1日
-
-
み子の足跡に従うという挑戦
「キリストはあなた方のために苦しみを受け,あなた方のために個人的な模範を残して,あなた方がその足跡に従えるようにされたからです」― ペテロ第一 2:21,フィリップス訳。
1,2 (イ)どんなことは真の挑戦となり得ますか。クリスチャンがそれに関心を抱くのはなぜですか。(ロ)ここで,どんな質問が提起されていますか。
あなたは砂浜や雪原を歩いていて,自分よりも前にそこを歩いた人の残した足跡に思わず興味をそそられたことはありませんか。もしかすると,一そろいの足跡を見分けてそれに従うよう努め,自分の足取りをなるべく正確にそれに合わせたこともありましたか。もしそうなら,それが簡単ではないことに気づいたでしょう。実際,文字通りにであれ,比喩的にであれ,他の人の足跡にしっかり従うのは,まさしく挑戦となります。しかし,わたしたちは自分自身をクリスチャンと呼ぶことにより,まさにそのことをしたい,つまりキリストの足跡にしっかり従いたいという願いを示してきました。
2 あなたは,この挑戦に首尾よく対処するために必要な努力を喜んで払いますか。それにもまして,何事があろうともその足跡に従う決意を抱いていますか。もしそうなら,文字通りの足跡に従う難しさを十分理解することによって,キリストの比喩的な足跡にもっと上手に従えるようになるでしょう。
合わせることを学びなさい
3 だれか他の人の足跡に従うのが,最初は不自然に思えるのはなぜですか。
3 どんな人にもその人独特の歩き方があります。例えば,歩幅は足を地に着ける角度と同様,人によって異なります。つま先がまっすぐ前を向いている場合もあれば,少し内側か外側に向いている場合もあります。ことによると,片方の足の角度は他方より大きいかもしれません。あなたは挑戦の意味を理解していますか。他の人の足跡にしっかり従うには,自分の歩幅と足の位置を他の人に合わせなければなりません。最初は不自然に思えますが,どうしてもそうすべきです。ほかに方法はありません。
4 イエスの足跡に従うのが特別な挑戦になるのはなぜですか。
4 比喩的に言って,キリストの歩み方は類例のないものでした。キリストだけが,同じ時代の人々の中で「罪を知らなかった」完全な人間だったからです。(コリント第二 5:21)人間は生来,不完全な罪人なので,イエスの足跡にそって歩むのは自分たちにとって普通の歩み方とはなりません。パウロはコリントのクリスチャンたちにその点を思い起こさせ,「あなた方はまだ肉的だからです。というのは,あなた方の間にねたみや闘争があることからすれば,あなた方は肉的であって,人々と同じ歩み方をしているのではありませんか」と述べました。ねたみや闘争の傾向,つまり「肉の業」は不完全な人間にとって普通のことですが,イエスは愛の道を歩まれました。そして,「愛はねたまず,……刺激されてもいら立ちません」。ですから,キリストの足跡にそって歩むのは,ただ不完全な人間の足跡に従うよう求められた場合よりも大きな挑戦となります。―コリント第一 3:3; 13:4,5。ガラテア 5:19,20。エフェソス 5:2,8もご覧ください。
5,6 (イ)多くの人がキリストの足跡に従えなかったのはなぜですか。そのため,パウロはどんな諭しを与えましたか。(ロ)今日,キリストの足跡にそって歩むよう,どんな勧めが人々に与えられていますか。その結果,彼らはどうなりますか。
5 不完全さのほかに,キリストの足跡にそって歩むのを妨げるものとなり得るのは,神のご意志に関する無知です。そのため,パウロはエフェソスのクリスチャンに,このような諭しを与えました。「思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように歩んでは(なり)ません。彼らは精神的な暗闇にあり,神に属する命から疎外されています。それは彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのためです」― エフェソス 4:17,18。
6 今日の人々は,王国を宣べ伝える業によって,自分たちにとって普通の道を歩むのをやめるよう,つまりむなしい目標を求める無感覚な心に動かされ,神の目的に関しては無知のまま,精神的な暗闇の中を歩むのをやめるよう勧められています。さらに,それらの人々に対しては,キリストの完全な模範に合わせ,「彼と結ばれて歩みつづけ」,「一切の考えをとりこにしてキリストに従順にならせ(る)」ことが勧められています。(コロサイ 2:6,7。コリント第二 10:5)この挑戦に快く応じる人々の信仰は安定します。キリストが歩まれた道を歩むことに慣れてくると,自分にとってその歩みは次第に容易になってきます。
7 しばしば挑戦になるとはいえ,イエスの足跡に従うことは可能であるというどんな保証がありますか。
7 しかし,それはしばしば挑戦となります。完全な被造物と不完全な被造物の間には大きな隔たりがあります。ですから,不完全な被造物は,完全な模範に従うよう努めるために大きな変化を遂げなければなりません。親から受け継いだものや環境のためだと思われますが,クリスチャンとしての生き方に自分を合わせることが,他の人と比べて難しい人々がいます。しかしエホバは,本当に進んで努力する人はだれでもそのようにできるという保証を与えておられます。使徒パウロは,「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」と述べました。(フィリピ 4:13。コリント第二 4:7; 12:9もご覧ください。)すべてのクリスチャンに同じことが当てはまります。
注意を払いなさい
8,9 (イ)だれかの足跡に従うとき,一心に注意を払い,真剣に努力を集中することが必要なのはなぜですか。(ロ)聖書的などんな諭しに従えば,イエスの足跡から離れてさまようことを未然に防げますか。
8 自分が歩いている場所を絶えずじっと見ていなければ,文字通りの足跡に従うことはできません。周囲で行なわれている事柄やほかの物に焦点を合わせ,自分の目をさまよわせていると,遅かれ早かれ必ず足を踏みはずすことになります。一心に注意を払い,真剣に努力を集中しなければ,従うべき足跡からそれてしまうでしょう。そういうわけで,常に用心している必要がありますが,突然何かの音が聞こえてきたり気を散らすものが不意に現われたりして,手懸けている仕事から注意がそらされてしまう時などは特にそれが必要です。―ヨブ 18:10,11と比較してください。
9 イエスの足跡に従っている人々にも,比喩的な意味でこれが当てはまります。イエスは,追随者たちの心が「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのために……押しひしがれ」ないよう,自分自身に細心の注意を払うことについて警告されました。(ルカ 21:34)サタンはこれら気を散らす日常的なものを用いて,わたしたちの目をイエスの足跡からそれさせようとしています。サタンは,反対,病気,経済的な破綻など,不意に生じた状況を利用して,油断するわたしたちを素早く襲います。どんなことがあっても「決して流されないようにする」ため,「聞いたことに普通以上の注意を払(う)」,言い換えれば,自分の目の焦点を以前にもましてしっかりとキリストの足跡に合わせ続けることが必要です。―ヘブライ 2:1。ヨハネ第一 2:15-17もご覧ください。
それてはならない
10 (イ)異なる足跡が交差している場合には,どんな危険がありますか。(ロ)霊的な意味で,間違った足跡に従うと重大な結果が生じるのはなぜですか。
10 人の多い浜辺には,湿気を含んだ砂に数種類の足跡がついている場合があり,中にはわたしたちが従っている足跡と交差しているものもあるでしょう。幾種類ものそれらの足跡は,少なくとも表面的には同じように見えるかもしれません。自分が正しい足跡に確実に従っているというのは本当に重要なことです。さもないと,誤って間違った方向へ進んでしまうことになりかねません。霊的な意味で,そうしたことは重大な結果を生じさせる場合があります。正しそうに見えても実際は正しくない足跡に従う危険は,「人の前には廉直な道であっても,後にその終わりが死の道となるものがある」と警告する箴言の中に示されています。―箴言 16:25。
11 パウロは初期クリスチャンにどんな警告を与えましたか。それは今日のどんな人たちの模範となっていますか。
11 極めて現実的なこの危険のゆえに,パウロは初期のクリスチャン会衆の兄弟たちに,次のような警告を与えなければならないと感じました。「あなた方が,キリストの過分のご親切をもってあなた方を召してくださった方から別の種類の良いたよりへと,これほど早く移って行くことを,わたしは不思議に思います。……あなた方を煩わせ,キリストについての良いたよりをゆがめようとしている者たちがいる……のです。……あなた方が受け入れた以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明している者は,だれであろうとのろわれるべきです」。(ガラテア 1:6-9)パウロの模範に調和して,今日のエホバの証人の統治体は,いわば偽物の足跡を付けている背教者たちや偽兄弟たちに関して,わたしたちに警告を与えています。真のクリスチャンたちは,キリストが神の指示を受けて自分たちの前に設けてくださった道筋からそれていきたいとは思いません。―詩編 44:18。
12 (イ)テモテ第二 1章13節は,誤導されて偽物の足跡に従ってしまわないよう,どのようにわたしたちを助けることができますか。(ロ)別の種類の良いたよりにはどんな特色がありますか。
12 キリストの足跡を見分けるためのしるしに細心の注意を払うことにより,わたしたちは誤導されずにすみます。イエスと,イエスの教えと,クリスチャン会衆の機能の仕方に関する正確な知識があれば,『キリストについての良いたよりをゆがめる』人々からわたしたちを守る「健全な言葉の型」を見分けるよう助けられます。(テモテ第二 1:13)別の種類のいわゆる良いたより ― 実質的には偽物の足跡 ― は,その真理の型にはまりません。彼らはそれをゆがめ,像をぼやかしてしまうのです。基本的な聖書の真理と原則を明確にするのではなく,それらに異議を唱えます。エホバへの奉仕におけるより大きな活動へとわたしたちを励ます代わりに,手をゆるめることを支持する主張を行ないます。彼らの音信は積極的でもなければ,エホバのみ名と組織に栄光を帰すものでもなく,消極的で欠点ばかりを探す批判的なものです。それがわたしたちの従いたいと思う足跡でないことは,非常にはっきりしています。
適正な速度を保ちなさい
13 わたしたちがだれかの足跡に従う時,速度はどのように関係しますか。
13 わたしたちが歩く時,わたしたちの歩幅は歩く速度によっても決まります。一般に,速く歩けば,それだけ歩幅も広くなります。ゆっくり歩けば,歩幅は狭くなります。ですから,もし自分の速度を調整して相手の速度に合わせるなら,だれかの文字通りの足跡に従うのは容易になることでしょう。それと同じように,わたしたちの指導者であられるイエス・キリストの比喩的な足跡にそって首尾よく歩くためには,キリストの速度を保たなければなりません。
14 (イ)わたしたちはどのような仕方で,イエスに歩調を合わせていないことがありますか。(ロ)「忠実で思慮深い奴隷」よりも早く行こうとするのはなぜ愚かなことですか。
14 キリストの速度に合わせないということは,次の二つの事柄のどちらかを意味することになるでしょう。つまり,早く行こうとして,エホバの目的を果たすためにイエスが用いておられる「忠実で思慮深い奴隷」の先に走り出てしまうか,「奴隷」の指示に従う点で遅れてしまうことです。(マタイ 24:45-47)前者の例ですが,かつて一部のクリスチャンは,自分たちとしては必要であるのに延び延びになっているように思われる教理上もしくは組織上の変化や改良に関して我慢ができなくなりました。それらの人たちは,物事の進展があまり速くないように思えて不満を抱くようになり,エホバの民のもとを去りました。何と愚かで近視眼的な行為でしょう。多くの場合,彼らをいら立たせた事柄そのものは,その後エホバのご予定の時に変えられています。―箴言 19:2。伝道の書 7:8,9。
15 ダビデ王とイエスは,適正な速度を保つことに関する良い模範をどのように示しましたか。
15 物事の生じるべき速度を指図しようとするよりも,エホバが行動してくださるのを待つほうが知恵の道です。古代の王ダビデは正しい模範を示しました。この王は,エホバから王権が付与されるご予定の時が来る前に,その王権を主張しようとしてサウル王に対する陰謀を企てるようなことは断じてしませんでした。(サムエル第一 24:1-15)同様に,「ダビデの子」イエスも,天における王権に十分にあずかるためには待たなければならないことを理解していました。「わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,わたしの右に座していよ」という預言の言葉が自分に適用されることを知っておられたのです。したがってイエスは,一群のユダヤ人が「自分を王にするためとらえ」ようとした時,いち早くその場を去りました。(マタイ 21:9。詩編 110:1。ヨハネ 6:15)その約30年後,ヘブライ 10章12節と13節によれば,イエスは依然として王権を待っておられました。実際,1914年に設立された神の王国の正当な王として座につけられるまで,イエスはほぼ19世紀の間,待っておられました。
16 (イ)わたしたちが,保つべき速度よりも遅い速度で動く場合があることを,例を挙げて説明してください。(ロ)エホバの辛抱強さの目的は何ですか。わたしたちはどのようにして,その辛抱強さを悪用することを避けるべきですか。
16 しかし,適正な速度を保たないことは,手をゆるめて遅れを取ってしまうことを意味する場合もあります。例えば,神の言葉が,わたしたちの生活を変化させなければならないという指示を与えている時,わたしたちはぐずぐずせずに行動するでしょうか。それとも,神は辛抱強いのだから,そのような変化はもっと後まで延ばせる,後になれば変化はもっと楽になるかもしれない,と考えるでしょうか。エホバは確かに辛抱強い方ですが,わたしたちが必要な調整を施す面で怠慢になれるように辛抱しておられるのではありません。むしろ,「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです」。(ペテロ第二 3:9,15)ですから,「わたしは急ぎました。あなたのおきてを守ることを遅らせませんでした」と述べた詩編作者に見倣うほうがどれほどよいか分かりません。―詩編 119:60。
17 適正な速度を保つことは,王国を宣べ伝える業とどのような関係がありますか。それはどんなことを自問するようわたしたちを動かしますか。
17 遅れを取ってしまうことが,王国を宣べ伝える業と関係する場合もあります。マタイ 25章によれば,イエスは現在人類を裁いておられ,「羊」を「やぎ」から分けておられます。その業はほとんど,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えることによって成し遂げられています。(マタイ 24:14; 25:31-33。啓示 14:6,7)この分ける業を成し遂げるために充てられている時間は,必然的に限られています。(マタイ 24:34)活用できる時間は尽きようとしているので,わたしたちはイエスが業の速度を速めることを予期できます。イエスはその際,神のお用いになる器として行動されます。神は取り入れの業について語り,「わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」と約束しておられます。(イザヤ 60:22)わたしたちは神と共に働く者として,み子の足跡にしっかりと従い,自分の身体的な状態と聖書的な責任の許す範囲で,王国を宣べ伝える業の速度を上げているでしょうか。野外奉仕報告は,幾百万というエホバの証人たちがそうしていることを示しています。
自信過剰を退け,落胆と闘いなさい
18 人が自信過剰になる場合があるのはなぜですか。聖書はこの危険についてどのように警告していますか。
18 だれかほかの人の足跡に従うことをたゆまず長く続ければ続けるほど,その人の歩き方はわたしたちの習慣として深く身に着いてきます。しかし,自己満足に陥るなら,遅かれ早かれ足を踏みはずします。ですから,イエスの比喩的な足跡に従う際には,自信過剰になり,不注意にも自分自身の力や能力に頼り,自分はイエスの歩み方を完全に習得したのだと考える危険のあることを理解しなければなりません。ルカ 22章54節から62節に記されているペテロの経験は,時宜にかなった警告となっています。その経験は,「立っていると思う人は,倒れることがないように気をつけなさい」というコリント第一 10章12節の真実さをも強調するものです。
19 (イ)クリスチャンは皆,時々どんなことを経験しますか。(ヤコブ 3:2)(ロ)わたしたちはローマ 7章19節と24節のパウロの言葉をどのように理解すべきですか。
19 クリスチャンは皆,不完全さのゆえに,時々足を踏みはずします。踏みはずし方は他の人にはほとんど気づかれないほど小さいこともあり,すべての人が分かるほど明白に的を逸していることもあります。どちらの場合にも,次に挙げるパウロの正直な告白を思い出すと,大きな慰めが得られます。「自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっているのです。わたしは実に惨めな人間です!」(ローマ 7:19,24)もちろん,この言葉を,悪を行なうための言い訳とみなすべきではありません。むしろこの言葉は,不完全さと闘っている献身的なクリスチャンに対する励ましであり,イエスの完全な足跡にそって歩むという挑戦に応じるための努力をねばり強く続けるようクリスチャンを助けます。
20 (イ)箴言 24章16節は,命のためのわたしたちの競走において,どのようにわたしたちの助けとなりますか。(ロ)わたしたちはどのようにする決意を抱くべきですか。
20 箴言 24章16節は,「義なる者はたとえ七度倒れても,必ず立ち上がる」と述べています。命のためのわたしたちの競走の場合はだれも,やむなく断念しなければならないと感じるべきではありません。この競走は100㍍の疾走というより,マラソンのように忍耐のいる競走なのです。短距離走者なら,ごくわずか足を踏みはずしただけで競走に負けることは必至です。しかし,マラソン走者には,つまずくとしても,起き上がって走路を走り終えるだけの時間があります。ですから,個人的に少し足を踏みはずしたために「わたしは実に惨めな人間(だ)」と叫ばざるを得ない時には,起き上がる時間がまだ残されていることを思い出してください。あなたの指導者イエス・キリストと共にもう一度足を踏み出す機会が開かれているのです。絶望する理由はありません。あきらめる理由はありません。神の助けを得て,『イエスの足跡にしっかり従う』という挑戦に応じて成功を収める決意を抱いてください。―ペテロ第一 2:21。
-
-
イエスの足跡にそって歩む民ものみの塔 1988 | 5月1日
-
-
イエスの足跡にそって歩む民
「わたしたちは同じ霊をもって歩んだではありませんか。同じ足跡にそって歩んだではありませんか」― コリント第二 12:18。
1 多くの場合,エホバの証人を見分けることが難しくないのはなぜですか。
「彼らはグループとして,礼儀正しく,責任感があり,学校でもよくやっている。ほかのグループに関してそうは言えない」。そう語ったのは米国のある小学校の校長でした。だれのことを言っていたのですか。自校の学童だった,エホバの証人の子供たちのことを言っていたのです。実際,エホバの証人やその子供たちがしばしば特定の面で他の証人たちと似ていることを指摘する人は少なくありません。彼らが信条と振る舞いに関して見事に一致していることは,年々明らかになっています。ですから,証人たちを見分けることは難しくありません。
2 初期のクリスチャン会衆には,どんな独特の特質が見られましたか。パウロはこの点について,どんなことを述べましたか。
2 一致の見られないこの世界で,エホバの証人の一致は特異なものです。しかしそれも,彼らが皆イエスの足跡にそって歩むよう努力していることを思い起こすなら,理解しがたいことではありません。(ペテロ第一 2:21)そのような一致は,1世紀のクリスチャンの特徴でもありました。ある時パウロは,コリントの会衆にこのような訓戒を与えました。「さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。(コリント第一 1:10)パウロは,クリスチャンの一致を保ちたがらない人々の扱い方に関しても,霊感による諭しを与えています。―ローマ 16:17; テサロニケ第二 3:6をご覧ください。
3,4 パウロは自分とテトスとの間の一致をどのように描写しましたか。その一致の基盤となったのは何ですか。
3 西暦55年ごろにパウロはテトスをコリントに派遣しました。それは,ユダヤの困窮した兄弟たちを助ける寄付を集める仕事を手伝うためであり,会衆がパウロの諭しにどのような反応を示しているかを調べるためであったかもしれません。パウロは後にコリントの人たちに手紙を書いた時,テトスが最近訪問したことに触れ,「テトスがあなた方を利用することなどなかったではありませんか。わたしたちは同じ霊をもって歩んだではありませんか。同じ足跡にそって歩んだではありませんか」と尋ねました。(コリント第二 12:18)パウロは,彼らが「同じ霊をもって」,また「同じ足跡にそって」歩むという言葉をどのような意味で用いたのですか。
4 パウロは自分とテトスの間にあった一致について述べていました。テトスは時々パウロの旅行仲間となったので,そのようにしてパウロから多くのことを学んだに違いありません。しかし二人の間にあった一致は,もっと強力なものに基づいていました。二人の一致は,エホバとの良い関係,また二人が共にキリストの足跡に従う者であったという事実に基づいていました。テトスは,ちょうどパウロがキリストに見倣ったように,パウロに見倣っていたのです。(ルカ 6:40。コリント第一 11:1)ですから,二人はイエスの霊をもって,またイエスの足跡にそって歩んでいました。
5 今日パウロとテトスに見倣い,「同じ霊をもって」,また「同じ足跡にそって」歩む人々に対しては,何を期待できますか。
5 ですから,パウロとテトスのように,「同じ霊をもって」,「同じ足跡にそって」歩むこの20世紀のクリスチャンが,比類のない一致を享受しても不思議ではありません。実際,名目だけのクリスチャンの不一致は,彼らが自ら従うと称える指導者の足跡にそって歩んでいるのではなく,偽者のクリスチャンであることを示しています。(ルカ 11:17)真のクリスチャンと名目だけのクリスチャンがこのように著しく相違していることは,様々な面から例証できます。そのうちの四つを挙げましょう。
血の神聖さ
6,7 (イ)イエスの足跡にそって歩むことには,血に関するどんな正しい見方が関係していますか。(ロ)エホバの証人と,輸血を拒む今日の他の人々とはどこが違いますか。
6 西暦49年ごろ,1世紀の会衆の統治体は,非ユダヤ人のクリスチャンはモーセの律法に従うべきだろうか,という質問に答える手紙を送りました。その手紙はこう述べていました。「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです」。(使徒 15:28,29)「必要な事柄」の中に,血を避けることが含まれている点に注目してください。イエスの足跡にそって歩むとは,口を通してであれ,他の方法によってであれ,血を体内に入れないことを意味するのです。
7 キリスト教世界では輸血を施す慣行により,この原則がはなはだしく犯されてきました。近年に少なからぬ人々が,輸血は健康を害するということに気づき,医学的な理由で輸血を拒むようになったのは確かです。大勢の人が輸血を通してエイズに感染したため,これは特に真実となりました。しかし,神の律法に対する敬意から,またグループとして血の神聖さを擁護しているのはだれでしょうか。患者が輸血を拒む時,医師は自ずとその患者をだれであると考えるでしょうか。普通の場合,医師は『あなたはエホバの証人に違いない』と言うのではありませんか。
8 イタリアの一人の証人は,この点に関する神の律法を守ろうとする決意のためにどんな祝福を与えられましたか。
8 アントニエッタはイタリアに住んでいます。この女性は8年ほど前に重い病気になり,血球数が非常に低くなったので,医師たちは命を救うには輸血が必要だと強く主張しました。彼女はそれを拒否したため医師たちからも親族からも反対され,二人の幼い息子までが,「お母さん,本当に僕たちを愛しているなら,輸血をして!」と懇願しました。しかし,アントニエッタは忠実を保つ決意を抱き,幸いにも死を免れました。それでも容体が非常に悪かったので,医師は「なぜこの人が今も生きているのか,私たちには説明できない」と述べました。しかし,問題のない方法で治療を始めたところ,アントニエッタが大変早く回復したので,もう一人の医師は,「信じられません。私たちが一日中血液をポンプで送り込んだとしても,このような短期間で回復することは全くなかったでしょう」と言いました。現在この女性は正規開拓者で,今は12歳と14歳になる二人の息子たちも真理において良い進歩を遂げています。アントニエッタは「必要な事柄」つまり血の神聖さを勇敢に守りました。エホバの証人は皆,イエスの足跡にそって歩む時,これと同じ見方をします。
良い道徳
9 イエスの足跡に従うことには,別のどんな「必要な事柄」が関係していますか。また,これを守らない人々はどうなりますか。
9 西暦1世紀の統治体からの手紙の中で強調されていたもう一つの「必要な事柄」は,「淫行を避けていること」でした。パウロはコリント人への第一の手紙の中で,この点についてさらに詳しくこう述べました。「淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者……はいずれも神の王国を受け継がないのです」。(コリント第一 6:9,10)クリスチャンは,エホバに仕えることを願う人々がこれらの汚れた習わしから脱するよう助けています。そうしたわなに陥った会衆の成員でさえ,転向して悔い改めるなら,自分を清めるための助けを得られるのです。(ヤコブ 5:13-15)しかし,だれであれ,クリスチャンがそのような不潔な習わしに陥り,悔い改めることを拒むなら,聖書の率直な規定が当てはまります。パウロは神の霊感を受けて,『兄弟と呼ばれる人で,淫行の者がいれば,交友をやめなさい。その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい』と述べました。―コリント第一 5:11,13。
10,11 (イ)キリスト教世界の道徳的な規準が低いことに関して責任を担うべきなのはだれですか。それはなぜですか。(ロ)フィリピンの一人の男性の経験は,エホバの証人が一つのグループとして道徳的に高い規準を保っていることをどのように実証していますか。
10 こうした明確な教えにもかかわらず,キリスト教世界は不道徳で満ちています。そのような状況に対して責任を負うべきなのは,神の規準に手心を加える僧職者たちであり,聖書の規準に対する口先だけの忠誠を示し,自分たちの会衆内でその規準を勇敢な態度で実行に移すことをしない者たちです。しかし,この点でもエホバの証人は一つの民として,イエスの足跡にそって歩みます。
11 フィリピンのホセのことを考えてください。この人はすでに17歳にして,やっかい者の賭博好きとして知られていました。泥酔することもしばしばで,不道徳な生活を送り,盗みのために度々刑務所に入れられました。その後エホバの証人と接触するようになり,当人の言葉によると,「聖書の研究によって私の生活は全く変わり,酒もたばこもやらなくなり,自分の気持ちを抑えることを学びました。今では清い良心を持っており,ただ一人の妻がいます。私のことを『名うてのホセ』とか『お化けのホセ』とか呼び習わしていた近所の人たちからの敬意も得ました。今では『エホバの証人のホセ』と呼ばれています。私は現在,長老として,また正規開拓者として奉仕していますが,息子と甥はその会衆の奉仕の僕です」。ホセも,他の幾百万というエホバのクリスチャン証人たちも,道徳的に清いクリスチャンとして,イエスの足跡にそって歩んでいます。
中立
12 イエスはヨハネ 17章に記されている祈りの中で,真のクリスチャンのどんな態度を強調されましたか。
12 イエスは弟子たちと共に過ごした最後の晩にささげた長い祈りの中で,追随者たちが『ご自分の足跡にそって歩む』もう一つの道に言及されました。イエスはご自分の弟子たちについて語り,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われました。(ヨハネ 17:16)この言葉は,クリスチャンが中立の立場にいることを意味しています。クリスチャンは政治や国家的な紛争に参加するよりも,今の世界の諸問題に対する唯一の解決策である神の王国について他の人々に語ります。―マタイ 6:9,10。ヨハネ 18:36。
13,14 (イ)中立の問題に関して,キリスト教世界とエホバの証人はどのように異なっていますか。(ロ)日本の一人のエホバの証人が政治的に中立の立場を保ったため,兄弟たち全体がどのように益を受けることになりましたか。
13 キリスト教世界のほとんどの成員は,中立に関するこの原則を忘れてしまっています。たいていの場合,彼らにとって重要なのは,宗教的にどこと関係しているかというより,どの国に属するかということです。幾つかの新聞に掲載されるコラムを担当するマイク・ロイコは,いわゆる「クリスチャン」が「他のクリスチャンと戦火を交えることに関して潔癖すぎる」ことは決してなかったと述べ,「もし潔癖すぎるぐらいであったなら,ヨーロッパでの熾烈を極めた戦争の大半は,決して生じなかったであろう」と付け加えました。エホバの証人が戦時にクリスチャンとしての厳正中立の立場を保つというのは,よく知られた事実です。しかし,イエスの足跡に従う者として,エホバの証人は社会的および政治的な論争に関しても中立を保ちます。ですから,注目に値する,彼らの世界的な一致を妨げるものは一つもありません。―ペテロ第一 2:17。
14 エホバの証人の中立の立場は,思いがけない結果を生み出すことがあります。例えば,北日本の津軽地方では,選挙が非常に真剣に受け止められていますが,市役所の財政課の課長補佐であった鈴木兄弟は,良心上の理由で市長再選の運動に関係することを拒み,その結果,下水道課に左遷されました。ところが,1年後に市長は汚職のために逮捕されて辞職を余儀なくされ,新しい市長が選出されました。鈴木兄弟の左遷について聞いた新市長は彼を管理職に戻したのですが,これによって彼のクリスチャンの兄弟たちは祝福を受けることになりました。どのようにでしょうか。同兄弟の説明によれば,体育関係の行事以外の集会のために体育館の使用許可を得るのは非常に難しいことです。しかし,兄弟自身の言葉を引用するなら,「エホバは,そのような体育館を地域大会のために3度,巡回大会のために四度借用する際に,私を用いることがおできになりました」。鈴木兄弟は結論として,「常に忠実を示すなら,エホバは私たちの想像もつかない方法で私たちを用いるための道を開いてくださいます」と述べています。
家庭で
15 イエスは家族関係の問題において,ご自分の足跡に従う人たちにどのような手本を残されましたか。
15 クリスチャンが『イエスの足跡に従う』べきもう一つの分野は家庭内にあります。聖書は次のように述べて,イエスの模範を家庭内の関係に関する手本として定めています。「キリストへの恐れをもって互いに服し合いなさい。妻は主に対するように自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです。それは,キリストが会衆の頭であ(られる)のと同じです。そうです,会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に服しなさい。夫たちよ,妻を愛し続けなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を引き渡されたのと同じようにです」― エフェソス 5:21-25。
16,17 (イ)家庭内の関係に関して,キリスト教世界にはどんな悪い状況が見られますか。(ロ)ブラジルの一組の夫婦の経験に示されているように,家庭内の関係はどのようにしてのみ改善されますか。
16 今日のキリスト教世界の大部分はこの諭しを無視しているので,家庭の崩壊は同世界のいたるところで見られます。欠損家庭はごく普通になり,親子の対立が深刻化することも珍しくありません。何年か前に心理学の一教授は,「家庭は崩壊しつつある」と述べました。児童心理学者,結婚カウンセラー,精神科医などは,危機に面している家族を結び合わせる点で限られた成功しか収めていませんが,エホバの証人は聖書の原則を当てはめるために熱心に努力し,家族関係が普通以上に優れていることで知られています。
17 例えば,アルデマールはブラジルの憲兵隊の副隊長でしたが,種々の家族の問題を抱えていました。妻はその男性のもとを去り,法的に別居することを求めていました。アルデマールは深酒をするようになり,自殺も企てました。後に,エホバの証人である親族が聖書の話をしたところ,アルデマールはその話が気に入り,研究を始めました。エホバの証人は中立の立場で知られていますが,自分の生活をその立場に調和させることを願ったアルデマールは,除隊を願い出ました。アルデマールが学んでいる聖書の原則を適用することによってこの夫婦は結婚生活の不和を解決し,今日ではイエスの足跡に従い,正規開拓者として一緒にエホバに奉仕しています。
愛ゆえの従順
18 (イ)今日,エホバの証人が霊的に祝福されているのはなぜですか。(ロ)イザヤ 2章2節から4節は,現在どのように成就していますか。
18 エホバの証人がキリスト・イエスの霊をもって,キリスト・イエスの足跡にそって一致して歩んでいることは明らかです。彼らはそのように行動することにより,個人として,またグループとして霊的な祝福を受けています。(詩編 133:1-3)彼らにエホバの祝福が注がれていることを示す明白な証拠により,正直な心を持つ大勢の人々は,イザヤ 2章2節から4節の預言と調和して行動するよう動かされてきました。過去わずか5年間だけでも,98万7,828人が献身に必要な段階を踏み,次いで水のバプテスマのために自分を差し出してきました。エホバは愛情深くも,「大患難」が臨む前にそのようにできる人々の数を専横に限定することはされませんでした。―啓示 7:9,14。
19 (イ)エホバに仕えることから生じ得る現実的な益とはどんなものですか。それをどのようにみなすべきですか。(ロ)わたしたちがエホバのおきてに従う基本的な理由は何ですか。
19 前に述べた経験が実証しているように,神の民が享受している霊的な祝福には,多くの場合,現実的な益が伴っています。例えば,喫煙をしないことにより,道徳的な生活を送ることにより,また血の神聖さに敬意を払うことにより,特定の病気の犠牲になることを避けられるのです。あるいは,真理と調和した生活をしているために,経済的にも社会的にも,また家庭においても益が得られます。そうした現実的な益はどれもエホバからの祝福とみなされており,エホバの律法の実際的な価値を証明しています。とはいえ,そのような実際的な利点の恩恵にあずかれる見込み自体が,神の律法に従う主要な理由なのではありません。真のクリスチャンは,エホバを愛するがゆえに,エホバが自分たちの崇拝に値するがゆえに,また,唯一の正しい事柄は,エホバのご意志を行なうことであるがゆえに,エホバに従います。(ヨハネ第一 5:2,3。啓示 4:11)人々は専ら利己的な益のために神に仕えると主張しているのはサタンです。―ヨブ 1:9-11; 2:4,5をご覧ください。
20 今日のエホバの証人は,古代の忠実な3人のヘブライ人の証人たちと同じ精神をもって,どのように歩んでいますか。
20 現代のエホバの証人は,ダニエルの時代の忠実な3人の若いヘブライ人の証人たちと同じ精神をもって歩んでいます。火の燃える炉の中に投げ込むという脅しをかけられた時,この3人はこう言いました。「もしそうとあれば,わたしたちの仕えているわたしたちの神は,わたしたちを救い出すことがおできになります。火の燃える炉の中から,そしてあなたの手から,王よ,わたしたちを救い出してくださるのです。しかし,もしそうされないとしても[つまり,もし神がわたしたちを死ぬに任されるとしても],王よ,ご承知ください。あなたの神々はわたしたちが仕えているものではありません。あなたが立てた金の像をわたしたちは崇拝いたしません」。(ダニエル 3:17,18)エホバの証人は神の新しい世で永遠の命が保証されていることを知っているので,直ちに現実的な益や結果が生じるかどうかにはかかわりなく,イエスの足跡にしっかりと従い続けます。彼らはどんなことがあろうとも,一致した民として,「同じ霊をもって」,また「同じ足跡にそって」歩み続けるでしょう。
-