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宣べ伝える者,宣べ伝える業聖書に対する洞察,第2巻
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イエスが「獄にある霊たち」に宣べ伝えた目的は何でしたか
使徒ペテロは,イエスが霊の命へ復活させられたことを描写した後,ペテロ第一 3章19,20節で,「この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました。それは,かつてノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たちであり,その間に箱船が建造され……ました」と述べています。「バインの旧新約聖書用語解説辞典」はこの聖句について注解し,こう述べています。「ペテロ第一 3章19節は恐らく,喜ばしいおとずれにではなく(ノアがそれを宣べ伝えたという実際の証拠も,洪水以前の人々の霊が本当に『獄に』入っているという証拠もない),キリストが復活させられた後,堕落したみ使いの霊に対するご自分の勝利をふれ告げる時の行為に言及している」。(1981年,第3巻,201ページ)前にも述べた通り,ケーリュッソーは,ヨナがニネベの来たるべき滅びについてふれ告げた場合のように,良い事柄だけでなく悪い事柄に関する宣言を指すこともあります。聖書の中で獄に入れられた霊として言及されているのは,それらノアの日のみ使いだけです。彼らは「濃密な闇の坑に引き渡され」(ペテ二 2:4,5),『大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置かれています』。(ユダ 6)ですから,復活後のイエスがそのような不義のみ使いたちに対して宣べ伝えたのは,裁きの音信以外にあり得ません。注目できるのは,西暦1世紀の終わりごろにキリスト・イエスが幻によってヨハネに伝達した「啓示」の書に,悪魔サタンとその悪霊たちや,彼らの最終的な滅びに関する情報が数多く含まれていることです。そのことからも,イエスが宣べ伝えたのは裁きの音信と言えます。(啓 12-20章)ペテロが過去形(「宣べ伝えました」)を用いていることは,彼が最初の手紙を書く前にそのような宣べ伝える業が行なわれたことを示唆しています。
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獄聖書に対する洞察,第2巻
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比喩的な用法 比喩的な意味において,「獄」は流刑地(バビロンの場合のように),あるいは霊的に束縛または監禁された状態を指すことがあります。(イザ 42:6,7; 48:20; 49:5,8,9; 61:1; マタ 12:15-21; ルカ 4:17-21; コリ二 6:1,2)ノアの日に不従順だった霊の被造物は,実際の拘束物によって束縛され得る物質の体は持っていませんが,まるで獄にいるかのように活動を制限され,エホバ神との関係において濃密な闇の状態にあります。(ペテ一 3:19; ユダ 6。「タルタロス」を参照。)サタンが千年のあいだ閉じ込められる底知れぬ深みも,「獄」つまり死のような拘束または監禁を受ける場所です。―啓 20:1-3,7。
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神の子(たち)聖書に対する洞察,第1巻
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前述の見方をする人たちは,創世記 6章2-4節の「まことの神の子ら」の実体がみ使いである被造物だとする見解に異議を唱えており,その理由は文脈が専ら人間の邪悪さに関係しているからだとしています。しかし,この反論は妥当ではありません。というのは,人間の邪悪さの増大は霊の被造物が人間社会の営みに不当に介入することによって助長,もしくは加速される場合が確かにあるからです。イエスが地上におられたころ,邪悪な霊の被造物は肉体を備えて目に見える姿でこそ現われなかったものの,その影響で人間としての極端な狂った行動をする者が出ました。(「悪霊」; 「悪霊に取りつかれること」を参照。)み使いである,神の子たちが,人間社会の営みに掛かり合ったことに言及する記述が創世記にあるのは,もっともなことと言えるでしょう。なぜなら,その記述はまさしく大洪水前に地上で進展した事態のゆゆしさをかなりの程度説明するものだからです。
この点を裏付けているのは,「獄にある霊たち……ノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たち」(ペテ一 3:19,20)や,ノアの時代の「古代の世」に関連して,「罪をおかしたみ使いたち」(ペテ二 2:4,5)に言及した使徒ペテロの言葉と共に,「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てたみ使いたち」について述べたユダの言葉です。(ユダ 6)もし,創世記 6章2-4節の「まことの神の子ら」が霊の被造物ではないとしたなら,これらクリスチャンの筆者の述べたことは,なぞのような事柄となり,み使いたちがそのように不従順になったいきさつや,ノアの時代とのその実際の関係を何ら説明するものとはならなかったでしょう。
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