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義と宣する聖書に対する洞察,第1巻
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エホバは彼らの肉の弱さや不完全さの罪をお許しになりますが,それでも,ローマ人にあてたパウロの手紙(7:21-25)の中で例証されているように,それらのクリスチャンの内には葛藤があります。それは彼らの新たにされた思いの律法(ロマ 12:2; エフェ 4:23),つまり「神の律法」と自分たちの肢体のうちにある「罪の律法」との間の葛藤です。というのは,彼らは義にかなった者とみなされ,その罪は許されていますが,彼らの肉体は完全なものではないからです。この葛藤は神に対する彼らの忠誠を試みるものとなります。彼らは神の霊の助けと憐れみ深い大祭司,キリスト・イエスの援助によって,この葛藤に打ち勝つことができます。(ロマ 7:25; ヘブ 2:17,18)しかし,その葛藤に打ち勝つには,キリストの贖いの犠牲に絶えず信仰を働かせ,キリストに従って,神の目に義にかなった状態を保たなければなりません。(啓 22:11と比較。)そうすることにより,自ら『自分の召しと選びを確実なものにし』ます。(ペテ二 1:10; ロマ 5:1,9; 8:23-34; テト 3:6,7)一方,もし罪を習わしにするようになり,信仰を捨てるなら,そのような人は「神の子を自分であらためて杭につけ,公の恥にさらしている」ので,神のみ前における義にかなった者としての恵まれた立場を失います。(ヘブ 6:4-8)そのような人々は滅びに直面します。(ヘブ 10:26-31,38,39)そのようなわけで,イエスは許されることのない罪について話されましたし,使徒ヨハネも「死を来たさない」罪と「死を来たす」罪とを区別しました。―マタ 12:31,32; ヨハ一 5:16,17。
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許し聖書に対する洞察,第2巻
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他の人のため,また会衆全体のためにさえ,神の許しを祈り求めるのはふさわしいことです。モーセはイスラエル国民に関してそのようにし,国民全体としての罪を告白して許しを求めました。エホバはそれを快く聞き届けてくださいました。(民 14:19,20)また,ソロモンも神殿の奉献式の際,エホバの民が罪をおかしても後にその誤った道から立ち返るなら,エホバが彼らを許してくださるようにと祈りました。(王一 8:30,33-40,46-52)エズラも民を代表し,帰還したユダヤ人の罪を公に告白しました。エズラが心をこめて祈り,訓戒を与えた結果,民はエホバの許しを受けるための措置を講じました。(エズ 9:13–10:4,10-19,44)ヤコブは霊的に病んでいる人に対し,会衆の年長者たちを呼んで自分のために祈ってもらうことを勧めました。「その人が罪を犯したのであれば,それは許されるでしょう」。(ヤコ 5:14-16)しかし,「死を来たすような罪」,聖霊に対する罪,故意に習わしにする罪があり,そのための許しはありません。クリスチャンはそのような罪をおかす人たちのために祈るべきではありません。―ヨハ一 5:16; マタ 12:31; ヘブ 10:26,27。「罪」; 「霊」を参照。
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