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信仰にふさわしい生活をしていますかものみの塔 1963 | 1月15日
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をしたい時は,それをこっそり渡すのであれば,なにも名前をかくす必要はないでしょう。―マタイ 6:3,4。
クリスチャンの信仰にふさわしい生活をすることが,全時間の仕事であることはいうまでもありません。それは,物質主義,快楽に夢中になること,偶像崇拝,不道徳などをさける以上のことを意味します。また,神の御国の良いたよりを熱心に伝道する以上のことを意味します。もしあなたの信仰が生きているなら,それはあなたのすることすべてに影響するでしょう。
しかし,忘れてならないことは,あなたの兄弟が信仰と一致した生活をしているかどうかを,神があなたにお尋ねになっていないということです。問題は,「あなたは信仰に生きていますか」ということです。兄弟の行いではなく,あなた自身の行いに,祈りのうちに深い注意を払ってください。よい模範を示すことにより,命への道を歩むにさいして,仲間のクリスチャンたちを励ますことも,あなたの信仰の一部です。あなたが実際に信仰に生きているがゆえに,喜びを持ち,祝福されていることを,あなたの兄弟に示してください。そうすると兄弟も信仰に生きることを望むでしょう。あなたはその中にある知恵を認めますか。イエスはこう言われています,「もしこれらのことがわかっていて,それを行なうなら,あなたがたはさいわいである」。―ヨハネ 13:17,新口。
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熱心に求める者にエホバはこたえるものみの塔 1963 | 1月15日
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熱心に求める者にエホバはこたえる
ブイ・シー・カーカネスの経験談
人間を探し求める責任が神にありますか,それとも,神を求める事は私たちの務めですか。イエスは教えました,「求めよ,そうすれ,ば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう」。(マタイ 7:7,新口)どんなに時代が経過しても,この言葉の真実さに変わりはありません。私の44年間にわたる数々の経験が私にはっきりと確信させる事は,使徒パウロがヘブル書 11章6節で語った言葉は絶対の真理であるということです。「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることとを,必ず信じるはずだからである」。
真理を探し求める
私はギリシャ正教徒の両親の下に生まれました。父親は長年のあいだ教会で執事の職を勤めていました。1909年,母は死亡し,その後間もなくして私はアメリカに渡りました。家族と離れ,仕事も忙がしかった私は教会へ行くのを止めました。それでも,「天にいますわれらの父よ,……」という短かい主の祈を朝晩ささげる事は止めませんでした。ある日曜日,私が生活を共にしていたメソジスト派の一家は,一緒に教会に行こうと誘ってくれました。私も快く受けました。その教会で私が喜んだのは,仲々立派な椅子が備えられている事でした。というのは,私が以前になじんでいたギリシャ正教の教会にはそのような席がなかったからです。そこへは幾度か通いましたが,なにか心の中にわだかまりを感じました。
ついて1918年,私は初めて当時聖書研究生という名で知られていたエホバの証者の証言を聞きました。強い印象を受け,職場で,彼らが持って来た「聖書の研究」第1巻を大きな興味を抱いて読みました。神について,神の御国についてもっと知りたいと思う気持が強くなり,
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