エホバの証者が困難な状態下で働く国々からの報告
(1963年のエホバの証者の年鑑より)
ユーゴスラビア
ユーゴスラビアの兄弟も,多くの祝福にあふれる年を過ごしました。「見よ! 私は凡てのものを新しくする」や「御国のこの良いたより」などの小冊子に加えて,「失楽園から復楽園まで」の本がクロアチア語とスロベニア語で出版され兄弟たちは大いに喜びました。これによってユーゴスラビアにおける御国の業はさらに励みを受け,数々の興味ある経験があります。
偶然の証言で時には,良い結果があることを次の経験が示しています。真理にはいってまだ新しい姉妹は汽車旅行をしました。一人の少女が乗って来て,むかいの座席にすわりました。二人の会話が始まり,この少女はある印刷工場で働いていること,その工場で「楽園」の本が印刷されたことが分かりました。このことから話を進めて,姉妹はその工場で印刷されたすばらしい本について説明しました。少女は工場でその本の仕事をしたけれど,自分はカトリック教徒であり,この種の本を読んではいけないことになっていると言いました。それで姉妹は自分も以前はカトリック教徒であったが,人は皆聖書の内容を良く知り,その真の教えを良く理解しているべきだと思うと答えました。姉妹はカバンを広げ,「楽園」の本を出し,内容の説明を始めました。少女はいくつか自分で質問しましたが,どちらかといえば遠慮がちでした。やがてそれぞれ目的地に近づいたので,姉妹は少女の住所を知ろうとしましたが教えてもらえませんでした。それで,無駄になるかも知れないと思いましたが,自分の住所を教えて分かれました。それゆえ,その二日後に,いくつかの質問をたずさえて少女がたずねて来たときに姉妹が驚いたのも不思議はありません。「楽園」の本を使って定期的な研究が始まり,やがて少女はそれまで胸にかけていた金の十字架もはずしました。そして巡回大会が近づいてきた時,バプテスマを受けたいと言い,実際に受けました。
崇拝の面で分裂した家族の問題がいかにして克服されたかを示すのが次の経験。ユーゴスラビアの回教徒は非常に正統的で,ボスニヤ地方での伝道は困難をきわめています。たとえば,コーランが禁じているので,回教の婦人に話しかける事は中々できません。しかし,こうした困難にもかかわらず,若い男の回教徒は真理を認め,浸礼を受けました。普通には回教婦人は従順で,夫に良く服従するのですが,この人の場合には妻としゅうとめからの精力的な反対が始まりました。回教徒にとって,価値のあるものはコーランだけであり,幾冊かの聖書も,ものみの塔の出版物も,この兄弟が家に持ち帰るものはみななくなってしまいました。
以前に持って来た聖書は全部奥さんに捨てられてしまったのを知っていましたが,兄弟はある晩5冊目の聖書を持って家に帰りました。家族が食卓についた時,兄弟は自分の皿の横に聖書を置き,いつもより声を強め,自分は食事の時に聖書を読むから食事の度に聖書を食卓に置くようにと命令するような調子で言いました。それで二人の女と兄弟との間に,聖書かコーランかということで議論が始まりました。これははじめての事ではありません,兄弟は二人にコーランを持って来て,両方の教え,たとえば,婦人や家庭生活上の事について,比べてみようではないかと申し出ました。「こうして一緒にくらして行くために,私がコーランに従うべきか,あるいは聖書に従うべきかはっきり知らせてもらいたい。二人の言う通りにするから」と兄弟は言いました。もとより二人は同意し,急ぎ自分たちの聖なる本コーランを取りに行きました。
「それでは,まずコーランを開いて,婦人についてなんと言っているか調べてみよう」と,兄弟は言い,コーランから,男は数人の妻を持っても良いと記したところを読みました。次いで他の頁を開き,もし従わない妻があれば男はその妻を叩いても良いし,また叩くべきであり,家から出しても良いというところを読みました。そして兄弟はたずねました。「これから私はこの通りにしようか」。二人はだまったままでした。次に兄弟は聖書を開き,マタイ伝 5章27節から32節までを読みました。そこにはイエスの教えがあり,姦淫以外に離婚の理由はないこと,男は二人以上の妻を持ってはならないということが書いてありました。さらに,なぜアダムには数人でなく,一人の妻しか与えられなかったかをたずねました。一人で十分だからというのが妻の答でした。兄弟はテモテ前書 3章2-4節,マタイ伝 19章3-9節,ペテロ前書 3章1-7節などの聖句を読み,聖書に従えば男は自分の妻を愛すべきであり,叩いたり追い出したりしてはならないと説明しました。それから兄弟は言いました。「さてお二人の考えはいかがです。コーランに書いてあることと聖書に出ていることとどちらを選びますか。私はどちらの教えに従ったらよいでしょう」。しばらく沈黙が続いたのち,聖書の言葉は正しい,と妻が言いました。この時以来,兄弟は家族全部が参加する聖書研究を司会しています。特に研究はその晩から始まりました。兄弟が夕飯の食卓につくと,いつでもそこには,聖書と「ものみの塔」が出してあり,食事の後にすぐ研究が始められるようになっています。
スペイン
人口 29,960,000人
最高伝道者 2,507人
比率 11,951人に1人
スペインにおいて御国の良いたよりを宣べ伝えてゆくためには真の勇気と信仰が必要です。しかし,エホバの証者は喜んでこの仕事にたずさわり,これまでに引き続き幾万もの人々に良いたよりを伝えました。こうした良いたよりの宣明は,忠実な兄弟たちの努力にもよりますが,「全体主義の異教徒審問所はスペインで復活」と「スペインは宗教の自由を抑圧する」という記事をのせた2号の「目ざめよ!」誌を政府と地方当局ならびに法律家などに送ったことにもよります。これら2号の「目ざめよ!」誌は,スペインの指導層の人々に真実を知らせました。しかし,カトリック教会と政府当局は,全世界からよせられた抗議を黙殺し,エホバの証者に対する圧迫は休みなく続いています。政府がそれに気付いても気付かなくても,エホバの証者の行なっているこの仕事は人間によるものではなく,神の仕事です。それゆえ沈黙させるためどんなに冷酷な圧迫が続いても,この仕事は決して止まないでしょう。スペインの兄弟たちにもたくさんの楽しい経験があります。そのいくつかをここに紹介。
「スペインは宗教の自由を抑圧する」という「目ざめよ!」誌にのった記事の中には,ラコルナ地方の兄弟の一人が逮捕され罰金刑を宣告された事が出ています。一人だけでなく,この兄弟の妻や義弟も共に罰金刑を科せられました。地方当局を相手にし,弁護士の助けを得て行なわれた訴訟を通して,罰金刑を科せられたこれら三人は単に家庭にあって聖書を読んでいただけであり,決っして「祖国」に危害を及ぼすような存在ではないということが主張されました。しかし,訴訟は却下されました。次の段階として,マドリッドの高等機関に問題が提出されましたが,ここでも訴訟は認められませんでした。改宗勧誘行為を罪とするような箇条はこの国の法律のどこにも見あたりませんが,そのような罪状をつくりあげるために,当局が出した却下理由書の中で如何に事実が歪曲されているかに注目して下さい。まず,改宗勧誘行為なる罪状を裏付けるものはなにも提出されていません。家宅捜査の際押収された私有の書物と雑誌について述べている理由書の第3節には,「本人とその妻は『開拓者』なる立場にあったから,これら文書は改宗勧誘を目的として配布されることになっていた」とありますが,開拓者うんぬんに関する前半の記述は誤りです。捜査の際,警察は何人かの人の住所を雑記した紙片を見つけて行きましたが,同文書の第6節は改宗勧誘行為の証拠としてこれを取り上げ,「押収された紙片には住所の記録が発見されたが,それらの住所に彼らが訪問し,誘惑的行為を行なった事は疑いない」と主張しています。同じ第6節は,兄弟たちが住んでいるところで改宗勧誘を行なうことは実質的に不可能であることを認めていますが(ほんの数軒の家があるだけの小さな村),36キロほど離れた町まで毎週行って宣教活動を行なったと非難しています。この問題は現在スペイン最高裁判所で審理中です。
一般の新聞や雑誌によっても,私たちのことは広く報道されました。そうした記事の多くはどちらかと言えば批判的なものでしたが,世の関心を高めるのに役立ちました。「汝らのうちにあるのぞみの理由を問う人には,柔和とおそれとをもて常に弁明すべきそなえをな」せと述べた使徒ペテロの言葉をかえり見ず,1962年3月30日付サン・セバスチアン市のエル・ディアリオ・バスコ紙は,「ドアをしめてしまいなさい」と題したその社説の中で,「きちんと礼儀を正して我々の戸口をおとずれる人々に,ひととおりの応対もせず,ドアをバタンと閉めても構わないという意味ではないが,この場合には特に例外として,男であれ女であれ,我々の家族と宗教問題について話し合うために,ドアをそっと叩いてたずねて来る者に対しては,何度たずねてこようと,その人々のいる前でもドアをピシャリと閉めてしまうことを熱心にすすめる。我々はここでエホバの証者のことについて論じているのである」と述べ,さらに読者に次のように警告しました。「家から家にたずね,個々の人と話し合い,おかしな理論でもって,人をカトリック教会のむなもとから奪い去ろうとする者の話を聞いてはならない。彼らがいかにも親切に,いかにも寛容な素振りでさし出す宣伝は,いかなるものであってもはねかえさねばならない」。このような態度は明らかに,使徒の残した模範にもとるものです。
伝道者の増加は,これまでほどではありませんでしたが,多くの喜ぶべき点があります。兄弟たち一人一人の活動はずっと進歩して,野外奉仕のために献げられた時間は年間を通じ一人一月平均12時間近くになり,六つの再訪問の目標も達成できました。伝道者一人平均一つの研究も年間を通して維持され,水のバプテスマによって新たに献身を象徴した人も沢山ありました。
小さな関心の芽が20年以上もの間絶えなかった事を示すのが次の経験。伝道者からの手紙です。「数週間ほど前私は市場で働く婦人に再訪問しました。ところがこの婦人は自分のところへ卵を売りに来る女の行商人に,自分が聞いた聖書のことを話していました。この卵行商人はその話に非常に興味を示し,私がまた来たときに渡すようにと自分の住所を置いていったとのことでした。数日して私は卵行商人をたずねてみました。キリストが支配する国が必要だということを話すと,彼女は,『ちょっと待って下さい。キリストの政府のことを話していると聞いたので,私が買った屑紙の中から三十年ほど前に見つけた本を出しておいたのです。私はこの本を何度も読み返し,これまで色々と考えていたのです』,と言いました。彼女が持って来た本を見ると,おどろいたことにそれは『政府』という本で,ルザフォード兄弟が書いた本の一冊で,スペイン内乱以前のころの支部の住所が印刷してありました。その本を初めて手に入れた時以来,彼女は福音教会,聖霊教会など色々の宗派をたずねて,真理を求めて来ましたが,どこにも満足のゆく答が見出せなかったとの事でした。今彼女は私たちと一緒に勉強し,最近,私たちの小さな会衆の集まりにも出席しました」。
畑が熟しきって,収穫を待つこの国で奉仕するのは実に喜びであり,祝福も豊かにそそがれています。