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  • 心をこめた奉仕は貴重な報いをもたらす
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 9/1 536–539ページ

心をこめた奉仕は貴重な報いをもたらす

モナ ブルゾスカの経験談

何万というエホバの崇拝者が,パリにほど近い大きなスタジアムを埋めつくしたのを見たとき,思わず涙があふれてきました。1961年8月のことです。私がフランスとベルギーで,宣教者として奉仕を始めた30年まえに,この二つの国にはエホバの民はほんのわずかしかいませんでした。わずか30年の間に,これだけの群衆がエホバのしもべになったとは,まったく信じられないほどでした。この大いなる収穫のわざにあずかれたことはなんという特権だったでしょう。幼いときからエホバを忘れないようにエホバが援助してくださったことを私はどんなに感謝したことでしょう!

私の両親が,「死者はどこにいるか」という講演の宣伝ポスターに心を引きつけられたのは,1918年の休戦の少しまえでした。講演の主催者は万国聖書研究会でした。母がその講演から学んだことは,聖書を照らすサーチライトの光のようでした。母は,ここにこそ真理があるという確信を抱いたのです。父もやはり聖書を調べて見ることに心をきめ,やがて私の家では毎週聖書研究が行なわれるようになりました。

私は日曜学校に行くのをやめさせられました。母は,私が日曜学校で,魂や地獄や三位一体について習ったことは間違いであることを説明してくれました。私は毎日曜ロンドン・タバナクル(幕屋)に連れて行かれ,徐々に知識と信仰を増し加えていきました。エホバに対する,私個人の責任について真剣に考え始めたのは1925年でした。その年に開催された熱意にあふれたロンドン大会で真理を知ること,またエホバを賛美する生活の喜びを味わった私は,まだ在学中でしたが,神に献身する決意をしました。

しかしそのとき,生涯全時間奉仕をするという考えは,私の心に浮かんできませんでした。というのは,学業のほうも非常にうまくいき,奨学資金を受ける資格と許可を得たばかりで,もっと勉強がつづけられるという気持があったからです。母が病気になったとき,私は問題に直面しました。学生生活をつづけるべきか,それともやめて母の世話をするべきか。私は心から導きを祈り求めました。そして間もなく私に対するエホバの御心を確信するようになりました。

学校をやめるのはやさしいことではありませんでしたが,そのうちに学校の価値についてもわかってきました。それまでの友だちから離れた私は,すでに全時間奉仕を行なっていた若い兄弟や姉妹と親しく交わるようになりました。インドとスペインに行くように,ものみの塔協会の会長により選ばれた兄弟たちから私は強い印象を受け,また,多くの国が働き人を必要としていることを知りました。

ちょうどそのころ私は,決して忘れることのできない大会の講演を聞きました。それは歴代志略下 31章21節の「彼〔ヒゼキヤ〕がその神を求めるために神の宮の務につき,律法につき,戒めについて始めたわざは,ことごとく心をつくして行い,これをなし遂げた」という聖句を基礎にした講演でした。もし母が健康を回復したなら,私もエホバに全時間の奉仕をささげ,ヒゼキヤのように,心をつくしてそれを成し遂げようと決意しました。

まず,当時「予備」と呼ばれていた開拓奉仕をする機会がやってきました。この伝道活動は私に大きな喜びをもたらしました。そして1928年までには,協会に対し,働き人の必要な所ならば,どこへでもつかわしてください,と言えるようになっていました。小さなグループが選ばれて,英国のいくつかの大都市の商業地域で働くことになりました。はじめのうち私は,とてもそんなことはできないと考えました。家を離れることさえすでに後髪を引かれる思いでした。しかしモーセやエレミヤの例を思い出し,もしこれが私に対するエホバの御心なら,私が心をこめて働けばエホバが私を助けてその仕事を成し遂げさせてくださる,という気持になりました。エホバはたしかにそのようにしてくださいました。以後私は,自分の力のおよばないような新しい仕事を任命されるたびに,そのことを思い出して勇気を出しました。

開拓奉仕からは非常に多くの喜びと,励ましになる経験を得たために,ヨーロッパで奉仕するための自発奉仕者の召しが出されたとき私はそれに応じました。「ここにいます。私をおつかわし下さい」と。私の願いは受け入れられ,ここに,宣教者になるという幼い時の私の希望が実現することになりました。

宣教者として外国へ

1931年1月の雪の積ったある寒い朝,私は友だちとフランスに上陸しました。学校でフランス語を勉強したのをありがたく思いました。当時宣教者の家などはなかったので,それこそほんとうの「開拓」でした。食物や飲物(だれもお茶を飲まないことを発見した),道路の右側を自転車が走ることなどの小さな事柄から,人々の宗教というような重要な事柄に至るまで,なにもかもひどく勝手が違っていました。言葉もかなり問題になりましたが,絶え間ない練習によって,次第に上達しました。

警察署に身分証明書をもらいに行くことは,私にとって新しい経験でした。警察の係官は,私たちを保護する必要があると思ったようです。というのは,私が適当な部屋を知りませんかと尋ねたところ,彼は直ちに部下に指示を与え,彼について行くようにと私たちに告げたからです。若い婦人たちが泊ったり下宿できるローマ・カトリックの修道院の入口に立った時の私たちの驚きを想像してください! こうしたことや,ほかにあれこれ冒険をしたのち,ついに私たちの資力に適したへやを見つけました。

大きな問題は冬の暖房で,朝氷を割って水差しの水を使うことなどしばしばでした。料理は小さなオイル・ストーブ一つでかんたんにつくりました。また,16キロから24キロある区域を,自転車でよく往復したものです。私たちの仕事は文書を配布しては,新しい区域に移ることでした。それでも,カトリックとプロテスタントの教会の雑誌は,私たちを警戒するようにという知らせを発表しはじめました。多くの場合,これらの警告は逆効果を生じて,かえって人々の興味をそそることになりました。

そうしているうちに,主の民はヨーロッパでエホバの証者という新しい名前で呼ばれるようになりました。その時代の仕事に参加できたのはほんとうに特権でした。大会や,1年に1回の休暇で家に帰った時以外には,ほかの証者たちに会うことはめったにありませんでした。しかし,フランスの他の場所およびスペインにいた仲間の宣教者たちとは励ましの手紙を交換しました。孤立してはいても,「ものみの塔」の研究を欠かしたことはありません。こうして定期的に霊的食物を得ることは,私たちの保護となりました。

1935年,私たちの愉快なグループは,ベルギーに行くように任命されました。ベルギーには,全部で60人ばかりの証者がいました。司祭たちは私たちが彼らの牧場にはいるのを憤概して,教会員に警告したり,私たちをおどしたり,警察を呼び出したり,子供たちをけしかけて私たちにいやがらせをさせたり,石を投げつけたり,自転車のタイヤをパンクさせたり,私たちが伝道したあとを回って配布した文書を集めるなどの,ありとあらゆる手段を自由に用いて,私たちを追い出そうとしました。にもかかわらず村人は,よくこう言ったものです。「あなたのもっていらっしゃる本を五,六冊ください。司祭が来たなら一冊渡せば満足するでしょう。あとの本は残しておいて読みますから」。ベルギーはフランスよりも小さいので,私たちは時々支部で集まることができました。仲間の奉仕者たちとの楽しい交わりは,励ましになり,心をふるい立たせるものでした。しかし,第二次世界大戦が近づくにつれて,事態はとみに悪化しました。

戦争の年

1939年,戦争がぼっ発し,前戦から後退を余儀なくされました。私たちは絶え間ない緊張の下で暮らしました。いくたびも当局者のところにひったてられては,スパイだとか,第五列隊員とかいう非難を受けました。私はそのとき,いまこそ心をこめて奉仕すべきだということをいつもより強く感じました。1940年5月10日,ベルギーは侵略され,猛烈な勢いで進撃するドイツ軍の前に,後退しなければなりませんでした。わずかばかりの持物をもち,夜はなやとかそのほかの雨つゆのしのげる場所で眠りながら,自転車でフランダースの道を進んで行ったのは,気も遠くなるような経験でした。ほとんどの村は捨てられて人影もなく,道端にはそこここに死体がころがり,周囲で戦争が行なわれていることを物語っていました。私は勇気を失わないように一生懸命祈らねばなりませんでした。しかし,一つ心からうれしく思ったことは,自分に任命された仕事の一つ一つに全身全霊を打ち込んで働いたということです。もしそうしていなかったなら,いまどんなに後悔していることでしょう!

ある日私たちのグループはわかれわかれになってしまいました。私のパートナーはどうにか検問所を通過しましたが,私が一緒にいたグループは,どの検問所でも追い返されてしまいました。所持金はわずかしかありません。事態は私にとって危険になってきました。それは私が英国人であったというだけでなく,特にヒトラーが一掃することを決意していたエホバの証者の全時間奉仕者だったからです。避難民はみな家に帰るように言い渡されました。ということは,その間に降伏したベルギーに帰ることを意味しました。フランスも大部分占領されていました。私たちの仕事はだめになったでしょうか。

ベルギーに帰ってみると,私の名前はナチドイツ秘密警察の「注意人物一覧表」にのっていました。どうすべきでしょうか。どこに行けばよいでしょうか。英国人をかくまっていることがわかったなら,だれであろうとその場で射殺されます。ですから私が証者の家に住めば,彼らの命を危険にさらすことになります。そうかといって,いまは敵の領土と化した所で生計を立てる手段もありません。食糧の配給券さえ手に入れることができないありさまです。エホバの御心は何でしょうか。それを明確にしてくださることを私はエホバにお願いしました。ちょうどその時,長い間知り合っていたひとりの証者が,再び結婚を申し込んできました。私は,そのことについて祈ったのち,承諾しました。

地下にもぐって伝道

ベルギー人の役人の協力のおかげで私たちは結婚し,住居も見つけました。「地下」運動はすでに組織されていました。責任の地位にある兄弟たちは私がそれに参加する意向があるかどうか尋ねました。暗く思われていた道も次第に明るさを増してきました。夫は私がその仕事に参加することに同意し,私にこの新しい全時間奉仕をつづけさせるために仕事を見つけました。私の役目は,霊的食物を多くのセンターに運ぶことでした。そしてその霊的食物はそこで,秘密裡に翻訳され,複写されて兄弟たちに配布されました。

私たちの地下活動には,九死に一生を得るというような場合がいく度もありました。ある日私は,ゲシュタポが帰ったばかりの時に兄弟の家を訪問しました。ゲシュタポは,私を非難した匿名の手紙によってその兄弟の家にやってきたのです。また別のときには,ある証者の家に行こうとしていたところを止められました。私はその家で指示を受けることになっていたのです。ところがちょうどその日曜日の朝,その家の証者は逮捕されたのです。武装した歩哨が三日間もその家を監視していました。訪ねてくる証者を逮捕するためです。ひとりの兄弟はその家を訪ねましたが気づかれなかったので,その家に近づかないようにと私に警告してくれました。時にはナチの兵隊が,汽車や電車から降りるのに手を貸してくれたり,バッグをおろすのを手伝ってくれましたが,その中には私たちの文書がいっぱいはいっていたのです!

私たちのところに浸透してきたその霊的食物はどんなに貴重なものだったでしょう! 私たちはごく小さなグループにわかれ,違った日に,違った家で集まりを行ないました。それはたいてい,招ねかれざる客が来る場合のことを考えて,食事のために用意されたテーブルの回りで行なわれました。主の夕食の記念式の時には,伝道に特別の努力を払いました。1943年には,記念式のある週に,私は10人の家族を見つけ,その家族がエホバの組織にはいるのを見るというよろこばしい経験をしました。危険な時におけるエホバの民との誠実な交わりのよさ,また多くの人々が命を危険にさらしてまで得た霊的食物の価値を,戦争の時ほど強く認識したことはありません。

戦後の増加

そのうちに戦局は変化し,ヨーロッパのこの部分は解放されました。私はしばらくの間英国に戻り,両親と再会することができました。両親と一緒にいて経験を語り合うのはほんとうに大きな喜びでした。多くの兄弟たちと再会し,大手を振って集会に行き,またエホバの組織の発展しているのを見るのはすばらしいことでした。

ベルギーに戻るとすぐに,夫と私は,ブリュッセルの小さな支部に招かれ,翻訳者としてそこで奉仕することになりました。いちばんうれしかったのは,苦しみと危険の年であった戦争中に,ひとにぎりほどしかいなかったベルギーのエホバの証者が,何百人にもふえていたことでした。それはエホバの聖霊のみのなしうる不思議でした。

1945年の12月,協会の3代目の会長ノア兄弟が,戦後のベルギーを初めて訪問しました。ものみの塔のギレアデ聖書学校の卒業生が,わざを組織するのを援助するために来たとき,私は,彼がフランス語をおぼえる間その通訳をするという特権を与えられました。わざの組織が改善されるにつれて,御国伝道者たちは,何百人ではなくて何千人で数えられるようになりました。それは,常にも増して心をこめて奉仕し,善意ある人々が命の道を見出すのを助ける時でした。

1950年に私は,ヤンキー野球場で開催されたニューヨーク大会に出席し,またブルックリンのベテル,工場,ギレアデ学校を訪問しましが,私はその時,シバの女王と同じように感じました。つまり「その半分もわたしに知らされ」ていなかったということです。それから少したって夫が死にましたが,その時も私は,心をこめた全時間奉仕の特権と,兄弟たちおよびエホバの見える組織の愛とが,苦しみの時にいかに貴重なものであるかを再び経験させられました。

パリの新しい支部の家が完成したあと,私はそこで働くように任命されました。しかし,ベルギーの多くの愛する人々とわかれるのは,胸の痛む思いでした。古い友人に加えて,新しい友人もたくさんできました。ここでも喜びがありました。それは監督たちが御国宣教学校を終えて,エホバの「羊」の世話をするよりよい備えを身につけて帰っていくのを見ることでした。私がフランスの土をふんだ最初の日か,あるいは第二次世界大戦中の暗黒時代に,だれかがこういう時が来るということを私に告げたとしても,とても信ずることはできなかったでしょう。

パリの近くの人で埋まったスタジアムを見回わす私の気持が想像していただけましょうか。この大群衆,私たちが25年まえに初めて文書を配布した地方から来ているのです。たしかに心をこめた奉仕は,多くの面で報いをもたらします。そのような恵みを示してくださったエホバに感謝を示す唯一の方法は,与えられた毎日の仕事を心をこめて行なうことだ,と私は考えています。

エホバをおそれその道をあゆむものは皆さいはひなり そはなんぢおのが手の勤労をくらふべければなり,なんぢはさいはひをえ またやすきにをるべし。―詩 128:1,2。

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