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思いやりのあるくびきと軽い荷ものみの塔 1971 | 1月15日
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受けながら,なおかつ生活に深い喜びを見いだせることを認識しつつ,キリストの差し伸べる,クリスチャン宣教の軽い荷を背負ってください。なぜなら,『この疲弊した古い世は過ぎ去りつつあり,その欲求も同様である。しかし,神の意志を行なう人々は,自分を元気づけるものを今,享受するだけでなく,自分を元気づける生活を楽しむために永遠にとどまる』からです。(ヨハネ第一 2:17)このことが,「わたしのもとに来なさい」とのキリストの招待に答え応じるあなたの幸福な分となるでしょう。―マタイ 11:28-30,新。
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神を忘れた人ものみの塔 1971 | 1月15日
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神を忘れた人
親が子どもといっしょに読む特別な記事
あなたは,自分がほしいと思っているものを持っている人をだれか知っていますか。きっと知っているでしょう。ほかの人のものをほしがるのは,よくあることです。
でも,ほかの人のものを取ろうとする人がいます。そういうことをするおとこの子や,おんなの子を知っていますか。そのような人は,良いともだちでしょうか。それとも,ほかの子どもたちと遊ぶほうがよい,とおもいますか。
ほかの人のものをうばおうとした,あるおとこの人について,おはなししましょう。ある日,その人はイエスとはなしをするために,やってきました。イエスの助けをかりて,自分のおとうとの持ちもののいくらかを手にいれたいとおもっていました。自分にはそれをもらうけんりがあると考えていたのです。
でも,あなたはどうおもいますか。その人が,弟の持ちものを手にいれようとするのは,愛のあることですか。弟がいるということだけでも喜ぶべきだったのではありませんか。なかには,兄弟がひとりもいない人さえいるのです。
もし,あなたがイエスだったら,そのおとこの人になんといったでしょうか。イエスは,ようじんしなさいと,その人にいいました。イエスは,その人の考えが少しまちがっていることを知っておられました。どこがまちがっていたかわかりますか。
考えてみましょう。生活のなかでいちばんたいせつなのはなんですか。すてきなおもちゃや,新しい服ですか。いいえ,そうではありません。もっともっとたいせつなものがあります。イエスが教えたいとおもわれたのはそのことなのです。
それでイエスは,ひとつのおはなしをなさいました。神を忘れた人についての,そのおはなしを聞きたいとおもいますか。
そのおとこの人はたいへん金持ちで,土地や,くらを持っていました。自分のそだてた作物がたいへんよく成長したため,こくもつをぜんぶくらにいれられなくなりました。その人は,なにをすることにしましたか。
その金持ちのおとこは,ひとりごとをいいました。『わたしのくらをこわして,もっと大きなくらをたてよう。そして,こく物と,わたしのたいせつなものすべてを,その新しいくらに,たくわえることにしよう』。
それはかしこいことだ,とその金持ちは考えました。また,多くのものをたくわえる自分は,たいへんりこうだと考え,つぎのようなひとりごとをいいました。『わたしは,たくさんの良いものをたくわえた。それは,わたしにとって,なん年ももつだろう。これで,わたしはゆっくりできるぞ。食べて,飲んで,楽しくすごすことにしよう』。
しかし,その金持ちのおとこの人の考えには,まちがったところがありました。どこがまちがっていましたか。自分のことと,自分の楽しみしか考えていなかったのです。神を忘れていました。
そこで,神は,その金持ちにこうはなされ
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