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わたしたちは,自分が崇拝しているものを知らねばならないものみの塔 1971 | 2月15日
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彼らの迫害者に臨み,それら迫害者を一掃する時まで,ひき続き,「効果的に行動するでしょう」。
28 (イ)それら崇拝者たちはいつまで,肝要な知識を取り入れてゆきますか。(ロ)エレミヤ記 9章24節によれば,彼らは何を誇るでしょうか。
28 その後,この地は,「自分たちの神を知って」いる人々,つまり,霊と真理とをもって神を崇拝している人々すべての住む,清い場所となるでしょう。彼らは,唯一まことの神エホバと,エホバがつかわされたかたである,イエス・キリストに関する知識を永遠に取り入れつづけてゆくでしょう。これらおふたりに関する知識を取り入れることは,そうして知識に従って生活する人々に,幸福な永遠の命をもたらすものとなるからです。(ヨハネ 17:3,新)近づいている,神の新しい秩序で,彼らは永遠にわたって,神の次の勧めに聞き従うでしょう。『洞察力をもつこと,また,わたしに関する知識をもつこと,つまり,わたしがエホバであって,いつくしみと公正と正義を地に行なう者であるということを知ること(を誇りとせよ)。わたしは確かに,これらの事を大いに喜ぶからである』。―エレミヤ 9:24,新。コリント前 1:31。
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憎しみが良いもの,身の守りとなるときものみの塔 1971 | 2月15日
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憎しみが良いもの,身の守りとなるとき
ある中年の母親は,スーパーマーケットで,お金も払わずにアンチョビーのかん詰めをハンドバッグに忍び込ませた。時を同じくして彼女の夫は,道の反対側にあるパーキングメーターに,金属製の丸いにせ金を10セント銀貨の代わりにいれた。同日,この夫婦の娘は,病気を偽って会社を早退した。そうした行為を読者はどうみなすだろうか。巧妙なやり口だ,と考えるだろうか,それとも,憎しみを感ずるであろうか。
そうした行為はささいなことと思えるかもしれない。しかし,はたしてそうであろうか。水滴も集まれば大海となる。小さな火花が林を燃え上がらせることもある。ちょっとした悪行がしばしば,大きな不幸を招来する。イエス・キリストはこう言われた。「わずかなことに忠実な者は,多くのことに忠実である。わずかなことに不義な者は,多くのことにも不義である」。(ルカ 16:10,新)したがって,悪い行為は,たとえそれがささいなことであっても,容赦されるべきではなく,重大な事柄として,真剣に扱われるべきである。なぜなら,そうした行為は,当人に道徳的な弱さのあることを証するものだからである。
悪行が,その重大性を問わず,自分自身に対して犯された場合,人は疑いもなくその害悪を身にしみて感ずる。自分が傷つけられ,現実に痛い思いをさせられるからである。アンチョビーを持ち帰った前述の母親が,自分の家のテレビが盗まれているのを知ったなら,また,前述の父親が,だれかにつり銭をごまかされるところを見破ったなら,あるいは,前述の娘の婚約者に当たる人が,病気を装って他の女性と出かけるなら,そうした行為に当人たちは気分を害され,抗議するにちがいない。言うまでもなく,今度は自分が犠牲者の立場に立たされるからである。
偽り・詐欺・盗み・淫行・姦淫・暴行・殺人など,社会で犯される悪事を耳にする時,自分が,あるいは自分の愛している人がその犠牲になったかもしれないと考えるならば,正しい見方をするよう助けられる。そして,悪いことをしたいという誘惑にかられる場合,その悪事が自分自身に,または家族に対し
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