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空を飛ぶことはわたしの生きがいでしたものみの塔 1976 | 9月1日
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空を飛ぶことはわたしの生きがいでした
それは1960年の晩冬,正確に言えば,1960年3月10日の朝のことでした。わたしは,ドイツのアイフェル高原にあるブシェルの管制塔に連絡をして,着陸の指示を求めました。すぐに,「A.B.234,着陸準備よし」という答えが返ってきました。それから,滑走路の番号,および風力と風向が知らされました。
わたしはいつもの仕方で速度を落としました。地面がどんどん近付いてきます。エンジンの絞り弁を引き,体勢を整え,着地します。滑走路の端まで来て,わたしは機首を駐機場の方へ向けました。ジェットエンジンの轟音は次第に小さくなり,やがて止まります。わたしはパラシュートのベルトを外し,F-84-F型戦闘爆撃機から降り立ちました。
それはわたしにとって最後の飛行でした。わたしは,戦闘機を飛ばすために,“操縦桿”をこの手で握ることは二度としないつもりでした。それは1960年の晩冬にわたしが下した決定であり,今でもその気持ちは変わっていません。
空を飛ぶことに対する深い愛着
わたしがどれほど空を飛ぶことを愛していたかを知っていただければ,それがわたしにとってどれほど難しい決定であったかお分かりになると思います。幼いころわたしは,空を見上げて飛んでいる飛行機すべてにあこがれのまなざしを向けたものです。わたしが6歳か7歳のころ,両親はドイツのグライビツにあった我が家の近くの飛行場に兄とわたしを連れて行ってくれました。わたしは離着陸する飛行機に見とれました。両親はわたしを飛行場から連れ戻そうとして一苦労しました。空を飛ぶことはわたしの最大の願いになりました。
1939年,わたしがまだ13歳のころ,第二次世界大戦がぼっ発しました。当時,だれもが戦争はすぐに終わると確信していましたから,わたしは自分が戦闘機のパイロットとして名を挙げる機会がないことを残念に思いました。ところが,戦争は思ったより長引き,わたしは大抵の少年に求められていたように,ヒトラー青年団に入りました。そこでは予備的な飛行訓練を受ける機会があったので,すぐにその機会を捕らえました。わたしはグライダーの操縦法を学びました。自分の夢,自分の目標は今にもかなえられそうでした。空を飛ぶことに対する熱意はいよいよ強くなりました。
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