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  • サルデス
    聖書に対する洞察,第1巻
    • (キュベレ)の神殿,ローマの劇場や競技場,および古代の会堂などがあります。―第2巻,946ページの写真。

  • サルマ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サルマ

      (Salma)

      1. ユダの子孫で,ダビデの先祖。(代一 2:3-5,9-15)サルモンとも呼ばれています。―ルツ 4:12,18-22; ルカ 3:32。「サルモン」を参照。

      2. ベツレヘムやネトファ,アトロト・ベト・ヨアブといった場所に定住した人々の父祖。(代一 2:51,54)サルマは,ユダの家系のカレブ人の分かれのフルの子です。―代一 2:4,5,9,18,19,50,51。

  • サルマイ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サルマイ

      (Salmai)

      ネティニムの一人。その子孫は西暦前537年にエルサレムに帰還しました。―エズ 2:1,2,43,46; ネヘ 7:48。

  • サルモネ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サルモネ

      (Salmone)

      クレタの岬。一般にクレタ島の東端にあるシデロ岬と同定されています。西暦58年ごろ,パウロは裁判を受けるためにローマへ行く途中,船でサルモネのそばを通り過ぎました。しかし,クニドスの先で船は強風のため,クレタの北を帆走してギリシャの南端を通りローマに向かう,というルートを取れなくなったようです。南方を進むことを余儀なくされた船は,サルモネを通り過ぎ,その後ある程度風をよけながらクレタの南岸に沿って帆走しました。―使徒 27:7。

  • サルモン
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サルモン

      (Salmon)

      ユダの長ナフションの子。40年に及ぶ荒野の旅の間に生まれたようです。サルモンはエリコのラハブと結婚し,ラハブによってボアズの父となりました。ですから,サルモンはダビデやイエスに至る系譜に連なっています。(民 2:3; ルツ 4:20-22; マタ 1:4,5; ルカ 3:32)歴代第一 2章11節ではサルマと呼ばれています。しかし,ラムの子孫であるこのサルモン ― 子孫はベツレヘムに住んでいた ― と歴代第一 2章51,54節でベツレヘムの「父」つまり建築者として言及されているサルマを混同すべきではありません。後者はラムの兄弟カレブの子孫だからです。―代一 2:9,18と比較。

  • サレカ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サレカ

      (Salecah)

      バシャンの東端にあった都市で,オグの領土の一部。サレカはモーセの指揮下のイスラエルに攻め取られ,ガド人が住むようになりました。(申 3:8,10; ヨシュ 12:4,5; 13:8,11; 代一 5:11)普通,ガリラヤ湖の南端の東南東約100㌔,ジェベル・エ・ドルーズ(ジェベル・ハウラン)の南の広がりに位置するサルカドと同定されています。

  • ザレパテ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • ザレパテ

      (Zarephath)[恐らく,「精錬する」を意味する語根に由来]

      エリヤの時代のシドンに『属していた』,あるいは依存していたと思われる,フェニキアの町。ザレパテで,預言者エリヤは一人の貧しいやもめのもてなしを受けました。このやもめの麦粉と油は大飢きんの期間中奇跡的に維持され,その後エリヤは神の力によってそのやもめの息子をよみがえらせました。(王一 17:8-24; ルカ 4:25,26)後にそこは,イスラエルの流刑者たちの所有地になることが予告されていた,以前のカナン人の領土の端の地点になりました。(オバ 20)その名前は,シドンの南南西約13㌔の所にあるサラファンドに名残をとどめています。もっとも,古代の町は地中海の海岸沿いの少し離れた所にあったのかもしれません。

  • サレム
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サレム

      (Salem)[平和]

      メルキゼデクが王であり祭司でもあった古代都市。(創 14:18)エルサレムという名前の中に組み込まれている,ヘブライ語の「サレム」のつづりは両数形を暗示しており,したがってこの語は「二重の平和」と定義できるかもしれません。その名前が「平和」を意味するということは,ヘブライ 7章2節の霊感による言葉によって確証されています。

      古代のユダヤ人の伝承はサレムをエルサレムと同定しており,聖書的な証拠もこの点を支持しています。アブラハムは「王の低地平原」でソドムの王とメルキゼデクに会いました。ダビデ王の子アブサロムが何世紀も後にそこに記念碑を立てたことからすると,この低地平原は王国の首都エルサレムの近くにあったに違いありません。(創 14:17,18; サム二 18:18)実際,「サレム」という言葉は「エルサレム」という名前の中に組み込まれており,詩編作者はこの語を「シオン」と並立させながら用いています。(詩 76:2)さらに,後代にダビデの家系の王たちやレビの祭司たちが仕え,また「メルキゼデクのさまにしたがって」王また祭司となるよう選ばれたイエス・キリストが犠牲としてささげられた,まさにその場所で,メルキゼデクが王であり祭司でもあったというのはふさわしいことだったでしょう。―ヘブ 3:1; 7:1-3,15-17。

  • サロメ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サロメ

      (Salome)[多分,「平和」を意味するヘブライ語の語根に由来]

      1. マタイ 27章56節とマルコ 15章40節を比較すると,サロメは,ゼベダイの子ら,つまりイエス・キリストの使徒であったヤコブとヨハネの母ではないかと思われます。前のほうの聖句は二人のマリア,すなわちマリア・マグダレネと,(小)ヤコブとヨセの母マリアの名を挙げ,それと共にゼベダイの子らの母も,イエスが杭につけられた際その場にいたと述べています。一方,後のほうの聖句は,その二人のマリアと一緒にいた女性の名をサロメとしています。

      同様の根拠に基づいて,サロメは,イエスの母であったマリアの実の姉妹であるとの推測もなされています。この考えが出されている理由は,ヨハネ 19章25節の聖句が,それら同じ二人のマリア,すなわちマリア・マグダレネと「クロパの妻マリア」(一般に小ヤコブとヨセの母と理解されている)の名を挙げ,さらに次のように述べているからです。「イエスの苦しみの杭のそばには,その母と,母の姉妹……が立っていた」。もしこの聖句が(イエスの母について述べていることに加えて),マタイとマルコが述べたのと同じ3人の人物について語っているのであれば,サロメはイエスの母の姉妹であったことになります。他方,マタイ 27章55節とマルコ 15章40,41節は,イエスに付いて来た他の大勢の女性たちがその場にいたと述べていますから,サロメはその中の一人であったのかもしれません。

      サロメは主イエス・キリストの弟子であり,マタイ,マルコ,およびルカ(8:3)が暗示しているとおり,イエス・キリストに伴い,自分の持ち物をもって奉仕していた女性たちの中に入っていました。

      サロメをゼベダイの子らの母とする見方が正確であるなら,サロメは,イエスに近づいて,自分の息子たちがイエスの王国でイエスの右と左に座ることができるようにしてくださいと願い出た人物と同じです。マタイは母がその願いをしたと述べていますが,マルコはヤコブとヨハネがそのように求めたことを示しています。これは,息子たちがそのような願いを抱いていて,母にその依頼をしてもらったものと考えられます。この点は,他の弟子たちがその願いについて聞いたとき,母親に対してではなく,その二人の兄弟に対して憤慨したというマタイの報告からも裏付けられます。―マタ 20:20-24; マル 10:35-41。

      イエスの死後三日目,夜が明けるころ,サロメは他の女性たちと共にイエスの遺体に香料を塗るためイエスの墓に行きました。しかし彼女たちは,石が転がしのけてあるのを見たにすぎません。そしてみ使いが墓の中にいて,こう宣言しました。「彼はよみがえらされました。ここにはいません。見なさい,彼を横たえた場所です」― マル 16:1-8。

      2. ヘロデ・フィリポの娘で,母ヘロデアの一人子。やがてヘロデ・アンテパスはサロメの母と結婚しました。それは姦淫であり,自分の異母兄弟フィリポから彼女を奪うことでした。西暦32年の過ぎ越しの少し前,アンテパスはティベリアで自分の誕生日を祝う晩さんを催しました。彼は自分の継子となった娘のサロメを招き,「自分に属する高官,軍司令官,ガリラヤの主立った人々など」一座の前で踊らせました。ヘロデはサロメの踊りにたいそう喜び,彼女の求めるものを何でも,自分の王国の半分まででも与えると約束しました。邪悪な母の勧めにしたがって,サロメはバプテスマを施す人ヨハネの首を願い求めました。ヘロデは憂えたものの,「自分の誓い,および一緒に横になっている者たちの手前もあって,それを与えるようにと命令した。そして,人をやって,獄の中でヨハネの首を切らせた。それから,彼の首は大皿に載せて運び込まれ,その乙女に与えられた。彼女はそれを自分の母のところに持って行った」と記されています。―マタ 14:1-11; マル 6:17-28。

      彼女の名は聖書の中には出て来ませんが,ヨセフスの書いたものの中にとどめられています。ヨセフスはまた,サロメがヘロデ・アンテパスの別の異母兄弟で地域支配者であったフィリポと結婚したこと,しかし子供が生まれなかったことを伝えています。ヨセフスの記述によると,フィリポの死後,彼女はいとこのアリストブロスと結婚し,3人の息子を産みました。

  • 三軒宿
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 三軒宿

      (さんげんじゅく)(Three Taverns)

      古代の文献の中で存在が証明されている休憩所。ローマからカプアを経由してブルンディシウムに至る有名な街道,アッピア街道にありました。この場所は,旅人たちが立ち寄って休憩し,元気を回復させることのできた3軒の宿屋にちなんで名づけられたのかもしれません。“三軒宿”の跡はローマの南東49㌔の所にあります。アッピア街道をさらに15㌔ほど下った所には“アピウスの市場”がありました。今日その跡にはローマの廃墟が幾つか残っているだけです。パウロが来ることについて聞いてローマから遣わされたクリスチャンたちのうち,一部の人が“三軒宿”で待ち,残りの人々は“アピウスの市場”まで行きました。―使徒 28:13-15。

  • さんご
    聖書に対する洞察,第1巻
    • さんご

      (Coral)

      ポリプと呼ばれるある種の海洋生物が作り出す石灰質の堆積物。暖流域に生息するこの小さな生き物は,群生しながら海からカルシウム塩を取り入れ,それによって,美しく枝分かれしたかん木のような構造物を作り上げます。これは石と同じほどの硬さになります。さんごの種類によっては,やがてこうした形成物が大きなさんご礁になったり,さんご島の基部になったりすることもあります。さんごにもいろいろな色があって,白,黒,赤など様々ですが,古代では赤いさんごが最も高価で,最も尊ばれました。(哀 4:7と比較。)ティルスは一時期,地中海や紅海やインド洋で採取されたさんごの交易で有名になりました。(エゼ 27:16)職人が未加工のさんごから芸術的に仕上げた様々な装飾品は大いに珍重されました。

      さんごの価値が尊ばれたため,聖書は興味深い比較を幾つか行なっています。知識や知恵は確かにさんごの価値をしのいでいます。(ヨブ 28:18; 箴 3:15; 8:11; 20:15)有能な妻についても同じです。「その価はさんごよりもはるかに貴い」のです。―箴 31:10。

  • サンダル
    聖書に対する洞察,第1巻
    • サンダル

      (Sandal)

      革,木,または他の繊維質の材料でできた底を締めひもで足に縛り付けるはき物。締めひもは普通は革ひもで,親指と第二指の間を通し,かかとを回して,足の甲に回されました。革ひもが足首の高さまで回されることもありました。

      エジプト人のサンダルは普通つま先が反り返っていました。アッシリア人のサンダルのあるものは,かかとと足の側面にあてがう覆いだけでできており,革ひもで足に固定され,足の前の部分には底がありませんでした。ローマ人はサンダルをはきましたが,現代のものに似た靴をはいたとも言われてい

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