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  • もしも親族が排斥されたら……
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
塔81 11/15 25–31ページ

もしも親族が排斥されたら……

1,2 (イ)家族の宗教について神は何を意図しておられましたか。(ロ)コラの時代に,幾つかの家族はどんな決定に直面しましたか。

しばらく独りでいたアダムに,神は「人が独りのままでいるのは良くない」と言われました。それから神はエバを造られ,人間の結婚を創始されました。(創世 2:18,21,22,新)以来,地球の人口は増加することになりました。ですからどんな人も数多くの親族を持つことになります。子供など,家族の一部が近くに住んでいない場合でも,彼らを訪問して,楽しい時を共にすることができました。―創世 1:28。ヨブ 1:1-5。

2 神が意図しておられたのは,家族が真の崇拝で一つに結ばれ,宗教信条ゆえに分裂などが生じないようにすることでした。しかし宗教が元で家庭争議の生じたことが何度かあります。その一つは,コラとダタンとアビラムが反逆した時のことです。エホバはご自分がモーセとアロンを通して交渉を持ち,これら宗教上の反逆者を間に立てることはないという点を確証されました。それでモーセは人々に,反逆者の天幕から離れるよう命じました。コラ,ダタン,アビラムの家の者や子供たちはどうしましたか。彼らはエホバとその会衆に対する忠節よりも家族に対する忠節を優先しましたか。この反逆者たちと密接な関係のあった人々の大多数は神よりも家族の方を優先しました。エホバはこれらの親族を反逆者共々処罰されました。―民数 16:16-33。

3 コラの家族の幾人かはどんな賢明な選択を行ないましたか。

3 ところが,コラの息子たちの幾人かは神とその民に対する忠節を保ちました。彼らはコラの家の者およびダタンとアビラムの家族の残りの人々と共に処罰を受けることはありませんでした。(民数 26:9-11)実際,コラの家族の生き残った人々の子孫は後代,祝福を受け,神殿での特別な奉仕にあずかり,聖書の中で敬意をもって語られています。―歴代下 20:14-19。詩 42,44-49,84,85,87篇。

4 イスラエルでは,家族の忠節は他のどんな点で試練に直面する可能性がありましたか。

4 あるイスラエル人が背教者になる時も,家族と神,そのどちらに対する忠節を選ぶかという同様の問題が生じました。その人の家族は人間的な感情や血のつながりに動かされ,本人が切り断たれないようにその人をかばおうとするでしょうか。それともその兄弟,息子や娘たちさえも,神と会衆に忠節であることの方が正しく賢明な道であることを悟るでしょうか。(申命 13:6-11参照。)今日のキリスト教の取決めにおいては,罪を犯した人が処刑によって絶たれることはありませんが,親族が懲らしめを受けることでクリスチャンが試練に直面することはあります。

親族が問題を起こすことがある

5,6 (イ)どのように,宗教をめぐる家族の分裂が生じるかもしれませんか。(ロ)こうした状況で,クリスチャンが妥協してはならないのはなぜですか。(詩 109:2-5)

5 家族の結びつきと愛情は非常に強いものとなり得ます。これは自然なことであり,神の取決めと一致しています。(ヨハネ 16:21)しかしこの強いきずなはまた,クリスチャンに困難な試練をもたらすこともあります。イエスは,人がクリスチャンになる結果,親族の反対に遭う場合があると説明されました。イエスはこう述べておられます。「[わたしは] 平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。わたしは分裂を生じさせるため,男をその父に,娘をその母に,若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。実際,人の敵は自分の家の者たちでしょう。わたしに対するより父や母に対して愛情をいだく者はわたしにふさわしくありません。また,わたしに対するより息子や娘に対して愛情をいだく者はわたしにふさわしくありません」― マタイ 10:34-38。

6 このような憎しみの存在することを願うクリスチャンは一人もいません。清く,道徳的で正直な,神の僕になったからといって,親族がそうした人々に反対したり憎しみを抱いたりすべき理由はありません。それでも真のクリスチャンは,神よりも家族を優先することはできないとはっきり理解しています。結局は,すべての人に最大の益をもたらすのは,クリスチャンが神に忠実を保つことなのです。時たつうちにクリスチャンは,親族が救いに至る道を歩むように感化を与えることができるかもしれません。―ローマ 9:1-3。コリント第一 7:12-16。

7,8 排斥によって家族の問題が生じるかもしれませんが,それはだれのせいですか。(申命 32:4)

7 親族は他の面でも,真のクリスチャンを煩わす様々な問題を引き起こすかもしれません。親族が排斥されるときにもそうしたことが生じ得ます。前の記事で学んだように,会衆内でゆゆしい罪を犯しながら悔い改めない人がいるなら,神はその人を排斥することを求めておられます。(コリント第一 5:11-13)悪行者のその行動によって,本人とエホバとの関係,およびその結果として本人とエホバの証人である家族の成員との関係に変化が生じました。こうした結果について神に責任はありません。神の規準は義にかなっており,公正だからです。(ヨブ 34:10,12)それに,その忠実なクリスチャンの親族のせいで,その間違いが生じたわけでもありません。コラ,ダタン,アビラムの場合と同じように,自分自身と親族に問題をもたらしたのは,排斥された人自身なのです。

8 二つの異なる状況について調べる必要があります。最初は,家族の中の,排斥された,あるいは交わりを絶った成員と同じ家でクリスチャンが生活している場合です。2番目は,その親族が身近な家族ではない場合です。

身近な家族

9 配偶者がクリスチャンではない場合,あるいは排斥されている場合,家族の責務はどうなりますか。

9 家族が一人も信仰を受け入れず,自分だけがクリスチャンになる人もいるでしょう。その一例として,妻はエホバに仕えていても,夫がそうではないという場合があります。それでも,妻はやはり夫と「一体」であり,夫を愛し,敬う責務があります。(創世 2:24,新。ペテロ第一 3:1-6)あるいは,献身したクリスチャンだった夫が,後になって会衆から追放されたという場合もあるでしょう。しかし二人の結婚のきずなは,そのことによって断ち切られるわけではありません。結婚のきずなを絶つのは,死と聖書的な理由に基づく離婚だけです。―コリント第一 7:39。マタイ 19:9。

10,11 排斥は,家庭内の霊的なきずなにどんな影響を及ぼしますか。

10 同様に,親,息子,娘などの親族が排斥されたり自ら交わりを絶ったりした場合でも,血のつながりと家族のきずなは残ります。では,家族の一員が排斥されたときでも,家族内の物事はすべて以前と変わらないことになりますか。明らかにそうではありません。

11 排斥された人は,会衆から霊的には切り断たれました。以前存在していた霊的なきずなは完全に断ち切られました。この点は,すぐ身近にいる家族を含め,その親族に関しても真実です。ですから,家族の成員は,家族のきずなを認めながらも,本人との霊的な交友はもはや持ちません。―サムエル前 28:6。箴 15:8,9。

12 家族の成員が排斥される場合,霊的な交わりに関して,どんな変化が生じるかもしれませんか。

12 これは,家庭内に存在していたであろう霊的な交友に変化が生じることを意味します。例えば,夫が排斥された場合,家族の聖書研究をその夫が司会したり,聖書朗読や祈りで指導したりすると,妻や子供たちは気持ちよくありません。排斥された人が食事の時などに祈りをしたいと思えば,自宅でなら祈る権利はあります。しかし妻や子供たちは声を出さずに自分で神に祈りをささげることができます。(箴 28:9。詩 119:145,146)家族が聖書を一緒に読んだり,聖書研究をしたりする時に,家庭内にいる排斥された人が出席することを望むならどうですか。家族を教えようとしたり,宗教的な考えを述べようとしたりしない限り,出席して耳を傾けることは許されるでしょう。

13 親は,家にいる排斥された子供にどのように接しますか。

13 未成年の子供が排斥される場合,親はやはり本人の身体的な必要を満たすように世話をし,道徳的な訓練と懲らしめを与えるでしょう。親は子供に参加してもらい,子供と直接に聖書研究をすることはしませんが,それは,家族研究の時にそばに座っているように求めてはならないという意味ではありません。そして親は,本人が必要としている諭しを含む聖書やキリスト教の出版物の一部分に注意を向けさせるでしょう。(箴 1:8-19; 6:20-22; 29:17。エフェソス 6:4)親は子供が聖書の諭しを心に取り入れることを望み,クリスチャンの集会に子供を伴い,一緒に座ることができます。

14,15 排斥された親が家に戻って来ることについては,何がなされるべきですか。

14 では家にいない息子や親などの肉親が排斥され,その結果家に帰ることを願っている場合はどうですか。家族は状況に応じ,どうすべきかを決定することができます。a

15 例えば,排斥された親は病気で,経済的にも身体的にも自活できない状態にあるかもしれません。クリスチャンである子供には,親の面倒を見る聖書的また道義的責任があります。(テモテ第一 5:8)一時的にせよ永久的にせよ,親を家に呼ぶ必要があるように思えるかもしれません。あるいは,医療関係者はいますが自分たちが訪問しなくてはならない所に両親の世話を依頼するのが賢明だと思えるかもしれません。どうするかは,親が本当に必要としている事柄や親の態度,家の者の霊的福祉に対する家族の頭の心遣いなどによって決まるでしょう。

16,17 (イ)親は,排斥された子供が家に帰って来そうなとき,どのように対応しますか。(ロ)わたしたちはこの点について,放とう息子のたとえ話から何を学びますか。

16 家を離れていて,今では排斥されるか交わりを絶っている子供についても同じことが言えます。クリスチャンの親が,身体的に,あるいは感情的に病気になった排斥された子供をしばらくの間家に戻すこともあります。しかし親は必ずその子の状況を慎重に考慮します。排斥された息子は自活してきたでしょうか。今はそれができないでしょうか。本人が戻りたがっているのは,主に,その方が生活が楽だからですか。本人の品行や態度はどうですか。家庭内に「パン種」を持ち込むことになりますか。―ガラテア 5:9。

17 放とう息子に関するイエスのたとえ話の中で,父親は走って会いにゆき,帰って来た息子を迎え入れました。子供の哀れな様子を見て,父親は親としての自然の情を示しました。しかし,息子が家に売春婦を連れて来ることもせず,父親の家に戻って罪深い生活を続けようという気持ちもなかったことに注目できます。そうです,この息子は心からの悔い改めを表明し,明らかに,もう一度清い生活に戻る決意を抱いていたのです。―ルカ 15:11-32。

家の中にいない排斥された親族

18,19 (イ)身近な家族ではない親族が排斥された場合,その人と交わることをクリスチャンはどう見るべきですか。(ロ)そのような立場を取るのはなぜ適切ですか。(テモテ第二 2:19)

18 考慮する必要がある2番目の状況は,排斥された親族,交わりを絶った親族が,身近な家族ではない,あるいは家に一緒に住んでいない場合です。このような人ともまだ血のつながりや婚姻によるつながりがあるので,家庭内の必要な事柄をある程度世話しなければならないかもしれません。しかしこの状況は,同じ家で生活していて接触や会話をどうしても避けられないという状況とは異なります。霊感を受けた聖書の次の指示を,わたしたちははっきりと思いに留めているべきです。「兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者……がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように」― コリント第一 5:11。

19 したがって,自分の家の外に住んでいる排斥された人と親類関係にあるクリスチャンは,不必要な交わりを避け,事務的な接触も最小限にとどめる努力を払うべきです。こうした行き方が理にかなっていることは,次の報告から明らかになります。それは,『彼は排斥されたけれど,私たちは親族だから,以前と同じように彼を扱うことができる』という誤った見方を親族が持ったために生じた出来事に関するものです。ある地方から次のような報告が寄せられました。

「排斥されたある人は,会衆内の3分の1ほどの人と親類関係にありました。その人の親類は全員その人と交わりを続けました」。

さらにまた,非常に尊敬されているひとりのクリスチャンの長老は,このように書いています。

「私たちの地域では,大家族を抱える排斥された人々が王国会館のロビーに入って来ると,人々は(排斥された人が今なお不道徳な生活を送っていることは知っていても),これみよがしに背中をたたいたり握手をしたりして彼らを迎えます。私は本当に心配しています。排斥された人は,自分の歩みがエホバとその民から憎まれていることを悟る必要があります。また誠実に悔い改める必要を切実に感じるべきです。彼らの行ないを知っているそれらの大家族全員が,彼らをこれからも歓迎するなら,排斥された人々が変化を遂げるのに何が助けとなるでしょうか」。

20,21 排斥された親族には注意が必要です。なぜですか。(テモテ第二 2:22)

20 多くの人が親族関係にあるという会衆は,西暦1世紀にも存在していたに違いありません。しかしだれかが排斥された場合,その排斥された人と聖書的な事柄を話し合わない限り,親族はみな普段と変わりなく振る舞えましたか。そうではありません。もしそうしたなら,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という命令を本当に適用することにはならなかったでしょう。―コリント第一 5:13。

21 罪を犯して排斥された人の立場を大目に見たり,軽視したりしないよう,非常な注意が必要です。コラの子たちの例が如実に示しているように,わたしたちの忠節は第一にエホバとその神権的な取決めに対するものであるべきです。神の規準を擁護し,悪行者との交わりよりも,神の組織された民との交わりを選ぶなら,わたしたちは神の保護と祝福を得ることを確信できるのです。―詩 84:10-12。

親ぼくのための集まりと排斥された親族

22 家族が集う時,排斥された親族に関して特別な問題の生じることがあるのはなぜですか。

22 普通の場合親族は,食事,ピクニック,家族会その他の親ぼくのための集まりでよく一緒になります。しかし,罪を追い求めて悔い改めず,排斥されなければならなかった人がいれば,その人はこのような集まりに関連してクリスチャンの親族に難しい問題を投げかけるかもしれません。その人が依然として親族であることは認めますが,忠実なクリスチャンは罪を犯して追放された人と「交わってはならない」,というパウロの助言を無視してはなりません。

23 排斥された親族がクリスチャンの結婚式に出ると,どうなりますか。

23 排斥された親族が出席している集まりに出る家族の成員について,何らかの規則を探そうとするのは無益なことです。それは関係者が,パウロの諭しに基づいて決定すべきことでしょう。(コリント第一 5:11)それでも,排斥された人が,親族でない証人たちが招かれている集まりに出席する意向であれば,それが他の人の行動に影響を及ぼし得るということも十分に知っておかなければなりません。例えば,二人のクリスチャンが王国会館で結婚するとしましょう。排斥された親族が結婚式のため王国会館に入って来るとしても,その人は明らかに新郎新婦の付き添いをしたり,花嫁を“花婿に渡し”たりすることはできません。では,結婚の祝宴や披露宴がある場合はどうでしょうか。イエスが出席されたカナの場合と同じように,それは楽しい親ぼくの機会となり得ます。(ヨハネ 2:1,2)しかし,排斥された親族がそこに来ること,あるいはその親族を招待することは許されるでしょうか。その人が出席する意向であれば,親族であるかどうかにかかわりなく,多くのクリスチャンは,コリント第一 5章11節のパウロの指示に照らして,その場にいてその人と一緒に食事をし,交わることはできないと結論付けるかもしれません。

24 忠節なクリスチャンが,最も楽しめるのはどんな交わりですか。(箴 18:24)

24 そういうわけで,普通には家族の成員が出席する集まりに,排斥された,あるいは交わりを絶った親族に出席してもらうことはできないとクリスチャンが感ずることもあるでしょう。それでもクリスチャンは,「神のご意志を行なうのがだれであっても,その者がわたしの兄弟また姉妹また母なのです」というイエスの言葉を念頭に置き,会衆の忠節な成員との交わりを楽しむことができます。―マルコ 3:35。

25,26 排斥された親族が死亡する場合,葬式に関してどんな状況が生じますか。

25 事実からすれば,クリスチャンが罪にふけって排斥を余儀なくされる時,その人は本当に多くのものを失います。神のみ前における是認された立場,幸福なクリスチャン会衆の成員としての立場,以前クリスチャンの親族との間で保たれていた多くの交わりを含め,兄弟たちとの喜ばしい交友などを失うのです。(ペテロ第一 2:17)その人がもたらした苦しみは,本人の死後も残ります。

26 排斥期間中に本人が死亡した場合,その葬式の取決めが問題となるかもしれません。クリスチャンの親族は,それが土地の習慣であれば,王国会館で話をしてもらいたいと思うかもしれませんが,会衆から追放された人に関してそれはふさわしいことではないでしょう。罪を犯すことをやめ,クリスチャンの集会に出席するなどして,本人が悔い改めと,神の許しを望んでいる証拠を示していたなら,幾人かの兄弟たちの良心は,葬儀場や墓地で聖書の話をすることを許すかもしれません。死者の状態に関するこうした聖書的な説明は,未信者に対しては証言となり,親族にとっては慰めとなるものです。しかしながら,排斥された人が依然として偽りの教えや不敬虔な行ないを唱道していたのであれば,こうした話をすることさえ適切ではないでしょう。―ヨハネ第二 9-11。

わたしたちすべてに対する教訓

27 わたしたちは神の裁きをどう見るべきですか。

27 わたしたちはみな,重要なのはエホバの裁きであるということを認識する必要があります。(箴 29:26)憎むべき行ないについても同じことが言えます。聖書の中に,これらの事柄は神が忌み嫌われることであると述べられているからです。(箴 6:16-19)個人個人に対する神の裁きについてもやはり同じです。エホバの言葉は,「肉の業」を行ない続ける「不義の人々」が神の王国を受け継ぐことはないと明確に述べています。(コリント第一 6:9,10。ガラテア 5:19-21)このような人々には天にも場所がなく,王国の地的領域の中にもふさわしい場がありません。したがって,今日,神の清い会衆内にとどまりたいと願う人はみな,神の規準にかなっていなければなりません。神は,「パン種」がご自分の聖なる民の中に残り,その腐敗的な影響を及ぼすことを絶対にお許しになりません。―コリント第一 5:6-13。

28 排斥の問題によって,わたしたちの忠節はどのように試されるかもしれませんか。

28 人間には感情があるので,肉親が排斥される場合には,当然ながら大きな試みが生じます。親子の間の感情と家族のきずなは特に強いものがあります。そして配偶者が排斥される場合もやはりそのきずなは強力です。それでも結局は,わたしたちが感情の赴くままに神の賢明な諭しと導きを無視するようなことになれば,だれも益することができず,神を喜ばせることにもならないということを認識する必要があるのです。悔い改めない悪行者を排斥するという神の規定を含め,神の方法が全く義にかなっているという点に全幅の信頼を示す必要があります。神と会衆に対して忠節であり続けるなら,悪行者はやがてそのことから教訓を得,悔い改め,会衆に戻ることを許されるかもしれません。しかしそうなるかどうかにかかわらず,わたしたちはダビデが晩年に述べた次の言葉から,慰めと力を得ることができます。

「[神の] すべての司法上の裁きはわたしの前にあ(る)……それで,エホバがわたしの義にしたがい,その目の前のわたしの清さにしたがって,わたしに報いてくださるように。忠節な者には,あなたは忠節をもって行動し,とがのない,力のある者には,とがのない仕方で対処されます。自らを清く保つ者には,あなたはご自分が清い者であることを示し……そして謙遜な民を,あなたは救われます」― サムエル後 22:23-28,新。

[脚注]

a 長老や奉仕のしもべの状況に関する注解は,1978年5月1日号の「ものみの塔」誌,「読者からの質問」に載せられています。

[28ページの図版]

排斥された親は,クリスチャンの子供の家で世話をしてもらう必要があるかもしれない

[29ページの図版]

放とう息子は自分の罪深い生活を続けるために家に戻ったのではなく,悔い改めていた。父親は息子を迎え入れた

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