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    ものみの塔 1969 | 9月1日
    • 上手な聞き手でありなさい

      「心をこめてわたしのことばに耳を傾けなさい。また,良いものをくらい,肥えたものであなたがたの魂に無上の喜びを得させなさい」―イザヤ 55:2,新。

      1 人間はおもにどんな器官を用いて物事を学びますか。

      エホバ神は一対の耳をもつ人体を設計し,物事を学ぶための最も重要な器官の一つを人間に備えてくださいました。人は誕生後の数年間,ことばを話したり,理解したりする仕方を,耳をとおして学びます。そしてこの時期にはおもに耳を用いて物事を学ぶのです。その後,人は生涯を通じ,親,先生,雇用者その他の口頭の教えを聞いて知識に進みます。むろん人間の目も物事を学ぶ大切な器官です。人は生涯を通じて学ぶ事柄の98パーセントを耳と目の二つの器官を用いて学ぶと言われています。しかし物事を学ぶ器官として耳がどれほど役だつかは,耳を傾けて聞く能力にかかっています。

      2 聞き方が知識の面での人間の成長になぜ影響するかを説明しなさい。

      2 箴言 18章15節にはこうしるされています。「哲者の心は知識をえ 智慧ある者の耳は知識を求む」。人の話に耳を傾けるとき,耳を通して知識を得ます。これは話されていることに注意を払い,深く考えるという意味です。また,ほかの事柄をあれこれ考えないように努力することを意味しています。よそごとを考えると,たとえ耳そのものは正常に働いていても,耳は聞こえなくなってしまいます。耳で聞くためには,耳を通して伝わってくる音声を頭が受けとめなければなりません。ある時,人から何かを言われたにもかかわらず,ほかのことを考えていたため,あとになって,何も聞かなかったと本気になって言い張ったときのことを思い起こしてください。耳は音声を忠実に頭に伝えましたが,耳を傾けていなかったので,聞こえなかったのです。

      3 今日,神はどのようにして人間に話をされますか。わたしたちはなぜ神に耳を傾けるべきですか。

      3 人間が絶えず学び取ることのできる知恵と知識の壮大な源は,人間の創造者であられるエホバ神ご自身です。そのみことばにこうしるされています。「そはエホバは智慧をあたへ 知識と聡明とその口より出づればなり」。(箴言 2:6)神は今日,文字になったみことばである聖書を通して,わたしたちに語っておられます。そこにしるされている事柄を目で追って読むにしても,あるいはその1部をだれかが声に出して読むのを聞くにしても,神が昔の聖書記述者にお与えになった知識が得られます。そうすることによって人は霊的によく養われた者となります。ですから,エホバ神がイザヤ書 55章2節(新)で次のように言われるのももっともなことです。「心をこめてわたしのことばに耳を傾けなさい。また,良いものをくらい,肥えたものであなたがたの魂に無上の喜びを得させなさい」。霊感の下にしるされたみことばの中に神が備えられた,徳を高める知識や健全な事柄で頭を養えば,霊的な健康を増進できます。栄養失調のためにやせ衰えた状態と比べれば,肥えていることは健康の証拠と言えるように,霊的に肥えていることは霊的な健康を意味します。前述の預言が,エホバのことばに注意深く耳を傾ける人々に約束しているのはこのことです。

      4-6 (イ)サムエルはなぜ上手な聞き手の一例と言えますか。(ロ)このほか聖書には,上手な聞き手であることを表わしたどんな人の例がありますか。それらの人が上手な聞き手であったことは,どんなことからわかりますか。

      4 預言者サムエルは上手な聞き手の一例です。彼はエホバが話されるときには,いつも注意を集中して聞きました。まだ幼い少年のころ,宮の中の自分の持ち場で寝ていたとき,エホバに呼ばれました。サムエルはこう答えました。「お話しください。あなたのしもべは耳を傾けております」。(サムエル前 3:10,新)エホバが話しておられたあいだ,サムエルは,その日,宮で行なう務めその他の事柄をあれこれ考えることをしませんでした。ゆえに,告げられた事柄をみな記憶し,あとで大祭司エリに伝えることができました。サムエルはエホバの言われることに注意深く耳を傾け,一心不乱に聞きました。これは今日のわたしたちに対する上手な聞き方のすぐれた手本です。

      5 聴衆とともにすわって聖書の話を聞くとき,あなたはどうしますか。サムエルのように注意深く耳を傾けますか。それとも,知らぬまにほかの事柄をあれこれ考えて,話される事柄の多くを聞きのがしてしまいますか。いいかげんに聞くだけでは聖書の知識と理解を増すことはできません。イエスがオリブ山で,終わりの日に起こる事柄について語られたとき,その使徒たちがいいかげんな態度で話を聞いたと考えられますか。近くの地面を引っかいていた小鳥が虫を見つけたとか,ケデロンの谷の向こう側にある宮の境内に群がる人々の中に親族の姿が見えるかどうかなどとよそごとに気をとられた者はまずいなかったでしょう。使徒たちはイエスの話されることを一心不乱に聞いたに違いありません。イエスのことばに耳を傾けることにより,賢明な者であることを表わし,かつ,信仰を培い,命を保たせる知識を神の御子から得ました。

      6 イエスの宣教中,使徒たちは終始熱心に耳を傾けて話を聞いたので,後日,イエスの話の詳細を思い起こすことさえできました。イエスの死の8年後,マタイはそれを詳細に書きしるしました。それがマタイ伝です。65年ののち使徒ヨハネは,今日,ヨハネ伝と呼ばれている聖書の本に,イエスの言行の詳細をしるしました。彼らは自分たちの聞いたことを神の霊の助けで思い起こしました。しかしもし耳を傾けて聞いていなかったなら,聖霊が彼らを助けて思い起こさせようにも,彼らの心には詳細なことが何もはいっていなかったでしょう。(ヨハネ 14:26)神のことばの真理についてだれかが話しているときには耳を傾けて聞くという習慣を培かうのは,今日のわたしたちにとって使徒たちの場合と同じように大切です。

      耳を傾けて聞くことを習慣にしなさい

      7 普通,耳を傾けて聞く際の効率はどの程度ですか。どうすればこれを改善できますか。

      7 人と話をする際に費やされる時間の45パーセントは聞くことに費やされます。聞くということは,日常生活の中で最も頻繁に行なわれる事柄の一つですが,普通,耳を傾けて聞く際の効率は約25パーセントとされています。なかにはそれ以下の場合もあります。してみれば,日常生活の中できわめて大切な,耳を傾けて聞く能力を,必要な努力を払って改善するのは確かに価値のあることです。このためには意識して努力しなければなりません。話が行なわれている時によそごとを考えている自分に気づいたなら,直ちに,聞いている事柄に再び心を向けなおしてください。神のことばである聖書の知識は神との正しい関係に不可欠ですから,ちょっとした注意ではなく,深い注意を払うべき十分の理由があります。

      8 耳そのものは正しく働いていても,どうなると,話し手の話は聞こえなくなりますか。

      8 努力さえすれば,上手な聞き方の習慣を身につけることができます。しかし話の最中に,話とは関係のない事柄を心が勝手に思いめぐらす悪い習慣を捨て去るには時間がかかります。心がこのようにさまようと,耳そのものは正しく働いていても,話し手のことばは聞こえなくなります。そして,心がよそごとを思いめぐらすのをやめるまでは,耳にはいってくることばも意味をなしません。それで,ふと我にかえったときには,話し手の考え方や論議の進め方についてゆくことがむずかしくなります。かなりのことを聞き落としているからです。それよりも,心がよそごとをあれこれ考える傾向を克服するために十分の努力を払うほうがはるかに有益です。しかし耳を傾けて聞く習慣をひとたび身につけると,聞いている事柄に容易に注意を集中できるようになります。

      9 『普通以上の注意を払う』とはどういう意味ですか。

      9 ヘブル書 2章1節(新)にはこうしるされています。「こういうわけだから,わたしたちは聞く事柄に普通以上の注意を払わねばならない。わたしたちが決してさまよい出ないためである」。使徒たちがイエスに耳を傾けた仕方は,『普通以上の注意を払うこと』でした。普通以上の注意を払うとは,いいかげんに聞くことではありません。心をさまようにまかせ,きのうしたことや,あすしようとしている事柄をあれこれ考えることではありません。だれかが話している時に,個人的な問題を一生懸命に考えたり,何事かを心配したりすることでもありません。それは話されている事柄を思いめぐらし,説明されている聖書の原則あるいは助言を自分の生活にあてはめて考えるという意味です。聖書の話を重要で価値あるものにしているのは,話す人ではなく,話し手が説明する,神のことばの知識です。神のことばである聖書に属するものは何事を問わず,日常茶飯事に対する以上の特別な注意を払うに値します。

      耳を傾けて聞く習慣を改善する方法

      10-12 (イ)上手な聞き方の大切な要素の一つは関心をもつことです。それはなぜですか。(ロ)上手な聞き手はどんな先入観を退けますか。

      10 上手な聞き方の大切な要素の一つは関心をもつことです。神が箱舟の大きさをノアに告げられたとき,ノアはそのすべてを正確に聞き取りました。なぜなら,ノアは神がお告げになった事柄に深い関心をいだき,一心に耳を傾けたからです。しかし講演者の話そうとしている問題を無味乾燥なものと決めてかかる人は,上手な聞き方を知らない人によくあるまちがいを犯しています。こうした推断のために興味は失われ,いきおい心はさまよって,よそごとを思いめぐらすようになります。しかし耳を傾けて聞く人は,講演が終わってから,話し手の取り上げた興味深い事実やすぐれた論議をいくつか指摘できるでしょう。一方,よく聞かなかった人はそれらの点を聞きもらしており,もっと注意して聞けばよかったと後悔したり,聞きもらしたことがあまりにも多くて驚くかもしれません。

      11 上手な聞き手は,どんな話でもそれを興味のないものとみる先入観を退けます。そして,もし話す価値のあることが何もないなら,演壇に出て話すわけがないと考えて,話に心を向け,どんな事柄を学べるかを考えます。そうするほうが,話が早く終わればよいがと考えながら,いらいらした気持ちをいだいて時間を浪費するよりもまさっています。話は無味乾燥なものにちがいないと決めてかかるかわりに,話の中に何か興味深い点を見つけることを決意してください。それには,自分の知らない事実や,物事を説明する目新しい方法,活用できる論議の進め方その他があります。何か興味深い事柄をさがそうと努力するだけでも,注意を払うことに大きく役だちます。

      12 聞き下手を助長する別の要素は,話し手には話すだけの価値あるものがないと決めてかかることです。これは上手な聞き手が話を聞く際に避ける落とし穴です。上手な聞き手は,他の人の知っている事柄の中には自分の知らない事柄もあること,また,話し手は話の準備をする際にいくらかの貴重な資料をおそらく調べて集めていることを知っています。ですから,そうしたいくらかの知識をとらえ,すでにたくわえた自分の知識にそれらを加えるため,耳を傾けて話を聞くのです。

      13 話し方の下手な人は話すだけの価値のあるものを持っていない,と考えるのはなぜまちがいですか。

      13 話し方があまり上手でない話し手もいるでしょう。しかしそれはその人の話が聞くだけの価値のないものと決める理由にはなりません。その話し手の資料がまったく価値のないものということはできません。使徒パウロは洗練された話し手ではなかったようです。しかし彼の語った事柄は,深い注意を払う価値がありました。コリント人にあてた2度目の手紙の中でパウロは次のようにしるして,話をするその能力に関し一部の人がいだいていた意見を示しています。「人は言う,『彼の手紙は重味があって力強いが,会って見ると外見は弱々しく,話はつまらない』」。(コリント後 10:10,口語)一部の者がパウロに関していだいていたこうした意見にもかかわらず,講演者としての彼のいくつかの欠点を見過ごし,耳を傾けてパウロの語ることを聞いた人々は,神のことばとお目的に関する知識を大いに増すことができました。ゆえに,話し方,正しい文法,話の一貫性,正しい発音などは,話を聞きやすいものにはしますが,話の最も大切な要素ではありません。さらに大切なのは,考え方や論議の進め方,事実や原則などです。

      14 考える速さは聞き下手という悪い習慣を助長する場合があります。それはなぜですか。

      14 聞き下手を助長するもう一つの要素があります。それは話をする速度と物事を考える速度との大きな違いです。英語の場合,1分間に平均125語の割合で話せますが,聴衆を前にして話す場合には,この速度は少しおそくなり,1分間に100語程度となります。しかし頭は1分間に少なくとも平均400ないし500語の割合で物事を考えることができますから,他の事柄を考えるかなりの時間的な余裕があるわけです。このためにとかく心は話とは無関係の事柄をあれこれ思いめぐらすようになります。上手な聞き手はこの速度の違いを善用して,話し手の述べる事柄を心に銘記するようにします。このことはいろいろな方法で行なえます。

      15,16 考える速さをどのように善用すれば,聞く能力を向上させることができますか。

      15 話し手の述べている事柄から次の論点を予想するようにしてごらんなさい。こうすれば,物事を考える速さを善用して,話し手よりも一歩先を進めます。そして論点が予想どおりであれば,論点を2度考えることになるので,さらによく覚えられます。一方,別の論点を予想していたとすれば,二つの論点を比較し,話し手がなぜその点を選んだのかを判断できるでしょう。こうすることにより,物事を覚える最善の方法,つまり比較および対照によって覚える方法を活用できるのです。

      16 話し手が話の論点を支持するために用いる要素をとらえてください。これは話を評価するのに役だちます。話の中の休止の際には,論じられた事柄を頭の中ですばやくまとめ,主題がどのように強調され,また展開されてきたかに注意してください。説明されている幾つかの論点と主題との関係を考えてください。主題はたとえて言えば車輪のこしきのようなもので,すべての論点は,こしきにしっかりと取り付けられたスポークのように,話の全体をささえます。ところが残念なことに,一貫した話をせず,主題を強調しない話し手がいます。このような場合には,心がよそごとをあれこれ考えないようにするため,いっそうの努力を払わねばなりません。

      17 話を聞く際に事実よりも原則を把握するのが賢明なのはなぜですか。

      17 自分の聞いたことを記憶する人は,事実だけを聞き取ろうとは考えません。事実はそれが論議とどう結びついており,論議をどのように支持しているかを明白に理解するとき最もよく記憶できるものです。何らかの関係を知らないかぎり,単なる事実はすぐ忘れられてしまいます。この理由で,上手な聞き手はおもに,いろいろな事実が支持する主要な考えを聞き取ろうとします。こうして幾つかの原則をとらえ,それらを話のつなぎとして用い,いろいろな事実をまとめ,話全体を結び合わせて理解できるものにします。話を支持するいろいろな事実は,幾つかの原則を思い起こし,原則の根拠を考えると,思い出せるものです。原則は事実をぶらさげたハンガーのような役目をします。したがって,原則を思い起こすと,たいていそれに伴って事実を思い出せるものです。

      18 ノートをとることは,聞く能力と,聞いたことを覚える能力とを改善するのに役だちますが,その一つとしてどんな方法がありますか。

      18 聞いたことを覚えるのによい助けとなるのはノートをとることです。この点で役だつのは2枚の用紙を使う方法です。その一方には“原則”,他方には“事実”としるしてください。講演が進むにつれて,話し手が取り上げる原則を一方に記入し,それを支持する事実を他方の用紙に書き込んでください。ノートはごく簡単にとってください。そうすれば時間の大半は聞くことに費やせます。普通,上手な聞き手はノートをとらずに数分話を聞き,それから,聞いた事柄の要点を短い一文にまとめて書きとめます。その間,物事を速く考えることのできる頭を働かせて,話を分析し,論じられたことをまとめ,また次に話される論点を前もって考えます。

      上手な聞き方を身につけることの益

      19 上手な聞き方の習慣を身につけることから得られる幾つかの益を述べなさい。

      19 上手な聞き手で,口頭の指示を正しく取り扱える人として信頼される従業員は,会社では有用な社員になれます。しかしこれよりもはるかに大切なのは,上手な聞き手であれば,エホバの証人の御国会館における集会はもとより,毎年開かれるいろいろな大会で行なわれる聖書の話から有益な霊的知識が得られるということです。それらの話のために行なわれる聖書に関する研究のすべてを自分でするだけの時間は普通の人にはありません。したがって,上手な聞き手になれば,神のことばに関する自分の知識を大いにふやすことができます。そうした話の,人を鼓舞する清新な見解や論議は,聞く人の信仰を強め,聖書の真理に対する認識を深めます。そして,すぐれた助言はりっぱなふるまいや健全な態度を保つのに役だちます。ですから,深い注意を払うことにはさまざまの益があります。

      20 今日行なわれている聖書の話と何を比べることができますか。そうした話にはどんな益がありますか。

      20 これらの聖書の話は,集合したイスラエル国民の大聴衆に話し手が神の律法について語った時の状況と比べることができるでしょう。その一つは,イスラエル人がヨルダン川を渡り,約束の地にはいってまもなく生じました。つまりエリコとアイの町の陥落後,人々はエバル山とゲリジム山のあいだの狭い谷間に集まりました。ヨシュアはエバル山に祭壇を築きました。そしてその山腹と思われる,見通しのよくきく場所に立ち,民に向かって神の律法を読み聞かせました。(ヨシュア 8:30-35)声は狭い谷間によくひびきわたりました。話を聞いた人々は,神が自分たちに求めておられる事柄について記憶を新たにし,また,自分たちが神に依存していることを思い起こしました。今日の聖書の話についても同じことが言えます。

      21 集合した民に向かってヨシュアが話をしたとき,イスラエル人の子供たちは当然どこにいたと考えられますか。

      21 その集まりのとき,親たちがヨシュアの話の最中に,自分の子供たちが走り回ったり,話をしたり,あるいは集まっている人々の中をあてもなく歩き回ったりするのを許していたとはとても考えられません。おそらく子供たちは自分の親のそばにいて,たとえヨシュアの語った事柄のなかにはむずかしいところがあったにしても,深い注意を払っていたに違いありません。子供たちは神のことばを尊ぶべきことを学び,霊的な円熟を目ざして成長するためのすぐれた土台を据えました。今日でも全く同じではないでしょうか。

      22 親は子供が上手な聞き手となるように教えることができます。これはどのように行なえますか。

      22 静かにすわって話を注意深く聞く訓練は幼い時分から施せます。話の要点を一つか二つとらえて,話が終わってから,それを親に説明させるのもよい考えです。事実,親が子供に幾つかの質問をすることもできます。これは子供を励まして,幼い時から上手な聞き方の習慣を身につけることになります。この習慣を身につける子供は,成長するにつれ,自分たちの希望の理由を尋ねる『人に弁明』できるようになるでしょう。―ペテロ前 3:15。

      23 むずかしい問題を論ずる聖書の話からどのような益を得ることができますか。

      23 むずかしい問題を扱う話は,話を聞く能力の試金石となります。下手な聞き手の心はすぐにあてもなくさまよいはじめます。そのような人は,話の中に盛り込まれていた堅い霊的な糧の益にあずかることもなく,話が終わると,退場し,こうして,霊的に成長する機会を見過ごしてしまいます。一方,上手な聞き手は普通以上の注意を払い,多くの原則を把握し,それらを支持するいろいろな論議の進め方について考えることに極力努めます。話の中のすべての点を理解することはたとえできなくても,自分に理解のできる事柄によって聖書の知識を高め,理解の範囲をさらに広げることができるでしょう。そのような人は,霊的な乳しか取り入れられなくて,霊的な成長を妨げられるということはありません。こうして信仰の土台はしっかりしたものになり,神のことばの霊的に深い事柄を消化する能力の面で成長してゆきます。―ヘブル 5:12-14。

      24 神のことばの助言や原則を論ずる話にはどんな益がありますか。そうした話に対する認識をどのように表わせますか。

      24 人は円熟していようといまいと,将来の歩みを定めるために,イスラエル人の場合と同様,神のことばの助言と懲らしめを必要とします。「将来,賢い者となるため,助言に耳を傾け,懲らしめを受け入れなさい」とあるとおりです。(箴言 19:20,新)このような導きがなければ,きわめて容易に道を踏みはずし,とこしえの命の目標からはずれた広い道を歩むことになります。(マタイ 7:13,14)そのような助言は,御国会館や毎年開かれるエホバの民の大規模な地域大会で,数々の話を通して与えられます。では,そうした助言が与えられている際に,大会の会場を歩き回っている人はどうなりますか。その人は箴言 19章20節の助言に従っていますか。どうすれば神の前に常に正しく歩めるかを学んでいますか。悲惨な落とし穴の避け方を学んでいますか。また,話が終わらないうちに退場する人についてはどうですか。もう数分待って,話し手の語る事柄すべてをよく聞くほうがもっと有益ではないでしょうか。そうすれば,出席者に教えを与え,霊的に強めるための備えに対するより深い認識を表わすことにはなりませんか。

      25,26 今日,クリスチャンが上手な聞き手であることはきわめて肝要です。なぜですか。

      25 この古い事物の体制に残された短い時の今,わたしたちには知識はもとより,強い信仰が必要です。これらを持つとき,この古い事物の体制下の人々とその支配者たちに対してすぐれた証しを行なえます。そのためには,御国会館における話はもとより,大会で行なわれる数々の話の中に備えられている聖書に基づく啓発,心を強める論議,激励のことば,矯正を与える助言が必要です。エホバの組織はそれらの話により,耳を通してわたしたちを教え,将来,賢明な道を歩むための助けを与えているのです。このようなわけで,上手な聞き手であることはきわめて肝要です。話を聞く能力は話す能力と同じように大切なことをよく考えてみてください。神のことばの数々のすぐれた事柄を話すのはわたしたちの聖書的な義務です。しかしそれらの事柄に耳を傾けるのも同じくわたしたちの義務です。

      26 上手な聞き手であれば,自分自身に対してのみならず,ことばをかわす他の人に対しても自分の霊的な進歩を示すことになります。(テモテ前 4:15,16)熱心に耳を傾けて話を聞き,神から与えられた一対の耳を正しく用いてください。耳を傾けることによって知識を得,自分自身の永遠の福祉のために霊的に肥え,かつ霊的な健康を保って成長してください。

  • 忍耐をもって無関心と戦いなさい
    ものみの塔 1969 | 9月1日
    • 忍耐をもって無関心と戦いなさい

      「あらゆる点で自らを神の奉仕者としてすすめる。すなわち,多大の忍耐により…」― コリント後 6:4,新。

      1 エレミヤはどんな警告を宣明しましたか。人々はその警告にどう応じましたか。

      神を恐れたユダの王ヨシヤの第13年(紀元前647年),エホバはユダの国がやがて崩壊し,首都エルサレムおよび全土に恐るべき荒廃が臨もうとしていることをご自分の民に警告させるため,エレミヤをつかわされました。この民がエホバとの契約関係にはいって以来の800年余のあいだエホバの預言者が確立した記録の正確さを考えれば,民がこの警告に耳を傾けるのは当然予想されたことでしょう。ところがエレミヤの伝道した40年間に生きた世代の人々はその警告に無関心でした。人々はエレミヤに耳を傾けようとはしませんでした。

      2,3 (イ)無関心とはどういう意味ですか。それは何に根ざしていると考えられますか。(ロ)ユダの人々は無関心さをどのように表わしましたか。

      2 無関心とは,ある事柄を,自分に意味のない,もしくは重要でないものとみなして,興味あるいは関心を持たないことです。ユダの人々の無関心は利己的な精神のためだったかもしれません。それで彼らは,エレミヤの警告に接しても心を動かされなかったのかもしれず,あるいは悪に対して無感覚であったためかもしれません。しかしいずれにしても神に対する専心の献身を怠り,神の正しい律法を破っていながら,自分たちの怠慢を意に介していませんでした。人々は利己的にも自分の目に好ましいことのみを好んで行ない,エホバの目に好ましいことを少しも顧みなかったのです。

      3 エレミヤは彼らに言いました。「我これを汝らに告げ しきりにこれを語りしかども汝らきかざりし エホバそのしもべなる預言者を汝らに遣し しきりに遣したまひけれども汝らはきかず またきかんとて耳を傾けざりき 彼らいへり汝らおのおのいまその悪き途とそ悪き行をすてよ さらばエホバが汝らと汝らの先祖に与へたまひし地に永遠より永遠にいたるまで住ことをえん 汝ら他の神に従ひこれに事へ これを拝み汝らの手にて作りし物をもて我を怒らするなかれ さらば我汝らを害はじ されど汝らは我にきかず 汝らの手にて作りし物をもて我を怒らせて自ら害へり とエホバいひたまふ」。(エレミヤ 25:3-7)それからエレミヤは,こうした理由でその地が荒廃することを予告しました。

      4 エレミヤは人々の無関心な態度からどんな影響を受けましたか。

      4 成果を得ることもなく,40年間この民に伝道することがエレミヤにとってどんなにつらいものであったかは容易に想像できます。エレミヤもわたしたちと同じ情を持つ人間である以上,自分の努力に成果の伴わないのを見て時には落胆したに違いありません。彼はある時,次のように語って失意のほどを表わしました。「われ日日に人の笑となり 人みな我を嘲りぬ われ語り呼はるごとに暴逆残虐のことをいふ エホバのことば日々にわが身の恥辱となり嘲弄となるなり ここをもて我かさねてエホバの事を宣ず またその名をもてかたらじといへり されどエホバのことば我心にありて火のわが骨のうちに閉こもりて燃るがごとくなれば忍耐につかれてたへがたし」― エレミヤ 20:7-9。

      5 エレミヤはなぜ今日の神のしもべたちの手本と言えますか。

      5 今日の神のしもべたちも,きたるべき「全能の神の大いなる日の戦い」について現代の人々に警告しようと努めるとき,それと全く同様の気持ちになる場合があります。(黙示 16:14,新)人々の無関心と冷淡さのため現代の神のしもべたちは時に,あたかもいたずらにことばを出しているように感じ,神の目的についてはもはや語るまいと考えることもあります。もしあなたが,神の国の良いたよりを宣明し,きたるべき神のハルマゲドンの戦いを警告する責任を自覚しているクリスチャンのひとりでしたら,おそらく同様に感じたことがあるでしょう。しかしエレミヤのように,人々の無関心を耐え忍び,イエスがご自分の追随者に与えられた伝道せよとの使命を断固として遂行し続けなければなりません。―マタイ 28:19,20。

      6,7 今日の神のしもべたちの宣教と,エレミヤの行なった伝道とを比較しなさい。

      6 エレミヤの時代を振り返って見ると,当時のユダの人々がエレミヤに耳を傾けようとしなかったことの愚かさがよくわかります。時代的に有利な立場からこのことを観察できるわたしたちは,その警告が確かなものだったことを知っています。紀元前607年,エルサレムはついに崩壊し,ユダの全土はエレミヤの預言どおり70年間荒廃しました。(エレミヤ 25:11)40年の伝道のあいだ,エレミヤは人々の目におそらく愚かな人間と映ったことでしょう。しかし警告された大災害が臨んだとき,エレミヤの正しさは立証されました。その時,無関心な人々の愚かさは確かにあらわになりました。

      7 西暦1877年以来,エホバの証人は,神が現存するこの事物の体制に対する不利なさばきを執行し,この体制の代わりに新たな,いっそうすぐれた取り決めを設けられる時が近づいたことを警告し続けてきました。一般的に言って,エレミヤの場合と同じように,彼らは人々の無関心な態度に接してきました。彼らがこの警告を宣明しはじめて以来,多くの歳月が流れました。しかしこれは,宣明された神のお目的が遂行されずに終わるという意味ではありません。それはユダの国に関してエレミヤの行なった40年間の伝道がむなしくならなかったのと全く同じです。その国の予告された崩壊は確かに現実となりました。同様に,現存する事物の体制の予告された崩壊も必至です。(イザヤ 55:11)その崩壊が終わったのち,生き残った人々は現代を振り返って,エホバの証人が神の国とハルマゲドンの戦いを宣明することにより正しいわざを行なってきたことをまざまざと知るでしょう。それはエレミヤの伝道の正しさを今日知ることができるのと同様です。その時,人々の無関心に耐えた証人たちの歩みが知恵の道であったことは,すべての人の目に明らかにされるでしょう。

      8 クリスチャンの家庭で無関心と戦う最善の方法とはなんですか。無関心のために生ずる試練をどのようにみなすことができますか。

      8 エホバの証人の中にはきわめてつらい立場に立たされる人もいます。それは分裂した家庭で暮らさねばならないためです。その場合,家庭内の未信者が,無関心であったり,あるいは露骨に反対したりするため,これが意気をくじく原因となることがしばしばあります。これはあやしむべきことではありません。こうした場合のあることをイエスは予告されました。(マタイ 10:35,36)意気をくじくこうした障害に打ち勝つ最善の方法は,神に対する誠実さを曲げずに障害を耐え忍ぶことです。時たつうちに事情が変わることもあります。長年にわたって夫の無関心や反対に耐えたのち,それまで反対していた夫の態度が良い方に変わるのを見たクリチャン婦人の例は数多くあります。それら婦人は家庭におけるさまざまの試練を,クリスチャンに臨むであろうと予告された数々の試練の一部とみなしました。そうした試練は,クリスチャンの信仰と誠実さと神への愛とを試みる一種の刑柱にたとえられます。イエスは言われました。「おのが,〔刑柱〕をとりて我に従はぬ者は,我にふさはしからず」。(マタイ 10:38〔新〕)家庭におけるこうした試練に耐えることにより,イエスにふさわしい者であることを証明できるのです。

      9 クリスチャン会衆内での無関心はどのように人を試みるものとなりますか。

      9 クリスチャン会衆内でさえ他の人々の無関心のために試みられる場合があります。時々,会衆のある人々は,真理に対して最初にいだいていた愛を冷えるままにし,ついにはクリスチャンの活動においてもはや人を励ますほどに熱くもなければ,徹底して冷たくもなく,なまぬるい人になる場合があります。そのような人々はラオデキヤの会衆のようになりました。この会衆は神から受けた使命と,神が供給してくださった,命を与える真理とを意に介しませんでした。よみがえったイエス・キリストはその会衆についてこう言われました。「われ汝の行為を知る,なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず,我はむしろ汝が冷かならんか,熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず,冷かにもあらず,ただぬるきがゆえに,我なんぢを我が口より吐出さん」。(黙示 3:15,16)クリスチャンであると唱えながら,いま無関心な態度を取る人には,エホバの報復の日の訪れる前にそうした態度を改めないかぎり,このとおりのことがおそらく生ずるでしょう。そしてそうした態度が改められるときまで,会衆内のそれらの人々のなまぬるい態度はエホバの証人を試みるものとなります。それらの人々は宣教の緊急さに心を動かされることがなく,また自分自身の霊的なものの必要に心を用いることもないからです。エホバの証人は,人の意気をくじくような彼らの態度のために手をゆるめたり,自分の見方が影響を受けたりすることを許してはなりません。それには忍耐が必要です。

      なぜ無関心と戦わねばならないか

      10 人々の無関心はわたしたちにどんな影響をおよぼすことがありますか。どうなると,それとは知らずにサタンの望みを遂げさせることになりますか。

      10 エホバの証人がもし気をゆるめるなら,クリスチャンの宣教に対する人々の悪い態度の影響を受ける場合があります。神のことばやお目的に対する人々の無関心のため,奉仕に対するクリスチャンの熱意をくじかれ,宣教を躊躇する場合も生じます。真理の音信に対して無関心な人々の多い区域で伝道するのはむなしいことではないかと感ずる人があるかもしれません。そう考えるのはまさにサタンの思うつぼです。サタンの願いはわたしたちがやめることです! 彼は,エホバが行なおうとしておられる事柄についてわたしたちが黙することを望んでいます。また,宗教的な暗やみや迷信,あるいは分裂を促す国家主義の精神にとらわれている人々に,解放をもたらす真理をわたしたちが携えてゆくのを好みません。区域内の人々が耳を傾けないからといって,宣教活動を中止するなら,わたしたちはサタンの望みを遂げさせることになります。しかしわたしたちはサタンの関心事に仕えたいとは思いません。時たつうちに事情は変わり,ある人々は神の国の良いたよりに耳を傾けるようになり,伝道を続行することの価値が明らかになります。この事物の体制が続くかぎり,それらの人々は音信に接する機会にぜひとも恵まれなければなりません。昔,神のしもべたちはいろいろの場合に失意を感じましたが,失意に屈しませんでした。それはエレミヤの場合に見たとおりです。わたしたちも屈してはなりません!

      11 なぜモーセとエリヤは無関心と戦って成功した例と言えますか。

      11 失意を味わったモーセは,仲間のイスラエル人の示した冷淡な態度のゆえに,パロに話すことは徒労にすぎないのではなかろうかと感じ,こう言いました。「イスラエルの子孫すでに我に聴ず 我は口に割礼をうけざる者なれば パロいかで我にきかんや」。(出エジプト 6:12)しかしモーセが黙していることは,エホバの御心ではありません。したがってエホバ神は,その民の態度にかかわりなく,ご自分の与えた音信を宣明せよとモーセに命じ,こう言われました。「汝はわが汝に命ずるところをことごとく宣べし」。(出エジプト 7:2)このことばに従ったモーセは,真の神のため,真理に対する強力な証しを行ないました。また預言者エリヤも,その伝道がむなしいものに見えたため落胆しました。10部族で成るイスラエルの国の人々は,真の崇拝に戻ることを勧めたエリヤの努力に関心を払いませんでした。エリヤは伝道をやめて,どこかに逃げて死にたいと感じました。(列王上 19:4)しかしそれではエホバのお目的は成し遂げられません。それでエホバは再びエリヤをつかわして仕事を遂げさせられたのです。(列王上 19:15-18)これらの神の人は,他の人々の無関心に影響されて不活発になることはありませんでした。

      12 無関心についてクリスチャンは何を認めねばなりませんか。

      12 無関心な態度は,人の意気をくじく力となること,また,エホバとその組織,そしてとこしえの命に至る道から人を引き離し得ることとを認めなければなりません。献身したクリスチャンが人々の無関心さに落胆しすぎたり,あるいはそうした態度が自分の心に根をおろしてそれが大きくなるままにしておいたりすれば,そのような事態が起こり得ます。やがてそれは霊的な活動を麻ひさせ,霊的な死を招きます。ですから,無関心な態度に対して敢然と戦うことはきわめて肝要です。

      無関心と戦う

      13,14 (イ)どうすれば無関心との戦いに勝てますか。初期クリスチャンが迫害に打ち勝ったことから,その点をどのように知ることができますか。(ロ)迫害の下で信仰を保っても,無関心に面して信仰を失う場合があるのはなぜですか。

      13 気力をくじく無関心さに対しては,忍耐をもって,またそのために神への奉仕をおろそかにしないように努力することにより,首尾よく打ち勝つことができます。迫害の場合には断固とした決意をもって忍耐しなければなりません。初期クリスチャンは,ローマ帝国からしばしば迫害された約280年のあいだ,忍耐をもってそうした迫害に打ち勝ちました。わたしたちの伝道に対する人々の無関心さはもとより,今日のさまざまな迫害を耐え忍ぶことにより,わたしたちは次のことばどおり自らを神の奉仕者として推薦します。『あらゆる点で,すなわち,多大の忍耐により……自らを神の奉仕者として推薦する』― コリント後 6:4,新。

      14 なかには,きびしい迫害に耐えながら,のちに無関心さという,気力をくじく力に屈する場合のあることも考えられます。それは極めて巧妙な仕方で力をおよぼすからです。そして長いあいだには,実際の迫害の成し得なかったことをやってのけることがあります。それは建物木材を内部から食いつくしてゆく白ありに似ています。やがて支柱が弱って建物は倒壊してしまいます。無関心のとりこになったままでいれば,わたしたちの信仰の柱にも同じことが生じ得るのです。

      15 わたしたちはどんな質の信仰を求めなければなりませんか。

      15 わたしたちはあらゆる種類の試練に耐える信仰を持たねばなりません。ペテロはそのことを指摘してこう書きました。「このゆゑに汝ら今しばしのほどさまざまの試煉により憂へざるを得ずとも,なほ大に喜べり。汝らの信仰の験はくつる金の火にためさるるよりも貴くして,イエス・キリストの現れ給ふとき誉と光栄と尊貴とを得べきなり」。(ペテロ前 1:6,7)イエス・キリストが現われるのは,きたるべき「全能の神の大いなる日の戦い」,つまりハルマゲドンの戦いの時です。キリストは,その時「神を知らぬ者と福音にしたがわぬ者とに報を」もたらすために来られるからです。(黙示 16:14,新。テサロニケ後 1:8)無関心という試練をいま切り抜けられないとすれば,試みられたわたしたちの信仰の質をはたして保てるでしょうか。

      16 認識を保つことは何の役にたちますか。霊的なものの必要を意識することはなぜ大切ですか。

      16 エホバ神および命を与えるその真理に対する確固とした認識を保つのは,無関心に耐え得る良質の信仰を築くすぐれた方法です。このためには,神が備えてくださる霊的な食物で定期的に心を養うだけでなく,将来実現されることになっている,神のすばらしい数々のお約束や神がこれまでに行なわれた事柄を思いめぐらさねばなりません。自分の霊的な必要に絶えず心を配ることは認識を保つ大切な要素です。もし霊的なものの必要を意に介さなくなるなら,とこしえの命に導く狭い道から足を踏みはずす危険な状態に陥ります。エホバのことばと組織があるのは,そうした霊的なものの必要を満たすためです。エホバの組織に引き寄せられる人はこのことを認め,また,自分の霊的なものの必要を意識しているゆえに,神の次のような招待に答え応じたのです。「渇く者はきたれ,望む者は価なくして生命の水を受けよ」。(黙示 22:17)しかしもし,こうして答え応じた人が,のちに無関心になり,そのために自分の霊的な必要物に対する意識が鈍るなら,正しい認識と信仰とを失い,ついには神の組織から離れていた以前の状態に戻らざるを得なくなります。(ペテロ後 2:22)ゆえにわたしたちは神のことばと神の組織に対する認識を保たねばなりません。

      17,18 神のことばと組織とに対する認識を自分自身と他の人のうちに高める方法を説明しなさい。

      17 生活上の問題や悩みに直面し,神のことばや組織の助言に従って,問題を首尾よく解決もしくは克服した場合は,もしそうした助言がなかったなら,どうしただろうかと自問してみます。これは認識を深めるのに役だちます。また,献身して神に仕える前に自分の行なっていた事柄を思い返すことも同じように役だちます。真理にはひととなりを変えさせる力があります。しかしそのような真理の力を拒んで,自分の生き方を改めようとしなかったなら,わたしたちは今どんな状態にいたでしょうか。(ペテロ前 4:3)わたしたちは,神が御子をあがないの犠牲として備え,人間がとこしえの命を得られるように取りはからって示してくださった過分の恵みに感謝できます。また,新しい体制に関する神のお約束の成就がわたしたちにとって何を意味するかを思いめぐらすこともできます。そうすることにより,わたしたちは認識を深め,その結果,人々の無関心な態度のために生ずる失意の気持ちを防ぐことができます。

      18 家庭聖書研究を行なって神のことばの真理を学んでいる人が,ともすれば無関心な態度に流れようとする場合があります。こうした傾向を克服する効果的な方法はその人の認識を高めさせることです。マレーシアのあるエホバの証人はこのことを行ないました。その女性はひとりの少女と聖書研究を行なっていました。少女は時間の余裕があったので喜んで勉強はしたのですが,真理に対しては関心を示しませんでした。その証人は神のことばと神の組織とに対する認識を深めさせて,少女の無関心さを克服することに努めました。そうするために,聖書のある原則を,それをあてはめて解決できる問題とともに検討する場合,少女に対して次のような質問をしました。「もしわたしたちがこのような問題に直面した場合,解決する方法を聖書から得られないなら,途方に暮れてしまうのではないかしら」。また,一般的なある問題の解決の仕方が研究中に取り上げられる場合,よく次のように尋ねました。「エホバの組織を通して教えられなかったなら,問題を解決する方法はわからなかったのではありませんか」。その少女はこうした質問に助けられて,徐々に認識を深め,無関心な態度は薄れ,ついにエホバの組織と活発に交わるようになりました。このような方法で,自分自身と他の人の認識を高めることができ,信仰の質が試みられる際には,その試練に耐えることができるでしょう。

      イエスはすぐれた手本を示された

      19,20 (イ)無関心との戦いにおいてイエスはわたしたちのためにどのような手本を示されましたか。(ロ)そのためにイエスご自身はどのように益を受けられましたか。

      19 イエスは地上におけるその宣教中,絶えず同国人の無関心な態度に会いました。人々は,幾世紀も前からヘブライ人の多くの預者がその到来を予告していたにもかかわらず無関心だったのです。イエスはその根拠地ガリラヤで多くの人々に喜んで受け入れられました。しかしその周辺の人々はほとんど町ぐるみイエスの伝道に対し何の反応も示しませんでした。カペナウム,コラジン,ベッサイダなどの町や,イエスの郷里のナザレすらそのような町でした。(ルカ 10:13-15。マルコ 6:1-6)エルサレムも,この町に入城したイエスをたたえた人々を除いては,彼を受け入れませんでした。全体的にみてエルサレムは,その600余年前,エレミヤに対して無関心であったと同じように,イエスに対して無関心でした。イエスはこの町に向かってこう言われました。「ああエルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,遣されたる人々を石にて撃つ者よ,牝鶏のおのが雛を翼のうちに集むるごとく,我なんぢの子どもを集めんとせしこと幾度ぞや。されど汝らは好まざりき」。(ルカ 13:34)イエスは人々の冷淡さをものともせずに,神から受けたご自分の使命を引き続き果たして,すぐれた手本を示されました。彼は忍耐をもって人々の無関心な態度と戦い,そうすることによって,ご自身を神の奉仕者として推薦されたのです。

      20 イエス・キリストは,神に従順を示し,忍耐によりご自分の信仰の質を証明したゆえに,エホバ神の是認とともに数多くの祝福を享受されました。(ピリピ 2:9-11)聖書は,イエスがわたしたちに対する手本であることを示してこう述べています。「なんぢら倦み疲れて心をうしなふことなからんために,罪人らのかくおのれに逆ひしことを忍び給へる者をおもへ」。(ヘブル 12:3)もしわたしたちがイエスの忍耐の手本に従うなら,わたしたちも神の是認を得,間近に迫った神の大いなる戦いを生き残る者の中に確かに加えられるでしょう。

      21 無関心と戦うことからどんな益が得られますか。幾つかをあげなさい。

      21 終わりまで忠実に忍耐する人はさいわいです。そうする人は,この事物の体制の終わりの時に守られるだけでなく,エホバ神に対する愛を表わすことになり,また,神への誠実をまっとうすることになるからです。それにしてもハルマゲドンの戦いを生き残ることは,忍耐をもって無関心や迫害と戦う人に約束されているさまざまな益の一つにすぎません。キリストの油注がれた追随者に関するヤコブ書 1章12節の次のことばは,神の国の地上の民となることを期待している人々にもある意味であてはまります。「試錬に耐ふる者は幸福なり,これを善しとせらるる時は,〔エホバ〕のおのれを愛する者に約束し給ひし,生命の冠冕を受くべければなり」。ゆえに,耐え忍ぶ人には数々の益が与えられますが,その一つはとこしえの命です。イエスはこのことをさして,こう言われました。「汝らは忍耐によりてその霊魂を得べし」― ルカ 21:19。

      22 この事物の体制の予告された終わりが到来するとき,クリスチャンはどんな感慨をいだくでしょうか。それはなぜですか。

      22 この事物の体制のまったき終わりがいやおうなく到来するとき,耐え忍んだクリスチャンは,神から与えられた仕事を成し遂げ,かつ,自分の信仰の質を実証できたゆえに,満足と幸福とを味わうことになるでしょう。パウロは一生の仕事の終わりに臨んでそのように感じ,こう言いました。「われ善き戦闘をたゝかひ,走るべき道程を果し,信仰を守れり」。(テモテ後 4:7)エレミヤは,神から割り当てられた仕事を終え,神から命じられた事柄を成し遂げたとき,同じような感慨をいだいたに違いありません。しかしこの事物の体制の終わりはなおわたしたちの前途にあります。ゆえにわたしたちは,無関心と戦い続け,そのために気力をくじかれてやめることがないようにしなければなりません。―ガラテヤ 6:9。

      23 自らを神の奉仕者としてすすめる方法の一つにどんなものがありますか。

      23 昔のエホバ神のしもべたちが無関心に対する戦いに勝利を得たのであれば,わたしたちも勝利を得ることができます。しかしそのためには進んで努力し敢然と戦わねばなりません。また,人々の無関心な態度がわたしたちに与え得る悪影響や,そのために信仰が内部からむしばまれて崩壊し得ることを悟る必要があります。さらに,エホバの数々のお約束,神のことばの確かさ,その組織をわたしたちが必要としていること,また,そうした事柄によって自分の生活がより良く変化したことなどに対する認識を保たねばなりません。わたしたちはまた,神のことばと組織の助けで個人的な問題を解決し,重要な決定を下してきたことを思い起こす必要があります。聖書に見いだせるすぐれた忍耐の手本を思いめぐらし,そこから励みを得なければなりません。わたしたちは,預言者エレミヤが行なったように,忍耐をもって首尾よく無関心と戦い,かつ,クリスチャン宣教において忠実を保つことにより,自らを神の奉仕者として推薦します。

  • 拡大するエホバの証人の本部施設
    ものみの塔 1969 | 9月1日
    • 拡大するエホバの証人の本部施設

      全世界,200の土地におけるエホバの証人の御国伝道のわざは拡大をつづけています。1968年には,115万5826名の活発な証人がいました。これは20年前の証人の5倍を上回る数です。

      この拡大と歩調を合わせるために,この大規模な国際的伝道活動を指導する本部も急速に拡大しています。ニューヨーク市ブルックリンでは,本部の全施設に加えて,もうひとむねが増築され,1969年5月2日にその献堂式が行なわれました。この7階建の家は,本部で奉仕する,そして増加の一途をたどるエホバの証人の一部を収容する宿舎として使用されます。

      その種の最初のもの

      新しい建物は,アメリカの史跡地域として公に指定されている場所に初めて建てられた建物,という特色をもっています。ブルックリン・ハイツとして知られているこの地域は,1965年,ニューヨーク市の最初の「歴史的地域」と命名されました。そのために,史跡保存委員会は,古い建物の解体を阻止したり,新しい建物の型を規制する権利をもつようになりました。

      したがって,エホバの証人の12階建の家の建築計画は,史跡委員会の要求にあわせて変更されました。このことについて,1967年10月4日のニューヨーク・タイムズ紙は,社説でつぎのように述べました。「[ものみの塔]協会は,同地域の性質に準じて,もとの建築計画を大幅に変更した。地主のこの種の協力は,どんな地域の特色を保存するにも,法律と同様に重要なものである」。

      史跡委員会のひとつの要求は,3つの大変古い建物の正面

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