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    ものみの塔 1969 | 6月15日
    • 真の奉仕者のための土台を据える

      「それで,わたしのこれらのことばを聞いて,それを行なう者は,岩塊の上に自分の家を建てた思慮ある人にたとえられるであろう」― マタイ 7:24,新。

      1 マタイ伝 7章24-27節のイエスのたとえ話の中で,「岩塊」ということばは何を表わしていますか。それを基として何を築くのですか。

      岩塊の上に建てた家と砂地に建てた家,あなたはそのどちらを選びますか。イエスは,ご自分のことばを「聞いてそれを行なう」者の賢さと,それを聞いても行なわない者の愚かさとを対照的に示すために,このようなたとえをされました。(マタイ 7:24-27)しかし待ってください。イエスのたとえの中の「岩塊」ということばは,単にキリスト・イエスとその教えを受け入れて信ずることを表わしているのではありません。その点にお気づきですか。それは,イエスの教えに対する従順さを表わしているのです。これこそ,前途の希望と期待をしっかり築くための唯一の堅固な土台です。神の奉仕者として,きたらんとする神の新秩序での命を願うなら,特にそうしなければなりません。―ヤコブ 2:26。

      2 このたとえの中のあらしは何を表わしていますか。どうすることによってのみ,人の『建て物』は倒壊を免れますか。

      2 人の建てた物を試みるあらしが必ず襲来します。世界の地平線上にすでに見え隠れするハルマゲドンのあらしだけではありません。より当面のものとして,個々の建築者の生活に起きる個人的な危機や問題というあらしもあります。これらは,その人の土台,つまりイエスの教えに対してどこまで従順であるかということを,きびしく試みるのです。前途に対するその人の希望と期待は個人個人を襲うこうしたあらしに耐え,最後にはハルマゲドンのあらしに耐えることができますか。あるいは,こなごなに砕かれ,霊的な破滅はもとより,文字どおり身の破滅をも招く結果になりますか。これは,御子によって伝えられた神の真理がどこまでその人の心にはいり,生活においてどこまでその真理に従おうとしているかによって決まります。―マタイ 13:18-23と比べてください。

      3 キリスト教国の幾百万の人々の『家』はどうなっていますか。それはなぜですか。

      3 今日,自分の周囲を見回してごらんなさい。こわれた『家』が無数にあるのに気づかれるでしょう。イエスのことばが最も広く語られてきたキリスト教国においては,しだいに強まる現代的な圧力の猛威,宣伝と苦難の洪水,変化の暴風などによって,クリスチャンと称する幾百万の人々の希望が打ちくだかれています。その人々は,背教した昔のユダの民のごとく,「われら平康を望めども善きこときたらず,慰めらるる時を望むに,かへって恐懼きたる」と言うでしょう。今や,その人々にとって,この20世紀後半における前途は,「艱難とくらきとくるしみの闇」とに満ちたものとなりました。(エレミヤ 8:15。イザヤ 8:22)なぜ? なぜなら,その人々は砂地の上に建ててきたからです。

      4 (イ)今日の状態はそうした人々が砂の上に建ててきたことをどのように示していますか。(ロ)根本的な責任はだれにありますか。

      4 物質主義,不正直,非行,不道徳行為,そして同性愛行為などのすべては,それらクリスチャンの「建築者」と自称する人々の中に,キリストの教えを守っているという見せかけをさえ捨て去った者が多いことを示しています。激しい国家主義,人種の対立,無法な行動などは,キリスト教国諸教会の会員である幾百万の人々が,従順さという堅固な土台の上に建ててこなかったことの証拠です。この総くずれ的な状態に対しては,関係している宗教組織そのものが少なからぬとがめを受けねばなりません。そうした宗教組織はイエスの教えを真の意味においては実践せず,神のみことばとしての聖書,また神の御子および神の代弁者としてのイエスに対する人々の確信を弱めることさえしてきたからです。そして,不安定で変わりやすい人間の哲学や言い伝えを,神のみことばに代わるものとしてきました。(エペソ 4:14。ヘブル 13:9)しかし,個々の人々は自分の指導者に責任のすべてを負わせてはなりません。個々の人々にも根本的な責任があるのです。その人々も自分の教会で聖書にあるイエスのことばを少なくとも聞いており,あるいは自分の家庭で読んでいるからです。そして彼らはイエスのことばを実行しなかったのです。

      5 キリスト教国の霊的な破たんと著しい対照をなすものが過去と現在にあることを述べなさい。

      5 今日のこうした事態は,初期クリスチャン会衆の場合と大きく異なっています。初期クリスチャン会衆の人々は,クリスチャンとしての原則を妥協させるよりは,死や投獄に喜んで服しました。(使行 4:18-21; 5:27-32,40-42; 21:11-14)そして今日,周囲のこうした事態と大いに異なるクリスチャン組織が一つあります。その組織の成員は世界の200の土地におり,文字どおり全地で活動しています。エホバの証人として知られるそれらのクリスチャンも,他の人々と同じように時代のあらしを経験しています。個々のエホバの証人も,クリスチャンとしての自分の『家』を同じ破壊力によって打ちたたかれているのです。その上,多くの土地では,きびしい迫害や反対のあらしにも会わねばなりません。(ペテロ前 2:21)それでも,エホバの証人は耐えています。なぜ? キリストの教えに従順をつくし,その模範と手本にならう道をしっかり歩んでいるからです。エホバの証人は,イエスが行なわれたとおり,神への奉仕を生活の中心とし,それに基づいて前途の希望をいだいています。(ヨハネ 4:32-34)そのすべてが自分の基盤をしっかり守ってきたというのではありません。それはイエスの直弟子の中にさえ確固とした態度を保たなかった者がいるのと同じです。しかし,エホバの証人の全体的な状態はきわだって健全なものであり,今日のキリスト教国諸教会に見られる不安定な状態とは著しい対照をなしています。こうした対照の根本にあるものはなんですか。

      ほんとうの教育と行動が必要

      6 使徒パウロはコロサイのクリスチャンについてなんと述べましたか。このことは今日の教会員の多くとどのように異なりますか。

      6 では今日,キリスト教国内の教会の一つに加入するために求められているのはどんなことですか。多くの場合,求められることと言えば,社交クラブその他の組織に加入するのと同じ程度の事柄ではありませんか。加入者になんらかの行動が求められることはほとんどありません。なんらかの形で,知識,信仰,確信,愛,認識などの度合いを示すことは求められないのです。しかし,コロサイのクリスチャン会衆に手紙を書いた使徒パウロは,その会衆の成員についてこう述べることができました。「汝らキリスト・イエスを主として受けたるにより,そのごとく彼にありて歩め。また彼に根ざして,その上に建てられ,かつ教へられしごとく信仰を堅くし,あふるるばかり感謝せよ」― コロサイ 2:6,7。

      7 時代を問わず真のクリスチャンが強固な土台を備えていることのおもな理由の一つはなんですか。

      7 これらのクリスチャンが『教えられ』はじめたのは,バプテスマを受けてからではなく,バプテスマを受ける前でした。聖書はまた,特に西暦36年以後,クリスチャンのバプテスマが,キリスト・イエスの教えと手本どおりにエホバの御心を行なうため,全く献身したことの象徴となったことを示しています。(ルカ 9:23,24)そうです,すべての国の人々は,『キリストの命ぜしすべての事を守るべきを』まず教えられてから弟子となるのです。そして,そのとき初めて,人はバプテスマを受け,クリスチャン会衆の成員として認められるのです。(マタイ 28:19,20)もとより,バプテスマの後にも教育は続けられ,それは会衆の取り決めにおいて重要な活動となります。(エペソ 4:11-13)こうしてキリストの指示を守るべきことを各人に徹底的に教えることが,時代を問わず真のクリスチャンに見られる強固な土台の大きな要素となっているのです。

      8 「カテキズム」ということばの聖書的な意味はなんですか。

      8 使徒パウロは教えるわざを非常に重視しました。彼は自分の手紙の中で,教えるという意味の普通のギリシア語(マタイ 28:20のイエスの命令の中に使われた,ディダスコ)だけでなく,特別のことばカテケオーをも使いました。英語の「カテキズム」(教義問答)はこのことばから来ています。この特別のギリシア語は,権威者たちによって,「クリスチャン教育に関する専門語」と呼ばれています。これは字義的には,「鳴り響かす」という意味です。つまり,口頭で教授するのです。それで,ガラテヤ書 6章6節で,パウロはこう書きました。「さらに,みことばを口授されている者[ギリシア語カテコウメノス,英語のカテキューメン(教義問答を受ける人)の語源]はだれでも,そうした口授をする者[カテコウン]とともに,すべての良いものにあずかりなさい」。それで,神のみことばの真理と御子イエス・キリストの教えとはこのような口頭による教え方によって,学ぶ者の頭と心の中に『鳴り響かせ』られ,学ぶ者はさらに他の人々を教えるだけの資質を得たのです。―使行 18:25。

      9,10 (イ)キリスト教国最大の宗教組織は真にクリスチャン的な「教義問答」を維持してきましたか。(ロ)プロテスタントの諸組織についてはどうですか,

      9 これが真の意味での「教義問答」でした。それによって,学ぶ者は神の御子への従順という確かな土台に立って自らを建てることになったのです。しかし歴史の示すとおり使徒たちの死後,こうした慎重な教え方は実質的には行なわれなくなりました。背教が始まったのです。それで,数世紀後のことについて,次のような記述があります。「教会[カトリック教会]が確立し,異教世界からの改宗ではなく子供の誕生や受洗などによって信徒の数がふえるようになった時,問答式の教授は受洗の準備ではなく,受洗した子供の教育を目的とするようになった……中世の異教徒に対する布教活動においては,改宗者に直ちに洗礼を施すことが普通になり,入信者の教育ということは行なわれなくなった。そしてローマ教会内においては,洗礼を受けた子供に教義問答を行なうことも無規されるようになった。これは宗教改革の時まで続いた。告解が教義問答に代わったのである」。

      10 プロテスタントの宗教改革の時,宗教上の権威者によって「近代口授神学の祖」とされるルーテルは,入信者を対象とするこの種の問答式教授は「単に本に書いてあることの復唱を聞くだけでなく,その内容を説明させ,学ぶ者の心に適用させるものであるべきだ」と教えました。しかし,時代がたつにつれ,ドイツ,イギリス,その他において「教義の問答式教授は,[洗礼ではなく,その後の段階である]堅信礼に先だってなされる形式的な問答になり下った」のです。プロテスタントの教義問答は,初学者の心にあるものを引き出すことではなく,所定の教義を伝達することだけを目的にしていました。学ぶ者は「教義問答書のことばを暗記」することになっていたのです。それで,これは言いまわしを覚え,それを機械的に復唱する一種の儀式と化しました。学ぶ者の心の中にあるほんとうの思いや感情を表現する余地は少しもありませんでした。しかもこれはほとんど子供だけを対象としていたのです。―マクリントクとストロングの「聖書・神学・教会関係文書の百科事典」,第2巻,148-154ページ。

      11 こうした方法とエホバの証人が採用している方法とを比べてなんと言えますか。

      11 これとエホバの証人が採用している方法とを比べてごらんなさい。証人たちの方法は,イエスとその使徒たちの宣教活動に関する聖書の記述や聖書の他の原則に基づいているのです。新たに関心を持つ人は,人々の家庭を尋ねる積極的な宣教奉仕によって見いだされます。それは主としておとなです。(使行 20:20)これら関心を持つ人々に対しては無料の家庭聖書研究が差し伸べられます。家族全員がこれに参加することも珍しくありません。この一週1時間の聖書研究は聖書の基本的な教えを扱い,聖書研究用の教科書にある質問を使って行なわれます。勉強する人は自分が理解し信じている事柄に従って答えることを勧められ,望むなら自分の疑問点を尋ねることもできます。(ロマ 10:10)勉強のあいだ,それを司会するエホバの証人は,学ぶ人の心を命の与え主であられるエホバ神に向け,キリストに関する真理を教えて,キリストを土台として据えることに心を配ります。(ヨハネ 17:3。コリント前 3:11)そして,学ぶ人を助けて,エホバとキリストに関する真理への信仰を生活の一部,否それを中心として生活させることに努めます。

      12 どういう意味で教える者と学ぶ者の双方が建築の仕事をすると言えますか。

      12 それで,ここには協同の建築作業が関係しています。研究を司会するエホバの証人は,学ぶ人を火に耐える強固な資質で築き上げたいと考えています。その強固な資質とは,神のみことばからの真の知恵,信仰,確信,聖書の原則に対する献身,神への愛と隣人への愛,また真実で正しい事柄,なかんずく神の国を擁護し弁護しようとする不動の態度などです。エホバの証人が,霊的な意味での自分の建築の仕事を,こうした耐久性の資材で行なうのは,ともに学ぶ人を真のクリスチャンとし,信仰をむしばむ疑念をも含めて火のような試練にしっかり耐える力を与えるためです。(コリント前 3:10-15。ユダ 22,23)一方,学ぶ人自身も建築作業をします。知識だけでは,前途の希望や期待を築くための確かな土台とならないからです。キリストへの従順という強固な土台の上に自らを建てるのは,得た知識を活用し,それに従って行動することによってなされるのです。それ以外の方法はありません。―ピリピ 1:27-30; 2:12,13。

      13 人が新しい人格をつけるのをどのように助けることができますか。

      13 したがってエホバの証人は,聖書の基礎教義に関する知識を伝えるだけでなく,学ぶ人が『その心に働く力によって新たにされ,神の御心に従いつつ真の正義と忠節とをもって造られた新しい人格をつける』ことの大切さを認めています。(エペソ 4:23,24,新)それで研究が進むにつれ,エホバの証人は,自らが日常の生活で行なうとおり,学ぶ人が聖書の原則に従って物事を考えるように助けます。それは,学ぶ人が教科書にしるされている事柄を単に言いかえるかどうかという問題ではありません。学ぶ人が答えている事柄の聖書的な理由を知り,神のみことばに示される諸原則を,生活上の唯一の確かな導きとして受け入れるようになるかどうかの問題です。こうして初めて,学ぶ人は,神のみことばは「わたしの足のともしび,わたしの道の光です」と真実に言い得るのです。―詩 119:105,新。箴言 3:5,6。

      14 エホバ神に対する正しい認識を学ぶ人の心の中に育てることはなぜ大切ですか。これをどのようにして行なえますか。

      14 だれかを愛するとすれば,その人についてよく知り,その人の資質,物事の仕方,過去に行なったこと,これから行なおうとしている事柄などについて知らなければなりません。それで研究のあいだ,それを司会する奉仕者は,学ぶ人の心の中に,神の恵みと偉大さに対する認識を育てることに努めます。奉仕者の願いは,学ぶ人が,昔の忠実なイスラエル人のごとく,次のような歓喜のことばを語ることです。「これはわれらの神なり,われらまち望めり,彼われらを救ひたまはん これエホバなり,われらまちのぞめり,我らそのすくひを歓びたのしむべし」。(イザヤ 25:9)これは学ぶ人の理知だけでなくその心つまり動機の中心にも注意を払うことです。(箴言 4:23)これはどのようにして行なえますか。適当な所で時おり休止し,神がなされた事柄の意義を考え,学んでいる事柄や取り上げた聖句の中に神の愛,知恵,正義,力などがどう表わされているかに注意を向けることによってです。正しい心をいだいているなら,学ぶ人はやがてエホバへの深い忠誠心を育て,もろもろの民の中にあって神の御名をたたえる人々の中に自らも加わろうとするでしょう。―イザヤ 12:3,4。

      15,16 今日,真の奉仕者のための土台を効果的に据えることが特に大切なのはなぜですか。

      15 今日,このことはどの程度までなされていますか。この仕事にはどんな問題が含まれていますか。世界の状態が悪化を続け,霊的な事柄に対する世の関心が弱まるにつれ,ここで述べたような教育のわざはいよいよ大切になります。西暦70年,エルサレムに臨んだ悲惨な破滅はユダヤ人の人口に大鎌を入れ,数百万のユダヤ人が生活のささえとしていた希望と期待を完全にうち砕きました。これはなぜでしたか。キリストの教えに対する従順という岩塊の上に自らを建てなかったからです。しかし,この国民のうちの少数の残れる者は,イエスからあらかじめ受けた指示に従って適切な時機にエルサレムを離れ,破滅を免れました。(ルカ 21:20-22)わたしたちの時代においても同じです。はるかに大きな規模で到来するハルマゲドンの破壊力は,自らの欲望や自己本位な考え,あるいは他の不完全な人間の考えに従い,砂のような土台に自らを建てた者すべてを災いに陥れるでしょう。その人々は自分のいだいてきた希望と期待が眼前に崩壊するのを見るでしょう。「我らの主イエスの福音にしたがは(なかった)」からです。(テサロニケ後 1:7-10)しかし,このあらしをほとんど無傷で通過する人々の「大なる群衆」もあります。その人々は神の忠実な奉仕者として神の設けられる新秩序にはいります。そこにおいて自分の希望と期待がとこしえにわたって実現するのを見る彼らは,まさに歓喜することでしょう。―箴言 1:24-33。黙示 7:9,10,14。

      16 神のみことばの真理を人々の耳と頭と心の中に『鳴り響かせ』るわざに加わっているわたしたちはいま自分の教え方を慎重に検討してみるのがよいでしょう。

  • 学ぶ人の頭と心の中に真理を『鳴り響かせ』なさい
    ものみの塔 1969 | 6月15日
    • 学ぶ人の頭と心の中に真理を『鳴り響かせ』なさい

      1 クリスチャン奉仕者はときにどんな悲しい経験をしますか。

      生まれた子供が数か月あるいは1年ほどして急に病気になって死んだとすれば,それはなんと悲しいことではありませんか。子供はかろうじて生命を始めたばかりの時なのです。しかし,こうした悲劇を経験する親の気持ちは,聖書を理解させ,神のみことばの「乳」と真理で育て養うために自分が数か月もしくは数年をかけて助けてきた人が,義の側に立って自らもみことばの宣教にさえ参加したのち,急に霊的に弱くなって死のような無活動状態に陥った場合のクリスチャン奉仕者の気持ちに似ています。(ガラテヤ 4:19。コリント前 3:2。テサロニケ前 2:7,8)不幸にして,このことは実際に起きています。しかも,宣教奉仕を始めた人ふたりにつき一人がやがてそれをやめるという場合もあるのです。これはなぜですか。こうした状態をなんとかすることができますか。

      2 命への道を離れる人の多くにどんな弱点を見いだせますか。これにちなんでどんな質問を考慮するべきですか。

      2 命に至る道を歩み始めながら,やがてそれからそれる人々を個別的に見ると,神のみことばに対する真の理解の欠けていた場合が少なくないことに気づきます。1968年中,全世界のエホバの証人は,平均して97万7503の無料の家庭聖書研究を司会しました。その結果として,合計8万2842名の人が水のバプテスマを受けました。つまり,御子の模範にならい,神の御心を行なうために献身したことを公に表わして,従順という岩のような土台の上に立っていることを示したのです。この人々はその道を歩み続けるでしょうか。あるいは過去のある人のように脱け落ちてゆく人もいるでしょうか。ほかに数十万の人々が今すでに学んでいますから,真理を探求する人々にそうした聖書教育を施すわざに携わっている人は,次の点を真剣に考えることができるでしょう。将来の御国宣明者ともいえるそれらの人々は,聖書の音信と聖書の諸原則が自分の日常生活で持つ意味とをほんとうに理解していますか。この問に対する答えは,これからあげる別の質問にどう答えるかによって大きく左右されるでしょう。つまり,わたしたちがその人々と研究しているのはなぜですか。わたしたちはその人々の益をどれほど深く考えていますか。(コリント後 12:15。ピリピ 2:17。テサロニケ前 2:8)そして,その人々の頭脳と心の中に真理をどれほど効果的に『鳴り響かせ』ていますか。

      3 関心を持つ人と聖書研究をするわたしたちはどんなことを目ざすべきですか。

      3 わたしたちは新たに関心をいだくそうした人々に対して,使徒パウロが真理を受け入れたエペソの人々に対して言い表わしたと同じような願いを持つべきです。そして実際持っているでしょう。パウロはその人々のためにこう祈りました。「信仰によりキリストを汝らの心に住はせ,汝らをして愛に根ざし,愛を基とし,すべての聖徒とともにキリストの愛の広さ,長さ,高さ,深さのいかばかりなるかを悟り,その測り知るべからざる愛を知るに至らんことを」。(エペソ 3:17-19)もとよりパウロは,単に『目標数の家庭聖書研究を報告する』ことだけに関心を持っていたわけではありません。また,自分の助ける人々が神の御心について表面的な理解を得ただけで満足したわけでもありません。パウロは学ぶ人々が真理のあらゆる広がり,つまり広さ,長さ,高さ,深さのすべてを理解するようにと願っていました。そして学ぶ人々を信仰の人にならせ,その人々の頭の中だけでなく,その心の中に,愛をもってキリストを住まわせることを願っていたのです。わたしたちも,今日の羊のような人々に対して全く同様の願いをいだいていませんか。わたしたちも,今の時代の羊ような人々が神のお目的に対する見方を広げ,理解を深め,遠い将来を展望し,神が備えられたものに対する認識をつちかうにつれて,自分の考えと歩みを神の標準に合わせることを願い,それを助けようとしているのです。もとより,学ぶ人々はこれを一朝にして行なうのではありません。その人々は『根をすえ,基の上にしっかり立』ちはじめるために,わたしたちの助けをまず必要としているのです。わたしたちはその人々を効果的に助けるためにどうしたらよいですか。

      4 聖書研究の司会のために機械的な手順を特に強調すべきでないのはなぜですか。

      4 わたしたちは各人が個々別々の人間であることを忘れてはなりません。それで,各人の特定の必要,また個人的な情況を考慮して,個別的な援助と配慮を差し伸べることが必要です。(ロマ 14:1-8。コリント前 9:20-23を参照してください)エホバの証人が,関心を持つ人々と家庭聖書研究を行なう際に,必ず従うべき機械的な手順を定めていないのはこのためです。証人たちの「教義問答」は形式的なものではありません。証人たちの最近の出版物である「あなたのみことばはわたしの足のともしび」(94ページ)はこう述べています。「研究を司会する方法については別にきまった規定はありませんが,学んでいる人が,討議された事柄を確かに理解するようにしてください」。確かに,正しい動機があるならば,他の人が神のみことばを理解するのを助けるにあたって,数多くの規則は必要ではないでしょう。

      5 (イ)神の組織を通して与えられる提案の実際性はどのように示されてきましたか。(ロ)この面で最善の導きとなるのはなんですか。

      5 同時に,エホバの証人は,その大会と月刊の刊行物である「御国奉仕」とを通じて,聖書教育および聖書の教え方について,数々のすぐれた,そして実際的な提案を与えられています。そうした提案は証人たちにとって大きな助けとなってきました。証人たちは過去10年間に65万人以上の人を助け,神への献身のしるしとして水の浸礼を受けるまでに至らせたのです。しかし,そうした有用かつ実際的な提案に加えて,そしてそれにまさるものとして,わたしたちには聖書中の実例と助言があります。わたしたちはそれらにどれほど注意を払ってきましたか。人の命をも左右する事柄として,それらを最大限に活用するためにどんな配慮をしてきましたか。―テモテ前 4:16。

      最もすぐれた教師

      6 どんな点でイエスの教え方は注目すべきものでしたか。

      6 神の御子であり,羊のような人々に対して完全な教師であられたキリスト・イエスにまさる手本をどこに見いだすことができますか。イエスの教え方は聖書にしるされています。もとよりそれは良い目的のためです。イエスの宣教に関する記録を読んで,最も印象的なのはなんですか。それはおそらく,イエスの教え方の平易さでしょう。イエスの教え方はこみ入ったものではありませんでした。同時にイエスは,人々に対していつも深い心づかいを持ち,御父の目的に関する真理を教えようとする愛の願いをいだいていました。(マタイ 9:35,36。マルコ 6:34)これこそ第一に必要な事柄です。これがなければ,他のどんな事柄も全く無益です。(コリント前 13:1,8)この愛の心づかいがあったからこそ,人々は教える仕事に携わるイエスを信頼したのです。ある時イエスは,ザアカイにむかって,『急いで木からおりてきなさい。わたしは今日あなたの家に行く』と言われました。これを聞いたザアカイはイエスがその日に自分の家に来ることを確信したのです。―ルカ 19:1-6。

      7 イエスは人に教える際にいつもどんな点にも心をとめておられましたか。

      7 もう一つ注目すべき点は,イエスが個々の人々に誠実な関心を払ったことです。イエスはおおぜいの人々の前で話をしたことが何度もありますが,人にはそれぞれの問題と必要とがあることを知っておられました。そして,神に対する申し開きも各人各人がしなければならないのです。(ロマ 14:12)それで,ニコデモ,井戸べにいたサマリヤの女,マリヤ,マルタ,そして使徒の一人などのいずれであっても,イエスはその一人一人に対して細かな配慮を払われました。(ヨハネ 3:1-21; 4:7-26。ルカ 10:38-42; 22:31-34。ヨハネ 20:24-29)イエスの教え方は事務的なものではなく,また形式的なものではありませんでした。イエスは人々の頭脳だけでなく,その心にも関心を払っておられたのです。わたしたちも,自分とともに勉強する個々の人々をどうしたら最もよく助けられるかをまじめに考えなければなりません。

      分別をもって真理を『鳴り響かせる』

      8 人との話は基本的に言ってどんな二つのことから成っていますか。このうち,人に教える際に特に注意を払うべき場合が多いのはどちらですか。

      8 だれかと話をする場合には,基本的には二つの事柄しかできないという点を考えたことがありますか。つまり,情報を伝えるか,質問をするかのいずれかです。情報にはあらゆるものがあり,質問の仕方もさまざまですが,人の話はすべてこのいずれかの部類に分けられます。さて,わたしたちの行なう家庭聖書研究においては,聖書と聖書研究手引きとにある非常に大切な情報を扱っています。しかし,そうした聖書からの情報を学ぶ人の頭と心の中にどこまで入れることができるかは,質問をいかに活用するかに大きく依存しているのです。質問することには大きな価値があるのです。わたしたちはそのことを十分に悟っていないかもしれません。

      9,10 (イ)情報を集めるという点で,おとなは子供とどのように違いますか。(ロ)このことから,教える際には何が大切であると言えますか。

      9 子供は,何かわからないものがあると,すぐに「なぜ?」と尋ねます。お子さんをお持ちのかたなら,だれでもこれを認められるでしょう。しかし,おとなは必ずしもそうではありません。自分の気持ちをすすんで言い表わす人もいますが,心にある疑問を口に出さない人も多くいるのです。そうした人々は,聖書研究手引きの中で学んでいる事柄,わたしたちが説明する点,あるいは自分が聖書から読む事柄に同意しているように見えるかもしれません。そして,「はい,わかります」とさえ言うかもしれません。しかし,実際には理解していないかもしれないのです。(ヨハネ 11:11-14)そうした理解の欠如はすぐには表われないかもしれません。しかし,基礎的な点を正しく理解していないことは,より深い事柄を学ぶ際に,それを十分に把握できないという形ではっきり表われてくるでしょう。―コリント前 3:1,2。

      10 これは何を示しますか。学ぶ人に語らせること,教科書にある以上の質問を用いて学ぶ人に話させることの大切さです。よく考えた質問によって聖書的な答えを導き出すなら,学ぶ人はわたしたちがただ答えを告げる以上に理解できるのです。(ガラテヤ 3:1-6のパウロの手法を参照してください)また,教科書中の答えのある所を学ぶ人に示し,学ぶ人の答えであるかのようにそれをただ読ませるだけでは,十分に助けることにはなりません。学ぶ人はそれを読むかもしれません。しかし自分が読むことを理解していますか。それを信じていますか。マタイ伝 24章15節は,神のみことばを読む際に何が大切であると述べていますか。―使行 8:30-35も見てください。

      11,12 (イ)キリスト教国の真実さのない「問答式」教授の結果として,その信徒はどんな能力を欠いていますか。(ロ)質問を賢明に活用するなら,この問題をどのように克服できますか。

      11 使徒ペテロのことばにもあるとおり,わたしたちの願いは,『学び手の明敏な思考力を奮い起こす』ことです。(ペテロ後 3:1,新)今日地上には,クリスチャンと称えながら,聖書をほとんどあるいは全く理解していない人が幾百万人もいます。その多くは自分の所属する宗派の基本教義を説明することも十分にできません。「問答式」の教授を受けたことがあるにしても,それは真のものではありません。それは暗記した教えにすぎないのです。偽りの宗教はそれに従う人々に対し,正しい原則に基づいて考えたり,判断したりすることを決して教えません。(マタイ 15:7-9。ルカ 11:52)真のクリスチャンは正直な人々を助け,自分の知力を神のみことばにそって用いることを学ばせねばなりません。これは「人に知恵と教訓とを知らせ,悟りのことばをさとらせ,賢い行いと,正義と公正と公平の教訓をうけさせ,思慮のない者に悟りを与え……知識と慎みを得させるため」です。―箴言 1:2-5; 2:10,11,口語。

      12 適切な質問は人の考えを鼓舞し,思考力を訓練することになります。それは人の考えを一つの点から次の点へと発展させ,正しい結論に至らせるのです。(マタイ 16:5-12にあるイエスの質問と,コリント前 9:1-14にあるパウロの17の質問を参照してください)そうした質問は地を『耕す』助けとなり,聖書の真理の種は深くはいり,その人の心に達するようになるのです。また,1回の勉強が終わるごとに,そのとき学んだ大切な真理を復習する質問は,鉄骨ビルのびょう打ちをしたあと,ハンマーで軽く叩いてびょうがしっかりとまっているかどうかを確かめるのと似ています。

      13,14 (イ)イエスが質問することの価値を認めておられたことを示す例をあげなさい。(ロ)この模範からわたしたちは何を学びますか。

      13 イエスが質問を活用されたことは注目に価します。それは単に,質問を多用されたということだけではありません。ただ論点を伝えるほうがずっと手軽であり,時間もはぶけると思われる場合にも質問を用いて相手を教えられたその方法も注目に価するのです。たとえば,収税人がペテロに近づいて,ペテロの師が宮の税を納めるかどうかと尋ねた時のことを思い出してください。(マタイ 17:24-27)ペテロはやや衝動的に,「納めます」と答えました。イエスにその点を尋ねるためか,納入のためのお金を持って来るためであったでしょう。「彼が家にはいると,イエスから先に話しかけて言われた,『シモン,あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか,それとも,ほかの人たちからか』。ペテロが『ほかの人たちからです』と答えると,イエスは言われた,『それでは,子は納めなくてもよいわけである』」。(口語)イエスは宮の税を納めることに関するペテロのジレンマを解きましたが,わたしたちはイエスがここで質問を用いられた目的がわかりますか。それはペテロを考えさせ,推論させ,要点を記憶させたのです。

      14 イエスが捕えられた夜のことを考えてください。不穏な状況の中にあって,ペテロは性急にも自分の剣を使いました。その時イエスはペテロに三つの質問をされました。「父の我に賜ひたる酒杯は,われ飲ざらんや」。「我わが父にこひて十二軍に余る御使を今あたへらるること能はずと思ふか。もししかせばかくあるべくしるしたる聖書はいかで成就すべき」。(ヨハネ 18:11。マタイ 26:52-54)考えてください。イエスはこの時,暴徒の前に立ち,しかも自分がすぐに捕えられ,同じ24時間のうちに刑柱上で死ぬことを知っておられました。つまり,きわめて緊張した状況下にあったのです。それでもイエスは大切な点をペテロの心に銘記させるため時間をかけて質問されました。(マルコ 14:33。ルカ 22:24),わたしたちは,忙しすぎて家庭聖書研究を司会する準備が十分にできないと思うとき,イエスのこの模範を考え直すべきではありませんか。それとも,研究資料に大急ぎで目を通すのがせいいっぱいであり,研究後にしたいと思う事柄のため,研究が終わったらすぐに立ち去らねばならないと考えますか。

      15 研究の際に質問を効果的に用いるために何が必要ですか。そして,時おりどんな問題がありますか。

      15 もとより,教えるということは,単に質問のために質問をすることではありません。教え手は教えるべき事柄をまずよく知り,一定の目的をもって質問を用いなければなりません。そして学ぶ人の頭だけではなく,その心に達することを求めるのです。わたしたちは,羊のような人々が,聖書の真理を土台としキリストの教えと手本に対する従順という岩塊の上に立つのを助けようとしていますが,これにいろいろな問題があることは確かです。学ぶ人は,以前の宗教的な関係に基づく誤りの教えなど,種々の先入観念をいだいています。それがなんであるかを知るのは大きな益になります。適切な援助を与えるためです。自分の考えをはっきり言う人もいますが,そうしない人もいるのです。巧みな質問は後者を助けるのに役だつでしょう。

      16,17 ルカ伝 24章17-27節でイエスの質問はどんなことを果たしていますか。

      16 ルカ伝 24章17-27節を例に取りましょう。読者が思い出されるとおり,二人の弟子がイエスの死および死から復活したといううわさについて話しながら,エマオに向かって歩いていました。その時イエスが二人に近づきました。イエスはまず何をされましたか。質問されたのです。「なんぢら歩みつつ 互に語りあふことはなんぞや」。クレオパがこの質問に答えました。「なんぢエルサレムにやどりいてひとりこの頃かしこに起りし事どもを知らぬか」。これに対してイエスは,「いかなる事ぞ」と言われました。

      17 さてイエスは,知らないからこれらの質問をされたのですか。明らかにそうではありません。イエスはこれらの弟子たちが語り合っていた事件の本人であり,二人が話していた事柄をご自身で経験されたのです。しかしイエスの質問は,二人の頭の中にあるもの,および問題に対する二人の見方を言い表わさせるものとなりました。彼らはイエスの死,宗教指導者たちの罪,イエスの弟子として自分たちが『イスラエルをあがなふべき者はこの人なりと望』んでいたこと,またイエスが復活したというある女たちの話などについて語りました。彼らは頭の中でどのように考えを進めているかということだけでなく,さらに大切なこととして,その心の中にあるものを明らかにしました。二人はイエスの復活を少し疑っていました。二人はそのことについて「討議」(新)していたのです。それでイエスはこう言われました。「ああ愚にして預言者たちの語りたるすべてのことを信ずるに心にぶき者よ。キリストは必ずこれらの苦難を受けて,その栄光に入るべきならずや』。かくてモーセおよびすべての預言者をはじめ,おのれにつきてすべての聖書にしるしたる所を説き示したまふ」。

      18,19 (イ)同様の質問によって学び手をよりよく助けられることを述べなさい。(ロ)実際の例をあげてください。

      18 『愚か』ということは頭に関係した事柄です。しかし,イエスに対する答えの中に表わされたとおり,二人は『心のにぶい』者ともなっていました。もとよりイエスは,質問をしなくても,相手の心を読むことができました。しかしわたしたちはできません。(ヨハネ 1:47-50; 2:25)それで,ここにあるような仕方で質問をすれば,聖書のある問題に対する学び手の考えを幾らか理解し,同時に,その心の態度をもある程度知ることができるでしょう。その上に立ってわたしたちは,学ぶ人の必要に応じた援助をすることができるのです。

      19 わたしたちがこれを実際にどのように行なうかということは,相手および事柄に応じてかなり異なるでしょう。しかし,一つの実際例として,「神が偽ることのできない事柄」という本の第12章「神はひとり ― それとも三位でひとりの神ですか」を使い,学ぶ人の家で,これから「三位一体」の問題を取り上げると仮定しましょう。本の内容にはいる前に,まずこう質問することができるでしょう。「あなたがこれまでお聞きになったところからすると,『三位一体』とはどういうことですか」。学ぶ人が自分の見方を述べたのち,あなたはさらに次のように尋ねることができます。「それは理にかなった教えでしょうか。あなたはそれを理解できますか」。学ぶ人がどのように答える場合でも,あなたはただこう言えるでしょう。「では,聖書がこの点でなんと教えているかを調べてみましょう」。あなたはすでに質問の目的を果たしました。つまり,この問題に対する学び手の知識,見方,態度などについて幾らかのことを知り,学ぶ人を助けて真の理解を得させる点でずっと有利になったのです。

      20,21 (イ)マタイ伝 16章13-16節にあるイエスの教え方は,聖書教育の際によくある問題の処理にどのように役だちますか。(ロ)この種の問題に対しわたしたちも同様の手法を使えることを述べなさい。

      20 別の問題は,聖書の真理と宗教上の誤りの教えとの大きな相違もしくは対照をどのように悟らせるかという点です。この点の理解が遅く,何が正しいかをなかなか判断できないように見える人がいます。そうした人々は『大いなるバビロンから出る』ことの大切さを悟らず,それゆえ命を依然として危険にさらしています。(黙示 18:4)武骨なあるいはきびしい言い方よりは,巧みな質問をするほうが,学ぶ人には相違を悟らせ,かつ学ぶ人の理解の程度を知ることができるでしょう。マタイ伝 16章13-16節の有名な部分を例に取りましょう。イエスはピリポ・カイザリヤで弟子たちに尋ね「人々は人の子をたれと言ふかと言われました。おそらく弟子たちはひとりずつ答えたのでしょう。「ある人はバプテスマのヨハネある人はエリヤ,ある人はエレミヤ,また預言者の一人」。当時の一般の人々の考えについて弟子たちに言わせたのち,イエスはこう言われました。「なんぢらは我をたれと言ふか」。シモン,ペテロがこれに答えました。「なんぢはキリスト,活ける神の子なり」。さて,イエスの質問は何を成し遂げましたか。まず一般の考えについて尋ねることにより,誤った見方と正しい見方とをはっきり対照させることができました。そして,ご自分の弟子たちの理解の面での進歩,および真の信仰の成長をも確かめたのです。

      21 同様に,前述の出版物の中の「あなたの『魂』とはあなたのことです」というような主題で研究を終えたとしましょう。あなたは,研究の終わりに,学んでいる人にこう質問することができます。「今日の多くの人々は人が死ねばどうなると考えていますか」。学ぶ人の答えののち,さらにこう質問するのです。「では,わたしたちがいま聖書で読んだ事柄から考えて,あなたはどう思いますか。どんな理由でそう言いますか」。このような質問は,学ぶ人に対照を悟らせるだけでなく,聖書の一定の問題について自分がどう考えるかを決定させる助けとなります。もとより,学ぶ人の答えが以前に学んだ点を正しく理解していないことを示す場合もあります。その場合には,以前に学んだ点を復習し,あるいは勉強し直すことも必要です。これは学ぶ人がしっかりと基礎を堅め,さらに深い真理に進むためです。

      22 学び手が聖書研究の際に内容を理解するだけでは足りないのはなぜですか。

      22 しかし,信じるだけでは不十分です。行動も必要です。(ロマ 10:10)イエスの真の弟子となるため,学び手は岩のような土台の上に自らを築きはじめねばなりません。それは学んだ真理を自分の生活にあてはめることによります。(ヨハネ 13:17)ある人々は学ぶ事柄をすぐに把握できるようです。それで,勉強の際に正しくて良い注解をします。しかし,学んだ真理に従って自分がどのように行動するかを何も決定しないかもしれません。(ヤコブ 1:6-8)このような場合に,たとえと合わせた質問が役立つかもしれません。

      23-25 (イ)イエスの「良きサマリヤ人」のたとえ話は,学び手が従順という岩塊の上に築きはじめるのを助けるための一方法をどのように示していますか。(ロ)今日のわたしたちがこれをどのように行なえるかを示しなさい。この方法はなぜ有益ですか。

      23 イエスの「良きサマリヤ人」のたとえ話は有名です。(ルカ 10:29-37)イエスのそのたとえ話は,自分の正しさを示そうとして,「わが隣とはたれなるか」と尋ねた人への答えとして語られたものです。イエスはそのたとえの中で,祭司,レビ人,サマリヤ人の3人が,強盗に襲われて傷を負った人を助ける機会を前にしてそれぞれどんな態度を取ったかを語られました。実際に助けたのはサマリヤ人だけです。イエスはこのたとえ話を次のような質問で結びました。「汝いかに思ふか,この三人のうち,いずれか強盗にあひし者の隣となりしぞ」。初めにイエスに質問した人は,「その人にあはれみを施したる者なり」と答えました。その時イエスは,「なんぢもゆきてそのごとくせよ」と言われたのです。

      24 イエスの質問に対する答えはだれにでもすぐわかるものではありませんでしたか。それでも,イエスは聞く人の心を一定の結論に導き,自らの動機を調べさせ,自分がこれからどう行動するかを判断させておられたのです。わたしたちの場合としては,「神の自由の子となってうける永遠の生命」という本の213,214ページを学んでいるものと仮定しましょう。この部分は,伝道活動をやめさせようとした当時の官憲の,圧迫のために,使徒たちが反対と手荒い処置とを受けたことを扱っています。ここでマタイ伝 24章14節を取り上げ,学び手にその節を読んでもらい,それが今日のわたしたちの行なうべき仕事であることを明示するとします。ここで一つのたとえを話せます。そうした神の国の良いたよりの伝道が公式には禁じられた国に3人の人がいます。3人のうちのひとりは,すぐに伝道をやめてしまいます。もう一人は捕えられ,その後伝道をやめることに同意します。第3番目の人も捕えられますが,やがて釈放ののち,可能なかぎりの手段をつくして伝道を継続します。たとえ話ののち,学び手にこう質問するのです。「さて,あなたは,使徒たちのように真のクリスチャンとして行動したのはどの人だと思いますか」。もとより,答えは3番目の人です。しかし,そうした答えを得たのち,「なぜそう答えられますか」と尋ねることができるでしょう。

      25 このたとえ話に基づく質問の答えはだれにでもわかります。しかしこれは,学び手に対し,この問題に関する自分の考えと心をさぐらせ,同じ境遇に立ったら自分はどのように行動しようかと考えさせることになるのです。実生活と結びついた問題を出すのは非常に有益です。それは,人々が聖書の原則を自分の生活にどのようにあてはめ,自分が今後どのように生活すべきかをまじめに考えるのを助けることになります。(詩 119:33-37)また人間の性質として,人に言われた結論より自分で出した結論のほうが従いやすいものです。

      26 学ぶ人の良心にどんな注意を払うべきですか。

      26 これと類似の問題は,学ぶ人の良心の訓育を助け,善悪という見地に立って物事をまじめに考えるように助けることです。わたしたちは,ともに学ぶ人が正しいことを愛し,正しくないことを憎むようになるのを助けたいと思います。(ヘブル 1:9。詩 119:101-104)イエスは,質問,とくにするどい質問を用いられました。それは人に善悪の見地に立って物を考えさせるものでした。しかし,人々の反応のにぶさに対して憤りを感じられ,「その[頭ではなく]心のかたくななるを憂(へ)」られた場合もあります。―マタイ 12:10-12。マルコ 3:1-5。

      27 (イ)「あなたのみことばはわたしの足のともしび」という本の108ページにある質問にはどんな意図がありますか。(ロ)聖書研究を司会する人はその質問に対する答えをどのように得ますか。

      27 最近の出版物である「あなたのみことばはわたしの足のともしび」の中(108ページ)には,聖書研究を司会する人が学ぶ人を野外宣教にさそう以前に検討すべき10の質問があげられています。その中には次のようなものがあります。その人は,聖書が霊感を受けた神のみことばであることを信じていますか。(テモテ後 3:16)正直に関する聖書の教えを実生活にあてはめていますか。(エペソ 4:25,28)淫行および姦淫に関して聖書の述べていることを知り,聖書に一致した生活をしていますか。(ヘブル 13:4。マタイ 19:9)しかし,学ぶ人がこれらの質問に直接に答えるように求められているのではないことに注意してください。学んでいる人に関するこうした質問に答えるのは,その研究を司会し,その人を宣教奉仕に招待しようとしている人です。つまり,司会者が露骨な質問によって学ぶ人の私生活に立ち入ることは意図されていないのです。では司会者はどうすれば,こうした質問に満足のゆく答えを得ることができますか。学ぶ人にただ聖句を読ませ,理解したところを注解してもらうだけでも,その人が神のみことばの宣教に携わる者に要求される事柄を十分に会得しているかどうか判断できる場合が少なくありません。また,たとえ話とそれに基づく質問とによっても,学び手に要点を理解してもらうことができ,まともな質問によって相手を当惑させるようなことを避けられるでしょう。

      28 こうした教え方の採用にあたって,ほんとうの分別をどのように示せますか。

      28 もう一つ最後の質問として,イエスがマタイ伝 13章51節で言われた,「汝らこれらの事をみな悟りしか」という問いがあります。学ぶ人に対して雨あられのように質問をあびせることがわたしたちのねらいではありません。むしろ質問を賢明に用い,聖書の真理の大切な点を,学び手の頭と心の中に鳴りひびかせるのに最も役だつ所で質問を活用しようというのです。また,学ぶ人がある点で自分の考えを言い表わすのをいやがっているなら,無理に答えを求めようとしてはなりません。相手の人が質問にあまり答えず,あるいはたとえ話がその人にうまく合わない場合には,その時その場で無理に納得させようとするよりは,ただ,「これは考えるべき事柄ではありませんか」と言って,研究を進めてゆくのがよいでしょう。イエスも忍耐と寛容な態度とを示されました。―ヨハネ 16:12。

      29 象徴的な岩塊の上で建設の仕事をしなければならないのは結局はだれですか。しかし,聖書研究において真理を『鳴り響かせ』る際に,わたしたちはいつも何を忘れてはなりませんか。

      29 わたしたちにできるのは,ともに学ぶ人々がイエスの教えと手本について聞き,それを理解するのを助けることだけです。みことばを実際に行なう者となって土台を据え,その上に建てるわざを行なわねばならないのは学ぶ人自身です。質問,たとえ,その他どのような方法を用いるにしても,学ぶ人の心から目を離してはなりません。頭の中で知恵と自分に必要なものとを判断し,キリストの教えと手本に対する従順という岩塊の上に自らを建てることの大切さを理解しても,その人を動かして実際にそれを行なわせるのはその人の心だけだからです。イエス・キリストの父であるエホバ神は,「我が子よ……汝の心をさとりにむけ(よ)」と語っておられます。羊のような気質の人々がこのことばを聞くのを助けなさい。(箴言 2:1,2,新; 3:1-4)「自分と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい。これらのことを行ない続けなさい。そうすることによって,あなたは自分と自分のことばを聞く者とを救うことになるからである」― テモテ前 4:16,新。

      [369ページの図版]

      イエスはペテロの考えを刺激し訓練するために質問を用いられた

      [372ページの図版]

      イエスは「良きサマリヤ人」のたとえ話を質問で結び,聞き手を正しい結論に導いた

  • 全時間奉仕に応ずる人が1万名も増加
    ものみの塔 1969 | 6月15日
    • 全時間奉仕に応ずる人が1万名も増加

      エホバの証人が,1968年度中の自分たちの奉仕活動の結果である「1969年度年鑑」を読みはじめると,その心は喜びに満たされます。薄茶色の表紙にはさまれたページには,増加また増加を告げる熱意のこもった報告が載せられています。その目にはいるこれらの喜ばしい増加は,神エホバが,全世界にわたって神のお目的を知らせる彼らの努力を豊かに祝福しておられることのしるしです。

      昨年中彼らが作った,心暖まる,そして励みになる記録のひとつは,定期的にせよ,休暇の時だけにせよ,伝道活動に全時間をささげるように生活を調整した人の著しい増加です。考えてください。毎月平均6万3871人が,この拡大された奉仕に熱心に参加したのです。これは1967年の月平均を1万107名も上回る数です。この増加は,通常の増加率の単なる表われではありません。これまでの年ごとの全時間奉仕者の増加と比較するとそのことはよくわかります。確かにこの比較は,昨年の増加がいかに意義深いものであったかを物語ります。

      たとえば1964年のことを考えると,全時間奉仕者の数は,1963年のそれを3913名上回っていました。1965年には1964年より4915名増加しました。1967年には,1966年より

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