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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
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エホバは備えられる

ニュートン・キャントウエルの経験

エホバの証人として,クリスチャンの宣教に費やした39年余にわたる貴重な全時間の奉仕を思い返す時,わたしは,妻のエスタとともに,エホバがわたしたちに示してくださった深いご親切に対して,感嘆の念を禁じ得ません。「順調な時でも困難な時でも」エホバがわたしたちの日ごとの必要を親切に満たしてくださるのを経験してきました。(テモテ後 4:2,新)それで,過ぎ去った日々を思い出すのは,いつでも喜びです。

ものみの塔協会の出版した聖書文書を助けとして,わたしたちが真剣に聖書の研究を始めたのは,1907年,わたしたちが結婚した後のことです。奇妙なことですが,わたしたちが,ものみの塔協会の文書に注目し,それを研究するようになったおもな原因は,かつてバプテストの牧師をしていた人が与えてくれた励ましです。

わたしも妻も,神に用いていただき,人々のためにつくしたいとの強い願いを,幼い時から持っていました。ふたりとも,キリスト教世界の諸教会で教えられる事柄に対して,早くから疑問をいだいていました。その代表的なものは,哀れな人間が,とこしえに苦しめられるという,つじつまの合わない教えでした。わたしと妻が知り合ったのは,ふたりが成人してからのことですが,近しくなった時,わたしたちが多くの共通点を持っていることを知りました。

わたしたちはまだ若い夫婦であったころ,ものみの塔協会から入手できる聖書研究の手引きを,そこに参照されている聖句を全部調べながら研究しました。その結果,確固とした知識の基礎を築くことができ,そのおかげで,後日,エホバに奉仕する決心ができました。1916年までには,ものみの塔協会出版の聖書研究の手引きを,配布するわざに,少しではありますが,加わる程度にまで進歩していました。そのわざを始めると,容易に,文書の戸別配布に定期的に参加することができるようになりました。わたしは,教職の仕事が休みの間,そのわざに携わりました。

1924年が過ぎ,わたしたちはミズーリ州南部からテネシー州に移りました。子どもたちは大きくなり,御国の音信の伝道者となる準備を整えていました。当時,“射撃の名手”として奉仕できたのは,わたしたちの特権でした。この名称は,音信を広めるために自分の家を離れて,全時間の奉仕に携わることはできなくても時間の許すかぎり,家の周辺の地域で活発に奉仕をした人に,1907年以後適用されたものです。わたしたちは霊的に豊かに備えられました。家族で毎日かかさず,聖句の簡単な討議をし,毎週「ものみの塔」誌の研究も行ないました。また,“巡礼”と呼ばれていた,ものみの塔協会からの,旅行する代表者の定期的な訪問も楽しみました。

より大きな特権への戸が開かれる

知識がますにつれ,エホバへの奉仕にさらに十分あずかりたいとのわたしたちの願いは募りました。1929年,わたしたちは6ヵ月ほど,ミズーリ州で過ごしましたが,その間,神の御国の良いたよりを宣明するわざに全時間をささげている,ふたりのクリスチャン姉妹に,部屋を提供する特権を得ました。これは,いわば,わたしたちの霊的な食欲をそそる機会となり,わたしたちの生活環境や将来について,さらに建設的に考える動機を与えてくれました。

わたしたちが,テネシー州の農場に帰った時,一組の若い夫婦が,全時間奉仕者としてその地方に来ました。エド・フィンクバイナーとその妻です。彼らのりっぱな模範を見,激励のことばをたえず耳にしたわたしたちは,ある決定を下すように促されはじめました。1931年,“エホバの証人”という名前が正式に採用された,オハイオ州コロンバスにおける,エホバの民の大会の帰途,ものみの塔協会の,旅行する特別の代表者,ルイス・ラースンがわたしたちの家に立ち寄りました。家族全員で彼とおそくまで話し合いました。家には6人の子どもがおり,ふたりはまだ学校に通っていました。この訪問中,わたしたちは水の浸礼によって,エホバへの献身を表わしました。そして,開拓奉仕,つまり,神のみことばの全時間奉仕を行なえるということがはっきりしてきました。

ついに決定の時が訪れました。それはどんな決定だったでしょうか。開拓奉仕を申し込むか,それとも,子どもたちに“高等”教育を授けるため,従来の計画どおりの生活をこれからも続けるか,ということでした。すぐに腰を上げられない理由がいくつかありました。母の健康がすぐれませんでした。それに,暮らしの楽になる機会が提供されました。地方の銀行から財政的な援助を受けている,りっぱな現代式実験農場の管理者になるようにとのさそいを受けたのです。

祈りのうちに考慮した結果,わたしたちの思いは確かなものになり,わたしたちは農場を売りに出しました。といっても,実験農場に移るためではなく,開拓奉仕者の隊伍に加わるためでした。数か月のうちに,買い手が見つかりました。しかも,不景気のさ中だというのに,農場は現金で買い取られました。そして,これからは,エホバが機会の戸を開いてくださる,という確信を持ちました。

1932年2月,わたしたちは,最初の任命地であるテネシー州のアンダーソン郡に,開拓者として引っ越しました。農場を売って得たたくわえは長く持ちませんでした。おもに医療費のために使ってしまいました。2番目の任命地に移った時など,2週間分の家賃の前払いに必要なお金を別にしては,5ドル(1,800円)しか残っていなかったことがあったのを覚えています。そうした事情にもかかわらず,勤勉に奉仕を遂行するかぎり,エホバが備えてくださることをわたしたちは知っていました。

エホバに信頼し,勤勉に励む

開拓奉仕者といっても,当時の奉仕は,今の開拓者のそれとはいくぶん異なっていました。再訪問や聖書研究のわざは,まだ行なわれておらず,もっぱら聖書文書の配布に努めたものです。奉仕のわざに勤勉に励むことにより,また,エホバが他の方法で備えられる援助のおかげで,財政的に切り抜けられました。それに,その額は決まってはいませんでしたが,小額の収入があったことは幸いでした。とはいっても,9人家族をささえるには決して十分とは言えませんでした。

当時は不況の時代でもあり,一般に人々はたくさんの現金を持っていませんでした。そのため,文書は,くだもの・野菜・かん詰め・穀物など,いろいろな物と交換されました。ですから,食べ物の点では,全然心配する必要はありませんでした。時には,ひよこを受け取ったこともあり,それを育てて,後に売りました。そのようにして得たお金は,大会に出席したり,新しい任命地に移ったりするような,緊急の費用に役だちました。

わたしたちは,いろいろな面で節約することを学びました。たとえば,新しい任命地に着くと,ガソリン・ステーションの経営主と話をし,クリスチャン奉仕のために,家族で毎日,3台の車を走らせねばならないことを説明します。そうすると,たいていの場合,ガソリンを割り引いてくれるのです。やがて,むすこたちは自動車の修理ができるようになり,修理費が相当節約されました。

当時の道路は,大部分おそまつな状態でした。標識も完備されておらず,道路の維持も貧弱でした。ある家を尋ねるのに,長い道のりを歩かなければならないことがしばしばありました。ある時など,わたしたちの自動車のうちの1台がひっくり返って,これてわしまったことがあります。しかし,開拓奉仕をやめて引き返そうなどとは少しも考えず,どうにかして,代りになる別の自動車を求め,奉仕を続けました。

家族で,テネシー州の27の郡,ケンタッキー州の約15郡,それにバージニア州のいくつかの郡を伝道できたのは,すばらしい特権でした。そして,奉仕を続けるにつれ,エホバはわたしたちを段々と訓練してくださいました。暗記した聖書の話を,戸別訪問で用いた後は,印刷された“証言カード”を使うことを学びました。それから関心のある人に,簡単な聖書の話を録音したレコードを聞いてもらう,蓄音機を用いるわざに携わりました。そのためには,重さ9キロ余の蓄音機を,持ち回らねばなりませんでした。

もちろん,今では,その場に即した,りっぱな聖書の話を,家々で行なえますし,家族の聖書研究を取り決めるために,関心を示した人々を再び訪問するという喜ばしいわざがあります。このわざについて学んだのは,“暴露された”と題するレコード一式に関連して用いられた,1冊の質問集を通してでした。そして,拡声機を使っての野外講演が行なわれるようになった時,わたしたちは音響装置を購入し,わたしたちの自動車を“音響自動車”に仕立てることができました。そうしたすばらしい特権のすべてを享受できたのは喜びです。

他の備えに祝福される

大会に出席し,幾千人もの仲間の奉仕者との交わりを通して力づけられるのは,いつの場合でもうれしいことです。孤立したいなかの地域ばかりで働く奉仕者にとっては,特にそう言えます。わたしたちが最初に出席した大会は,1930年,テネシー州チャタヌーガで開かれた小規模なものでした。A・H・マクミランとA・コーバーがおもな講演者でした。1934年には,ジョージア州アトランタの大会に出席しました。それは,わたしたちにとって,初めての大規模な大会でした。それ以来,近年になって,健康が衰えてきたため,一,二度欠席せざるをえなかった時を除いては,どの大会にも毎年欠かさず出席しました。

1937年,オハイオ州コロンバスの大会で,わたしたちは最初の“特別開拓”奉仕者の中に数えられる喜びを得,教育運動を組織的に行なうため,ものみの塔協会から財政的に援助を受けることになりました。家族全員が特別の申込書に記入しました。わたしの一番若いこどもは当時15歳でした。申込書は受理され,コネチカット州のニューヘブンを,特別開拓の最初の任命地として与えられました。そこで,わたしたちの伝道のわざは,宗教関係の人々から相当な反対を受けました。

今度は,肉体的にも霊的にも忍耐することが必要となりました。長年,暖かい南部で生活したわたしたちが,ニューイングランド沿岸のきびしい冬と戦わねばならなくなった事情を考えてみてください。しかも,特別開拓者として,もっと多くの時間を宣教に費やさねばならなかったのです。暖かい衣類がぜひとも必要でした。幸いなことに,エホバはわたしたちの必要を満たしてくださいました。

それまでのわたしたちは,いなかの地方や小さな町々での伝道の仕事には慣れていましたが,今度は,大都市で証言しなければなりません。それに,この新しい任命地では,伝道の仕事に出かけるたびに,不当な逮捕に遭遇するおそれがありました。実際,わたしたちは何度も逮捕されました。ついには,聖書の話を快く聞こうとした人々の家で,それを録音したレコードをかけた時,カトリック教徒の平和を乱したというけんぎを受け,わたしの家族の4人が逮捕され,その結果,コネチカットのいくつかの裁判所,さらには合衆国最高裁判所で訴訟が争われました。エホバの証人に対する告訴は,修正第14条に保障されている信教の自由に反するものであるとの判決が下され,その件は,エホバがご自分の民に与えられた,多くの法律上の勝利の一つになりました。

そうしているうちに,わたしたちはニューヨークのスタテン島の区域に任命を受けました。この区域や,ニューヨーク近隣の他の任命地にいる間,ものみの塔協会のベテル本部で働くクリスチャン兄弟との親密な交わりを楽しむ喜びを経験しました。それは,わたしたちの霊的な前進を促す,エホバの備えにほかなりませんでした。そして,祝福が引き続き注がれました。

たとえば,1939年,わたしたちのむすこのうち3人が,ものみの塔協会の本部で働くよう招きを受けたのは,なんという祝福だったでしょう。次いで,1944年には,娘のひとりが,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第3期のクラスで訓練を受け,卒業後,外国で宣教者としての奉仕にあずかる特権を得ました。

この時期にともに働いた特別開拓者のひとりに,フローレンス・ウッドワースがいます。彼女および,ブルックリンのベテル家族の一員として長い間奉仕している,彼女の夫エルドンとの交わりは,わたしたちの全家族員に,霊的な面でたいへん良い益をもたらしました。

1950年になり,子どもたちが,いわば自立しましたので,開拓奉仕の目標を達成するために,気候の点でそれほど問題のない区域の任命を願い出るほうが賢明だと考えました。わたしたちの願いはかなえられ,まもなく,バージニア州のチェースシチーで奉仕することになり,わたしは,エホバの証人の会衆の監督に任命されました。エホバの助力を得て,1964年に至るまでわたしはその任に当たることができました。その時86歳だったわたしは,円熟に向かうようわたしが援助した若い人々が,荷を引き継いでしかるべきではないだろうかと考えたのです。

わたしたちは,開拓奉仕者の時間の目標をいつも達成できるわけではむろんありませんが,ふたりとも依然として奉仕を続けています。わたしは92歳ですから,健康について不平は言えません。息あるかぎり,引き続きエホバを愛し,仕えたいと祈るばかりです。付け加えますと,76歳になる妻のエスタは,わたしたちが開拓奉仕を始めた1932年当時よりも,さらに元気でいます。

全時間奉仕に携わった39年間,および,御国の良いたよりの伝道者として費やした多くの年月を振り返ってみて,わたしたちは,物質的にも霊的にも一度も困窮したことはなかったと言えます。エホバはほんとうに備えてくださいました。また,うれしいことに,わたしたちは,子どもたちが神に献身したしもべであることを知っています。むすこのうち,ふたりは,ものみの塔協会の旅行する代表者であり,もうひとりは,カリブ海地方の協会の支部の一つを管理しています。娘のほうは,ふたりが全時間奉仕を行なっています。ひとりはここアメリカで,他の娘はウルグアイにおいてです。わたしたちの3代そして4代目の子どもたちが,神の御国の宣明のわざにあずかるのを見て,わたしたちの喜びの杯はまさにあふれんばかりです。

39年間仕え,そして老年に達した時にもなおかつ,その奉仕が実はほんの始まりに過ぎないと言いうる仕事や組織が,いったいほかにあるでしょうか。わたしたちは,“大かん難”の後の,次の段階を待ち望んでいます。その時,キリストの千年統治によって保障される平和と幸福な状態の下で,エホバはご自分のしもべたちに新しい仕事を与えてくださることでしょう。―マタイ 24:21。

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