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約束をする神ものみの塔 1972 | 10月15日
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約束をする神
人類に救出を約束している神はどなたですか。なぜ神の約束を信じるべきですか。また,どうすればそれに信頼を置くことができますか。
そうした確実な約束をすることができるそのかたは,万物の創造者,全能の神であるはずです。聖書は神をそのようなかたであるとしています。神が人類を正義の新秩序へ救出しようという意志を持っておられることには疑問の余地がありません。そのことは,神がそう約束しておられることからも明らかです。しかし,神が人類を救出しようとしておられることを確信するには,神の行為とみわざ,つまり,神がご自分の他の約束を成就したかどうかを調べる必要があります。
メシヤによる王国を通して人類を救出するという約束はべつにして,神の最も重要な約束はメシヤの初臨に関するものです。それは神が約束されたとおり実際に起きたでしょうか。
メシヤの最初の出現に関する記録
それは歴史の記録によって証明できます。メシヤをまちがいなく見分けられるように,聖書には非常に古くから,メシヤに必要とされる条件が述べられていました。その必要条件を一部紹介しましょう。
(1)ユダ族,しかもダビデの家系から出る。
「杖(支配する権威の象徴)ユダを離れず法を立る者その足の間をはなるることなくしてシロの来る時にまでおよばん彼に諸の民したがうべし」。(創世 49:10)「エホバ真実をもてダビデに誓ひたまひたれば之にたがうことあらじ曰く われなんぢの身よりいでし者をなんぢの座位にざせしめん」― 詩 132:11。イザヤ 9:7。
イエスはその家系の出身でした。歴史家マタイとルカが登録簿から取ったイエスの系図はそれを示しています。(マタイ 1:3,6,16。ルカ 3:23,31,33)西暦1世紀当時のユダヤ人の指導者たちは,考えうる限りのあらゆる点からイエスを攻撃したにもかかわらず,ユダヤ人自身の公の記録に基づく,その系図には疑いをはさみませんでした。
(2)ベツレヘムで生まれる。
「ベテレヘム,エフラタ汝はユダの郡中にて小き者なり然れどもイスラエルの君となる者汝の中より我ために出べし」― ミカ 5:2。
マタイはこの聖句を引用して,「イエスは…ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが」と報告しています。―マタイ 2:1,5,6。
(3)エルサレムの城壁の再建(西暦前455年)から数えて69「週年」(483年)の終わりに現われる。
「汝暁り知るべしエルサレムを建なほせといふ命令の出づるよりメシヤたる君の起るまでに七週と六十二週あり…その六十二週の後にメシヤ絶れん但是は自己のために非ざるなり」― ダニエル 9:25,26。
イエスは時をたがえず,西暦29年(西暦前455年から483年後)に自分の身を差し出され,ヨハネによりバプテスマを受けました。その時,イエスは神により油そそがれてメシヤ(油そそがれた者の意)になりました。(ルカ 3:21-23)そして,イエスの先駆者であるヨハネが宣べ伝えはじめたとき,彼らは「望みゐた」のです。―ルカ 3:15。
イエスはまた,バプテスマを受けてから3年半の後,人類のためにあがないの犠牲の死を遂げて「絶れ」,預言的な約束を成就しました。イザヤも同様に,メシヤの犠牲的な死を予告しました。―イザヤ 53:10-12。
一般の歴史も,イエスが地上に実在した人物で,すぐれた教師であったことを認めています。第1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセハスはクリスチャンではありませんでしたが,イエスがポンテオ・ピラトの治世中に生存したこと,大きな影響力を持つ教師であり,キリストであったこと,ピラトによって死刑に処されたこと,三日目によみがえって弟子たちに現われたことを書きしるしました。―「ユダヤ古誌」第18巻,3章3節。ヨハネ 19:15,16; 20:1,19。マタイ 27:63,64。使行 10:40。
イエスの復活に関して,イエス自身の弟子の証言を疑う人がいるかもしれません。しかし,次の事実を考慮してください。500人以上の証人がいました。弟子たちは,イエスの墓につけられた番兵を追い払ったり買収したりできるような権力者とか有力者ではありませんでした。とりわけ,自分にとって何の得にもならない事柄に関して,そして,それほど多くの人々のあいだで共謀があったとはとても考えられないことです。彼らが利己的な動機から復活の証言をしたはずはありません。それは自分たちを苦しみと死にさらすことだったからです。彼らはほかでもない,メシヤに最も激しく敵対する人たちのいる場所,欺瞞などの必ずあばかれてしまう場所で証言しました。しかも,ユダヤ人の指導者の怒りが最高潮の時に彼らはちゅうちょすることなく,その場で直ちに証言をしたのです。―コリント前 15:3-8。使行 2:32; 3:15; 4:10,18-20; 7:55-58; 8:1。
それらの証人が,イエスの復活を証言するに際して,話を「でっちあげ」たのでないことは,失意に沈んだ状態にあった彼らにとって,復活は驚くべきでき事であったという事実からも理解できます。証人たちはイエスに人間の王となることを期待していましたから,イエスが死んだときには,大きな打撃を受けました。(ルカ 24:13-43。ヨハネ 20:24-29)確かに,イエスの復活こそが,証言をする勇気,非常に厳しい迫害下にあってもくじけることのない勇気を彼らに与えたのです。
神はメシヤに関する約束を,前述の預言をはじめ他の多くの預言についても詳細にわたって驚くべき仕方で成就されました。したがって,証拠を考慮する思慮深い人ならだれでも,『神はなるほどご自分の約束を果たすかただ』と言うに違いありません。
他の著名な人物に関する証拠
神が,メシヤをつかわすという約束を成就されたことは,神の信頼性を示すすぐれた例です。しかし,他にも数多くの例があります。昔神に仕えた人の多くは,一度ならず,生涯を通じて,神が約束を守るかたであり,信頼できるかたであることを見たり経験したりしました。ヨシュアやダビデやソロモンはそのような人たちです。
ヨシュアはイスラエルに対する告別のことばの中で次のように言いました。
「見よ今日われは世人の皆ゆく途を行んとす汝らは一心一念に善く知るならん汝らの神エホバの汝らにつきて宣まひし諸の善事は一も欠る所なかりき皆なんぢらに臨みてその中一も欠たる者なきなり」― ヨシュア 23:14。
ダビデ王は証言しました。「エホバの言はきよきことばなり」― 詩 12:6。
そのむす子,ソロモン王は,イスラエル人すべてを前にしてこう祈りました。
「エホバは誉べきかなエホバは凡てその言たまひし如くその民イスラエルに太平を与へたまへりその僕モーセによりて言たまひしその善言は皆一も違はざりき」。「イスラエルの神エホバよ天にも地にも汝のごとき神なし汝は契約を保ち…恩恵を施こしたまふ汝は汝の僕わが父ダビデにのたまひし所を保ちたまへり汝は口をもて言ひ手をもて成就たまへること今日のことし」― 列王下 8:56。歴代下 6:14,15。
この人たちは愚かな人ではありませんでした。賢人であり,大国の指導者でした。しかも,神がご自分の約束に注意を払い,忠節であったからこそ,それらが成就したことを認めました。彼らは人を欺こうとしていたのではありません。聖書の記述者たちが,自分自身のあやまちばかりか,自分たちの支配者や国家のあやまちを卒直に述べていることは,彼らが信頼に足りることを証明しています。
この神についてさらに学ぶ
現在の事物の体制からの救出を真剣に考える人は,神の約束を徹底的に考慮します。楽園の地,復活による愛する者のよみがえり,永遠の命を約束しているのは神だけです。より良い世界についての人間の約束は,それに比べると貧弱なものです。しかも,人間はそれさえ実現することができません。
さらに,神は,ご自分の手になる創造物,人間を愛しておられます。神は,そうする義務があるからではなく,愛の気持ちから救出を約束しておられます。み子を地上につかわされたのは,神ご自身の自発的な行為であり,それは人類の救出の基礎を据えました。使徒パウロはこう書きしるしました。「我等がなほ罪人たりし時,キリスト我等のために死に給ひしに由りて,神は我らに対する愛をあらはし給へり」― ロマ 5:8。
ではなぜ,そうした愛のある備えを疑ったり認めなかったりすべきでしょうか。それよりも,神と神の約束に関する知識をもっと得てください。エホバの証人は,あなたが,「凡てのこと試みて善きものを守(れ)」という,霊感を受けた助言に従うのを喜んでご援助いたします。―テサロニケ前 5:21。
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神は何を約束されましたかものみの塔 1972 | 10月15日
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神は何を約束されましたか
新秩序 ― そこでの生活はどのようなものでしょうか。地上に住む人々はすべて,りっぱな,豪華ともいえる家を持つでしょうか。交通および通信にどんな手段が使われるでしょうか。
聖書はそれについて何も述べていません。なぜですか。そうした事柄は,特に今の時に,知らなければならない最重要の事ではないからです。それらの事柄そのものは真の幸福をもたらしません。では,真の幸福をもたらすのは何ですか。
今の事物の体制で,りっぱな家を持っている人は少なくありません。食物,衣服,自動車,娯楽の面でぜいたくをしている人もいます。しかし,貧しい人々のあいだにおけると同様,良い暮らしをしている人々のあいだにも家庭の分裂,子どもの非行,病気などの問題があります。
したがって,真の幸福には明らかに,霊的な意味での繁栄が物質的な繁栄に先行しなければなりません。人を幸福にするのは,その人の霊的かつ精神的な状態ではないでしょうか。神に対して正しい良心を持ち,聖書を導きとして神の王国の関心事に奉仕するときにのみ,真の,そして永続する幸福を得ることができます。
別の角度から問題を見ると,現在この世で不幸の原因となっているのは何でしょうか。それは主として物の不足ですか。それとも,人そして人の態度ですか。他の人や他の人の所有権に思いやりまた敬意を示さないことが原因となっているのではありませんか。物質面でどんな境遇にいようと,隣人に対して貪欲で無礼で冷淡であれば人は幸福にはなれません。
ですから,聖書は主として人々について述べており,人格を変えることを強調しています。(エペソ 4:22-24。コロサイ 3:9,10)金持ちの人もいれば貧しい人もいるでしょう。しかし,いずれにしろ,聖書の忠告に従い,同じ真の信仰を持つ人々と交わるなら,その人は幸福になれます。
それで,聖書は神がこの地球という惑星を滅ばされないことを保証する一方,人間を保護することについてさらに多くの事を述べています。聖書には,人が生き残るために必要な要求が書かれているのです。
そうであれば,神の秩序が物質面ではどんな状態かについて悩んだり,ことさら心配したりする必要があるでしょうか。確かに,いろいろな事情や自分の置かれた環境のために良くなる見込みもなく,みじめな貧しい生活を余儀なくされている人は,地上に幾百万人もいます。そうした人々が物質的により良い状態を望むのは自然で正しいことです。そして,神の約束に望みを置く人々が,神が約束する事柄をいろいろと考えるのも当然です。しかし,推測に時間を費やしても真の益にはなりません。しかし,聖書が実際に述べている事柄を調べようとするのは少しも悪いことではありません。
聖書は何を示しているか
神が新秩序で人々に何を備えられるかを知るうえで,聖書はどのように助けとなりますか。おもに,神の人格 ― 神とはどんなかたか ― を示すことによってです。
まず,聖書は,神は「己を求むる者に報い給ふ」と述べています。(ヘブル 11:6)ですから,神への忠実に対する報いを求めるのは正しいことです。また,神の恵みを得ると,わたしたちの必要物はすべて備えられますが,その恵みをもたらすのは神への信仰と忠誠であることも知ります。ソロモン王は,神の民イスラエルを導くために,富ではなく,従順な心と理解を求めました。神はそれを喜ばれ,次のように言われました。「汝此事を求めて己の為に長寿を求めず又己のために富有をも求めず又己の敵の生命をも求めずしてただ訟を聴き別る才智を求めたるに因て 見よ我汝の言に循ひて為り我汝に賢明く聡慧き心を与ふ」。しかしそのあと神は続けてこう言われたのです。「我また汝の求めざる者即ち富と貴とをも汝に与ふ…又汝もし…わが法憲と命令を守らば我汝の日を長うせん」― 列王上 3:9-14。
したがって,神の新秩序では幸福を満喫するために必要な物はことごとく備えられることが確信できます。エホバ神について,ダビデ王は経験に基づきこう言いました。「なんぢ手をひらきてもろもろの生るものの願望をあかしめたまふ」。(詩 145:16)神は,人の造り,人を幸福にするのに必要な物,人の心の願いをご存じです。(詩 139:1-4)神はわたしたちが必要とする物を,わたしたち自身よりもよく,わたしたちがそれに気づいてそれを求める以前から知っておられます。―マタイ 6:8。ヨハネ 2:25と比べてください。
使徒パウロは,マケドニアのピリピにあった,物質的には貧しくても寛大なクリスチャン会衆にあてて,次のように書き送りました。「わが神は己の富に随ひ,キリスト・イエスによりて,汝らの凡ての窮乏を栄光のうちに補ひ給はん」。(ピリピ 4:19。コリント後 8:1,2)今の事物の体制の滅びを生き残って,神の新秩序にはいる人々,それに,キリストの一千年の統治のあいだに復活を受ける人々は何を必要とするでしょうか。
人間に必要な物は保証されている
アダムとエバに対する神の目的を考えると,新秩序における神の目的について多少の理解が得られます。最初の人間夫婦は精神的にも肉体的にも完全でした。(創世 1:31)命を維持し,楽しむのに必要な食物がすべて備わった,美しい園の家にふたりは置かれました。(創世 2:9)ふたりには動物を治める権が与えられていましたので,動物との関係は平和なものでした。(創世 1:28)アダムとエバが罪を犯した時にはじめて,ふたりは楽園から追い出されたのですから,楽園は,完全な人間の住みかとして神が備えられたものということがわかります。
今の世の滅亡をもたらす「大なる患難」を通過させて新秩序に入れ,完全に荒廃した状態を受け継がせるというだけでは,神がご自分の忠実な民を扱う愛ある仕方と調和しないでしょう。神は人間がある種の住居を必要としていることを知っています。しかし,今の事物の体制が崩壊したあと,新秩序の設計図を知っておられるエホバ神によって与えられる『建築』計画にそって,地球が大いに建て直され美化されるにはかなりの時間がかかるかもしれません。それは人間自身の創意や才能がおさえられるというのではなく,神がだいたいの,もしくは総合的な型を決めるという意味です。同時に,すべての人の必要物が顧みられるでしょう。
神の民イスラエル人が約束の地にはいったとき,神が彼らのために行なわれたことは,生き残って新秩序にはいった人々のために神が必要物を確かに備えることを示しています。モーセはイスラエルにあらかじめ次のように語りました。「汝の神エホバその汝の先祖アブラハム,イサク,ヤコブにむかひて汝に与んと誓ひたりし地に汝を入しめん時は汝をして汝が建たる者にあらざる大なる美しき邑々を得させ汝が満せるに非る諸の佳物を満せる家を得させ汝が堀たる者にあらざる堀井を得させ汝が植えしにあらざる葡萄園と橄欖の樹とを得させたまふべし…汝謹め…エホバを忘るる勿れ」。その後,霊感を受けて書かれた箴言は,「罪人の資財は義者のために蓄らる」と,原則ともいえることばを述べました。―申命 6:10-12。箴言 13:22。
聖書は,「大なる患難」の後に都市とかその他のものが残るとは述べていません。しかし,約束の地にはいったイスラエルに対する神の備えについて聖書が述べている事柄は,新秩序にはいる人々が,この快適な地球上の命という貴重な賜物を受け継ぐだけでなく,物質的な必要物をも十分に備えられることを示しています。
神が約束する物,神がもたらす物は,まちがいなく,関係者すべてにとって最善のものです。わたしたちは,手にはいるとつまらなくなってしまう物をほしがることが少なくありません。ですから,神の新秩序で自分たちにとって最善の物が何かを決めることはできません。しかし,わたしたちは,神が現在わたしたちに霊的な形で与えてくださるもの,人生において真に価値のあるものを捕えることができます。
神は,ご自分が定めた時に,わたしたちのために貯えてあるもの,現在わたしたちの頭では想像できないはるかに喜ばしいもののすべてをわたしたちに示してくださるでしょう。今わたしたちがおもに関心を持たなければならないのは,義の新秩序にはいる用意をするため,「知識および十分な識別力」を得,「より重要な事がらを確かめ(る)」ことです。―ピリピ 1:9,10,新。
その重要な事柄とは何か,また,神に対して確かに正しい良心を持ち,神の目に正しい事柄を実践するために何が行なえるかについては,「神の新秩序に備える」と題する,本誌ののちの記事の中で取り上げます。
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