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  • 神はおそいと言えますか
    ものみの塔 1972 | 10月15日
    • (ペテロ後 3:9,〔新〕)神は人類の救済をこの世代に行なうことを定めておられます。(ルカ 21:32)天と地においていっさいの権を持たれる神は,果たしえない約束をする必要はありません。イエス・キリストの使徒のひとりは,『神は偽ることができない』と言いました。また預言者イザヤは,「なんぢら常磐にエホバによりたのめ,主エホバはとこしえの巌なり」,と書いています。―テトス 1:2。イザヤ 26:4。

      人類の諸問題が人間の支配によっては解決されないことに気づいて,その解決を神に求めるならばわたしたちは,神の真理のことばを調べることにより,神が一見『手間取っている』ように見えるのは,おそいからではないことを理解するに至るでしょう。使徒パウロはことばをつづけて,「かつわれらの主の寛容を救なりと思へ」と述べています。(ペテロ後 3:15)今日,多くの人は救いの道を歩んでいます。彼らは今の時を利用して,神が人類のために何を準備してくださったかを学び,無力なこの事物の体制に信頼を置くことをやめています。また,聖書がいたずらに,『自分のために時間を買い取りなさい。時代が邪悪だからである』と言っているのではないことに気づいています。(エペソ 5:16)神の忍耐がつきると,この事物の体制の破滅はゆっくりとは進行しないことを彼らは知っています。その始まりは,鋼鉄のわながぱちんと閉まるときのようでしょう。

      ですから,おそいなどと言って神をとがめるよりも,むしろ自分自身をよく調べて,新秩序にふさわしい生き方をしているかどうかを考えてみるほうがずっと良く,またイエス・キリストの助言に従うほうがよいのではないでしょうか。イエスは,話を聞いていた人々に対して,不忠実なエルサレムの滅びを,そして後には現在の体制に臨む滅びを予告したのち,こう言われました。「汝らみづから心せよ,恐らくは飲食にふけり,世の煩労にまとはれて心鈍り思いがけぬ時,かの日わなのごとく来らん。これは遍く地の面に住めるすべての人に臨むべきなり。この起るべきすべての事をのがれ,人の子の前に立ち得るやう,常に祈りつつ目を覚しをれ」― ルカ 21:34-36。

  • 神の新秩序に備える
    ものみの塔 1972 | 10月15日
    • 神の新秩序に備える

      永住するつもりで外国に移住すると,ふつうの場合多くの変化が要求されます。ほんとうにうまくやっていくためには,ことばを習う必要があります。法律,人々の習慣,慣例などについてもある程度知らねばなりません。母国では十分通用しても,新しい国では人々の感情を害するので捨てなければならない表現とかくせなどもあります。考え方や生活用式を変えてその国に十分とけ込み,きまり悪い思いや困った思いをすることなくやってゆけるようになるまでには時間がかかります。

      ではもしあなたが,完全な義の満ち渡る社会,隣との交渉が正しく行なわれ,人種や国籍のいかんを問わず人々が心からもてなされ,愛される異なる社会である新しい秩序 ― あなたが仲間の人間を信頼することができる場所に移されるとしたらどうですか。それは今あなたを取り巻いている社会とはちがう社会,別の国に移転するよりも大きな変化と言えないでしょうか。

      標準の高い考え方が必要

      この移転こそ神が約束しているものです。そしてそれは確かに,現在の社会の標準や慣習からの大きな,そして多くの変化を意味します。「キリスト教」国に住んでいる人々でもそのような変化をしなければならないのでしょうか。イスラエル国民は,神に仕えていると口では言っていましたが,今日のいわゆる「キリスト教」国の人々と同じような生き方をしていました。つまり彼らは,『敬虔な様子をしながら』,神の律法の高い標準に従って生活することをせず,『その実を捨てて』いました。(テモテ後 3:5)神の戒めを無視し,自分自身の道に従って生活していたために腐敗した習慣に陥りました。それでエホバは彼らにこう言われました。「わが思はなんぢらの思とことなり,わが道はなんぢらのみちと異なれり天の地よりたかきがごとく,わが道はなんぢらの道よりも高く,わが思はなんぢらの思よりもたかし」― イザヤ 55:8,9。

      新秩序への変化は,あなたの考え,あなたの表現および行動の変化を要求するでしょうか。それは疑いありません。取り引きするにも信頼が置け,あなたに対する態度には善意がこもっており,また徳を高めるきれいなことばを使う人々との交わりはどんなにちがうでしょう。そのような高い標準をもつ社会の一員となることを望む人は,たしかに変化することが必要です。

      しかし次のような疑問が生じます。もし新秩序での生活に今備えるとすれば,悪い習慣の行なわれているただ中で,どうすればそれができますか。まっ正直な清い生活をしても,現在の体制の中でやってゆけるでしょうか。家族を養ってゆけますか。この世が行なう悪行に同調しなくても生きのびることができますか。

      答えは,はい,です。なぜですか。わたしたちは創造者のことばをそのまま信じなければなりません。わたしたちは創造者のことばである聖書から,創造者ご自身がお定めになった,しかもそれを守る者に真の益となる,正しい原則を学ぶことができます。そのあとそれらの原則を実生活に適用し,神が約束によって誓っておられるとおり,神がわたしたちを最後まで助けてくださることを信ずるかどうかは,わたしたち次第です。しかし,神が何を要求され,どんな約束をしておられるか考えてみましょう。

      「ことば」の変化

      聖書によると,その必要な変化を行なうには,新しい「ことば」を学ばねばなりません。バビロンの捕囚からイスラエルを復帰させることについて語られたとき,神は次のように言われました。「その時われ国々の民に清き〔ことば〕をあたへ彼らをしてすべてエホバの名を呼ばしめ心をあわせてこれにつかへしめん」。(ゼパニヤ 3:9,〔新〕)それはイスラエルの文字通りのことばの変化ではなく,彼らが話すこと,彼らの話す方法,清い真理のことば,平和とともに神への賛美と崇拝の一致をもたらすことばの純度における変化でした。

      現在神は昔のその当時と同様に,『ご自分の憤りと激しい怒りとをそそぐために,もろもろの民をつどえ,もろもろの国を集めて』おられます。そのために現在もまた神はあらゆる国の心の正しい人々に,彼らの話す言語に関係なく,「清き〔ことば〕」を与えておられます。―ゼパニヤ 3:8〔新〕。

      さて,ことばのこの変化は,わたしたちの生活全体の変化を意味します。わたしたちは次のように命令されているのです。

      「聖徒たるに適ふごとく,淫行,もろもろの汚れ,またむさぼりを汝らの間にて称ふることだにすな。また恥づべき言・愚なる話・戯言を言ふな,これよろしからぬことなり,むしろ感謝せよ」― エペソ 5:3,4。

      使徒パウロは,わたしたちが行なう変化をよく説明しています。

      「されば地にある肢体,すなわち淫行・汚れ・情慾・悪慾・またむさぼりを殺せ,むさぼりは偶像崇拝なり。神の怒りは,これらの事によりて不従順の子らに来るなり。汝らもかかる人の中に日を送りし時は,これらの悪しき事に歩めり。されど今はすべてこれらのことおよび怒・いきどほり・悪意を棄て,そしりと恥ずべき言とを汝らの口より棄てよ。互に虚言をいふな,汝らはすでに旧き人とその行為とを脱ぎて,新しき人を着たればなり。この新しき人は,これを造り給ひしものの像に循ひ,いよいよ新になりて知識に至るなり」― コロサイ 3:5-10。

      それでこの新しいことばを話すには,以前用いていた表現,悪い習慣や生活様式を捨てて,それらを「御霊の果」に置き替えることが要求されます。それはわたしたちが神の新秩序へ救い出されるにふさわしい者となるためです。(ガラテヤ 5:22,23)こうしたことは使徒が語っている,正確な知識と十分の認識とを要する「重要な事柄」です。(ピリピ 1:9,10,新)すべての人が次のことばに従わねばなりません。「この事物の体制に合わせて形づくられるのをやめなさい。むしろあなたがたの思いを作り変えて,みずからを一変させなさい。あなたがたが神の善良で,好ましく,かつ完全な意志を自分自身に実証するためである」― ロマ 12:2,新。

      変化することを恐れてはならない

      生活をこのように変化させることは,腐敗した世界のただ中にあっても可能です。神は,義と正直に関する神の原則を守る者とともにいると言っておられます。生活を変えれば経済状態が苦しくなって,家族が食べてゆけなくなるかもしれない,と恐れる必要はありません。「主みずから『われ更に汝を去らず,汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり」― ヘブル 13:5,6。

      わたしたちは世界を悩ましている恐れから自由になれます。「神もし我らの味方ならば,誰か我らに敵せんや」ということを知っているからです。多くの困難を通して神の保護を経験したモーセは,「なんぢさきにいへりエホバはわが避所なりと,なんぢ至高者をその住居となしたれば災害なんぢにいたらず」と正直に言うことができました。―ロマ 8:31。詩 91:9,10。

      もう一つ,現在でも,全く正しい新しい事物の体制のもとで生きる希望をいだいて,神の標準に従って生活できる理由があります。それは,現在神に奉仕することを望む人々を助けるための組織を神が地上にもっておられるということです。エホバの証人は,神のことばの示す標準と原則を受け入れました。彼らはそれを生活に適用しています。彼らは自分たちが,一般の人々と同様に生れながらの罪人であることを知っていますが,しかし「清いことば」を語ることによって自分の性格を作りかえており,また一人の人間のように「心を一つにして」奉仕しています。―エペソ 4:20-24。ピリピ 1:27,28。

      神はその約束どおり,あらゆる階層,あらゆる国民,あらゆる民族から来たこの人々のグループを援助してこられました。全員が一致協力する150万人の団体として,彼らはダビデ王の次のことばの真実さをあかしすることができます。「我むかし年わかくして今おいたれど義者のすてられ或はその裔の糧こひありくを見しことなし」。(詩 37:25)また,エホバの証人は幸福です。彼らの幸福な様子は,彼らの隊伍に加わった他の人々の注意を引きました。キリスト教世界の諸教派が衰微してゆく一方,真のキリスト教を誠実に実践するエホバの証人たちの数は増加し,その一致と平和はいよいよ増し加わっています。そして,神の新秩序における生活の備えをしている人々であることを証明しています。

  • 教会員であれば,それで十分ですか
    ものみの塔 1972 | 10月15日
    • 教会員であれば,それで十分ですか

      『私は神の新秩序に救い出される人たちの中にはいっているだろうか』。神の約束を信じている人はみな,必ずこの質問をします。また,『私は教会員だけれども,これは神の恵みが必ずあるということだろうか』と考える人も少なくありません。

      これらの質問は真剣に考慮するだけの価値があります。とりわけ,相容れない教理や儀式を有する教会が多数存在することを考えればなおのことです。

      では,バプテスマを受けたエホバの証人のメンバーはどうですか。その人たちも,『エホバの証人の研究集会や戸別伝道への私の参加を含め私の交わりは,この事物の体制が滅ぼされるときに私の救いを保証するものだろうか』と自問してみるべきでしょう。

      このどちらの質問に答えるにしても,あなたは,神は何を要求しておられるか,ということを考慮しなければなりません。「われなんぢの主たる神,ねたむ神なれば[すなわち専心の献身を求める神]」と神は言われています。(申命 5:9,ドウエー訳。新世界訳と比較してください。)ですから,神は個人としてのあなたに専心の献身を求めておられるのです。あなたは個人的に,心から,そして何が神を喜ばすかについての正確な知識をもって,神に奉仕しなければならないのです。―歴代上 28:9。マタイ 22:37。

      神のことばに関する知識は重要

      この知識は神の真理のことばである聖書からしか得られません。神に奉仕すると公言するある人は熱心で誠実かもしれません。その人は自分の教会の指導者たちも誠実だと考えているかもしれません。しかしそうした事柄自体は,神の恵みを保証するものではないのです。

      聖書はそのことを示す顕著な例をわたしたちに提供しています。その例は,たとえ誠実でも,一個人または一組織全体でさえ,神への専心の献身にほど遠い場合がありうる,という点を強調しています。使徒パウロは,彼が愛した同胞のユダヤ人に向かって次のように述べました。「兄弟よ,わが心のねがひ,神に対する祈は,彼ら[ユダヤ人]の救はれんことなり。われ彼らが神のために熱心なることを証す,されどその熱心は知識によらざるなり。それは神の義を知らず,己の義を立てんとして,神の義に服はざるなり」― ロマ 10:1-3。

      もし以前の信仰や教理にこだわって偏見をもつようなことをせずに,広い心をもって聖書の述べることを読みまた受け入れるなら,神が要求しておられることを知るのはむずかしいことではありません。一つの例をあげてみましょう。専心の献身を求めることについて述べる前に神は次のように言われています。

      「各種の刻んだ形をつくるな,高く天にあるもの,低く地にあるもの地の下,水のなかにあるものの形を。それらの前に,あなたはひれふしも拝みもしてはいけない」。(申命 5:8,9,ドウエー訳)そうしたものを「つくるな」,またそれらのまえに「ひれふし」てもいけないと神が言われていることに注目してください。のちほど神は宣言されました。「私は主である,それが,私の名である。私は,私の光栄を,ほかのものにゆずらず,私の名誉を,偶像にあたえない」― イザヤ 42:8,ドウエー訳。

      それでもしあなたが崇拝に像を使っているならそれがたとえキリストの像であろうと,天使や聖人たちの像であろうと,まただれがどんなことを言おうと,あなたは神に専心の献身をしていなかったことになります。

      そうなれば,崇拝に像を使うことを教える教会は,たとえそれが相対的崇拝にすぎないと考えられていても,会員のあなたを保護するものではない,ということが確かに理解できます。何にせよ神に栄光を帰さないものは,神に専心の献身をしているとは言えません。またどんな組織にせよ,神の栄光とならないあるいは神の教えに矛盾する教理を教える組織はその会員に神の祝福をもたらすことはありません。むしろ,その組織の会員であるがために,あるいはそれを支持するがために,神がご自分の栄光とならないものを地から一掃されるときに,滅びなければなりません。―テサロニケ後 1:7-9。

      個人的な行ないも重要

      またあなたは,聖書の熱心な研究生かもしれません。聖書の教える原則,とくに道徳にかんする原則を知っているかもしれません。他のクリスチャンと称する人たちと交わっていようといまいと ― 実際のところ,たとえ神に専心の献身をしていることがあなたにわかっている人々と交っていたところで ― 重要な問題は,あなたはそれらの正しい原則に従って生活しているか,ということです。

      使徒ペテロは,クリスチャンと称する人ひとりびとりの上にある責任を指摘して次のように述べています。「偏ることなく各人の業に随ひて審きたまふ者を父と呼ばば畏をもて世に寓る時を[世に住んでいても世の一部ではない者として]過せ」。そしてのちほどこう警告しました。「すでに時いたれり,審判は神の家より始まるべし。まづ我らより始まるとせば,神の福音に従はざる者のその結局はいかにぞや。義人もし辛うじて救はるるならば,不敬虔なるもの,罪ある者はいづこにか立たん」― ペテロ前 1:17; 4:17,18。

      したがって人は,教会員という立場に依存することはできません。また,まちがった教理を唱えたり,聖書に反する行ないを黙許したりする教会を離れただけでも安全とは言えません。それに加えて自分から神の意志について学び,それを行なうという,積極的な行動を取らねばなりません。

      しかしそのようになってもなお自分に注意しなければなりません。使徒パウロは,かつては神に愛された人々と交わっていたにもかかわらず私生活において悪を行なって落伍したいく人かの例をあげてのち,「然らば自ら立てりと思ふ者は倒れぬように心せよ」とコリントのクリスチャンたちに書き送っています。(コリント前 10:6-12)神に奉仕しつづけるには,絶えず目をさましていて,自からをよく吟味することが必要です。だれも,まだどんな組織も人を救うことはできません。「我らおのおの神のまえに己の事を陳ぶべし」とあるからです。―ロマ 14:12。ヘブル 4:12,13と比較してください。

      豊かな恵みを受けていた使徒パウロのような人でさえ,自分のことをこう言いました。「かく我が走るは目標なきが如きにあらず,我が拳闘するは空を撃つが如きにあらず。わがからだを打たたきてこれを服従せしむ。恐らくは他人に宣伝へて自ら棄てらるる事あらん」― コリント前 9:26,27。

      教会員であればそれで十分ですか,という質問に対する答えをまとめると,それは絶対に,いいえ,です。神に奉仕することを願っている人は,自分の属する宗教組織が神のことばに従っていないなら,それを捨てなければなりません。そして次の段階は,清い崇拝を行なって神に奉仕する人々と交わることです。次いでエホバ神に専心の献身をし,自分の生活が,『すべてのことにおいて,わたしたちの救い主なる神の教えを飾るように』生きなければなりません。(テトス後 2:10)これを行なう人は,次の神の約束に確信をもつことができます。

      「すべてエホバをよぶもの誠をもてこれをよぶものにエホバは近くましますなり エホバは己をおそるるものの願望をみちたらしめ,そのさけびをききてこれをすくひたまふ」― 詩 145:18,19。

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