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  • 教会は諸国民を神と衝突する道に導いているか
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • この真の崇拝と教理からの背教は生じ,特に4世紀から,背教した偽りのキリスト教が栄え,国家と結合して国教になり,その優勢な地域が「キリスト教世界」(「キリスト教の奉じられている領土」という意味)と呼ばれるようになりました。これは,「わが〔王国〕はこの世のものならず」「彼ら[イエスの弟子たち]も世のものならぬに因りてなり」というイエスのことばに直接反するものです。―ヨハネ 18:36[新]; 17:14。

      歴史の記録によると,それ以来,宗教指導者は,国の支配者たちの相談役となり,また多くの場合,指導者となってきました。しかし権力の振えないところでは,自分たちを受け入れない支配者に対して革命を扇動したり,戦争をしかけたりすることさえ辞しませんでした。今日でも,国家の支配者にまじって,権力のある有利な立場を得られないところでは,現行政府に反抗するグループの中で著名な存在となっていることが少なくありません。

      流血の責任

      この理由で,偽りの宗教すべて ― その中で,背教したキリスト教は最も優勢 ― は,聖書の中で「都」,「大なるバビロン」つまり象徴的な帝国として描かれています。というのは偽りの宗教は,「地の王たちを宰どる〔王国〕」をもつからです。また,偽りの宗教は「淫婦」として擬人化され,その淫婦については次のように述べられています。「預言者・聖徒およびすべて地の上に殺されし者の血は,この都の中に見出されたればなり」― 黙示 17:1,2,5,18〔新〕; 18:24。

      黙示録 17章3節,12-14節によると,その「淫婦」は,地の「王たち」もしくは支配者たちを表わす角をもつ象徴的な「獣」に乗っています。それらの王たちは,その淫婦である乗り手に影響されて,「羔羊」イエス・キリストと「戦い」ます。ここにもまた,地上の偽りの宗教が実際に先頭に立ち,諸国民をして衝突への道を歩ませている証拠があります。

      では,神がこの世の宗教を不快に思われるのは意外なことでしょうか。もし神が,ご自分の名前を清めることをせず,また教会内の不道徳や腐敗,神について教えられている偽りなどを嫌う人々を助けないとすれば,そのほうがもっと意外でしょう。

      ある人はこう言うかもしれません。『たしかに神にはさばきを執行すべき理由が十分あるでしょう。しかし,主として偽りの宗教と政治がもたらした状態のために人々を滅ぼすのは,愛のない行ないではないか』と。次の記事はその点を取りあげます。

  • 国民は支配者とともに責任をもつか
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 国民は支配者とともに責任をもつか

      もし諸国民が神と衝突すれば,大いなる滅びがあることは必至です。しかし,宗教指導者や政治指導者が先に立って神に敵対しているとすれば,国民の苦しむ理由がありますか。

      では,責めは支配者だけにあるのでしょうか。そうではありません。政府が,その統治下にある国民を反映するにすぎないということは,事務家たちの認めるところです。19世紀末に住んでいたフランスの外交官ジョセフ・ドメストルは,そのことを,「国家はすべてそれ相当の政府をもっている」というふうに表現しています。また,英国の政治家ウィリアム・ペンは,「人民が政府に依存するというよりも,むしろ政府は人民に依存する。人民が善良ならば,政府は悪いはずがない。もし政府が病めば,人民がそれをいやすだろう。しかし人民が悪くて政府が非常に良い場合,人民はそれを自分の好みに合うように曲げ,そこなおうとするだろう」と教えました。問題が人間の立てる政府に適用されるかぎり,聖書の見解もこれと一致します。

      神の律法が国家の“憲法”となっていたイスラエルにおいてさえ,支配者と国民の両方が罪を犯して苦しみました。その理由をエホバは次のように述べておられます。「預言者は偽りて預言をなし祭司は彼らの手によりて治めわが民はかかる事を愛す」。

      神の民,聖なる国民と主張するキリスト教世界にも,同様の状態が存在します。したがってイスラエルに対する神のことばは,そのまま現在のキリスト教世界にあてはまります。「我かくの如きことを罰せざらんや,わが心はかくのごとき民に仇を復さざらんや」― エレミヤ 5:29-31。

      宗教の分野において,人々は神に聞くよりも人間に聞いてこなかったでしょうか。人々は聖書をもっていて,それを読むことができます。にもかかわらず,神に関する偽りの教えや神のことばを拒否することが教えられ,不正直な人や不道徳な人が矯正されることもなく,神を否定する進化論をさえ受けいれている教会をいつまでも離れず,それを支持してきました。神はそのようなことを喜ばれるでしょうか。

      世界政府も地の病気をいやすことはできない

      犯罪,麻薬禍,性病,汚染,その他人類にとって重大な脅威である,世界を悩ます無数の病弊を,政府が除きえないことは,著名な人々の認めるところです。なぜ除けないのですか。なぜなら,それらを除くには,国民自身が全面的に協力し,心をつくして法律を守り,隣人を思いやり,利己主義や貪欲を示す代わりに,真の愛を実践しなければならないからです。しかし実情はそうではありません。

      政府は国民の心に正義の念を植えつけることができません。利己主義が深くしみこんでいるために,この世の諸機関によって作り出されるどんな教育計画もそれを除くことができません。福祉,社会復帰,その他立てられる計画も,ついには情実,利己主義,収賄,腐敗などのために用をなさなくなります。(伝道 1:15)ですから,国民自身にも大きな責任があります。

      肉体的,社会的に国民に影響をおよぼすこうした状態は,実際には,現存する悪い霊的な状態の反映です。聖書は世の人々が“呼吸する”霊つまり精神を大気圏の空気にたとえています。この霊または支配的勢力,世の態度もしくは風潮とは,反抗の精神です。(エペソ 2:2)これは空気のように,わたしたちの周囲に充満し,圧力をかけてきます。聖書の黙示録では,神の怒りが『災い』として『空気の上にそそがれる』ことが示されています。一般の世間を動かしている霊つまり精神はたしかに“病める”霊であって,その病弊はいま,文字どおり堕落という疫病となって,現代社会のあらゆる活動の中に姿を現わしています。―黙示 15:1; 16:17。

      事物の全体制が去らねばならない

      高いところから人類を眺めておられる神は,このことを見,ひとつのグループまたは構成分子だけに責めがあるのでないことを認めておられます。むしろ,今日存在するような事物の全体制が,ひとつの生活様式の中に人々を「閉じこめ」,人々がその様式にそって歩まないようにするのを非常に困難にしているのです。取り替えねばならないのは体制です。その向きを別の方向に変えるわけにはいきません。機関車がレールから離れて国土を横断することができないのと同じです。イエス・キリストは,この世界の事物の体制が,今日わたしたちが目撃している状況のもとで「終結」することを示されました。

      ある人々は,この事物の体制およびその不正直な物事のやり方に同調するのが生き残る唯一の道と考えています。しかし正しい原則を捨てれば,その悪に対する責めをともに負うことになり,前途には滅亡あるのみです。しかしながら,この体制と歩みをともにすることは強制されていて避けることができない,と考える必要はありません。神は個人個人にその行動の責任を問われます。したがって神は,まっすぐな清い道をみずから進んで歩む者たちにのがれ道を備えておられます。(ゼパニヤ 2:3。コリント前 10:13)神は卓越した愛の神です。次に取りあげる主題は神の愛ある親切です。

  • 神はさばきにおいても愛ある親切を示される
    ものみの塔 1972 | 1月1日
    • 神はさばきにおいても愛ある親切を示される

      神の預言者のひとりは,腐敗した悪意のある圧制者や偶像崇拝者たちに対する神のさばきを幻で見たとき,「怒る時にもあはれみを忘れたまはざれ」と神に嘆願しました。(ハバクク 3:2)もうひとりの預言者も,神の民と自称するイスラエル民族の中の悪を神が滅ぼす預言的な幻を見て,「ああ主エホバよ汝怒をエルサレムにもたらしてイスラエルの残余者をことごとくほろぼし給ふや」と叫びました。―エゼキエル 9:8。

      この二人の預言者はどちらも,エホバが愛とあわれみの神であることを知っていたので,そのようなことを言いました。それは,神の友アブラハムが昔,ソドムに臨もうとしていたさばきについて神に語りかけたのに似ていました。「なんぢかくのごとくなして義者を悪者とともに殺すが如きはこれあるまじき事なり また義者と悪者を均等するが如きもあるまじきことなり」。アブラハムは,義人を滅ぼすことが,エホバの原則に完全に反することを知っていました。―創世 18:25。

      アブラハムは,エゼキエルの場合と同じく,神のさばきは選択的であって,滅びに価しない者は救われる,という答えを得ました。結果もそのようになりました。

      これらのできごとからわたしたちは神の性質を伺い知ることができます。神はモーセに宣言されました。「エホバ エホバあはれみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大なる神 恩恵を千代までも施し悪と過と罪とを赦す者 また罰すべき者をば必ず赦すことをせ(ざる)者」。(出エジプト 34:6,7)エホバは,最高主権者としての威光と威厳とをもって,宇宙の法と秩序を維持されねばならないのです。エホバは違法を大目に見ることはできません。にもかかわらずエホバは,正しいことをしたいと思う者に,あはれみと救いを施されます。

      イエス・キリストは,「汝らの仇を愛し,汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならんためなり。天の父はその日を悪しき者のうへにも,善き者のうへにも昇らせ,雨を正しき者にも,正しからぬ者にも降らせ給ふなり」と助言されました。

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