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人はどのようにして「神の王国をとらえる」かものみの塔 1972 | 7月15日
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人はどのようにして「神の王国をとらえる」か
西暦29年の春,バプテストのヨハネは,「ユダヤの荒野にて教を宣べ」はじめて「言(いました),『なんぢら悔改めよ,〔天の王〕国は近づきたり』」。(マタイ 3:1,2〔新〕)ヨハネの働きは,その王国の王を受け入れる備えの整った人々を準備し,彼らを王国の成員となる立場につける役目を果たしました。こうして人類史上初めて,『天の王国』は人間が目ざして押し進みえる目標となりました。
しかし,個々の人間がその天の王国の成員となる権利を獲得するのはやさしいことではありませんでした。たゆまぬ努力が必要でした。そのことに言及して,王として油そそがれたイエス・キリストはこう述べられました。「バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標であり,押し進んでいる者たちはそれをとらえつつあります」― マタイ 11:12,新。
「押し進」むという考えを伝えているギリシア語の動詞には,“力のこもった努力”という意味があります。だれがそうした力のこもった努力を払いましたか。敵である攻撃者たちですか。そうではありません。バプテストのヨハネが伝道した事柄を信じ,イエス・キリストを王として受け入れた人々です。彼らは王国を目ざし,意を決して奮闘努力しました。あたかも目的物を奪うかのように,あるいは町を奪取するかのように,将来王国の成員となる特権をとらえました。その特権を自分のものにするためには,いかなる努力も惜しまなかったのです。しかし,彼らにそれを促したのは何でしたか。
イエスが一つのたとえ話の中で示されたように,その人々が「王国のことば」を聞いたことから事は始まりました。「種」,すなわち「王国のことば」は彼らの心に根を降ろしました。彼らは『ことばの意味』をつかみました。つまり,神の王国の成員となることのはかりしれない価値に対する認識が彼らの心の中ではぐくまれたのです。(マタイ 13:19-23)王国は彼らにとって他の何ものよりも大きな意味を持つものとなり,王国を『とらえる』ために必要な事柄を行なうよう彼らを動かしました。(マタイ 13:45,46)そのために彼らは,神の律法にそむいたことを悔い改め,悪い道から離れて,悔い改めと回心を象徴する水のバプテスマを受けました。真の認識を持っていた彼らは,天の王国への召しを確かなものにするために,努力し続けました。―ペテロ後 1:10。
さまざまな障害のために,王国をとらえるにはたゆまない努力が必要でした。ところで,だれがそうした障害物を設けたのでしょうか。エホバ神は,ふさわしくない者が王国にはいらないようにするため,障害物を設けられました。エホバによって引き寄せられ,エホバの要求にかなう者だけがはいることができます。(ヨハネ 6:44。コリント前 6:9-11)それらの人たちは,狭い道をたどり,狭い門をみいだし,求め続け,たたき続けなければなりません。そうすれば戸が開かれます。(マタイ 7:7,8,13,14)その中にはいるには,高い地位とか,有望な商業的利益の追求,そうです,目とか手のようにたいせつな物をあきらめることさえ必要かもしれません。―マルコ 9:43-47。
道徳的,また霊的な清さを保たない人は王国から締め出されます。使徒パウロは,ガラテヤのクリスチャンたちに次のことを思い出させました。『それ肉の行為はあらはなり。即ち淫行・汚穢・好色・偶像崇拝・呪術・怨恨・紛争・嫉妬・憤恚・徒党・分離・異端・猜忌・酔酒・宴楽などの如し。我すでに警めたるごとく,今また警む。斯ることを行ふ者は神の国を嗣ぐことなし」― ガラテヤ 5:19-21。
しかし王国にはいるには,道徳的また霊的な清さを保つために肉の傾向と闘うほかに,実を結ぶことも必要です。『ことばの意味』を悟った人々について,イエス・キリストはこう言われました。「良き地に播かれしとは,御言をききて悟り,実を結びて,或は百倍,あるひは六十倍,あるひは三十倍に至るものなり」。(マタイ 13:23)ところで,この実とは何ですか。イエスの弟子となるよう他の人々を援助した結果ですか。それとも,神の霊の実である,愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和および自制といったすばらしい特質ですか。
この場合の実とは,新しい弟子でもクリスチャンのりっぱな特質でもありません。まかれた種は「王国のことば」です。したがって,実とは,その種が何倍にもふえたものに違いありません。実を結ぶとは,王国のことを言い表わすことをさしているのです。そうした表言は感謝している心から生まれます。(ルカ 6:45)他の人々に対する真実の愛ゆえに,王国を受ける立場にある人たちは,他の多くの人々が動かされて神の是認と祝福を得る行動を取るよう,王国のことを語りつづけてきました。その結果,他の多くの人々が神の是認と祝福を得る手段を取るよう動かされました。
むろん彼らは,神の霊が彼らを動かして,王国の「ことば」,もしくは音信を語らせるように,神の霊の実も生み出します。王国の将来の相続者たちは,あらゆることにおいて他の人々に無私の関心を示さねばならないことをよく知っています。イエスと同様,彼らも,霊的にみじめな状態にある人々に同情を示さねばなりません。(マタイ 9:36)さらに,また,兄弟たちの困窮に対して鈍感であることもできません。仲間の信者のためには物を費やし,身をも完全に費やす気持ちがなければなりません。ヨハネ第一書 3章16節から18節はこうさとしています。「我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり。世の財宝をもちて兄弟の窮乏を見,反って憐憫の心を閉づる者は,いかで神の愛その衷にあらんや。若子よ,われら言と舌とをもて相愛することなく,行為と真実とをもて為べし」。
エホバのお定めになった高い要求は,王国にはいってキリストとともに王となる人々が,ひきつづき臣民に善を行ない,臣民をあわれみ深く扱うことを保証します。非難や厳しい迫害,あるいは死の脅威をさえものともせずに,無私の心をもち,義を愛し悪を憎む者であることを証明した彼らが,人を悪行に追いやるあらゆる圧力が過ぎ去った時に,堕落して自分たちの権威を悪用することなどしないのは明らかです。
どの政府についても言えることですが,大方の人々は臣民であって支配者ではありません。天の相続者として『王国をとらえる』人々の数は限られています。(黙示 14:1,3)しかし,試練のもとで愛を表わし,神の是認を得た人々の支配下で生活するのはすばらしいことではないでしょうか。もしそれがあなたの望みであれば,将来の天の支配者たちに要求されている事柄を行なうことによって,神の王国の地上の忠実な臣民となる機会をとらえてください。
確かに,それは努力のいることです。しかし,わたしたちはそうであることを喜ぶべきです。イエス・キリストの共同相続者として『王国をとらえる』にせよ,あるいはその臣民として命を得るにせよ,そのために達しなければならない高い規準は,利己的で愛がないために他の人の生活を脅かすことしかしない人々を排除します。ですから,わたしたちの願いは,神に是認され,その祝福を受けうる人となるべくあらゆる努力を払って,王国の価値に対する認識を表わす人々の中に数えられるよう決意することです。
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交わることに関して神に従うものみの塔 1972 | 7月15日
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交わることに関して神に従う
エホバの証人は『悪しき交際は善き風儀を害う』ことを知っています。証人ではなかった,次の若者の経験はこの原則に聞き従うことの価値を示しています。
「私にはとても好きな少女がいました。彼女がエホバの証人になる前から,学校で彼女のことをよく知っていました。彼女は,エホバの証人と聖書を勉強しはじめた時,この世の男の子ともうでかけないし,家にも来てほしくない,と私に言いました。彼女が聖書を定期的に研究し,バプテスマをさえ受けていたのに,私は神に対する彼女の忠誠を打ち砕こうと試みました。しかし,このすべては失敗しました。私はうそをつくことさえしはじめ,私も聖書の真理が好きだといって彼女を欺こうとしました。そうです,私は王国会館のいろいろな集会に行きました。また雪の日でさえ伝道にでかけました。このようにしているのだから,今や彼女は自分のものだと考えたのです。
「私は郊外で働いていたので,ほとんど毎日彼女に手紙を書いたり,電話をかけたりしました。贈物を送り,それを受けとってほしいとたのみましたが,彼女は決してそうしませんでした。その時私は,今まで彼女以外のどの女の子も自分の思いどうりにできたのだから,彼女の新しい宗教には何かがあるに違いない,とひとりごとをいいました。そこで聖書の質問をしはじめ,多くの質問をすればするほど答えをいっそう楽しむようになりました。熱心に聖書を研究しはじめ,ほどなくして自分の命をエホバ神にささげました。そうです,今や私はエホバの証人の一人であり,この忠実な若い婦人は私の妻となっています。彼女が神の原則にこれほどまでに忠実に従ったことを,私はなんと感謝しており,幸福に感じていることでしょう。
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