-
自制の価値と必要ものみの塔 1969 | 11月1日
-
-
自制の価値と必要
「霊の実は…自制…である」― ガラテヤ 5:22,23,新。
1,2 (イ)自制の大切さをどのように言い表わせますか。(ロ)自制について使徒パウロ述べたことばはこのことをどのように裏づけていますか。
クリスチャンにとって自制は必要ですが,このことはどれほど大切ですか。いくら強調しても強調しすぎることがないほど大切です。事実,愛について述べた使徒パウロのことばを次のように言いかえることもできるでしょう。『たといわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし自制がなければ,いっさいは無益である』― コリント前 13:1-3,口語。
2 これは誇張のように思えますか。では使徒パウロの別のことばに注目してください。イエス・キリストの追随者で,パウロほど良いたよりのために熱心を表わし,忍耐した人はいません。それはパウロ自らがコリント後書 11章22-33節で証しているとおりです。ところが,熱心と忍耐そして,そうです,実り豊かな宣教の目ざましい記録を持っていたにもかかわらず,自制の必要についてパウロはこう述べました。「わがからだを打たゝきてこれを服従せしむ。おそらくは他人に宣伝へて自ら棄てらるることあらん」。労苦をきわめ,忍耐をつくしながら,すべてがむなしく終わることほど無残な悲劇はありません。しかしパウロが自制を怠ったなら,おそらくすべてはむなしく終わったでしょう。―コリント前 9:27。
3,4 (イ)自制を定義しなさい。(ロ)どんなたとえで自制を説明できますか。
3 確かに自制はきわめて肝要です。それにしても自制とはどういう意味ですか。自制とは,「自分の衝動,感情あるいは欲望を制すること」,「自分の能力やエネルギー,特に性向および感情を制御する行為あるいは力もしくは習慣」と定義されています。もとよりこのことばは,誘惑あるいは圧力を受け,愚かな,もしくは利己的な仕方で行動する危険がきわめて大きな場合に自らを制するという意味をもっています。
4 自制の価値と必要は自動車のたとえで説明できます。車のエンジンは出力35馬力のものから400馬力のものまであります。しかしこうした出力もさることながら,そうした動力を制御することも出力に劣らず大切です。運転中の車の速度や進行方向を制御できないとすれば,その車になんの価値がありますか。それは死を招く凶器にすぎません。
5 自制が必要な理由を述べなさい。
5 人間は他の動物と異なり,本能だけで支配されているものではなく,神のかたちとさまに似せて創造された倫理的に自由な行為者です。したがってエホバ神の付与されたさまざまな賜物や能力を愛の心から賢明に使うこともでき,かつ悪用することもできるのです。このゆえに自制の問題が生じます。無生の自然の力,たとえば,たつまき,台風,津波,雷光などの力は,さまたげられなければ重大な災害をもたらします。同じように,創造者が人間に付与された,精神や感情また肉体の力も,もし制御しなければ,大きな害をもたらすものとなり得ます。―箴言 25:28。
自制の欠如が招く害
6 自制の欠如が招く悪い結果を幾つかあげなさい。
6 どこを見ても,たとえば自分の周囲を見,あるいは歴史を回顧しても,人間の男女,特に若者が自制を怠って招いた悪い結果に気づきます。新聞あるいはラジオやテレビで報じられる数多くの恐るべき殺人事件は,憎しみや欲求不満を殺人によって晴らそうとする強い衝動を制御しなかった結果です。別居,遺棄,離婚に終わる,いたるところに見られる不幸な夫婦生活はもちろんのこと,性病のまん延,多数の私生子の出生などの原因は自制の欠如にあります。第一次世界大戦中,銃弾で負傷して廃人となった者より,性病のために廃人と化した人間のほうが多かったと言われています。また,現在行なわれているベトナム戦争に関する最近の一報告は,兵士の4分の1以上が性病に感染していると伝えています。アルコール飲料に対する欲求を制し得ない人が陥る泥酔についてはいかがですか。また,運転する人がいらいらしたり,注意をそらしたりする場合など,自制の欠如が原因で起きる自動車事故はどれほどあるでしょう。医学的な研究も明らかにしているとおり,“衝動にかられやすい性格”の人,つまり自制心の乏しい人の無謀な行動による事故が再三起きています。
7,8 (イ)自制の欠如に関しエバとカインはどんな例を残しましたか。(ロ)自制の欠如に関しほかにどんな例が聖書にありますか。
7 聖書には,自制を怠って生じた悪い結果に関する警告的な例が数多くしるされています。エバはその最初の例と言えるでしょう。エバは「その木を見ると,それは食べるに良く,目には美しく……好ましいと思われた」ので,自制するどころか,誘惑に屈し,その実を食べました。(創世 2:16,17; 3:2-6,口語)カインは怒りの感情に支配されてはならないと警告されたにもかかわらず,自制しなかったために,自分の弟を殺し,永遠の命の希望を得そこない,自制の欠如ゆえに殺人を犯した多数の人間の最初の者となりました。―創世 4:5-7。ヨハネ第一 3:12。
8 また,ロトとその家族が,滅びに定められたソドムの町からのがれた時,うしろを振り返ってはならないとの命令に従うにもやはり自制が必要でした。ロトの妻は自制しなかったため自らの滅びを招きました。イエスはこのことをご自分の追随者に対する戒めとして用いられました。(創世 19:17,26。ルカ 17:32)ヤコブは臨終に際し,自制に欠けていた長子ルベンにきびしい非難のことばを述べましたが,ルベンはその父のそばめのひとりから誘惑されるままに行動したようです。そして『水の沸あがるがごとく』父の床を汚しました。(創世 49:3,4)自制心を失ったサウル王は国の危急の時に際し,預言者サムエルが来て犠牲をささげる時まで待つことができず,結果として,イスラエル王国の王位を失いました。(サムエル前 13:8-14)また,エホバに仕えた忠実なしもべたちの中にも,自制しなかったばかりに,あとあとまで悔いを残す悲痛な事態に陥った人がいます。戒めとなるこうした先例のすべては,自制の必要を如実に物語っています!―創世 9:20,21。民数 20:7-13。サムエル後 11:1–12:15。
自制の手本
9,10 自制の最大の手本をわたしたちに示されたのはどなたですか。その手本をどのように示されましたか。
9 一方,神のことば聖書は自制する決意を強める数多くのすぐれた手本を示しています。第一の手本はほかならぬエホバ神ご自身です。エホバ神が自制なさるのですか。そうです,エホバご自身がこう語っておられます。「われ久しく声をいださず黙して己をおさへたり」。(イザヤ 42:14)不忠実なイスラエルは直ちに処罰されて然るべきでしたが,エホバは自らをおさえられたのです。エホバの資質やお目的を知らない人々は,神が悪や苦しみを許しておられるゆえに不平をこぼしますが,次のことを理解していません。つまり神は賢明にも,また愛の心からそうした事柄を許しておられ,そしてこれが神の大いなる自制を物語っているということです。どうしてそう言えますか。
10 エホバ神は自由に行使できる無限の力を持っておられます。そしてそれを,いつでも御心のままに自由自在に行使できます。しかし神はご自分の力を公正で賢明な,かつ愛のある仕方でのみ行使されます。エホバは寛容で,そのみことばにもあるとおり,怒ることの遅いかたです。怒ることに遅いのは,ご自身の義憤を制せられるからではありませんか。(詩 103:8; 145:8。エレミヤ 15:15。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。ナホム 1:3)神はノアの日の邪悪な世代の人々を滅ぼすのに120年待ち,また,紀元前607年,不忠実なイスラエルに対しついにさばきを執行するまで幾世紀も待たれました。(創世 6:3。歴代下 36:15,16)サタンと配下の悪霊およびその手先となった人間は絶えずエホバの正義を犯し,その権威を侮べつし,冒瀆,中傷,反逆をもって神を侮っています。聖書も示すとおり,神は情を持っておられます。ではそうした事柄に憤りを感じてはおられないでしょうか。確かに感じておられます! しかし神は幾千年ものあいだそれを忍んでおられるのです。神はその知恵と愛のゆえに自制しておられます。
11 イエスはどのような点で自制のすぐれた手本を残されましたか。
11 また疑いなく,神の御子イエス・キリストは人間としての自制の最大の手本を残されました。イエスはその地上における宣教中,ご自分の力,つまり精神力あるいは感情を制し切れなくなったことはなく,また,無分別あるいは無思慮な言動をなさったことは一度もありません。「ののしられてののしらず,苦しめられておびやかさず」としるされています。(ペテロ前 2:23)それには確かに自制が必要でした! それでマタイ伝 27章13,14節はこう述べています。「ここにピラト彼にいふ『聞かぬか,彼らが汝に対していかにおほくの証拠を立つるぞ』されど総督のいたくあやしむまで,ひとことも答へ給ず」。これは尋常なことではありません。しかしエホバの預言者は,イエスがさばきを受けるときに関し,「みづから……口をひらかず」と前もって述べていました。ゆえにイエスは自らを制し,さまざまな偽りの証言が行なわれたにもかかわらずひとことも話されませんでした。ほんとうにイエスはわたしたちの見習うべき,特に支配者の前に立つような重大な事態に際して従うべきすばらしい,そうです,完全な自制の手本を残されました。―イザヤ 53:7。
12-14 ヨセフは自制のどんな手本を残しましたか。ギデオンやサウル王はどうですか。またダニエルとその3人の仲間についてはどうですか。
12 神のことばに再三示されているとおり,わたしたちと同様に不完全で弱い,エホバのしもべたちが残したすぐれた手本も,イエス・キリストに見習うことを励ますものです。ポテパルの妻の執ような求めに悩まされたヨセフは,自制のなんとすぐれた手本を残したのでしょう!(創世 39:7-20)また自制に関する昔の別のすぐれた手本を残したのはさばき人ギデオンです。彼はミデアン人との戦いで勝利を収めたのち,しっと深いエフライムの人々と対面しました。エフライム人は言いがかりをつけてギデオンにけんかを売ろうとしました。ギデオンは,勝利に酔った勢いで容易に怒りを発し,彼らに非難のことばを述べ,それがもとでイスラエル人のあいだに流血の戦いを引き起こすこともあり得たのです。しかしギデオンは自らを制し,彼らに対し巧みに賛辞を提し,事を起こさずに人々を帰らせました。彼は感情ではなく理性に基づいてことばを出しました。―士師 8:1-3。
13 サウル王は前述のとおり,自制の欠如のため後日王位を失いましたが,最初はこのすぐれた資質を表わしました。王位についてまもなくのこと,一部の「よこしまな人々」からさげすまれました。人々は「かの人いかで我らを救はんや」と言って冷笑し,エホバ神ご自身によって自分たちの上に立てられた王を認めたしるしとしての贈り物を王に携えませんでした。サウルはこれに腹をたて,口汚なくののしったり,どなったり,あるいは彼らを処分したりすることもできました。しかし彼は事を荒だてようとはせず,自らを制しました。「サウルは唖のごとくせり」とあります。憤慨したときに黙っているのはなんと賢明なことでしょう!―サムエル前 10:27。
14 ほかにも多くの人々があげられますが,その中にダニエルと彼の3人の若い友だちがいます。奴隷としてバビロンに連れて行かれた彼らには,皇帝の命令で最上の食べ物と飲み物が供えられました。バビロン人はもとより仲間の奴隷たちの他の者は皆そうした飲食物を喜んで食べましたが,ダニエルとその3人の友は,モーセの律法から見るとき,それらのごちそうが汚れたものだったので食べようとしませんでした。彼らはこうして自制したため,エホバの豊かな祝福を受け,王に仕えていた他の賢人たちのだれよりも賢いことを示しました。そして明らかに彼らはこうした自制のゆえに心を強められ,試練に直面したときには,4人ともしっかりと立ち,誠実さを保つことができました。―ダニエル 1:8-20; 3:16-30; 6:4-28。
飲食に関する自制の必要
15-17 (イ)クリスチャンは自分たちのどんな事実のゆえに自制する義務がありますか。(ロ)飲食に関する自制の必要性を示す事実,理由また聖句を述べなさい。
15 クリスチャンが自制を必要とする強力な理由は数多くありますが,その一つは管理の仕事をゆだねられているということにあります。クリスチャンはエホバ神に献身したゆえに,数々の特権や技術のみならず,自分の時間や資力そして力などの管理をゆだねられています。こうした管理の務めを正しく遂行するには飲食の場合と同様,自制が必要です。自制心に乏しい大酒飲みや大食家は明らかにお金ばかりか時間や体力をも浪費しています。(箴言 23:20,21)しかし,そうした極端を避けてさえいれば自分は飲食の点で正しく自制していると考えるのはまちがいです。自制していないかもしれません。たとえ泥酔しなくても,お酒のために盛んにしゃべったり,あるいは眠くなったりするなら,やはり飲みすぎているのです。同様に,大食とまではゆかなくとも,食事をしてだるくなったり,眠くなったりするなら,それもやはり食べすぎです。それぞれ事情によって異なります。
16 次の助言は飲食に関する自制を暗示しています。「食ふにも飲むにも何事をなすにも,すべて神の栄光をあらはすやうにせよ」。(コリント前 10:31)クリスチャンは,あたかも飲食が人生の最大の喜びであるかのように,食べるために生きているのではありません。確かにそうではありません。クリスチャンは良いたよりのためであれば進んで飲食のことを二の次にすべきでしょう。簡素で,あまり手の込んでいない食物を適度に食べるのはからだにとって最も良いことです。またそのような食事は経済的です。クリスチャンはこのことを軽く見てはなりません。適度の食事をとる習慣は,全時間奉仕を継続できるかどうかを左右することがあるからです。次のような賢明な助言があります。「治める人と共に座して食事するとき,あなたの前にあるものを,よくわきまえ,あなたがもし食をたしなむ者であるならば,あなたののどに刀をあてよ」― 箴言 23:1,2,口語。
17 クリスチャンは御国の事柄とその祝福にあずかるため,食卓に臨んで進んで自制すべきでしょう。たくさんの食事を先にとったため眠けをもよおしているのでは,聖書の講演から多くを学ぶことはできません。わたしたちは「おのが腹を神とな(す)」者,あるいは「己が腹につかへ(る)」奴隷になりたいとは思いません。イエスの次のことばはなんと適切でしょう。「食べすぎ,飲みすぎ,生活のわずらいなどのためにあなたがたの心が鈍るようになり,その日が突然わなのようにあなたがたに臨むことのないよう,自らに注意しなさい」。飲食において自制することは敬虔な信仰の一部です。そしてこれは現在の生活と将来のそれとを問わず,すべてのことに有益です。事実,今日のほとんどすべての悪性の疾病の一因は栄養のとりすぎにあると見ている医学の権威者もいます。―ピリピ 3:19。ロマ 16:18。ルカ 21:34,35,新。テモテ前 4:8。
18 飲食において自制することは,どんな二つの点で,感情を制するのに役だちますか。
18 そのうえ,食卓で自制すると,人間の情を制するのに役だちます。これには二つの面があります。まず,ある事柄で自制すると,他の事柄においても自分を制することができるようになります。ですから,あるりっぱなクリスチャン奉仕者はピーナツが大好物だったので,それをポケットに入れて歩き,ほしくなってもがまんして,自制心を訓練したと語っています。ピーナツを食べたいという気持ちを制することによって,他の事柄でも自制できるようになりました。第二は,食生活に節度を保つ人ほど性欲に悩まされることが少ないという点です。これは自制を必要とする別の分野です。それで,『好色家は強壮になるほど悪に落ちる』とは当を得たことばです。
異性との関係における自制の必要
19 (イ)自制に対する最大の挑戦と言えるものはなんですか。またこのことを示すどんな事実がありますか。(ロ)これはなぜですか。しかしそれはエホバの愛の表われと言えます。どうしてですか。
19 異性との関係における自制の必要はどちらかといえば,飲食における自制よりも大切で,かつむずかしい事柄であり,また,より重大な結果を伴うものです。それは自制の問題中,最大の挑戦ということもできるでしょう。毎年全世界にわたって文字どおり幾千人もの献身したクリスチャンが,異性に対しクリスチャンとしてふさわしくないふるまいをしたため排斥されています。そしてその理由は,この問題に関する事柄を考えると容易に理解できます。エホバ神は最初の人間夫婦に対し,多くの子供を生んでふえるようにと命ぜられたばかりでなく,互いに求め合う強力な誘引力をふたりに付与されました。それはきわめて強い力であるため,家庭生活に伴うさまざまな重荷を苦にする人が生殖力の行使を断念して,人類家族の自滅を招くようなおそれは決して生じません。これはまた,エホバ神の愛の別の表われでした。なぜなら神は,男女が互いに求め合うとき,ふたりがきわめて大きな喜びを味わえるようにされたからです。こうして,どんな質素な暮らしをしている人でも,また特別の才能あるいは多くの富の有無にかかわりなく,あらゆる人が生活上の最大の祝福の一つを享受できるようにしてくださったのです。―創世 1:26-28; 2:18-24。
20,21 (イ)エホバ神はなぜ性の賜物を律するおきてを定められましたか。(ロ)この点で神の律法を犯す人について,神のこのことばはなんと述べていますか。
20 しかし賢明かつ公正,また合理的なことに創造者はこの賜物に関して制限を設けられました。これは専横どころか,人間自身の益,なかんずく弱い器である女性と,またそうした祝福の結果に生まれる子孫との益をはかってのことでした。この理由で神は淫行や姦淫を禁じられました。人間には飲食が必要です。しかし,そうだからといって飲食物を盗んだり,暴食したり,泥酔したりしてよいというわけではありません。同様に,神の律法や,自分自身あるいは他の人に及ぶ結果を考えず,勝手気ままに性の力を行使してはなりません。ゆえに,考えやことばおよび行為によってこうした性本能を表わす際には自制を行使することが要求されているのです。この理由で神のことばは夫に対しこう戒めています。「汝おのれの水溜より水を飲み おのれの泉より流るる水をのめ」― 箴言 5:15-23。
21 そうです,性本能を呼びさまし,充足させるときの快感はきわめて甘美なものです。ゆえに堕落した人間の心には,そうした快感をほしいままにしようとする強い傾向が宿っています。しかしこの営みは結婚のわくの中で行なわれるのでないかぎり,「淫行,けがれ,好色」など「肉の行為」として聖書で非とされています。こうしたことを行なう人は神の国の祝福から退けられます。それは聖書にこう述べられているとおりです。「聖徒たるにかなふごとく,淫行,もろもろのけがれ,またむさぼりを汝らのうちに称ふることだにすな……すべて淫行のもの,汚れたるもの,むさぼるもの,すなはち偶像を拝む者ども(は)キリストと神との国の世嗣たることを得ざる(なり)」― ガラテヤ 5:19-21。エペソ 5:3,5。
22 異性間の注意深いふるまいに関し,聖書は人間男女にどんな助言を与えていますか。
22 堕落した人には他の者を誘惑することを喜ぶ傾向が見られますから,特にクリスチャン男子は言行に関して注意深く自制し,異性の心にみだらな思いをいだかせないようにすべきです。一方,クリスチャン婦人はよく注意して,「慎みてよろしきにかなふ衣にて己を飾(る)」ようにすべきです。女性にとって男らしさは喜びをもたらします。同様に男性にとって女らしさは喜びを与えます。しかし慎みを欠いた女らしさはみだらな喜びを与えるものです。この点,ミニスカートは慎みのあるものとはとても言えません。マタイ伝 5章28節にしるされているイエスのことばには女性にとって深い意味があります。どうしてですか。なぜなら,クリスチャン婦人は扇情的な装いをしてはならず,男子を誘惑して自分に目をつけさせ,男心を手玉にとってあつかましい楽しみを味わってはならないからです。また,このことばを犯す男子は,自分が罪を犯すだけでなく,相手の情欲を呼びさまし,女性にも罪を犯させることになるでしょう。年配の婦人を「母のごとく……若き女を姉妹のごとくに全き貞潔をもて」取り扱うべきであるとすれば,クリスチャン会衆内の男女双方が各々の分を果たさねばなりません。―テモテ前 2:9; 5:1,2。
他の分野で行使する自制
23,24 クリスチャンは他のどんな分野でも注意深く自制すべきですか。
23 創造者は人間以外の下等動物には自制を行使する義務を課されませんでした。それら動物は生来の本能に従うだけで十分やってゆけます。そして定められた寿命だけ生きて,それぞれに対する神のお目的を果たします。しかし人間は違います。エホバ神は思考力,良心そして意志を人間に付与されました。ところが人間が堕落したためそれらの働きはそこなわれました。したがって不完全な人間は喜びを味わえる事柄ではそれが何であれ,極端に走らないよう絶えず自分を懲らしめなければなりません。ですから,スポーツ,いろいろな趣味その他の娯楽は,もし限度を定め,それを正しい位置にとどめ,またもし適度に楽しむのであれば,なんら悪いものではありません。なんらかの趣味あるいはテレビを見るにしても,健全な娯楽を適度に楽しむのがむずかしいなら,そのわなに陥るよりは,そうした楽しみをきっぱり断つほうが賢明でしょう。―マルコ 9:43-48。
24 日常の世俗の仕事についてさえ同じことが言えます。それはなかなか興味深い,あるいは挑戦に富んだ仕事かもしれません。または高収入その他の益のゆえに報いの多い仕事と思えるかもしれません。そしてこうした事柄のため,自制することを忘れ,無理をして働くようになる場合もあります。そのような人の多くは高血圧や心臓発作で倒れることがあります。それにまた,多くの人は物質的なものを獲得することで自分を制することができません。そのような人はセールスマンの口車に容易に乗せられておろかな買い物をし,負債を作るようになります。
25 自制の価値と必要性に関し,この記事ではどんなことを取り上げましたか。
25 確かに自制の価値と必要性はいくら強調しても強調しすぎることはありません。自制しないかぎりクリスチャンとしてのわたしたちの働きは「おそらく」ことごとくむなしくなってしまうでしょう。自制の欠如のため人類は罪と死への道を歩むことになり,またエホバのしもべたちの多くが堕落し,不幸に陥りました。しかし聖書中の多数の人間が示したとおり,自制することは可能です。とくに飲食や性そして娯楽などの楽しみ,つまり楽しみを味わえる事柄に関して,賢明で忠節かつ正しいことを行なうには,確かに自制が必要です。
-
-
『あなたがたの知識に自制を……加えなさい』ものみの塔 1969 | 11月1日
-
-
『あなたがたの知識に自制を……加えなさい』
「このゆえに励みつとめてなんぢらの信仰に徳を加へ,徳に知識を,知識に〔自制〕を(加へよ)」― ペテロ後 1:5,6,〔新〕。
1,2 (イ)わたしたちの知識に自制を加えなさいとのペテロ勧めはなぜきわめて適切ですか。(ロ)自制するのは容易なことではありません。なぜですか。
神のことばはその中に収められている知識を人間が習得することの大切さを強調しています。そうした知識を取り入れたことは永遠の命を得るのに不可欠です。イエスも言われました。「唯一のまことの神であられるあなたと,あなたのつかわされたイエス・キリストとの知識を取り入れること,これは永遠の命を意味します」。(ヨハネ 17:3,新)しかしすでに見たとおり,知識があっても自制がなければ命を得ることはできません。したがって使徒パウロの次の助言はきわめて適切です。「このゆえに励みつとめてなんぢらの信仰に徳を加へ,徳に知識を,知識に〔自制〕を(加へよ)」― ペテロ後 1:5,6,〔新〕。
2 自制することの価値と必要が大きいだけに,自制するには相当の努力が必要です。なぜですか。明らかにある人にとっては他の人の場合よりもいっそう大きな努力が必要です。それにしても「神にふさわしく歩み続ける」には円熟したクリスチャンでさえ絶えず用心しなければならないのはなぜですか。(テサロニケ後 2:12,新)なぜなら,今日の状態の下で義の道につき従うことは,最も安易な道を進むことの正反対だからです。また,わたしたちがクリスチャンとして戦っている三つの敵,すなわち肉のからだ,この世そして悪魔のゆえに,そう言えるのです。
3 人間のうちに宿るどんな敵のゆえに自制するのはむずかしいことですか。どんな聖句がこのことを示していますか。
3 まず第一に生まれつき受け継いだ,堕落を好む肉体の性向があります。そうです,人間はさまざまな身体的欠陥を先祖から受け継いでいます。同様に道徳的弱さあるいは人格上の欠点をも受け継いでいます。これは否定できません。「父が酸き葡萄を食ひしによりこどもの歯うく」とあるとおりです。エホバご自身も大洪水の直後,人間に関してこう言われました。「人の心のはかるところその幼少時よりして悪かればなり」。それに,生まれつき才能のある人,あるいは激しい性格の人ほど自制するのがむずかしいようです。この事実は一般の歴史のみならず聖書中の実例によっても再三示されています。特に使徒パウロは,エホバのしもべすべてが自制する際に感ずるむずかしさをよく述べています。「我はわがうち,すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る,善を欲すること我にあれど,これをおこなふことなければなり。わが欲するところの善はこれをなさず,かへって欲せぬところの悪はこれをなすなり」。パウロが,自制をする上で手にあまる戦いをしている自分を認めていたことは明らかです。しかし彼自身のことばやその記録から明らかなとおり,パウロは肉の弱さとの戦いを決して放棄せず,また肉の弱さに負けませんでした。さもなければ次のように書けなかったはずです。「我らこの職のそしられぬため何事にも人をつまづかせず」。彼は自分のからだを打ちたたいて絶えず制御しました。それで利己的な思いや,ささいな事柄における自制の欠如を防ぐ戦いを続けるなら,重大な罪に屈してつまずくことはまずないでしょう。―エレミヤ 31:29。創世 8:21。ロマ 7:18,19。コリント後 6:3。コリント前 9:27。詩 51:5。マルコ 14:72。
4,5 (イ)自制に努めるとき,目に見えるどんな敵に直面しなければなりませんか。(ロ)目に見えないどんな敵が存在しますか。
4 第二に,自制しようとするわたしたちの努力に対し,不敬虔で利己的な人間から成るこの邪悪な事物の体制が逆らっています。人々は自分個人の益を図るため,弱点につけこんでわたしたちを食いものにしようと努めるのです。(ヨハネ第一 2:15,16)もし自分の欲情に屈して,飲食にふけり,汚れたみだらな行為に携わり,わいせつ文書を読み,不道徳な内容の映画を見,スポーツに熱中し,あるいは自分の資力に不相応な物品を買って不必要な負債をかかえたりするなら,不敬虔な人々に仕えることになります。それにまた,わたしたちのまわりにはこうした誘惑に屈する人々の実例もあるのです。
5 第三に,わたしたちは現存するこの邪悪な事物の体制を背後であやつっている者,すなわちその神であるサタンと配下の悪霊と戦わねばなりません。(コリント後 4:4。エペソ 6:12)サタンはエバをして自制に欠けた行為をさせることに成功し,きわめて卑劣なことに,イエスにさえ同様の行ないをさせようとしました。(マタイ 4:1-10)わたしたちは目に見える敵だけでなく,見えない敵と戦っていることも決して忘れてはなりません。その敵のかしらは,「ほゆる獅子のごとくへめぐりて呑むべきものを尋(ね)」ているのです。―ペテロ前 5:8。
神の霊と神のことばはわたしたちの助け
6 (イ)自制を身につける助けとして,エホバはどんな強力な力を備えてくださいましたか。(ロ)特にどうすればそうした力を得ることができますか。
6 しかし自制するわたしたちに逆らう強力な力が働いてはいても,わたしたちが自制するのを助けるさらに強力な手だてがあります。その主要なものは神の聖霊とそのみことば聖書です。「エホバのたまふ これは権勢によらず能力によらず わが霊によるなり」とあるとおりです。(ゼカリヤ 4:6)パウロは,自制をする上で神の聖霊がどれほど大きな助けになるかを明らかにしてこう語りました。「御霊によりて歩め,さらば肉の慾をとげざるべし」。これこそ自制の道です! 何はともあれ,霊に満たされている神のことば聖書を定期的,かつ熱心に読んで心を養うとき,聖霊を得ることができます。聖書は創世記から黙示録にいたるまで,直接また間接に自制を勧めることばで満ちています。すでに見たとおり,聖書には自制の欠如が招く悪い結果を戒める多くの例はもとより,自制することの知恵とその報いを示す多数のすぐれた手本もしるされています。―ガラテヤ 5:16。
7-9 (イ)自分の考えを制することに関して神のことばはどんな助言を与えていますか。(ロ)わたしたちの霊すなわち感情についてはどうですか。(ハ)愛情,願望,あるいは欲望についてはどんな助言がありますか。
7 神のことばが率直に勧めていることの一つは自分の考えを制することです。生まれながらに受け継いだ弱さや,周囲の不完全かつ邪悪な状態のため,悪い考え,すなわち高慢で無情で怒りを含み自分をあわれむ不純な考えをいだくのはきわめて容易です。この理由でわたしたちは,『心を作り変え』,自分を訓練し,『真実なこと,正しいこと,清いこと,愛すべきこと,徳とされること,賞賛に値することを考え続ける』ように勧められているのです。思考の面でわたしたちの目ざすべき目標は,「すべての念をとりこにしてキリストにしたがは(せる)」ことにあります。なんと高い規準がおかれているのでしょう。―ロマ 12:2,新。ピリピ 4:8,新。コリント後 10:5。
8 また神のことばを定期的に読めば,自分の霊,すなわち自分の気持ちや感情を制することに関する数々の率直な助言が得られます。「怒りをおそくする者は」,怒ることの早い,したがって自制に欠けている「勇士にまさり」,「自分の心を治める者は」,「城を攻め取(っても)」,自分の心を制御できない「者にまさる」のです。そうです,「おのれの心をおさへざる人は石垣なき壊れたる城のごと(く)」,なんら防衛のない人です。―箴言 16:32,口語; 25:28。
9 それにまた,神のことばは,愛情,願望,欲望など,わたしたちが心にいだく事柄を制するための率直な助言を与えています。そうした事柄はきわめて重要です。なぜならあらゆる問題がそこから始まるからです。そうした事柄を絶えず制していたなら,クリスチャン会衆から排斥されるような罪をいったいだれが犯し得たでしょうか。イエスがきわめて適切に警告されたとおり,「それ心より悪しき念いづ,すなはち殺人・姦淫・淫行・ぬすみ・偽証・そしり」などのすべては人を汚し,腐った実を生み出します。(マタイ 15:19,20)ゆえに次のような賢明な助言があります。「すべてのまもるべき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」。そうです,楽しいものではあっても,神の目から見て悪い事柄を思いめぐらすとき,人は誤った方向に第一歩を踏み出すことになります。弟子ヤコブも述べたとおり,『人が誘われるのは』,神の禁じられた事柄を思いめぐらし,『己の欲に引かれて惑わされる』のです。そして,「欲はらみて罪を生み,罪成りて死を生む」のです。神のことばを熟読するなら,自分の考えや自分の心そして自分の欲望を制するための数多くのすぐれた助言が確かに得られます!―箴言 4:23。ヤコブ 1:14,15。
10 舌を制することについて神のことばはなんと述べていますか。
10 また,神のことばからは舌を制する必要に関する多くの助言も得られます。賢い王ソロモンはこの点でわたしたちに対し再三助言を述べています。たとえば箴言 10章19節はこう述べています。「ことばおほければ罪なきことあたはず,その口唇を禁むるものは智慧あり」。霊感を受けたクリチャン記述者は同様の助言を述べています。「聖徒たるにかなふごとく,淫行,もろもろのけがれ,またむさぼりを汝らのうちにて称ふることだにすな。また恥づべきことば,愚なる話,たはむれごとを言ふな,これよろしからぬことなり,むしろ感謝せよ」。(エペソ 5:3,4)特に弟子ヤコブは舌を制することの必要さについて多くを語り,もし自分の舌を制しなければ,わたしたちの崇拝の様式はむなしいものであるとさえ述べています!―ヤコブ 1:26; 3:1-12。
11 聖書はわたしたちの歩みかたに関しどんな助言を述べていますか。
11 考え,そしてことば,次は行為です。そうです,神のことばで心を養えば,そこから得られるすぐれた助言のゆえに,自分の行為を制御できるようになります。聖書がわたしたちに与えているそのような助言の中には,どのように歩むべきか,また,どうふるまうべきかに関する助言があります。使徒パウロは,自分が手紙を書き送った会衆のすべてに対し,このことについていくらかでも触れています。それほどこの問題を重視していたのです。したがってローマのクリスチャンにはこう助言しています。「昼のごとく正しく歩(め)」。エペソのクリスチャンにはこう勧めました。「あなたがたは十分に注意して,賢くない者ではなく,賢い者のように歩き,自分のために,よい時間を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからである」。コロサイの人々に対しては,「あなたがたが,すべての知恵と霊的な分別とにおいて,神の御心に関する正確な知識で満たされ……エホバにふさわしく歩んで彼を十分に喜ばせ,すべての良いわざにいよいよ実を結(ぶように)」と祈りました。また新しく組織されたテサロニケの会衆にあててパウロは,「わたしたちは……あなたがたひとりびとりを勧め……続けた。……あなたがた(が)……神にふさわしく歩み続けるためである」。「あなたがたが……正しく歩(む)……ためである」。正しく歩み,また,神にふさわしく歩み,そして十分に注意して歩むには,すべて自制が必要です!―ロマ 13:13。エペソ 5:15,16,新。コロサイ 1:9,10,新。テサロニケ前 2:11,12,新; 4:12,新。コリント前 3:3。ガラテヤ 5:16,25。ピリピ 3:16。
自制の助けとなる他の活動
12 交わりに注意することは自制するのにどのように助けとなりますか。
12 神のことばを勉強することのほか自制の助けとなる他の活動の一つは,ヘブル書 10章23-25節にある助言に従って仲間のクリスチャンと交わることです。仲間のクリスチャン兄弟たちはやはり自制の必要を認めていますから,そうした兄弟たちと交わることによって,自分も自制できるように助けられるでしょう。みだらな行ないにふけるよう兄弟たちから誘惑されることはまずありません。休暇については特にそうです。御国宣教学校や大会に出席したり,必要の大きな区域や孤立した区域で奉仕したりして休暇を過ごすのは身の守りとなります。しかし休暇あるいは他のいつを問わず,自制に関してわたしたちの持っている高い規準を知らない人々と交わるなら,そうした人々をまねて良い習慣を台なしにしてしまうかもしれません。次のような賢明な戒めがあります。「怒る者と交ることなかれ,憤ほる人とともにゆくことなかれ,おそらくは汝その道にならひてみづからわなに陥らん」。こうした人と進んで交わるのはまちがいです!―箴言 22:24,25。コリント前 15:33。
13 忠実な野外奉仕は自制を培うのに,どのように助けとなりますか。
13 また,クリスチャン宣教に忠実かつ熱心そして着実に携わることは自制の助けとなります。土曜日の夜,就寝時間になったら床につき,すばらしい気分で日曜日の神権的な活動を行なえるよう十分の休息をとるには自制しなければなりません。野外奉仕のために他のクリスチャンたちと会えるよう,日曜日の朝早く起きるには自制が必要です。天候が荒れていたり,戸口で会う人々がほとんど関心を示さなかったりしても,予定の時間まで宣教を続けるには自制しなければなりません。また戸別訪問の際には,自制心に対する挑戦とも言えるむずかしい状況にもしばしば直面します。侮辱される,つまりいわばほほを打たれるかもしれません。しかし良いたよりのために別のほほを向けるでしょう。それには確かに自制が必要です。また,官憲に求められて,自分のいだいている希望の理由を,柔和さとうやうやしい態度をもって弁明するにも自制がいります。怒った家の人に戸口で柔和な態度をもって答えるにも同じことが言えます。―マタイ 5:39。ペテロ前 3:15。箴言 15:1。
14 自制を身につける上で祈りはどんな助けとなりますか。
14 このほか,自制を培う助けとなるのは祈りです。神にしばしば近づくのは大きな助けとなります。困った時や緊急な時,あるいは誘惑に面した場合,神に助けを求めてください。祈りを決しておろそかにせず,むしろ,習慣にしてください。むろん形式的な習慣ではなく,誠実で熱心かつ心から祈る習慣を身につけましょう。神に助けを願い求め,かつ求め続け,また自制を欠いたなら神の許しを求めてください。そのたびに,次回にはもっと自制できるよう努めたいと願っていることを神に告げてください。『わたしたちを試みに会わせないでください』と祈り続け,「絶えず祈(り)」,自制を身につけることに関し,「祈りをつねにし」てください。―マタイ 6:13,口語。テサロニケ前 5:17。ロマ 12:12。
自制を培う助けとなる資質
15 自制する助けとなる,エホバに対する恐れについて,なんと言えますか。
15 自制を培う上で大いに助けとなるのは,エホバに対する恐れや,謙遜,信仰,愛など,クリスチャンのいだくすぐれた心の態度もしくは資質です。自制を培うのにエホバに対する恐れが助けとなることは言うまでもありません。その立場と属性を考えれば,エホバを恐れるのは当然なことです。人間は宇宙の至上者であられるエホバに申し開きをしなければなりません。「造られたる物に一つとして神の前にあらはれぬはなし。よろづのものは我らがかかはれる神のまへに裸にてあらはるなり」とあります。神の不興を招くことを恐れるのは正しいことです。神は正義に関して完全なかたであられる一方,わたしたちは不完全で罪深く,まちがった道に走りやすいからです。またその無限の力ゆえに神を恐れるのは当然なことです。「活ける神の御手に陥るはおそるべきかな」とあるとおりです。神に対するこうした恐れは「智慧のはじめ」あるいは「根本」です。それは「悪を憎むこと」だからです。そうです,真理と正義を愛するだけでは不十分です。堕落した肉にとってどんなに快く,かつ願わしく,あるいは楽しく思えても,イエス・キリストがなさったようにすべての不法を憎み,忌み嫌い,激しく嫌悪しなければなりません。これは『旧き人とその行為とを脱ぎ,新しき人をきる』ことを意味しています。―ヘブル 4:13; 10:31。詩 111:10。箴言 9:10; 8:13。コロサイ 3:9,10。
16 自制するのに謙遜さはどのように助けとなりますか。
16 自制するのに大きな助けとなる別の資質は謙遜です。してみれば,自制の最大の障害の一つが誇りであるのももっともなことです。一つには謙遜な人は容易なことでは立腹しないので,自制に欠けた行動に走ることはまずありません。謙遜な人ほど他の人に忍耐強く接し,寛容であるため,自分を制することができます。努めて自制を培うには,エホバの助けや過分の恵みが必要ですが,これにあずかれるのは高慢な人ではなく謙遜な人です。「神は高ぶる者をふせぎ,謙だる者に恩恵を与へ給ふ」のです。ユダの指摘したように,「我らの神の恩恵を好色にかへ(る)」,したがって自制に欠けた邪悪な者はまた,「権威ある者をかろんじ,尊き者をののし(る)」高慢な人々です。―ヤコブ 4:6。ユダ 4,8。ペテロ前 5:5。
17,18 (イ)霊の実である信仰はどのように自制を助けますか。(ロ)愛についてはどうですか。
17 また自制を培うのに助けとなるのは,エホバ神とそのお約束に対する信仰です。神に対する信仰の乏しさのために,なんとしばしば心を乱し,自制することに困難を感ずるのでしょう! ヨブは信仰のゆえに忍耐できました。『神をのろって死ぬ』ようなことを避けるには確かに自制が必要でした。そしてヨブは信仰をいだいていたゆえに自制でき,またその信仰ゆえに,「彼われを殺すとも我は彼によりたのまん」と言うことができました。信仰があれば,わたしたちも悪人のゆえに激昂することなく,自らを制し,復しゅうはエホバに属し,かつエホバが報復なさることを知ってエホバを待ち望みます。また,信仰に助けられて自制し,この世とその欲とがまもなく過ぎ去ることを知り,物質主義の誘惑に屈しないですむでしょう。信仰があれば,たとえ迫害を受けようと,最悪の場合でも人間が行なえるのはからだを殺すだけであることを知り,自らを制することができます。―ヨブ 2:9; 13:5。詩 37:1。ロマ 12:19。ヨハネ第一 2:15-17。マタイ 10:28。
18 なかんずく愛は自制を培う大きな助けです。もし心と魂,思いと力とをつくしてエホバを愛するなら,確かに自制して神を喜ばすことに努めるでしょう。そのような人は悪い行ないによって御名に非難を招かないよう注意するでしょう。また自分自身のように隣人を愛することも,隣人に苦しみや害をもたらさないよう,ことに人をつまずかせないようにするため自制することをわたしたちに要求するものとなります。次のパウロのことばは愛と自制との関係を述べています。「神のみこころは,あなたがたが清くなることである。すなわち,不品行を慎しみ,各自,気をつけて自分のからだを清く尊く保ち,神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず,また,このようなことで兄弟を踏みつけたり,だましたりしてはならない。……〔エホバ〕はこれらすべてのことについて,報いをなさるからである」。兄弟たちに対する愛のゆえに,こうした事柄で自制に欠けて道を誤ることのないように守られます。またそのような愛に助けられて次の助言に従うこともできるのです。「不自由な部分がはずれることなく,かえって癒されるために,あなたがたの足のため,まっすぐな道を作り続けなさい」。この点でパウロは次のようなすぐれた手本を残しました。「もし食物わが兄弟をつまづかせんには,兄弟をつまづかせぬために,我はいつまでも肉を食はじ」― テサロニケ前 4:3-8,口語,〔新〕。ヘブル 12:13,新。コリント前 8:13。
自制の益と報い
19 自制はからだと心にどんな益をもたらしますか。
19 自制をすることにはほんとうに大きな益と報いがあります。正義の神エホバは宇宙の至上者であられるのですから,それも当然です。自制をしないと,その当座味わえる益や快楽とは比べものにならないほどの害を招きます。同様に,自制をすると,それに要する努力とは比べられないほどの益をもたらすと言えるでしょう。一つには,自制はからだと心の健康に寄与します。それでアメリカの著名な栄養学者のひとりは,「健康は自制の賜物」,また「気持ちが安定し,からだがやせていることは長寿のしるしである」と述べました。また最近の調査は,性関係の乱脈な女子の大学生の精神病患者が,純潔を尊重する女子学生の場合よりはるかに多いことを明らかにしています。
20 自制することはどんな霊的な益をもたらしますか。
20 さらに大切なのは,自制する人は自尊心をいだけるということです。わたしたちはみな,神が各人に何を求めておられるかを知っており,その規準にかなうよう熱心かつ誠実に努力すればするほど,清い良心と自尊心とに恵まれます。(ペテロ前 3:16)また,『多くの人にしたがって悪をなす』ことを避けられます。(出エジプト 23:2)そのうえ,自制をすることは,ほかの霊の実を培うのに大いに役だちます。自分の考えと心とからだを矯正しないかぎり喜びを享受することはできません。クリスチャンの喜びは感情のみでなく原則に基づくものだからです。平安についても同じことが言えます。自制を怠っていつも問題を起こす人は,どうして平安に過ごせるでしょうか。また,すでに見たとおり,自制と切り離せないものに寛容があります。そのうえ,むずかしい事情の下では親切で柔和であることがほんとうに大切ですが,それには自制が大いに必要です。このことは利己的な行為に陥れようとする誘惑に面して善良さを守る場合と全く同様です。―ガラテヤ 5:22,23。
21 自制する人は他の人にどのように益を与えますか。
21 自制は,これを示す人自身だけでなく,他の人々にも祝福をもたらします。一つには,自制すれば人をつまずかせないですむからです。(ピリピ 1:9,10)自制をする人は他の人々に良い手本を示すことができます。また,自制は家族関係を改善するのに役だちます。家庭ではともすれば自制の必要が見過ごされるからです。同様に,クリスチャン会衆,職場,学校などにおける関係の改善にも寄与します。責任の地位につく,あるいはそうした立場を求めれば求めるほど,いっそう自制することに努めなければなりません。そうした地位はいよいよ自制を要求するからです。ですから交響楽団の団員が指揮者を評価する手がかりとして,「彼はむずかしい状況の下で果たして自分を制することができるであろうか」と自問するのもうなずけます。そうです,クリスチャン監督は「習慣には節度を守り……規律正しく……分別が」なくてはならず,それには『自らを制する』者でなければなりません。―テモテ前 3:1-7,新。テトス 1:6-9,新。
22 何にもまして,自制することは何をもたらしますか。
22 しかし何にもまして自制はエホバ神との良い関係に寄与するものであり,御名の立証に貢献します。わたしたちは自制して初めて,自分が賢いものであることを示し,神を喜ばせることができます。こうして神はご自分をあざける者に答えることができるのです。自制の必要はほんとうにどれほど強調しても強調しすぎることがありません!―箴言 27:11。
-