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  • 神が悪行者を処罰するのは正当か
    ものみの塔 1972 | 11月1日
    • 31 聖書を読んでいる人たちは,キリスト教世界に臨もうとしている事がらについて聞いても少しも驚かされません。なぜですか。

      31 そうした事がらがキリスト教世界に臨もうとしていると聞かされても,聖書を読み,聖書に信仰を置いている人たちは少しも驚かされません。神の裁きはすべて書きしるされています。淫行や姦淫を行なう者(ヘブル 13:4),性的倒錯者・偶像崇拝者・うそつき・人殺し・心霊術を行なう者(黙示 21:8; 22:15),偽善者(マタイ 23:29-33),また神の崇拝を汚す者,特に神に仕えていると称しながらそうする者すべてを神は裁きます。このことには疑問の余地がありません。―コリント前 3:17。

      32 傍観者はもとより,キリスト教世界の人たちは,同世界に生ずることを見て,何を知るようになりますか。

      32 その結果,キリスト教世界および傍観者すべては,エホバ神こそ主権者なる主であって,「罰すべき者をば必ず赦すことをせず」,神を侮る者に対してはその顔に報復するかたであることを知るでしょう。―出エジプト 34:7。申命 7:10。

      33 悪行者に対する神の裁きに関する真理を調べる人は,各自どのように自問すべきでしょうか。

      33 今日,神のみことば聖書が悪行者に対するエホバの正当な処置について何と述べているかを調べる人は各自次のように自問すべきでしょう。エホバはまた,正しいことを行ないたいと願う人に対しては「憐憫あり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の」神であることを,わたしは学ぼうとしているだろうか。(出エジプト 34:6)わたしは正しくて清いことを実践して,エホバの『あげばりのうちにやどる者』になろうとしているだろうか。(詩 15:1-3)「国々の中の悪き者等」がエルサレムを攻め取ったとき,エホバはエレミヤやエベデメレクその他のある人びとに死を免れさせました。たとえ,「国々の中の悪き者等」がキリスト教世界を蹂りんして滅ぼそうとも,今日エホバの義の道を学んでそれに従う人たちを,エホバは保護できます。

      34 (イ)「大かん難」はあらゆる人を滅ぼすものとなりますか。(ロ)「国々の中の悪き者等」はキリスト教世界の宗教を滅ぼした後に,処罰を免れますか。

      34 そうです,キリスト教世界の裁きをもって始まる期間は,「世のはじめから今に至るまで起きたことのない,いいえ,二度と起きないような大かん難」の時となります。しかし神は保護を与えるので,『ある肉身は救われるでしょう』。そして神は,ご自分に敵して自らを高めたバビロンを後にそのせん越さゆえに処罰したとおり,「国々の中の悪き者等」をも処罰されるでしょう。こうして悪人はことごとく滅ぼされ,「根も枝も」残らないようにされます。神を愛する人たちはみな,今神との平和を求め,そして生きてください。―マタイ 24:21,22。マラキ 4:1。

  • 順応すべきか,それとも順応すべきではないか
    ものみの塔 1972 | 11月1日
    • 順応すべきか,それとも順応すべきではないか

      若い人々が知りたいと願っている有益な事実

      家でも学校でも,また仕事をしたり遊んだりするうえで他の人たちと交わる時にも,若者は絶えずこの問題にぶつかります。

      これはたいせつな問題です。なぜなら順応するかしないかは,若者の人生の形成を左右し,幸福の探求に大きく影響するからです。

      順応させようとする圧力の源

      順応させようとする圧力はどこから来ますか。自分の外部からも内部からも来ます。

      老若のいかんを問わず,あなたが交わる人々は日々あなたに影響を与えます。人々は,自分が物事を見るような仕方で物事を見,また自分が行なう仕方で物事を行なうようあなたに影響を及ぼします。何に順応させようとするかは人によって異なりますから,受ける影響が正反対のことは珍しくありません。

      しかし,圧力はたいてい自分の内部から来ます。わたしたちはだれでも,他の人をまねる傾向を生まれつき持っています。あなたは,おそらく,顔かたちがご両親に似ているだけでなく,話し方とかくせなどでもご両親に似ていることでしょう。あなたは周囲の人が話すことばを話し,人びとが食べる物を食べるでしょう。

      しかし,もっとたいせつなのは,行動の基準とか態度,人生観の面で他の人をまねる傾向がわたしたちにあるという事実です。あなたは人格を形造るこうした影響を制御できますか。できるとすれば,どんな方法がありますか。

      変化に対する欲求

      今日,若い人々の多くは自分たちの周囲のでき事を見て失望したり,ざ折を感じたりしています。あなたは,反発を感じる事柄をきっとたくさん見ていることでしょう。それは当然なことです。正直な人ならだれでも,現在地上では悪が恐ろしくはびこっていることを認めるでしょう。悪い事柄に順応しても,良い方向への変化はもたらされません。

      では,“どんな物にも,まただれにも順応”するつもりはないと言う,今日の多くの若い人びとにあこがれて,彼らのようになりたいと考えるべきですか。彼らは厳密な意味で自分たちの『独自の事柄』を行ない,『完全に自由になって独立する』つもりだと言いますが,実際問題として,それはすべての人を喜ばせようとすることと同じくらい不可能なことは少し考えただけでわかります。

      一例として,実際に独立するようになれば,まず,自分たちの食物はすべて栽培して調理し,衣服も全部作り,生活上の他の物事もすべて自分でしなければならないでしょう。そればかりか,母国語に順応しないため,独自の文法を持つ,自分たちだけに通じることばを考案することさえしなければなりません。

      生活上,順応することが不可欠な事柄

      確かに,生きてゆくためだけにでもわたしたちすべてが順応しなければならない事柄があります。空気を吸わず,水を飲まずに生きていられる人はいません。ですから,わたしたちは,地上の生活に不可欠なそうした事柄に順応しなければなりません。さもなければ死んでしまいます。疾走するトラックが目の前を通り過ぎるのを待ってから道路を渡るとき,あなたは安全を考えて状況に順応してはいませんか。結局,死んでしまったら,どれほどの自由や独立があるでしょうか。

      人びとがともに暮らし,協力して働くためには,ある物事に関して合意がなければなりません。もし度量衡の基準に合意がなく,各自が独自の度量衡を使ったら,人びとはグループで何かを建築することができるでしょうか。それらの人たちが建てる家がどんな格好になるか想像できますか。また各人が自分なりの規則を作り,好きな時には,試合最中でもその規則を変えるとしたら,たとえばフットボールのような試合をしたいと思いますか。あるいは,その時の気分にまかせて,雇用者が給料を上げたり,下げたり,払ったり払わなかったりするような職場にいたらどうですか。

      したがって,たいせつなのは,単に物事の運び方のあらさがしをし,また異議を唱えることができるということではありません。それはだれにでもできます。たいせつなのは,解決策,つまり物事を正し,改善する方法を考え出すことです。このことは家でも学校でも,職場やその他の場所でも確かです。不平のための不平は何をも成し遂げません。順応することはより賢明な道となることが多いものです。それは家庭生活をずっと楽しくし,学校での勉強の能率を高め,世俗の仕事を喜びと報いの多いものにします。

      確かに,他の人の経験や健全な影響から益を受けるなら,頭痛や心痛をあまり経験しなくてすみます。経験と言えば,神以上に,正しい影響を与えることのできるほど十分経験を持っているかたはいないことを認めなくてはなりません。人間の創造者であられる神は,人間のことを一番よく知っておられます。神の見地には,人間の行為と努力を何千年にもわたって観察してこられたという裏付けがあります。神のみことばである聖書は,順応すべき時と順応すべきでない時とを知るためにわたしたちが必要としている指針を与えてくれます。

      順応することが危険な場合

      ところで聖書は,わたしたちの周囲のおおかたのものにけっして順応すべきでないことを示しています。たとえば,使徒パウロはわたしたちに次のように述べています。「この世にならふな,神の御意の善にして悦ぶべく,かつ全きことをわきまへ知らんために心を更へて新にせよ」。また,「現代英語の新約聖書」はそのことばを一部,「あなたの周囲の世界が,あなたをそれ自体の型に押し込ませるのを許してはならない」と表現しています。―ロマ 12:2。

      「この世にならふ」べきでないのは,現在の事物の体制が神の正義の道に順応しておらず,滅びに直面しているからです。しかし,この世はわたしたちがそれにならうように圧力をかけます。もしわたしたちが弱くなれば,この世は『わたしたちをその型に押し込める』でしょう。

      わたしたちはささいな点から弱くなることがあります。人気を得たいという欲望が多くの若い人を弱めるきっかけとなっていることは少なくありません。「人気」という意味の英語,「ポピュラリティー(Popularity)」は,人々を意味する「ピープル(People)」と同じ語源を持っています。人気があるとは実際,『人々を喜ばせる人物』であることを意味します。もちろん,わたしたちは皆,他の人から好ましく思われたいという欲望を生まれつき持っています。しかし,それがわたしたちのわなとなりえるのです。ある事柄がまちがっており,どうするのが正しいかを知っていても,人気がなくなるのを恐れて正しい道を取るのをためらうことがあります。箴言 29章25節に,「人を畏るればわなにおちいるエホバをたのむ者は護られん」と警告されているのは,一つにそうした理由があるのです。

      一つのことは確かです。すなわち,わたしたちはすべての人を喜ばすことはできません。では,最もたいせつなかたを喜ばせることに気を配ってはどうですか。詩篇作者ダビデはエホバ神について次のように書いています。「そはいのちの泉はなんぢに在り」。「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろの快楽とこしへにあり」。(詩 36:9; 16:11)ですから,他のすべての人よりもエホバを喜ばせたいと願う十分の理由があります。

      ご両親はあなたが幼い時から,ご自分のしもべに対する神の意志が何かを教え,神を喜ばせる行ないとそうでない行ないを理解するようあなたを助けてこられたでしょう。では,学友,近所や他の場所の若い人びとから,あなたがこれまで教えられてきた事柄に反することを行なうよう圧力を受けるとしたらどうでしょう。あなたに麻薬をためさせようとしたり,酔ったり,盗みをしたり,他の不道徳な行ないにふけったりさせようとするかもしれません。あるいは,クリスチャンの中立を犯す行為をするよう圧力をかけることもあるでしょう。彼らの望みに順応するのを拒むと嘲笑されたり,脅迫されたりさえするならどうですか。あなたはどうしますか。

      圧力に屈するのではなくて,『心の静かさ』を保ち,あなたが真に分別のある人であることを示しなさい。(箴 17:27)立ち止まって次のようなことを自問してください。

      それらの人に受け入れられることは自分にとってなぜそんなにたいせつなのだろうか。自分の健康と命を危うくしてまで,彼らに受け入れられることに価値があるだろうか。彼らの友情は永続する益をもたらすものか,それともつかの間のものだろうか。彼らはわたしのことをどれほど親身に心配してくれているだろうか。彼らの中には,両親がわたしにしてくれたこと ― 幼い時からわたしを育て,必要な物をすべて備え,病気の時には看病してくれた人がいるだろうか。わたしに益となることを実際にしてくれたことのない,きままな生き方をしている少年や少女に受け入れてもらうために,今,親の良い助言を無視するなら,わたしはどんな種類の人間になるだろうか。そのような人やグループに順応すれば,命の与え主である神を喜ばすことができるだろうか。神のみことばは,「汝衆の人にしたがひて悪をなすべからず」と述べていることを忘れてはなりません。―出エジプト 23:2。

      ギリシアのコリントにあった会衆のクリスチャンの中には,利己的な人々をたたえ,彼らの悪い影響に屈した者がいたので,使徒パウロは次のように叱責しなければなりませんでした。「人もし汝らを奴隷とすとも,食ひ尽すとも,掠めとるとも,驕るとも,顔を打つとも,汝らは之を忍ぶ」。(コリント後 11:20)実際,わたしたちから得られるもののためにわたしたちを利用しておきながら,同時にたいへんいばって,わたしたちを見下すような人びととの友情を求めることにどれほどの意味がありますか。聖書は,「理性の力」をもって神に奉仕すべきであると述べています。―ロマ 12:1,新。

      順応させようとする圧力は気がつきにくいものです。服装やヘヤースタイルの流行は,有名なグループの間で「はやっている」というだけで圧力となります。そうした流行に順応することそのものは小さなことのように思えるかもしれません。しかし,その流行の背後には何がありますか。

      それはちょっと違った方法で魅力的に見せようというだけのことですか。それなら,順応することにとり立てて目くじらを立てることもないでしょう。他方それは,自分を目だたせ,驚くほど異なった者でありたいという欲望にかられ,そのために大いに誇り高ぶり,他の人よりも「まさった」者になりたいという考えが動機となっていますか。それとも,性的に放じゅうな行為や,反抗を表現する服装やヘヤースタイルを奨励する動機がありますか。そうであれば,順応するかしないかということは重大な問題になります。

      聖書には,誇りに支配されて神に反逆するに至った者のことが出ています。それは神の敵サタン悪魔でした。わたしたちは何らかの形でサタンの像に順応し,事実上サタンの「子」になりたいと思いますか。(ヨハネ 8:44。ヨハネ第一 3:10-12)あるいは,だれも経験したことのないほど大きな圧力下に置かれたにもかかわらず,この世のあやまった道に順応することを拒絶した,神のみ子のようになりたいと思いますか。イエスは,この世に順応する代わりに,「我すでに世に勝てり」と言うことができました。―ヨハネ 16:33。

      順応することを拒絶するのはなまやさしいことではありません。しかし,正しいとわかっている事柄を勇敢に守る人はふつう多くの人からほめられるということを忘れないでください。確かに,ある人たちはその人をけなすでしょうが,それは,自分たちと同じ低い生活水準にその人を引きおろして,自分たちのあやまった道を正当化したいためです。しかし,あざけったりばかにしたりする人びとでさえ,心の中では,正しくて真実であると自分が考えることをしっかり守る人の確信のほどをひそかに賞賛していることが多いのです。彼らは自分もそのような力を持ちたいと思っているかもしれません。

      確かに,わたしたちも,この世に順応するのではなく,『世に勝ち』,神の是認を得,それによってもたらされる限りない幸福を得ることができるのです。

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