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千年間仕える審判者たちに期待できる事がら神の千年王国は近づいた
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7章
千年間仕える審判者たちに期待できる事がら
1 ヨハネが見た数々の王座に座した者たちには何が与えられましたか。
ほとんど信じがたい驚嘆すべき事がらが間もなくもたらされる千年の期間に関して自分が先見したことを述べた,霊感を受けた使徒ヨハネはこう記しました。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた」― 啓示 20:4。
2 ここで持ち出されている「裁き」のことを考えると,さもなければ明るい光景から,明るさが奪われがちなのはなぜですか。
2 それは裁きを行なう権限を与えられた者たちの占める「座」でした! それは希望に満ちた,慰めを与える光景ですか。それとも,さもなければ,きたるべき千年期の中の千年期に関する明るい描写に陰うつな影を投げかけるものですか。使徒ヨハネ自身はそうした光景をどう考えましたか。わたしたちは今日それをどう見るべきでしょうか。今日,わたしたちはキリスト教世界で行なわれている司法制度に対してさえ,ひどく失望しているのではありませんか。司法官の資格を持ち,「神々」のようでありながら,自らの職責に対して不誠実になる人びとに関する預言である詩篇 82篇5節のことばは,今日,かつてないほど適中しています。『かれらは知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり』。ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこの聖句をこう訳しています。「彼らは無知で,無分別で,盲目的に振る舞い,地的な社会の基そのものをむしばんでいる」。
3,4 (イ)しかし,そのすぐ前にヨハネが見た事がらから考えれば,それらの座に関する情景はどんな気持ちをいだかせるものですか。(ロ)不当な裁きを受けてきた人類が,それら「数々の座」に救済を期待するのは,なぜ適切なことですか。
3 今日,人類は確かに,気持ちを和らげるものを欲しています! そして幸いにも,使徒ヨハネがそれら裁きの「座」に関して見たのは,暗たんたる不安の念を引き起こすものではなくて,わたしたちの気持ちを大いに和らげるものでした。ここで,ヨハネが預言的な幻の中で,天の王の王と,「地の王たち」とその「軍勢」および世界的な政治機構との間の戦いを予見したことを思い起こしてみましょう。それらの王たちとその地上の支持者たちは敗北を喫し,滅ぼされました。その結果,王座つまり政治支配者が裁きを行なう権威の座は空席となりました。その後直ちに,使徒ヨハネは,神の使いが地の近辺に下ってきて,悪魔サタンとその悪霊たちを鎖で縛り,彼らを底知れぬ所に投げ込んで,そこに神の封印を施し,そのもとに彼らを千年間幽閉するのを見ました。―啓示 19:11から20:3まで。
4 悪魔の支配する事物の体制のそうした滅びは確かに,人間を裁く裁判官の地位の変化を求めるものとなりました。人類に対する天的な監督権が,「忠実かつ真実と称えられ……義をもって裁きまた戦(って)」勝利を収めた,王の王の手にすでに渡されたのですから,特にそうです。(啓示 19:11-16)次いで,物事の当然の成り行きからすれば,新たな裁きの座が生じます。神の権威によって天に確立されるそれら新たな裁きの座を占める者と予想できるのは,より優れた一団の審判者にほかなりません。その後,不当な支配や,不当な裁きを受けてきた人類は司法上の不正からの救済を期待できるでしょう。
5,6 裏切られる前に,イエスが11人の忠実な使徒たちに述べたことばによれば,それら「数々の座」を占める審判者とはだれですか。
5 人類の上に立つその新たな一群の審判者とはだれのことですか。そうした審判者になる見込みのある人たちを代表した一群の者たちに対するイエス・キリストの言葉は,だれがその天的な審判者の一群に属しているかを示しています。
6 裏切られて捕えられ,エルサレムの最高法廷で不当な審理を受けた夜,イエスは忠実を保っていた使徒たちにこう言われました。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)それら忠実な使徒たちは,イエス・キリストによって天の王国のための契約に入れられて裁きの座につく14万4,000人のうちの主要な人たちでした。(マタイ 19:27,28)もちろん,それら14万4,000人の仲間の審判者の上に立つのは,主宰審判者イエス・キリストです。
7 アテネのアレオパゴス法廷で述べたパウロのことばによれば,人の住む地は神の定められた時にどのように裁かれますか。
7 ここで思い出されるのは,西暦51年ごろアテネのアレオパゴス法廷に出頭させられた使徒パウロの語った言葉です。「他の人たち以上に神々への恐れの念を厚くいだいて」いるように見えた同法廷の裁判官に自分の立場を説明したパウロは,最後にこう言いました。「たしかに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。(使徒 17:22-31)それで,人の住む地は「義をもって」裁かれますし,神が裁きを行なうさいに用いられる主要な者は,復活させられたそのみ子イエス・キリストです。
8,9 (イ)この任命された審判者はどのようにして,人間の裁判官が行なえなかったような仕方で人類を裁くことができるのでしょうか。(ロ)ヨハネ 5章27-30節に記されているイエスの言葉によれば,イエスはどのようにして,すべての人が必ず裁きを受けられるように取り計らわれますか。
8 仲間の宣教者テモテに最後の手紙を書き送った使徒パウロは,裁きを行なうべく任命された方を名指してこう言いました。「神のみまえ,また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみまえにあって,またその顕現と王国とによって厳粛に命じます」。(テモテ第二 4:1)神により任命されたこの審判者は,地上の人間の裁判官がかつて行なわなかった,あるいは行なえなかったような仕方で司法官として行動します。彼は単に生きた人間だけでなく,それ以外の者をも,つまり死んだ人間をも裁きます。人間によって任命された,単なる人間の裁判官は死者を呼び戻して裁くことはできません。しかし,神により任命されたその審判者は,そうすることができます。そして,それら死人はそうした裁きを受けるには死者の中から連れ戻されねばならないにしても,一千年の期間のその裁きにあずかります。「生きている者」はもとより,それら死者には,キリストの犠牲の死によってそうした裁きにあずかる権利があるのです。イエスの次の言葉に注目してください。
9 「父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の欲する者を生かす(の)です。父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。それは,すべての者が,父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は,それを遣わされた父を尊んでいません。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです。このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が[父から]聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」― ヨハネ 5:21-23,27-30。
10 (イ)そのような裁きを行なうために,その審判者は死人を何から解放しますか。(ロ)どんな行為がそうした解放をもたらしますか。それで,復活の目的に関してどんな疑問が生じますか。
10 考えてみてください! 地上では人の子として知られていたこの審判者は,記念の墓のそれらすべての死人を解放することによって,一千年にわたる審判者としてのご自分の務めを飾るのです。一千年にわたる裁きの日は,記念の墓にいる者すべての復活の日となります。人の子はそれらの人びとのために完全な人間の犠牲として死なれたのです。それは,「第一の復活」つまり天的復活にあずかる14万4,000人の共同の審判者以外の買い戻された人類のすべてを意味しています。(啓示 20:4-6)さて,葬られた死者を解放するこの愛ある行為,つまりこの地的復活は,復活させられる人たちを害する目的で行なわれるものと考えるべきでしょうか。愛ある行為は,その行為の対象となる人に害をもたらすためになされるものでしょうか。わたしたちが言いたいのは次の点です。つまり,この復活は義とみなされる人たちだけでなく,比較的にいって「不義」者と呼ばれる人びとのためにも行なわれるのです。「義者と不義者との復活がある」のです。(使徒 24:15)義者については心配がいりませんが,不義者についてはどうですか。
11 (イ)「不義者」を復活させる目的に関してはどんな疑問が生じますか。(ロ)イエスに好意を示して死んだ悪行者の例は,この問題とどのような関係を持っていますか。
11 「不義者」はいかめしい過酷な審判者に面と向かって,自分たちの過去の不義の行ないすべてを再び詳しく聞かされ,そのようにして,完全な滅びの宣告を受ける理由を聞かされる,ただそれだけのために過分の親切を示されて復活させられるのでしょうか。もしそれが彼らの場合の目的だとすれば,それら「不義者」にとって復活にはどんな実際的価値があるのでしょうか。それは,カルバリでイエス・キリストの傍らの刑柱に掛けられながら,イエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と語った,あの一方の「悪行者」のような不義者を復活させる目的ですか。彼はイエスに向かってそうした好意的な言葉を述べたからといって,悪行者から聖人に変わったわけではありません。イエスはその悪行者に慰めを与える返事をしましたが,だからといって,復活させられたイエスがご自分の人間としての犠牲の価値を捧げるために天のみ父のみ前に昇った時よりも42日も前に,すでにその悪行者が信仰によって義と認められ,あるいは義とされたわけではありません。(ルカ 23:39-43)その男の人は罪に定められた悪行者として依然死んだままであり,よみがえらされることになっている「不義者」のひとりとして数えられねばなりません。
キリスト教時代以前の審判者たち
12 「不義者」はもとより,「義者」は,復活によって記念の墓から解放される以上のことを必要としています。なぜですか。
12 「義者」と呼ばれる人たちはもとより,「不義者」と呼ばれる人たちにとって,死人の復活は何を意味していますか。そのすべては,不従順なアダムとエバから罪とその刑罰である死を受け継いだゆえに死にました。ですから,彼らはみな,自らは何ら義にかなったものを持たずに死にました。(ローマ 5:12; 3:23)それで,彼らが個人的な性格の点では変わらずに,復活によって戻って来るとき,「義者」でさえ,人間としては完全ではありません。つまり,不完全さや罪深い状態から解放されてはいません。このことは,預言者エリヤやエリシャ,また主イエス・キリストやその使徒たちが復活させ,地上で生きかえらせた人たちにも当てはまります。(ヘブライ 11:35)このことからすれば,「不義者」と全く同様,「義者」も,死人の中から復活させられて記念の墓から解放される以上の事を必要としていることがわかります。「義者」もまた罪深い状態と人間としての不完全さから解放される必要があります。したがって,天の審判者イエス・キリストは,彼らがほんとうに潔白で,完全で,罰すべき罪深いところのない者であると直ちに宣言し,また彼らは地上で永遠の命を受けるにふさわしい者であるとの判決を,その復活当日に下せるわけではありません。
13 (イ)神はなぜ,人類の審判者となるイエス・キリストのために千年の期間を指定されたのですか。(ロ)神の千年期の審判者に期待すべき事がらに関して,「士師記」は何を示していますか。
13 もし審判者の責務が,復活させられた「義者」と「不義者」が審判者の前に現われる日に判決を下すことだけに限られているとすれば,人類のための審判者として仕える者になぜ千年の期間が指定されているのでしょうか。それほどの長い期間は,なすべき仕事のためにこそ指定されるものであって,単に評決や宣告を発表するためだけに指定されるものではありません。聖書の中では,神がキリスト教時代以前のご自分の選民のための審判者として起こした人びとは,単に個人間の争いを解決したり,裁判判決を下してそれを執行したりする以上のことを行ないました。神の立てられたそれら「士師」は,神の選民の救出者でした。聖書中には,特に「士師記」と呼ばれる書がありますが,それはたいへん感動的な記録の書です。そこには,『天下を裁く者』であられる神が虐げられたご自分の民を救い出すために起こした人びとの果敢な偉業が記されています。では,神が苦しめられているご自分の民のための裁きを執行させるべく審判者を起こされた時に始まった裁きの日を歓呼して迎えてください!
14 士師であったエホデやバラクについて読んで知っていることを簡単に述べなさい。
14 単身で赴き,異常に肥えたモアブ人の王エグロンをその会議室内で殺し,次いで逃れてイスラエル人を組織し,やがてモアブ人の圧制者たちに対する勝利を得させることにより,士師として勤め始めたエホデのことを,わたしたちは読んで知っています。車輪に鉄の鎌を取りつけた戦車900両を備えて自分の軍隊を恐るべきものにしたカナンの王ヤビンの強力な軍勢を打ち破ることによって,イスラエル国民の士師として自分が選ばれたことを証明したバラクのことも,わたしたちは読んで知っています。
15 同様に,ギデオンやエフタについてはどんなことを読んで知っていますか。
15 次いで,神に対する信仰を持つ,わずか300人の男子を率いて,おびただしいいなごのようにイスラエルの地に殺到したミデアン人や東方の民を敗走させた,謙虚な人,ギデオンがいます。真夜中のこと,寝静まった敵の陣営をほとんど包囲したギデオンとその300人の兵は,手にしたつぼを一斉に地面に投げつけて砕き,たいまつを高々と掲げ,ラッパを吹き鳴らし,「エホバの剣 ギデオンの剣」と叫びました。敵の陣営は突如混乱し,恐慌状態に陥り,人びとは逃走し,また互いに殺し合いました。そして,ギデオンとその300人の兵は,生き残った者たちを追跡しました。その後,多くの年月が経ち,約束の地がまたもや危機に見舞われたとき,エホバは家を追い出されたエフタを起こして,横柄なアンモン人に立ち向かわせました。神のために尽くそうとするエフタの熱心は非常に熱烈なものだったので,もし勝利が与えられたなら,わが家に戻った時,何であれ最初に自分を迎え出たものを犠牲として神にささげる旨,自ら誓いを立てました。勝利を得て意気揚々と帰って来た彼を最初に出迎えたのはその独り子,つまり彼の娘でしたが,エフタはその娘を神への奉仕にささげて,神への献身のほどを示しました。
16,17 (イ)サムソンはイスラエルの士師としてどのように仕えましたか。(ロ)霊感を受けた筆者は士師についてヘブライ 11章32-34節で何と述べていますか。
16 それにしても,二親に対して誕生が予告され,また肉体的にいって,かつて地上に現われた最も強い人間となったサムソンの話を聞いたことのない人がいるでしょうか。彼は終始独りで自分の民を圧制的なペリシテ人から救い出しましたが,ペリシテ人に捕えられて盲目にされた彼は最期の日に,ペリシテのガザにあるダゴンの神殿を三千人余の祝い客の上に倒壊させ,そのようにして彼はそれまでの生涯中に殺した以上の多くのペリシテ人を,自ら死を遂げたその日に殺しました。
17 霊感を受けたクリスチャンの筆者は,神に対する信仰を抱いて勝利を得た人たちの中にそれら士師を含めて,ヘブライ 11章32-34節でこう述べています。「そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」。
18,19 (イ)約束の地に定住した後,イスラエル民族に臨んだ苦悩に関しては,だれにその責任がありましたか。(ロ)なぜ彼らのために次々に士師を起こさねばなりませんでしたか。
18 もちろん,それら士師の時代にイスラエル民族が敵の手によって苦しめられたことに対しては自分たちに責任がありました。なぜなら,彼らは生ける神エホバの清い崇拝から逸脱したからです。しかし,彼らが誠実に悔い改めてエホバの崇拝に戻ったとき,エホバは彼らに恵みを示されました。士師 2章16-19節に述べられているとおりです。
19 『エホバ士師を立てたまいたれば かれらこれを掠むるものの手よりすくい出したり 然るにかれらその士師にもしたがはず反りてほかの神を慕いてこれと淫をおこない これにひざまずき 先祖がエホバの命令に従いて歩みたるところの道を頓に離れ去りてそのごとくには行なはざりき かれらのためにエホバ士師を立てたまいし時にあたりては エホバつねにその士師とともにいまし その士師の世にある間はエホバかれらを敵の手よりすくい出したまえり こはかれらおのれを虐げくるしむるものありしを呻きかなしめるによりてエホバこれを哀れみたまいたればなり されどその士師の死にしのち またそむきて先祖よりもはなはだしく邪曲を行ない ほかの神にしたがいてこれに仕え これにひざまずきておのれの行為をやめず その頑固なる路を離れざりき』。
天の不滅の審判者たち
20 (イ)人類は一千年の期間中,かつてのイスラエルの士師の時代のように,再三取り残されることはありません。なぜですか。(ロ)患難を生き残る「大群衆」でさえ,さらに救い出される必要があるのはなぜですか。
20 しかし,その同じエホバ神が審判者として起こしたイエス・キリストとその14万4,000人の仲間の司法官は,たとえ悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられて地の近辺から除かれても,次々に死んで地上の住民だけを残すということはありません。「滅びることのない命の力」を持っているので,彼らはすべて,司法官としての千年の任期いっぱい続けて奉仕します。彼らは単に王座に座して判決や裁定を下すだけでなく,昔エホバの是認を得た忠実な士師が行なったのと同様,救出者として行動します。神の保護を受けて「大患難」を生き残り,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられた後も生き続ける「生きている者」たちでさえ,さらに救い出されることをなお必要としているのです。それらの人びとは神のみ前における義の立場ゆえに,地上で守られて一千年の裁きの日に生きて入りますが,彼らの場合,自分たちが救い出される必要のある事がらがほかにもまだあります。それは何ですか。それはこの事物の体制が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に投げ込まれるさい,彼らがずっと守られながら,同時に,携えてきた罪深い状態,不完全さ,弱さ,また死に赴く状態などです。
21,22 (イ)死んだ人間は復活させられるとき,さらに救い出される必要があります。なぜですか。(ロ)ヨブやダビデのように,ある人びとは復活させられるとき,どんな理由で「義」とみなされますか。
21 同様に,記念の墓から生き返らされる必要のある「死んだ者」の場合も,死の眠りから覚めるとき,「義」あるいは「不義」の者とみなされるかどうかにはかかわりなく,彼らはすべて,罪深い状態,欠点,欠陥のある状態,人間的弱さ,死に向かう傾向などから解放されねばなりません。だれかが「義」とみなされるからといって,人間的また倫理的見地から見て当人が完全な肉身の人間だという意味ではありません。とはいえ,神の目に義とされるということは,そのような人はウヅの地の辛抱強いヨブがそうであったように,神に対して忠誠を保つ男女であるという意味です。(ヨブ 2:3,9; 27:5。ヤコブ 5:11。エゼキエル 14:14,20)または,神によって裁かれることを恐れなかったエルサレムのダビデ王にも似ています。詩篇 26篇1-3,11節(新)でダビデはこう述べているからです。
22 「エホバよ,わたしを裁いてください。わたしは自分の忠誠のうちに歩み,またわたしはよろめかないように,エホバに信頼してきたからです。エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎とわたしの心を精練してください。あなたの愛ある親切はわたしの目の前にあり,わたしはあなたの真理のうちを歩んできたからです。しかし,わたしは,忠誠のうちに歩みます。どうかわたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。
23,24 (イ)キリスト教時代以前に忠誠を保ったそれらの人びとはどんな復活のために,不敬虔な者たちとの取引きを拒みましたか。(ロ)それらの人たちについてヘブライ 11章35-40節は何と述べていますか。
23 不敬虔な者たちとの何らかの取引き,もしくは妥協によってエホバ神に不忠節になることを拒み,忠誠をつくして死んだキリスト教時代以前の他の人びとは,キリスト教に帰依したヘブライ人に書き送られた書の11章にその名を挙げられたり,言及されたりしている男女です。彼らはより良い地上の状態のもとで,つまりより良い政府のもとで命に復活させられることを待ち望みました。その政府のもとで,彼らは完全な平和と幸福と,生ける神への忠誠のうちに永遠に生きられるのです。ヘブライ 11章35-40節にはそのことがこう述べられています。
24 「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人びとは,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです。そうです,ほかの人びとはあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行きめぐり,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです。彼らは砂ばくや山々,またほら穴や地のどうくつをさまよいました。しかしなお,これらの人びとはみな,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。
25,26 (イ)それらの「義者」は復活させられるとき,なぜ裁きの日を恐れませんか。(ロ)それらの「不義者」は復活させられるとき,「義者」と比べて,どうして不利な条件のもとにありますか。
25 それらの「義者」は人間として完全で,行ないの点で欠点のない者としてよみがえらされはしないにしても,神への忠誠のうちに死んだので,神に忠誠な者としてよみがえらされるでしょう。彼らは復活によって招じ入れられた千年間の偉大な裁きの日を恐れはしません。彼らは死ぬ以前に忠誠を培い,またそれを備えてよみがえらされるのですから,罪深い状態から完全に解放されて人間としての現実の完全な状態に向かって進歩する点では「不義者」よりも有利な立場にあります。いわば,その方向では「不義者」を少し引き離していることになります。
26 そういう趣旨のことがこう記されています。「資力に乏しくても,忠誠のうちに歩んでいる者は,くちびるのひねくれた者,また愚かな者よりも勝っている」。また,「義人は忠誠のうちに歩んでいる。彼ののちの子たちは幸いである」。(箴言 19:1; 20:7,新)一方,死に至るまで罪深い性向や悪い習慣また悪い欲望を培った「不義者」にとって事態はもっと難しいものとなります。そうした事がらは,楽園のような地上で罪のない人間としての完全性を備えた永遠の命を獲得する競走において,彼らの歩みを妨げる障害,不利な条件,煩わしいものとなります。また,それら「不義者」の多くはこの世で,手近にあった霊的な機会や備えを利用するどころか,それを無視し,蔑視し,軽べつし,あるいはそれに反対しました。そのようなわけで,彼らは主人に対して感謝の念に欠けた,がん固な性向をいだいています。したがって,それは彼らにとっては災いとなります。イエス・キリストは悔い改めようとしなかったコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどの都市に向かって次のように告げて,その種の事例を挙げました。
27 イエスはコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどを引合いに出して,前述のことをどのように例証しましたか。
27 「コラジンよ,あなたには災いが来ます! ベツサイダよ,あなたには災いが来ます! あなたがたの中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。したがって,あなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたがたよりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。下ってハデスに至るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたなら,ソドムはきょうこの日に至るまで残っていたからです。それであなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 11:20-24。
28,29 (イ)古代のニネベの人びとや南の女王はなぜイエスの当時のユダヤ人の世代を罪に定めるのでしょうか。(ロ)裁きの日には,いま有利な立場にある人びとと宗教的に不利な立場にある人びととの場合のように,物事はどのように釣合いが取られることになりますか。
28 俗事にかかわり,目に見えるしるしを自分たちの信仰の基礎にしようとして神との関係を不純なものにしていたユダヤ人の世代に対して,イエスはこう言いました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:38-42。
29 大勢の独善的宗教家,つまり自分たちは自らが異教徒と呼んだ者たちよりももっと義にかなっていると自負した,自己満足,自己陶酔に陥った因襲的な宗教家は,その時どんなにか驚かされるでしょう。彼らは自分たちこそ宗教的偽善者であって,自分たちの見下げていた異教徒のほうがより誠実で,もっとよく教えを聞き入れ,感謝の念がもっと厚く,無知ゆえに非難される所がもっと少ないことに気づくでしょう。宗教的にあまり恵まれていなかった人びとの誠実さや態度はその時,自分たちの機会を無関心な態度で,あるいは故意になおざりにした,特権に恵まれた人たちを罪に定めるものとなります。それで,現代の有利な立場にある人びとと不利な立場にある人との場合のように,物事は正しく釣合いを取ることになります。
裁きの日の利点
30,31 (イ)裁きの日には,すべての人の前に彼らの以前の状態を列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要がありますか。(ロ)律法下のユダヤ人を引合いに出すことによって,全人類に関して何が証明されましたか。
30 「差別はない(の)です。というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからで(す)」と述べたローマ 3章22,23節のことばの真実性は,否定できるものではありません。したがって,裁きの日にはすべての人,つまり「生きている者と死んだ者」はみな,エホバ神が起こされる天の審判者たちの助けによって,裁きの日に招じ入れられるさいに身にまとっている罪や,道徳面の弱さ,また身体的不完全さなどの痕跡すべてから救い出されることを緊急に必要としています。ローマ 3章23節その他の聖句の中で包括的に述べられているとおり,証拠および証言はすべて人類にとって不利なものですから,裁きを受ける人類の前にそれを列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要はありません。神がモーセを通して与えた律法を生来のユダヤ人が守れなかったことによって,人類はだれも,恵みを受けたユダヤ人でさえも神の律法を完全に守れるものではないことが証明されました。こうして,律法のもとにあったユダヤ人のこの現実的実例により,自己弁護をする人の口はことごとく閉ざされ,人類の世は神の前にすべてが有罪とされました。それは使徒パウロが昔次のように記したとおりです。
31 「さて,わたしたちは,律法の述べる事がらはみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するためです」― ローマ 3:19。
32 (イ)人類は裁きの日に「二度目のチャンス」を持つかどうかについては,何というべきですか。(ロ)では,彼らが楽園の地で生き続けられるかどうかは,だれに依存していますか。なぜですか。
32 人類は罪深いものとして生まれ,死に定められたので,一度も「チャンス」に恵まれませんでした。完全な義のわざを行ない,罪深い状態を自力で除き去って,絶対的完全の神の前で身のあかしを立てることは決してできませんでした。それで,裁きの日は,いわゆる「二度目のチャンス」を与えるものではありません。むしろ,それは,地上の楽園で人間的完全さと絶対的潔白さを伴う永遠の命を得る最初の現実の機会を人類に与えるものとなります。キリストの完全な人間の犠牲は,人類が罪から清められ,今はまだ受けられない神の全き「栄光」にまで高められる機会を備えるものですが,裁きの日はそのような機会を人類に供するものです。このことからすれば,楽園の地を永久に所有するかどうかは,裁きの日に「生きている者と死んだ者」とが何を行なうかにかかっていることがわかります。彼らの過去の記録はすでに作られたものなので,彼ら自身に善し悪しいずれの影響を及ぼすにせよ,取り消せるものではありません。裁きの日は,人類が罪との関係を今後永久に断ち,自分たちの誠実な心の願うところを行ない,成し遂げる者であることを人類に実証させる時となります。天の審判者たちはその職務につき,教えや指導を与えて彼らを助けます。
33 裁きの日のそのような機会は,啓示 20章11-15節に象徴的なことばでどのように描写されていますか。
33 裁きの日のそうした機会は,啓示 20章11-15節に次のような象徴的な言葉でわたしたちのために描写されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大いなる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
34 (イ)その箇所で描かれている復活には,「第一の復活」にあずかる人たちが含まれていますか。(ロ)その時に開かれる「数々の巻き物」には,何に関する記録は収められてはいませんか。なぜですか。
34 この象徴的な光景は,「第一の復活」にあずかる者たち,また啓示 20章4-6節で「第二の死」に陥る恐れのない者として既に言及されている者たちとは無関係です。この光景は,復活にあずかって地上で生存する人たち,また千年の終わりになって初めて永遠の命に値する者と判定される人たちのことを示しています。その時,彼らは人間としての完全さのうちに,十分に身につけた義を示すことができるでしょう。巻き物が開かれ,その中に記された事がらに従って彼らは有利な,あるいは不利な裁きのいずれかを受けますが,その巻き物には,この事物の体制下の現在のこの世における彼らの過去の不完全で,罪深い行為すべての記録が収められているのではありません。天の審判者たちは,復活させられる個々の人びとが有罪か,あるいは無罪かを決定するために千年間を費やして,過去の人間の生活の記録をつぶさに調べる必要はありません。彼らは人類の過去についてそれほど無知,あるいは疎くはありません。それら審判者たちが特に留意するのは,人類の過去ではなくて人類の将来のことです。人類は将来のための指導を必要としているのです!
35,36 (イ)では,それら「数々の巻き物」は何を表わしていますか。だれがその内容を知りますか。(ロ)知らなかったとして言いわけできる人は地上にはなぜ一人もいなくなりますか。
35 ですから,それら開かれる「数々の巻き物」とは,神の代理を勤める審判者たちによって人類に与えられる新しい一連の教示や指示また命令です。こうして,それら開かれた「数々の巻き物」の内容は全人類に知らされます。それは彼らが自分たちの裁かれる規準や,自分たちの将来の行動やわざに関して何が期待されているかを知るためです。人類は無知のままに放置されることはありません。人はみな,裁きの巻き物にしたがって律法の意味するところを知らざるを得なくなります。人びとを惑わしたり,発表された律法や教示を曲げたりする悪魔サタンやその悪霊たちは,地球の近辺の見えない領域のどこにも存在しなくなります。確かに存在しなくなります。というのは,それら古い「天」はこの裁きの日のための時を定めた神の面前から逃げ去ってしまっているからです。したがって,祈祷師,霊媒あるいは透視者,天宮図を携えた占星術者はどこにもいませんし,霊応盤その他同類の悪霊崇拝と関係のある用具の売買も行なわれることはありません。新しい天のみが存在し,義を滴らすでしょう。こう記されています。
36 『天よ うえより滴らすべし 雲よ 義をふらすべし 地はひらけて救いを生じ 義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。
地上の「君」たち
37 (イ)天の審判者たちは,それら「数々の巻き物」の内容をどのようにして人類に伝えますか。(ロ)神の律法や裁定が施行されているとき,人類はどのようにしてそのことを知りますか。
37 目に見えない天的な審判者たちが,開かれる「数々の巻き物」の内容をどのようにして地上の住民に伝えるかは,聖書には明確に述べられてはいません。しかし,地上には神の天の王国を直接代表する人たちがいます。そのような人びとが人類の中にいることは,「新しい地」がその新しい人類社会を伴って存在していることの公式な証拠となります。悪魔サタンにより見えない仕方で支配されていた古い「地」は,神の面前から逃げ去って,滅亡以外にその占めるべき所は見いだされなくなります。法廷や弁護士や代理人そして司法制度は過去のものとなり,神の律法こそ,いまや人がそれに精通し,それによって裁かれ,また人が適用すべきものとなります。王国の地上の代表者たちが行動するとき,施行されているのは神の律法また裁定であることを人びとは知り,はっきりと理解します。
38 天の王イエス・キリストは顕著さの点で,ご自分の地的な先祖を当てにする必要がありますか。それとも,独自の顕著さを有することになりますか。
38 千年間の裁きの日のためのこの取決めに関する指示は,聖書の預言的な句の中に述べられています。たとえは,神の油そそがれた王,イエス・メシアまたはキリストに関する叙情詩である詩篇 45篇を取り上げてみましょう。イエス・キリストとその花嫁である会衆との天的な結婚と,その花嫁級に仕える人たちに関して預言的なことばを述べた後,その詩篇はこう語ります。「彼らは王の宮殿に入って行く。あなたの父祖たちに代わってあなたの子たちとなり,あなたは彼らを君として全地に任命するであろう」。(詩篇 45:15,16,新)もちろん,天の王イエス・キリストには顕著な先祖がいました。それらの人びとがエルサレムのダビデ王の王座に着いて仕えたかどうかは別として,聖書の記録の中にその名が列挙されています。しかし,その天の王は顕著さの点で先祖を当てにする必要はありません。完全な人間として地上におられたとき,エルサレムその他どこであれ,有形の王座に着くことを拒んだとはいえ,イエス・キリストは独自の顕著さを有することになります。
39 領土に関して王イエス・キリストはダビデ王をさえ,顕著さの点でどのようにしのぎますか。
39 天の王イエス・キリストは名声や誉れ,そして顕著さの点でダビデをさえ凌ぐことになります。イエスは,ダビデ王がアブラハムに対する神の約束にしたがって当時征服した領土全域の境界線のはるかかなたにまでご自分の王国を広げて行きます。(創世 15:17-21)そうです,東西,南北がそれぞれ相会する所まで,まさにこの惑星上の至る所に,つまり「全地」に広げるのです。それは,王イエス・キリストの預言的な型としての「ソロモン」に関して記されているとおりです。『神よねがわくは汝のもろもろの審判を王にあたえ なんじの義を王の子にあたえたまえ かれは義をもてなんじの民をさばき 公平をもて苦しむものをさばかん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし』― 詩篇 72:表題,1,2,8。
40 イエスは地上で子供を設けませんでしたし,彼はまた,ダビデ王の永久相続者であるため,君となる子たちに関して,ここでどんな問題が生ずるように思えますか。
40 しかし,ここで問題が生ずるように思えるのではありませんか。ダビデ王の子ソロモンよりもいっそう偉大で,いっそう賢明なこの王は,完全な人類家族を生み出す生殖力をその腰に有する完全な人間としてこの地上におられましたが,結婚しませんでした。では,「あなたの父祖たちに代わって」,次の点に注目してください,「あなたの子たちとなり,あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」という預言はどのようにして成就されるのでしょうか。そのうえ,天のイエス・キリストはダビデ王の永久相続者であって,「滅びることのない命の力」を持つゆえに後継者なしに,つまりあとを継ぐ子を必要とすることもなく統治してゆくのです。み使いガブリエルがマリアに向かって,その息子となるべきイエスに関して次のように語ったとおりです。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:32,33。
41,42 (イ)14万4,000人の共同相続者は,地上で任命されるべき「子たち」ではありません。なぜですか。(ロ)天のイエス・キリストはどのようにして,またどんな預言的称号を成就するものとして地的な「子たち」を持ちますか。
41 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はイエスの霊的な子たちではなくて,神の子たち,つまり「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人で」あることを,わたしたちは知っています。(ローマ 8:17)では,「あなたの子たち……あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」といわれている子たちとは,だれのことですか。王イエス・キリストの天的な子たちでないことは明らかです。地上にいるゆえに「全地に」君として任命され得る地的な子たちであるに違いありません。死んだ人びと,それも特に死んだ「義者」が復活させられて彼の子たちとなるのです。イザヤ書 9章6,7節の預言に基づく彼の約束の称号,すなわち,とこしえの父という称号は単なる空しい名誉称号となるのではありません。イエスは実際に,復活させられる人類家族の父となります。彼は,「命を与える霊」となった「最後のアダム」なのです。(コリント第一 15:45,47)最初の人,アダムはその子孫すべてを罪と死に売り渡しましたが,「天から出」た「第二の人」は,アダムから受け継いだそうしたものから,その子孫を買い戻すために,ご自分の完全な人間としての命を捨てました。それで,こう記されています。
42 「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」― ヘブライ 2:9。
43 (イ)その王はどのようにして,患難を生き残る,復活を必要としない「大群衆」の父になりますか。(ロ)また,どのようにして人類のとこしえの父になりますか。
43 神の意志にしたがってご自身を犠牲にすることによってイエス・キリストは,死んでゆく人類に命を与える権利を得,そのようにして彼らの父となります。そして,「死んだ」人たち,つまり「義者」と「不義者」双方を記念の墓や水中の墓場から呼び出し,次いで喜んで応ずる人たちすべてを完全な人間にまで引き上げることによって,彼らに命を移します。「大患難」を生き残ってキリストの千年統治の時代に入る「生きている」人たちについては,イエスは同様に,それら生き残った「義者」を,「満ちあふれるほど豊かに」命を享受する,つまり輝かしい完全な人間としての命を享受するレベルにまで引き上げます。(ヨハネ 10:10。テモテ第二 4:1。使徒 24:15)そして,このすべてを千年の終わりまでに成し遂げさせます。しかし,イエスの地的子供たちの享受するその豊かな命は永久に存続できるものであって,完全な人間として誠実さを保つ人たちは,とこしえの命を受けるにふさわしい者であることを実証します。それらの人びとはイエスの永遠の子供たちとなり,イエスは文字どおり彼らのとこしえの父となります。
44,45 (イ)王はどのようにして十分の数の君たちを地上に立てて,その統治を開始しますか。任命される人たちはすべて「君」としての地位を占めます。なぜですか。(ロ)しかし,他の人びとの長となる者が君(サー)と呼ばれるには,王の家系の人でなければなりませんか。
44 千年統治の初めに,傑出した王イエス・キリストはご自分の地的な子供たちの中から相応しい人たちを選んで,「全地に君」として立て始めます。「大患難」や,悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられる際に生き残った「生きている」人たちは,多数のそうした「君」たちを供するでしょう。死の眠りから復活させられる「死んだ」人びとの中の「義」人たちは,任命された君たちが「全地に」立てられるようにするため,十分の数の他の君たちを供することでしょう。詩篇 45篇16節は,それらの「君」たちの中にはイエスの復活させられた「父祖たち」の中の「義」人が含まれていることを示しているようです。そうした人たちはかつてイエスの先祖でしたが,いまや復活によって彼の「子たち」となるのです。それら任命された人たちは天の王の子たちなので,「君」としての地位を占めます。
45 しかし,詩篇 45篇16節で「君」と訳されているヘブライ語がサリム<sarim>であることは注目に値します。古代イスラエル民族の間では,「サー<sar>」と呼ばれた人がすべて王室とつながりを持っていたわけではありません。そうした人びとに含まれる者として,千人の司,百人の司,五十人の司そして十人の司さえ,「サー」と呼ばれました。王室の召使い頭の長,あるいは王室のパン焼き職人の長さえ,「サー」と呼ぶことができました。―出エジプト 18:21,25。申命 1:15; 20:9。サムエル前 8:12。創世 40:2。創世記 23章5,6節と比べてください。
46,47 (イ)任命されるそれらの人びとはすべて,その王の先祖の王統もしくは族長の家系の者でなければなりませんか。彼らはどんな人であるべきですか。(ロ)イザヤ書 32章1,2節に述べられているように,彼らはだれの関心事に対して真の関心をいだかねばなりませんか。
46 「全地に君」として任命されるそうした人たちはすべて,人間としてのイエス・キリストの先祖で,その王統もしくは族長の家系の者でなければならないというわけではありません。基本的に言って,彼らは忠誠の人,つまり預言者モーセによって裁き人として任命されたような「有能な人びと」「賢くて,経験のある人びと」でなければなりません。それらの裁き人についてはこう記されています。「モーセはイスラエル全体の中から有能な人びとを選び,千人の長[サリム],百人の長[サリム],五十人の長[サリム],十人の長[サリム]として,民の頭としての地位を彼らに与えた。そして,適当な場合,いつもは彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのところに持って来たが,小さい事件はみな,彼ら自身が裁き人として取り扱った」。(出エジプト 18:25,26; 申命 1:15,新)王イエス・キリストによって任命される地上の君たちは,人びとの福祉を図ることや争いを平和裏に,また穏やかに解決することに真の関心を抱きます。そして,イザヤ書 32章1,2節(口語)で次のように描写されている君たちのように,正しい事を勇敢に擁護します。
47 「見よ,ひとりの王が正義をもって統べ治め,君たち[サリム]は公平をもってつかさどり,おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。
48,49 (イ)現在の訴訟手続きのゆえに助長された,犯罪者の抱くどんな考え方のために,犯罪が増大しましたか。(ロ)伝道之書 8章11-13節によれば,悪事を繰り返す犯罪者にとって,あるいはだれにとって,物事はうまくゆきますか。
48 天の平和の君[サー]の治める時代には,法を公正に適用して違反者の責任を問う訴訟手続きは,すべての違反者の審理を迅速に行なうに足る十分の数の審判者や役員がいないために手間どって,だらだらと長引くことはありません。これまで,悪行者を審理し,不正行為を正し,法に照らして処断するのに長い時間がかかり,多くの事件の場合,何年もの時間がかかるため,結局は処罰されずにすむかもしれないと考える悪行者たちの犯罪が助長されてきました。今世紀の後半に犯罪はすさまじい勢いで増大してきましたが,すでに西暦前11世紀の昔,鋭い観察力を持つ,霊感を受けた賢い一筆者は次のように書きました。
49 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして」― 考えてもみてください! しかし,霊感を受けた筆者はさらにこう続けます。「なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13,口語。
50 (イ)現在,法の施行が手間どるのは,人類の上にあるどんなもののためですか。(ロ)義に関して,「新しい地」は「新しい天」にどのように答え応じますか。
50 悪行者を裁いて処罰する現在の訴訟手続が手間どったり,あるいは悪行者の責任を問うことが決してなされない場合があったりするのは,『古い天』のもとにある『古い地』でわたしたちが生活しており,悪魔サタンとその配下の「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が人類社会を支配しているからです。腐敗した古い人類社会が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられると,平和の君[サー]とその仲間の14万4,000人の審判者たちが審判者の職につく一千年の期間中,法の施行を妨げるものはすべて除去されることになります。「新しい天」から義が滴り落ちる結果,「新しい地」の人間社会という土壌はそれに答え応じて実を結ぶようになります。エホバはそのことをこう予告されました。『地はひらけて救いを生じ義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。
51 それでわたしたちは,イザヤとともに,どんな新時代を魂をこめて待ち望みますか。
51 わたしたちは義と公正の行なわれるそうした時代を切望しているのではありませんか。その時代には,義人の道は今日のように苦しいものではなく,平坦なものとなります。地的復活を待ち望んだ預言者イザヤは,その願わしい新時代を期待して,霊感のもとにこう書き記しました。『義きものの道は直からざるなし なんじ義きものの道を直く平らかにし給う エホバよ審判をおこないたもう道にてわれら汝をまちのぞめり われらの〔魂〕はなんじの名となんじの記念の名とをしたうなり わが〔魂〕夜なんじを慕いたり わがうちなる霊あしたに汝をもとめん そは汝のさばき地におこなわるるとき世にすめるもの正義をまなぶべし 悪しき者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこないエホバの稜威を見ることをこのまず』― イザヤ 26:7-10〔新〕。
52,53 (イ)神のめぐみのもとで,直き地に住んでいてさえ,義を学ぶのはだれにとって難しいことですか。(ロ)彼らの場合,使徒ペテロの述べたどんな原則が当てはまるように思えますか。
52 一千年の期間にわたる「直き地」,つまり人びとを正直に扱い,また人びとの間で物事が正直に扱われる地は,生来人間としての不完全性を持つ全人類に大いなる恵みが示される所となります。人類家族の成員の中には,他の人びと以上に深く罪深い堕落のふちに沈んだ人もいれば,長い間責任を問われなかったために,不誠実な性格をいっそう硬化させた人もいます。そのような人びとには不正をする性癖があります。その種の邪悪な人びとは,たとえ彼らの周囲ですべて物事が正直に行なわれ,また王イエス・キリストを通して彼らに神からの恵みが示されていてさえ,義と廉潔さを学ぶのに困難を感ずるであろうことは容易にわかります。あらゆる援助を差し伸べられるにもかかわらず,彼らはともすれば不正を行なおうとします。正当な立法者としてのエホバも,エホバの定められた生活上の規準の正当さをも認めようとはしません。そのような人びとに関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。
53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。
54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。
54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。
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一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら神の千年王国は近づいた
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8章
一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
1 サタンが底知れぬ所に入れられる千年の間,地上の住民が義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。なぜですか。
悪魔サタンが底知れぬ所に閉じ込められる千年の間,地とその住民に対する神からの裁きが世界的に行なわれるでしょう。天の審判者たちは審判を下し,エホバ神の代理を勤めます。地上にいる君としての代表者たちも同様に行ないます。彼らは,エルサレムのヨシャパテ王が民を神に導き返すため国内の至る所に配属させた裁き人のように振る舞います。ヨシャパテはそれら裁き人にこう言いました。『汝らそのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます 然ば汝らエホバを畏れ 慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人をかたよりみることなく賄賂を取ることなければなり』。(歴代下 19:4-7)そのような天の審判者たちや,そのもとで地上で司法官として仕える君たちがいるのですから,豊かに産物を出す楽園の地の住民がいっしょに千年のあいだ義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。―イザヤ 26:9。
2,3 (イ)イエスはダビデを通して,どんなベツレヘム人の子孫となりましたか。それで,イザヤは,地上での活動の開始時のイエスをそのベツレヘム人の何になぞらえていますか。(ロ)霊はどんな特質とともに彼の上に留まりますか。彼はどのようにして裁きますか。
2 十世紀にわたるその裁きの日の全期間中,全人類を治める「新しい天」の主要な審判者は,何という資格のある,信頼できる審判者なのでしょう。西暦前8世紀にイザヤが記した,その審判者に関する預言的描写は,暖かさのこもった生き生きとしたものです。その予告された審判者とは,ベツレヘムのエッサイの子であるダビデ王の子孫で,メシアとなった主イエス・キリストです。エホバ神は人間の諸問題を解決させ,また人びとが公正に取り扱われ,地上に義が永遠に確立されるよう取り計らわせるために,それ以上に優れた審判者を供し,任命することができたでしょうか。では,ダビデ王を通してベツレヘム人エッサイの子孫となる,その後代の審判者の特質について,預言者が霊感のもとに述べたことばに十分の注意を払ってください。地上での活動の開始時におけるその子孫のことを,切り倒された樹木の幹から生ずる小さな枝になぞらえて,イザヤは次のように預言しました。
3 「エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に,エホバの霊が必ず留まる。それは知恵と理解との霊,はかりごとと大能の霊,知識とエホバに対する恐れとの霊である。その方は,エホバを恐れることを楽しみとする。彼は単に自分の目に見えるところによって裁かず,単に自分の耳に聞こえる事がらにしたがって叱責したりはしない。彼は義をもって,謙遜な者たちを裁かねばならず,彼は廉潔さをもって,地の柔和な者たちのために叱責を与えねばならない。彼はその口のむちをもって地を打たねばならない。彼はそのくちびるの霊をもって,邪悪な者を殺す。義はその腰の帯となり,忠実はその胴の帯となる」― イザヤ 11:1-5,新。
4 (イ)彼はだれを恐れて人類を裁きますか。(ロ)彼はどのようにして,「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」あるいは「若枝」以上のものになりますか。しかし,失望や悩みをもたらすものとはなりません。どうしてですか。
4 この主要な審判者はエホバを恐れることを実際に喜びとし,そうすることに真の楽しみを見いだす方ですから,間違いなく,人のためにではなく,エホバのために裁きを行ないます。ですから,彼は人を恐れずに,神のみを恐れて判決を下します。確かに彼は,生ける唯一真の神エホバに対するそうした健全な恐れゆえに賢明な方であるに違いありません。彼は固く根を降ろした「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」もしくは「若枝」のような状態に留まることなく,かえって生けるエホバのみ子,より偉大なダビデとして,天的な王威を呈する頑丈な「大木」のようになりました。(イザヤ 61:3,新。エゼキエル書 17章22-24節と比べてください。)エホバの強力な霊は,王としての偉大な立場に高められたこの方の上に留まって,その責任ある職務を遂行するのに大いに必要な知識や理解力や知恵を授けるのです。したがって,彼は神の右で即位した王として,エホバの誉れとなる方であって,神によって任命された審判者である彼は,地上の住民に失望や悩みをもたらすことはありません。
5 法の厳正な施行を支持し,裁き人としてのソロモンよりなおいっそう勝った者として,彼はえこひいきをせず,物事を正しく弁別できることをどのように示しますか。
5 地上では正義が確立されます。天のその審判者は彼の原型ともいうべきソロモン王よりもさらに優れた識別力を働かせるでしょう。そのソロモン王は,二人の遊女が起こした難しい訴訟の場合のように極めて優れた判決を下しました。問題の遊女はふたりとも,死んだ子供は自分の子ではないと唱え,生きている子供をわが子だと主張しました。その生きている子供のほんとうの母親がだれかを明らかにしたソロモンの特異な方法に関してはこう記されています。「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって,さばきをするのを見たからである」。(列王上 3:16-28,口語)同様に,より偉大なソロモンは物事の外見や単なる伝聞にしたがって裁くのではなくて,正確な事実が明るみに出され,真実の弁明が行なわれ,その結果,正しい判決が下され,刑が執行されるよう取り計らいます。また,身分の低い者よりも身分の高い者に,あるいはおとなしい者よりも尊大な者に特別に目をかけたりなどはしません。
6 彼は「大患難」のさいに講ずる措置によって,審判者として職務につく千年の期間が義の行なわれる時になることをどのように示しますか。
6 エホバの霊に満ちあふれているこの審判者は,千年にわたって審判者としで仕える時代がどんな時期になる見込みがあるかを示すため,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で最高潮に達する,きたるべき「大患難」にさいして,ご自分が身分の低い,おとなしい人たちの解放者であることを自ら示されるでしょう。(マタイ 24:21。啓示 7:14; 16:14,16)彼が天の軍勢に与える命令や指図は,その口から出る「杖」のようになります。というのは,司令官としての彼の言われる事は成就して,不義を宿す『古い地』は粉々に打ち砕かれてしまうからです。そのくちびるはエホバの霊によって動かされ,地上の邪悪な者たちに対するご自分の態度や気持ちを表明します。したがって,そのような者たちは死刑に処されます。高慢で,尊大で,邪悪な者たちは一掃され,この地球はことごとく清められます。もちろん,そうした者たちの,見えない支配者であるサタンは鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられてしまいます。
7,8 (イ)人類を益することとして,それはどうして審判者があたかも義の帯を結び,忠実の帯をしめるようなものとなりますか。(ロ)それは人類に変化を生じさせるという点で,どんな影響を人類に及ぼしますか。
7 実際,エホバにより任命された審判者として一千年にわたってその職務につくイエス・キリストに人類が期待できるのは,ほかならぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。
8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。
性格の変化
9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。
9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきました。結果として,会衆の忠実な成員は,たとえ性格の点でかつては恐ろしい野性動物に似ていた人でも,互いに忍び合い,いっしょに仲よくやって行けるようになりました。(使徒 2:1-33)イザヤの預言に一致して,彼らは仲間のクリスチャンを害しませんし,エホバの崇拝の「聖なる山」にある会衆に危害をもたらすこともありません。
10 (イ)キリストの14万4,000人の仲間の審判者たちのほかに,だれの上にそうした性格上の変化がもたらされましたか。(ロ)キリストが一千年にわたる審判者としてのわざを開始するさい,そうした変化は彼らにとってどうして有利な結果をもたらしますか。
10 ついには主要な審判者イエス・キリストの14万4,000人の仲間の審判者を構成する人たちだけでなく,今日,あらゆる国民・部族・民族・言語の中から集められている,エホバの崇拝者たちの数え切れないほどの「大群衆」に関しても,そうした性格の変化が生じています。それら地上の楽園に住む見込みを持つ人たちは,「大患難」にさいして確かに神の保護を受けて無事に大患難を通過し,一千年にわたって審判者の職務につくイエス・キリストの治める神の新秩序に入ります。(啓示 7:9-17)当然のこととして,彼らは変化させた自分たちの性格をそのまま神の新秩序に携えて行きます。それは彼らにとって非常に有利な結果をもたらします。というのは,彼らは,天の審判者イエス・キリストが千年期の裁きを表明し始める際にその対象とされる「生きている者」となるからです。(テモテ第二 4:1)そうした状況のもとでは,エホバの崇拝の「聖なる山」からは,危害や破壊に対する恐れはなくなります。彼らはエホバをすでに知っており,したがってそれら生存者が世界中にいるのですから,地はまさしくエホバを知る知識で満たされます。しかも,その知識は増大するのです。
11 地上の下等生物に関して,大洪水の八人の生存者に神は何を保証されましたか。現代の場合,それに対応する事がどのように生じますか。
11 ここで,ノアの時代の大洪水を生き残った八人の人間に対して言われた事が思い出されます。箱船を出てから神に犠牲をささげた彼らに対して,エホバはこう言われました。『地のすべての獣畜 空のすべての鳥 地にはうすべてのもの 海のすべての魚汝らを恐れ汝らにおののかん これらは汝らの手に与えらる』。(創世 9:2)現代においても,これに対応する事が生ずるのではないでしょうか。きたるべき「大患難」は地上の不敬虔な人間を襲うのですから,陸上の動物や鳥また海の魚を絶滅させるわけではありません。神は人間に対する失われた,ある程度の恐れ,また恐怖感をそれら下等動物のうちに置くであろうと予想するのは当を得たことです。そして,人間は,そこなわれた地を楽園に変える仕事を委ねられるのです。確かに神はご自分の霊によって,14万4,000人の人びとおよび今日の「大群衆」の間で,獣のような性格をクリスチャンのそれに変えさせることができたのですから,野性動物の場合にも何かそれと同様の事がらを行なうことができるでしょう。実際,野性の動物は地上のエホバの崇拝者たちを傷つけることはありません。
12,13 (イ)昔の最初の楽園にいた男女は,地上の下等生物に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)地上の下等生物の間には,比喩的な意味以上のものを持つ,どんな関係が生じますか。
12 このことと一致して,わたしたちは,イザヤ書 11章6-9節に述べられている動物に関する魅惑的な描写が,より偉大なエッサイであられるエホバ神のみ子,平和の君による千年統治の期間中,地球上の鳥や魚また陸性動物に関して文字どおりに成就することを期待できます。ずっと昔,最初の喜びの楽園つまりエデンの園では,女エバは,話せるようにされたへびから話しかけられたとき,そのへびを恐れて逃げようなどとはしませんでした。(創世 3:1-4)その前のこと,アダムは自分の前に連れてこられた野性動物や飛ぶ生き物に名前をつけて,それら動物に対して恐れをいだいていないことを明らかに示しました。(創世 2:19,20)地上の下等動物を恐れることもなければ,下等動物から危害を受ける心配もない安全な,そのエデンのような状態が,回復される楽園に再びもたらされるでしょう。
13 また,それら陸性動物や飛ぶ生き物や魚は,人間に関してはもとより,動物同志の間でも仲よくなります。神が霊感を与えて,イザヤ書 11章6-9節やエゼキエル書 34章25節またホセア書 2章18節のような預言を記させたのは,あたかもその文字どおりの成就が実現不可能な理想でもあるかのように,単に比喩的もしくは霊的な意味だけを持たせるためであって,現実の生活の中でそうした事がらが生ずるということを実際に示させるためではなかったと考えるのは,つじつまの合わないことです。
14 とはいっても,地上の下等生物をならすよりももっと重要なのは何ですか。それはなぜですか。
14 それにしても,主要な目的は動物や鳥そして魚などの創造物をならすことではありません。そうした地上の生物は人類が存在するよりもずっと前から存在してきました。問題なのは,あるいは危機にさらされているのは,地上の人類の存続なのです。アダムとエバの子孫はすべて,罪人として生まれてきたので,「神の栄光に達し」ませんでした。(ローマ 3:23)多くの場合,人は敬虔な特質ではなく,いま野獣が示しているような獰猛な性質を呈しています。それで人類は,永遠の命を受けるにふさわしいことを証明して,創造者なる神に賛美をもたらすには,その「神の栄光」に引き戻されねばなりません。人類家族の成員は一体とされ,互いに傷つけ合わない平和な関係に入り,公正と義を完全に行なう必要があります。これこそ,千年間にわたって審判者を勤めるイエス・キリストがもたらされることなのです。
15 人類の上に立つ天の審判者たちは,人口は増えても,悪行の発生率の減少する事態をどのようにしてもたらしますか。
15 現在,人間の犯す犯罪の増加率は,地上の人口の増加率よりももっと速い速度で大きくなっています。それとは著しく対照的に,千年期の期間中,地上の人口は死者の復活のゆえに,つまり「義者」と「不義者」との復活のゆえに一様に増えてゆきます。が,悪行の発生率は減少してゆき,ついには消滅点に達します。どうしてですか。なぜなら,人類の上に立つ天の審判者たちは全く義にかなっているとともに,神の規準に基づく真の義を全人類に教えるからです。この方面で助けになることとして,「水が海を覆っているように,地は必ずエホバの知識で満たされ」るでしょう。(イザヤ 11:9,新)その神権統治下の千年期の時代に認められるのは,エホバの崇拝だけです。人類はエホバの「真の天幕」,つまりその霊的な神殿の地的な中庭に導き入れられます。人類はそこで,イエスが天の父にささげた祈りの中で次のように言われた事の真実さを知らされるでしょう。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。ヘブライ 8:2。
16 (イ)どんな結果からすれば,一千年にわたって審判者としての職務につくキリストは目的を達し損うことはないと言えますか。(ロ)キリストは元に戻った人類に,楽園におけるとこしえの命を授けるわけではありません。なぜですか。
16 一千年にわたる裁きの日は,その目的を達し損うことはありません。その期間の終わりの時までには,喜んで答え応じる従順な人びとはすべて,真の公正と義の点で完全に訓練されていることでしょう。アダムとエバから受け継いだ彼らの肉体的また精神的欠陥は除去されてしまいます。いまや彼らはあらゆる点において神の絶対的な義の規準に自らかなうことができるようになります。ではその時,主要な審判者であるイエス・キリストは,楽園の美に包まれた,まさに輝かしい平和な地上でとこしえの命を得る権利を彼らに授けるのでしょうか。いいえ,そうではありません! この点に関しては,イエスは神の代理を勤めることはなさいません。というのは,次のように記されていることをご存じだからです。「神が彼らを義と宣しておられるのです」。(ローマ 8:33)では,神の立てられた審判者は何を行なわれるのでしょうか。
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一千年の後に全人類が受ける試み神の千年王国は近づいた
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9章
一千年の後に全人類が受ける試み
1 一千年にわたる裁きの日の終わりに,回復された人類には最終的に何が要求されますか。それで,代理審判者イエス・キリストは,彼らをどうしますか。
千年に及ぶ裁きの日の終わりに,義をもって裁かれた人類家族は完全な者として,その審判者で解放者であるイエス・キリストの前に立ちます。しかし,依然として彼らは,楽園の地上でのとこしえの命を受けるに価する者として裁かれるわけではありません。彼らはなお,宇宙の最高法廷,つまりいと高き神,主権者なる主エホバの法廷の前に出なければなりません。この最終的要求と一致して,代理審判者イエス・キリストは,今や完全な義にかなえるようになった人類を,ご自分の父なる神に引き渡さねばなりません。それは,試みを受けて,平和と幸福を伴うとこしえの命という貴重な賜物を受けるに価するかどうかを示す人びとすべてに対して,神ご自身が判決を下すためです。彼らは完全ではあっても,不死ではありません。
2 その時までには,アダムに帰因する死はどうなりますか。したがってエホバは,人類の個人個人に関して何を決定されますか。
2 エデンにいた最初の人間の父の罪ゆえに人類に付きまとっていた死んでゆく状態はいまや,あたかも「火の湖」に投げ込まれて消滅するかのように除去され,一掃されます。(啓示 20:14,15)それにしても,アダムに帰因する死や不完全性から今や解放された人類が,エホバの裁きのもとで,とこしえの死をこうむるに価するようなことを自ら故意に行なう場合があるのでしょうか。どんな人びとが「第二の死」をこうむるに価する者となりますか。それは最高の審判者エホバが最終裁決者として決定しなければなりません。
3 コリント第一 15章24-28節によれば,物事のどんな移行が行なわれますか。
3 ここで,コリント第一 15章24-28節で使徒パウロの予告した事がらが適用されます。「ついで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる統治,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています。神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます。神は『すべてのものを彼の足の下に服させた』からです。しかし,『すべてのものが服させられた』と言うとき,すべてのものを彼に服させたかた[エホバ神]が含まれていないのは明白です。しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させたかたに自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」― 新,ロ。
4 主権者なる主エホバは今や,完全にされた人類に対して,どんな問題で決定を下さねばなりませんか。どんな方法でそのことを行なわれますか。
4 み子がその父なる神に王国を引き渡される結果,その王国はエホバ神のものとなります。こうして,主権者なる主エホバと人類との間には,副次的な王国は存在しなくなります。さて,人類は自分たちを直接治める神の王権にどう応じますか。人類はすべて,永遠にわたって神に忠節な臣民であることを言明しますか。人びとはすべて個人個人,その方を永遠に自分たちの神として選ぶことに決めますか。人を当人の真価ゆえに義と認め,永遠の命を得る権利をその人に授けるのは,そうした貴重な権利の受領者に揺るぎない忠節を要求する重大な事がらです。だれの名が「命の書」に載せられるべきかを神はどのようにして決定なさるのでしょうか。それはウヅの地の族長ヨブの場合のように,心からの忠誠および誠実に関する試みによってなされます。
5 完全にされた人類に対してその時なされる試みは,ヨブの場合のそれとどのように合致しますか。それは何を試すためですか。
5 人類はいまや千年間,神のみ子の王国のもとで神の過分の親切を享受し,地上の麗しい楽園にいます。ヨブの場合と同様,問題は次の点です。人は単に,自分たちのために神が行なってくださった良い事がらゆえに神を愛し,崇拝しますか。それとも,神ご自身の本来の神性ゆえに,つまりその方が生ける唯一真の神で,宇宙の正当な主権者であられるゆえにそうしますか。ヨブの場合,その命を取る以外は,彼を悩ますことがサタン悪魔に許されたので,エホバ神に対するヨブの誠実さは試されました。それで今度は,回復された人類を神の認められる限度まで試すことを悪魔サタンに許すことによって,完全にされた人類は神に対する個人的誠実さに関して完全な意味で試みられ,試されます。そうした試みがなされるには,底知れぬ所に千年間幽閉されたサタンとその悪霊たちを解き放す必要があります。これから起こるのはそのことなのです。
6 キリストの千年統治の終わりに起こる事がらを,啓示 20章7-10節はどのように描写していますか。
6 イエス・キリストとその14万4,000人の仲間の王たちによる千年統治が終わった後に起こる事がらを,啓示 20章7-10節は次のように述べています。「さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。
7 サタンとその悪霊たちは解き放されるとき,完全にされた人類に関してなぜ自信を持っていますか。何が再び争点となりますか。
7 サタンとその悪霊たちを底知れぬ所から解き放すとは,人類の中で彼らに屈服する者たちに対して目に見えない仕方で支配力を行使できる地の近辺に彼らを再び入らせることを意味しています。人類は精神的・倫理的・霊的・肉体的に完全であるにもかかわらず,悪魔サタンは自信たっぷりでしょう。事実,彼は族長ヨブの場合には確かに失敗しましたが,それよりも24世紀余の昔のアダムとエバの場合には,両人は完全な人間としてエデンにいたにもかかわらず,サタンは正しく成功しました。それにしても,この両方の場合とも,争点は同じでした。すなわち,神の律法および禁令に対する被造物としての人間の絶対の従順を要求する,エホバ神の正当な主権が争点でした。
8 (イ)全人類がいや応なく直面させられる論争は宇宙主権のそれであることが,ここでどのように示されていますか。(ロ)「聖なる者たち」とはだれのことですか。「愛されている都市」とは何ですか。
8 千年が終わった後に,人類がいや応なくその同じ論争に直面させられることは,いまやサタンとその悪霊たちによって惑わされる者たちが地の上を進み,「聖なる者たちの宿営と愛されている都市」を取り囲むということからもわかります。そうです,その時,地上には「聖なる者たち」がいます。彼らはサタンとその悪霊たちによって惑わされるのを拒むゆえに,サタンとその配下の地上の群衆によって取り囲まれます。それら「聖なる者たち」とは,回復した人類の中でも,万事を決するこの試みに遭って神に対する誠実を保つ人たちのことです。彼らは敵軍の攻撃を受ける陣営の中にいるかのようです。「聖なる者たち」は,「愛されている都市」とは別個に扱われています。彼らはその都の中にいるのではなく,「宿営」の中にいます。それで明らかに,その「都市」は,全世界の首都として地上に建てられた都ではありません。それは栄光を受けたイエス・キリストが啓示 3章12節でその追随者に述べた都であるに違いありません。イエスはそれを「わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレム」と呼んでおられます。
9 その都はだれに「愛されて」いますか。それはどのようにして神のもとを出て天から下りますか。
9 この「都市」は,神に,また「聖なる者たち」に「愛されている」都です。イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者は自分たちの上にこの「新しいエルサレム」の名を書いてもらいました。それは地上にある有形の都市のようなものではなく,その影響力や権威を地の住民に及ぼすことによって下る天の都なのです。
10 解き放されるサタンは「愛されている都市」に直接近づけますか。それで,サタンは何のためにその都に対して攻撃を行ないますか。
10 その「都市」は,人類を支配するその千年の終わりに解体され,破壊されるわけではなく,義にかなったその良い影響は「聖なる者たち」とともに依然として地上に存続します。悪魔サタンはこの「愛されている都市」に戦いを挑むことによって,その新しいエルサレムのもたらした,そうした良い事がらすべてをだいなしにしようとします。彼はそのような恩恵が人類の間に永遠に存続するのを好みません。彼は地の近辺に拘束されており,かつて配下の悪霊たちとともに追い出された天には居場所がないため,天にある「愛されている都市」に直接近づくことはできません。それで彼は,その都によって地上で確立されたあらゆる義にかなった事がらを無に帰させようと試みる程度まで,その都に対して戦います。
11 (イ)その時,その「戦争」はどのようにして行なわれますか。(ロ)論争点は神の全能の能力の問題ではなくて,その宇宙主権の正当性の問題であることが,どのように示されますか。
11 その「戦争」が核爆弾その他,この20世紀の戦争道具のような科学兵器を用いて行なわれるなどとはとても考えられません。地の住民は一千年の間,そうした武器を貯蔵してはいませんし,そのような戦いをもはや学んでもいないからです。(イザヤ 2:2-4)それはその種の軍事力を行使する戦争ではありません。欺瞞,人を惑わす宣伝,宇宙の主権者への不忠節を促そうとする利己主義に対する訴えなどが,人びとを圧倒する強力な武器となることでしょう。論争点となるのは,神の全能の能力よりはむしろ,エホバの宇宙主権の正当性の問題です。これはサタンが底知れぬ所に千年間幽閉され,今や解き放されることによって,悪魔サタンの力に比べて神の力の勝っていることが実証されることからもわかります。依然としてエホバの主権に反対する反抗者であるサタンは,人類を同様の反抗者にしようとして躍起になっているのです。
一千年の後に示される反抗の程度
12 サタンに惑わされる人びとが「海の砂のようである」といわれている事実は何を示していますか。
12 その主要な論争でサタンと配下の悪霊たちにまんまと惑わされる人びとの数は,「海の砂のようである」といわれています。すなわち,数えきれない人数と考えられます。(啓示 20:8)それは決して人類の大多数という意味ではありません。たとえば,裁き人ヨシェアに戦いを挑んだ連合軍は海辺の砂のようにおびただしかったと言われています。(ヨシュア 11:4)ヨアシの子,ギデオンの時代にイスラエルの地に侵入した敵のらくだは,『浜の砂の多きがごとくにして数うるにたえず』といわれています。(士師 7:12)同様に,サタンに惑わされる人びとの人数は決まってはいません。何人になるかは予告されていませんが,大群という印象を与えるに足るほど大勢でしょう。それで,悪魔サタンは限られた程度で功を奏するにすぎません。
13 「地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグ」が楽園の地に現われるのは,復活によるのでしょうか。
13 サタンにまんまと惑わされる人たちは,「地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグ」と言われています。彼らが楽園の地に現われるのは,「不義者」を含む死人の復活によるのではなく,人数は予告されてはいませんが,回復された人類の中のある人びとがサタンに惑わされる結果なのです。
14 では,彼らはどういう意味で「諸国民」と呼べますか。彼らはどうして「地の四隅」にいる者たちといえますか。
14 一千年にわたる裁きの日の期間中,人類の間には国家的分裂はありませんし,どの国の出身者かによって人びとの受ける裁きが左右されるわけでもありません。解き放されたサタンに惑わされる人びとが「諸国民」と呼ばれていることは,彼らがサタンのようにエホバの宇宙主権を認めようとはしないこと,また国家主権のような独自の地的主権を確立する道を選ぶということを表わしています。彼らは自ら服すべき共同の主権は持たないにしても,相互に分裂しているゆえに集団別に主権を持つでしょう。しかしながら,エホバの主権に対しては,彼らは結束して反対します。彼らが「地の四隅の諸国民」と呼ばれていることは,「愛されている都市」から彼らがはるかに離れていることを示しています。したがって,惑わされる者たちは,主権に対する態度の点では,エホバ神の行使される主権を遠く退けています。彼らについて言えば,エホバ神は「だれに対してもすべてのもの」とはなりません。
15,16 (イ)それら国家主義的な考えを持つ惑わされた者たちは,物事のタイミングや攻撃目標の点で,どのように「ゴグとマゴグ」に似ていますか。(ロ)それら惑わされた者たちは,エホバに操られて攻撃を仕掛けるという点で,どのようにゴグに似ていますか。
15 それら国家主義的な考えを持つ惑わされた者たちは,いみじくも「ゴグとマゴグ」と呼ばれています。エゼキエルの預言の中で予告された最初の「マゴグの地のゴグ」の場合,彼はエホバ神の崇拝者たちに最終的な攻撃を行ないました。それら崇拝者たちが彼らの正しい地的な状態に回復され,彼らの地が「エデンの園」のようになった後にゴグはそうした攻撃をしました。(エゼキエル 36:35)彼らは「無防備の村々の地に」「穏やかにして安らかに」住み,「すべて石がきもなく,貫の木も門」さえもないまま住んでいました。(エゼキエル 38:11,口語)同時に,「マゴグの地」の人びとは,一見無防備に見えるエホバの崇拝者たちを攻撃する自分たちの首領を支持しました。しかし,ゴグは実際,はるか遠くから攻撃しにやって来ます。なぜなら,エホバはこう言われるからです。「わたしはあなたを引きもどし,あなたのあごにかぎをかけて,あなたと,あなたのすべての軍勢と……を引き出す。……終わりの年にあなたは……回復された〔人びとの〕地……に向か(う)」― エゼキエル 38:4-8,口語〔新〕。
16 一千年にわたる裁きの日が終わった後に悪魔サタンに惑わされる人たちは,ほかならぬ回復された人類を攻撃させる目的で底知れぬ所からエホバ神によって解き放されたばかりの,目に見えないこの首領に従います。悪魔サタンと配下の悪霊たちは底知れぬ所から解き放されると,再び地の近辺に侵入し,今やエデンの園のようになった地上の楽園にいる人類と密接に接触することができます。それで,解き放された悪魔サタンは攻撃を行なうさい,エホバは巧みに事を運ばれるので,サタンはあたかもあごにかぎを掛けられて動かされるかの観を呈します。そして,今や地上で悪魔サタンに惑わされる者たちも,サタンと同様,あたかもあごにかぎを掛けられて動かされ,「聖なる者たちの宿営と愛されている都市」に対するその攻撃を行ないます。(啓示 20:7-9)それで,ゴグとマゴグという名称は適切であるとともに,エホバ神の宇宙主権に忠節に従う人びとを襲って略奪しようとする,人類の中の国家主義的な考えを持つ惑わされたそれらの者たちによく当てはまります。
17,18 (イ)それら惑わされた者たちは「愛されている都市」を直接攻撃できますか。彼らはどのようにして攻撃せざるを得ませんか。(ロ)キリストの千年統治の終わりに,地上で君として仕えるその子たちは,どんな行動を取らざるを得ませんか。どんな目的でそうすべきですか。
17 人類の中のそれら惑わされる者たちは地上に住む人間に過ぎないので,その見えない指揮者である悪魔サタンが行なえないのと同様,天の新しいエルサレムを直接攻めることはできません。しかし,彼らは天のメシアの政府を地上で忠実に代表する人たち,すなわち『全地の君』たちと関係を持つことができます。それらの人びとは新しいエルサレムの王であるとこしえの父イエス・キリストによりそのような君たちとして任命されているのですから,「愛されている都市」の見える代表者である君として仕えています。そして,王としての,神のみ子が千年統治の終わりに「王国を自分の神また父に渡」すとき,地上で君として仕えるそれら子たちも,それに対応する行動を取らねばなりません。「すべてのものを自分に服させたかたに」,すなわち天の父に「自ら服」する神のみ子に倣わねばなりません。
18 したがって,とこしえの父イエス・キリストのもとで君として仕えるそれら「子たち」がイエスに倣い,また宇宙主権の正当な行使者であられるその父なる神に自ら服従するのはもっともなことです。彼らは自分たちの事情が変化したために要求される事がらに高慢な態度で反抗する代わりに,キリストと同様に行動し,自らエホバの宇宙主権に服します。悪魔サタンに惑わされる者たちは,議論や圧力を駆使して,「愛されている都市」の目に見える地上の代表者たちを攻撃し,エホバの主権に服させまいとしますが,それら代表者たちは断固としてその立場を守ります。彼らはいと高き神に対する誠実を保ち,全地および全宇宙を治める神の正当な主権を忠節に守り通します。彼らはためらうことなく,エホバ神が「だれに対してもすべてのもの」となられることを望みます。―コリント第一 15:24-28。
「ゴグとマゴグ」および彼らを惑わす者を処分する
19 惑わされた者たちの攻撃を受けるとき,忠節な者たちは神に対する信仰のみならず,神の宇宙主権に対する誠実をもどのように表わしますか。
19 悪魔サタンが,自ら惑わした地上の者たちを集めて行なうその「戦争」にさいして,「聖なる者たちの宿営」および「愛されている都市」の地上の代表者たちは,肉の武器を取って抗戦するわけではありません。もちろん彼らは,自分たちが見ることも,また捕えることもできない悪魔サタンやその使いである悪霊たちを絶滅できるものではありません。しかし,エホバの宇宙主権が行使されるのを欲する忠節な人たちは,「ゴグとマゴグ」を構成する惑わされた地上の者たちをたとえ見ることができるにしても,惑わされた者たちの刑執行者として行動して彼らを絶滅するというようなことはしません。エホバ神の側につくことを望む彼らは,神の宇宙主権を表明し,惑わされた不忠節な者たちに対して神の宇宙主権の真正さを示すことをエホバに委ねます。彼らはその戦いをエホバの戦いとします。またそれゆえに,エホバの刑執行者の軍勢として行動して致命的武器を取って戦うことはしません。それは彼らの信仰のみならず,エホバ神とその宇宙主権に対する全き誠実をも表わすものとなります。エホバご自身に彼らを救っていただき,不忠節な者たちを滅ぼしてもらいましょう! 彼らは固く信じて,じっと立ち,自分たちのための『エホバの救い』を見るのです。―歴代下 20:15-17。
20 (イ)神の保護のもとで,忠節な人たちは何を見る特権にあずかりますか。(ロ)神のそうした行動は,不忠節な者たちにとっては何を意味しますか。
20 エホバの宇宙主権に対して忠誠を保つ人たちは「全能者の陰に」宿るので,ただ目をもって「見,悪しき者の報いを見る」だけです。(詩篇 91:1,8,口語)彼らは一千年の後の「ゴグとマゴグ」に関して啓示 20章9節で次のように予告された事がらの成就を見ます。「そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした」。人類の中のそうした不忠節な者たちは,永遠の滅びを意味する火のバプテスマを受けます。神は彼らを義とし,あるいは義と認めて,その名を「命の書」に載せることはなさいません。(ローマ 8:33)それはエホバの宇宙主権の乱用ではなく,ご自分の敵に対するその正当な表明となります。
21 (イ)サタンはどれほどの期間,底知れぬ所から解き放されることになっていましたか。その目的は今や達成されましたか。(ロ)サタンを底知れぬ所に戻すとすれば,それは何を意味するものとなりますか。
21 しかし,善を憎むそうした不法な者たちの永遠の滅びは,悪魔サタンとその使いである悪霊たちが地の近辺から除かれることを意味してはいません。いまやサタンは底知れぬ所から十分に長い期間解き放されてきました。サタンを解き放す点での神の目的は十分達成されており,サタンとその悪霊たちをもはやそれ以上解き放したままにしておく理由は何もありません。わたしたちは,サタンが底知れぬ所に投げ込まれて千年間閉じ込められることに関して次のように記されているのを覚えています。「これらのことののち,彼はしばらくのあいだ解き放されるはずである」。(啓示 20:3)悪魔サタンが回復された人類の中のできるだけ多くの人びとを惑わし,地に対するエホバの主権の行使の仕方は不正で横柄であると彼らに思い込ませようとしてきた,その「しばらくのあいだ」に相当する期間は,今や終わりました。さて,どうなりますか。サタンとその悪霊たちは底知れぬ所にまた投げ込まれるのでしょうか。そうなるとすれば,それは丁度,イエス・キリストご自身が底知れぬ所から解き放されたように,また象徴的ないなごや,大いなるバビロンの乗った「野獣」が底知れぬ所からそれぞれ解き放されたように,彼らが再び解き放されることを暗示するものとなるでしょう。―ローマ 10:7。啓示 9:1-3; 17:8。啓示 11章7節と比較してください。
22,23 (イ)人間に関するサタンの非難に対する弁明はどのようにして行なわれてきましたか。長年にわたる論争はだれに勝ちをもたらすものとして解決されましたか。(ロ)今やサタンとその悪霊たちにはどんなことがふりかかりますか。
22 悪魔サタンとその悪霊たちが鎖で縛られ,底知れぬ所に幽閉されたとき,彼らは一時的に責め苦を受けました。では,また拘束されて,再び一時的に,それともいつまでも責めさいなまれるのですか。地上で彼らに惑わされた者たちが火のような滅びの処罰をこうむるのを見た後,彼らはどうなりますか。地上の人間は単に神から得られるもののためにエホバ神に仕えているに過ぎず,悪魔サタンの意地の悪い誘惑に遭っても,エホバへの純粋な愛ゆえにエホバ神に対する忠節を保つような人間はいないと,悪魔は初めからずっと非難してきましたが,今やその非難に対する弁明がなされました。不忠節な者たちが火のような激しい絶滅をこうむった後も生き長らえて誠実を保つ男女は,悪魔に対する生きた答えとして立ち,悪魔がうそつきであることを実証します。七千年の期間にわたった論争は終わり,真理の神が勝ちを得ます。ですから,悪魔サタンとその悪霊たちをそれ以上生き長らえさせる必要はもはやありません。彼らに対する神の忍耐は今や尽きました。このようなわけで,神はそれら反抗した使いたちを底知れぬ所に再び入れることはなさいません。それで,彼らにはどんな事がふりかかりますか。
23 「そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」― 啓示 20:10。
24,25 (イ)火の湖に投げ込まれるということは,サタンとその悪霊たちにとっては何を象徴していますか。(ロ)これはどうして別の種類の死といえますか。
24 火と硫黄の湖で悪魔サタンがこうむる責め苦は,象徴的な野獣と偽預言者にとってもそうであるように,サタンと悪霊たちにとってもやはり同じ事を意味しています。それは何ですか。限りない永遠の滅びです。(啓示 19:20)その象徴的な野獣と偽預言者の場合と同様,悪魔サタンとその悪霊たちは二度とふたたび生きることはありません。彼らの名は,神聖な「命の書」のどれにも記されません。楽しく過こそうと,苦しみながら過ごそうと,生きているということは生きることです。ですから,彼らが象徴的な「火といおうとの湖」に投げ込まれるといっても,生きたまま意識を保って肉体的また精神的に責めさいなまれるという意味ではありません。
25 その象徴的湖は,いわゆる「生きながらの死」を象徴してはいません。それは別の種類の死,つまり罪深いアダムとエバから全人類が生まれながらに受け継いで,人類に苦しみをもたらした死,また創造物の領域,つまり神のかたちに作られた被造物の間に明らかに初めて入ってきた形態の死とは異なる死を象徴しています。しかし,そのようにして受け継がれた死は,一時的な死です。それはイエス・キリストの死と復活の結果として起こる復活によって,「死の眠り」に変えられたからです。―コリント第一 15:20-22。
26 この別の種類の死はなぜ適切にも「第二の死」と呼ばれていますか。その死に遭う人びとの名はどこに記されることはありませんか。
26 「火といおうとの湖」で象徴される死は,目ざめさせられて終える眠りのようなものではなく,完全な滅び,つまり終わりのない死なので,人類がアダムから受け継いだ死とは異なります。継承物としてアダムから受けた死は『第一の死』です。したがって,「火といおうとの湖」で象徴されているこの別の種類の死は,いみじくも「第二の死」と呼ばれています。これこそ千年間の裁きの日の期間に入りながらも,後に神の「命の書」にその名を書き記してもらえない地上の人たちの場合の死が表わしているものなのです。霊感を受けた聖書は,永遠の命を受けるに価しないそうした者たちのための「火の湖」の意味を説明して,こう述べています。「そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」― 啓示 20:14,15。
27,28 (イ)サタンとその悪霊たちはどうして「第二の死」をこうむることができますか。(ロ)では,彼らが火の湖で責めさいなまれるとは何を意味していますか。
27 「火の湖」が何を象徴するかに関するこの天来の説明については,数節後の箇所でもう一度次のように証言されています。「だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ,わたしはその神となり,彼はわたしの子となるであろう。しかし,憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。(啓示 21:7,8)「火の湖」に言及しているこうした箇所はすべて,啓示の書の19章から21章までの同じ文脈の中で非常に密接に関係し合っています。ですから,「命の書」に書き記されない人びとにとって「火の湖」が意味する事がらは,同時に悪魔サタンとその悪霊たちにとってそれが意味するところと同じです。それは「第二の死」を意味しています。それは必ずしも二度目の死を遂げるという意味ではなく,聖書の述べる第二の種類の死を遂げることです。それは果てしのない死です。
28 したがって,サタンとその悪霊たちは,たとえかつて一度も死んだことがなくても,その種の死をこうむることができます。最初の人間の罪によってもたらされた第一の種類の死には,ほんの少しの命もありませんでした。同様に,神に故意に背き,そうするために自分の完全性をさえだいなしにする者たちのための永遠の処罰である「第二の死」には,命のひらめきさえもありません。それで,聖書に基づくすべての規定によれば,サタンとその悪霊たちが火と硫黄の湖でかぎりなく永久に責めさいなまれるとは,彼らが無に帰させられる,つまり存在しなくなること,彼らの霊の命が永久に拭い去られることを意味しています。結果として,神の所有される宇宙は,二度と再び悪霊の現われることのない,悪霊のいない所となります。
一千年が終わった後に生き返る
29 聖なる者たちの宿営,また君として仕える,愛されている都市の代表者たちが生き残るのを神が許されたことは,神が彼らに対してどんな行動を取ったことを示していますか。
29 ゆえに,何と輝かしい永遠の時代が人類を待ち受けているのでしょう。ご覧なさい! エホバ神は「ゴグとマゴグ」および悪魔サタンとその悪霊たちの滅びにさいして,「聖なる者たちの宿営」と,君として仕える「愛されている都市」の地上の代表者たちを生き残らせてくださるのです! それは神が彼らの名を「命の書」に書き記された,あるいは彼らの名を「命の書」に記載させたということのほかに何を意味していますか。それは彼らが神に対する誠実を守り,そのようにして,神のみ子イエス・キリストと14万4,000人の共同相続者たちとに加わって,あらゆる良いものの創造者であられる,いと高き神の宇宙主権の正しさを立証したゆえに,神が彼らを義と認め,彼らを義とされたことを意味しています。エホバ神によって義と認められるということは,楽園の住みかで永遠の命を受ける権利をエホバが彼らに授けられることを意味します。
30 (イ)最終的試みを首尾よく通過する人たちは,だれの恩をいつまでも負う者となりますか。彼らはどこに永遠に立ちますか。(ロ)彼らはいつ,ほんとうに「生きる」ことになりますか。
30 千年の間,愛ある仕方で人類を扱うことによって,喜んで応ずる従順な人たちを肉身でそうした完全な義にかなうまでに引き上げてくださったのは,祭司で審判者である天の王イエス・キリストです。もし,彼が千年の終わりまでにそうしなかったなら,最高の審判者エホバ神による最終的試みを受けるよう彼らを引き渡すのを躊躇されたことでしょう。なぜですか。なぜなら,完全な義に欠けているとすれば,彼らは神による試みを首尾よく通過して,とこしえの命を取得することは決してできないということを彼は知っておられたはずだからです。それで彼らは,肉身で全き義にかない,罪の全くない状態で,エホバの崇拝者としてその「真の天幕」もしくは神殿の地的な中庭に立ちます。彼らは主権者なる主エホバに対する非の打ちどころのない誠実と揺るぎない忠誠をもって神による試みを通過することにより,そこに永遠に立ち続けます。彼らは神のみ子イエス・キリストの恩を永遠に負う者として留まります。彼らの贖い主で救い主なる主イエスは,ご自分のわざを完成させた証拠として,愛をもって彼らを完全な義にかなうそうした状態にまで引き上げてくださったのです。ゆえに,その時こそ,彼らはほんとうに生きるのです!
31 こうして,キリストの統治する千年の終わりまでには,「残りの死人」はどんな状態に達しますか。アダムに帰因する死はどうなりますか。
31 こうした事がらに照らしてみると,啓示 20章5節のかっこ内の,「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)」という陳述の正確さを正しく評価できます。もしイエス・キリストと,「第一の復活」にあずかった14万4,000人の共同相続者が彼らのために千年間の予備的な仕事を成し遂げなかったなら,完全な命を享受するそうした状態は,千年の終わりに際して「残りの死人」の受ける分とはならなかったでしょう。実際,その時までには,『(アダムから受け継がれた)死はその中の死者を出し,死は火の湖に投げ込まれて,「第二の死」つまり消滅に遭っている』でしょう。(啓示 20:13,14)その時,コリント第一 15章25,26節で予告されたことが実現します。「神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます」。
32 その時,啓示 21章3,4節のことばはどのようにして全く実現しますか。
32 その時,罪深いアダムから受け継いだ死は,まさに次のことばどおりになるでしょう。「そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。
33 (イ)そのような豊かな命を得る人たちは,命を永遠に延長させてもらうに価する者であることをどのようにして実証しますか。(ロ)その時,彼らはローマ 6章23節の真理をどのようにして身をもって認識しますか。
33 千年の終わりまでに,このような完全な意味で生き返る人たちはすべて,その豊かな命を永遠に延長させることを望みますか。永遠の命を得る権利を,あらゆる命の源であるエホバ神から受けるに価することを実証するなら,彼らはそうすることができます。忠実で忠節な人たちは,エホバに対する魂をこめた誠実さの徹底的な試みを通過するゆえに,自分たちの命を守られ,また永遠にわたって命を延長させられて幸福を享受する,その貴重な特権をもって報われます。こうして彼らは,「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であることを身をもって悟ります。(ローマ 6:23)もし,神がその愛する独り子をお用いにならなかったなら,人類家族にとってこのような事は不可能だったでしょう。
34,35 (イ)「大患難」以前に,白い衣をまとってエホバの霊的な神殿ですでに奉仕していた「大群衆」に関しては,どんな希望がありますか。(ロ)復活させられた「不義者」たちでさえ,エホバのその中庭に対してコラの子たちが抱いたどんな気持ちを培うことができますか。
34 その時,エホバという名をお持ちになる神をその霊的な神殿の地的な中庭で崇拝し,その神に仕えるのは,なんと魂を満足させる事がらでしょう。「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」ということばは,輝かしい千年期の初めに「大患難」の生存者たちの「大群衆」に関してすでに実現しました。(啓示 7:9,14,15)清い衣をまとったこの「大群衆」の成員は千年の間,また一千年が終わった後に主権者なる主エホバに対する絶対の誠実に関する試みがなされる間も最後までずっと神の霊的な神殿のその中庭に留まるものと期待されています。一千年の期間中に墓からよみがえらされる人たちも,エホバへの崇拝と奉仕を行なえるよう,エホバの霊的な神殿の地的な中庭に導かれます。正しい認識をいだいて,エホバへの奉仕をそこで行なうことにより,復活させられる「不義者」たちさえ,レビ人コラの子たちが感じたように感ずることでしょう。
35 『なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり われは悪の幕屋におらんよりは むしろ わが神の家の門守とならんことを欲うなり そは神エホバは日なり盾なり エホバは恩と栄光とをあたえ 直くあゆむものに善き物をこばみたもうことなし』― 詩篇 84:表題,10,11。
36 誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデの言い表わした,神の神殿に関するどんな感謝の気持ちを培いますか。
36 生ける唯一の真の神に対する心からの誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデが次のように述べて言い表わした,霊的な事がらに対する感謝の気持ちを培います。「わたしは一つの事をエホバに願った。わたしはそれを求めている。わたしの命の日の限り,エホバの家に住むことを。エホバの麗しさを仰ぎ見,感謝をもってその神殿を見る,そのために」― 詩篇 27:表題,4,新。
37,38 (イ)エホバの「足台」はついには,当然そうあるべきどんな状態にされますか。(ロ)エホバの「足台」の上に留まる住民は,単に自然の楽園だけを享受しますか。彼らは詩篇の最後の一編の叫びにどのように答え応じますか。
37 その時,全地はその驚くべき創造者の崇拝の行なわれる所となります。地は創造者の「足台」であり,他方,天はその「王座」です。(イザヤ 66:1,新)その天の王座は輝かしいものですから,その地的足台も,その足を据えるにふさわしい,輝かしい所とされます。地上はどこもかしこも楽園のように,つまりエデンの園,エホバの園のようになります。(創世 2:8; 13:10)それは楽しみと喜びの場所となります。なぜなら,そこは,「神の栄光に達しない」状態のもとにはもはやいない,神の崇拝者たちすべてにとって純粋の幸福を伴う生活の場となるからです。彼らは麗しく開花した敬虔な特質をすべて備えており,神との快い関係を存分に享受します。ゆえに彼らは,地的な楽園だけでなく,霊的な楽園の中にいることをも悟ります。このすべては,言語に絶するこうした良いものすべての偉大な創造者で供給者であられる方を賛美するよう,まさに魂を揺り動かす理由ではありませんか。彼らは自分たちの磨いたきれいな声と音楽的技能のすべてをもって,感謝をこめて創造者を賛美するでしょう。そして,霊感を受けた詩篇の最後の一編の次のような熱烈な叫びに答え応じて,天に住む者たちの大群衆と,とこしえに声を和することでしょう。
38 「ヤハを賛美せよ。その聖なる場所で,神を賛美せよ。そのみ力の大空で,神を賛美せよ。その大能のみわざのゆえに,神を賛美せよ。その偉大さの豊かさのゆえにより,神を賛美せよ。角笛を吹き鳴らして,神を賛美せよ。タンバリンと円舞をもって,神を賛美せよ。弦と笛をもって,神を賛美せよ。きれいな音のシンバルをもって,神を賛美せよ。鳴り響くシンバルをもって,神を賛美せよ。息あるものはみな,ヤハを賛美せよ。ヤハを賛美せよ」― 詩篇 150:1-6,新。
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