-
あなたが関心を持つべき問題今ある命がすべてですか
-
-
第1章
あなたが関心を持つべき問題
人間はいつか永久に生きられるようになりますか
樹木の中には幾百年も生きるものがあります
あなたにとって,命は貴重なものですか。あなたご自身,またあなたの愛する人々が,健康に生活することを願っておられますか。たいていの人は,この問いに,はい,と答えます。
しかし今日,自分自身についても,また自分の配偶者や子供についても,生命の不確かさを終始銘記させる要素がたくさんあります。事故,犯罪,暴動,戦争,飢きんなどのため,若い盛りに命を断たれる人が幾百万となくいます。医学の進歩にもかかわらず,重苦しい病気で死ぬ人の数は驚くほどに達しています。それに加えて,汚染の問題が極めて深刻な脅威をかもしています。
したがって,今日の多くの人が次のように尋ねるのも不思議ではありません。『今ある命がすべてなのだろうか。あるいは,わたしたちの最大の希望は死後の生命に見いだされるのだろうか。人が死ぬ時,実際にはどんな事が起きるのだろうか。そのある部分は生き続けるのだろうか。その人は依然意識を保ち,見たり,聞いたり,話したり,他のいろいろな事を行なったりすることができるのだろうか。死後の責め苦というようなものがあるのだろうか。実際のところ,死は人間にとって友なのだろうか,それとも敵なのだろうか』。こうした問いの答えを知ることは,わたしたちの益となるはずです。
あなたの生活は死によってかたどられていますか
あなたはそのようなことを考えたことがないかもしれません。しかし,わたしたちすべての生活は,死に対する自分の見方によって大いにかたどられているのです。それは,多くの人が考える以上に生活の喜びを左右し,命の用い方に影響を与えています。わたしたちが死に関する真理を知らなければならないのはそのためです。
世界の大部分の宗教は,基本的に言って,生命ではなく,死の方向に向いています。この点に気づいておられますか。多くの人々は,死によって別の世界,『死者の世界』に導かれ,そこで至福か責め苦のいずれかに遭遇する,と教えられています。死者のための祈り,また死者を慰めるための費用のかかる儀式や供え物が,多数の信徒を擁する多くの大宗教においてその活動の重要な部分を成しています。
『なるほどそうかもしれないが,わたしは死やその後に何があるかなどを心配して時間をむだにしたりはしない。わたしの問題は生きることであり,今できるうちに自分の生活から最大のものを得ることだ』,と言う人がいるかもしれません。しかし,そうした反応でさえ,死が人々の生活に影響を与えていることを示しています。生活からいつまで良いものを得られるか,それはやはり死によって決定されるのではありませんか。
こうして,自分の思いから死の概念を除き去ろうとしても,わたしたちの寿命は,いちばん良い場合でもやはり短いのであり,そのことが絶えずわたしたちの上にのし掛かっています。それが人を追い立てて,早いうちに,『物事を楽しめるうちに』富をつかもうと躍起にならせる場合もあります。命の短さが多くの人を気短にならせ,他の人に対して粗暴で冷淡な態度を取らせています。目指すもののために不正な手段を取らせる場合さえあります。そうした人々は,方正な手段でそれをするには時間が足りないと感じるのです。しかも,そのようにしていながら,自分の生活は死にかたどられてなどいない,と唱えます。
あなたご自身は死をどのように見ておられますか。将来に対するあなたの見方の中で,それはどのような地位を占めていますか。いえ,この点で言えば,それは今のあなたの生き方にどのような影響を与えていますか。
はっきり知ることが必要
生や死について人々の見解がさまざまに異なっている,という点に問題があります。そうした見解が相入れず,正反対である場合さえ少なくありません。
多くの人は,死はいっさいの事の完全な終わりであると信じています。あるいは,少なくとも,人間は死ぬようにできている,と信じています。あなたはそれを受け入れることができますか。樹木の中には,理知を持つ人間より幾千年も長く生きるものがあります。それはあなたにとって納得のゆくことですか。自分の望む事をみな行ない,学びたい事をみな学び,見たい物をすべて見,自分の能力や才能を望むかぎり伸ばすのに,70年か80年の生涯で十分である,と思いますか。
一方では,肉体の死後に何かが,つまり魂ないしは霊が残るから生命は死後にも存続する,と信じている人々が非常に多くいます。しかし,そうした人々どうしの見解も大きな相違を含んでいます。そして,言うまでもなく,その人々の信条は,いっさいの生命は死をもって終わるとみなしている人々の考えと相入れません。相入れないさまざまな見解がすべて正しい,というはずはありません。正しいのはどの見解ですか。これは重要な問題ですか。そうです。その理由を考えてください。
一つの点として,死者のための祈りや儀式によって死者が本当に益を受けるのであれば,そうした事を怠る場合,それは無情なことではありませんか。一方,死者は全く死んだのであり,生きている人間からなんの助けも受けられないとすればどうでしょうか。そうであるとすれば,幾億もの人ははなはだしい詐欺行為の犠牲となっていることになります。そして,多くの大宗教は欺きによって自らを肥やし,だれかに益を与えるどころか,死者に関する偽りによって生きている人々を利用してきたことになります。
遅かれ早かれ死がわたしたちの家族またわたしたちの友人の家族にも及ぶことが考えられます。その場合,わたしたちはどんな慰めを差し伸べることができるでしょうか。「運命」がわたしたちの経験する事柄と寿命を支配しているというのは,条理にかなった見方ですか。小さな子供が死ぬ場合はどうですか。ある人々が言うように,『ご自分と共にいさせるため神がその子供を召された』のですか。
確かに,死についてわたしたちの知るべき事が非常に多くあります。そして,命を愛すれば愛するほど,こうした問題について正しい確かな答えを知りたいと思うはずです。しかし,それをどこで得られるでしょうか。意見の食い違いや混乱が大いに見られるのですから,この点が特に問われます。
生や死の問題を論じている宗教書は多くあります。その中にはかなり昔に書かれたものもあります。しかし,非常に古い時代に書かれたもので,他のすべての本とは全く異なった見方を示している本が一つあります。事実,その本が提出している見解は,大多数の人がその本について考えている事柄とさえ驚くほど異なっています。その本とは聖書です。
聖書は現実の人々,つまり,今日のわたしたちと同じ根本的な問題に直面した人々について述べています。そうした人々もまた,人の生きる目的を考察し,次のような疑問を招きました。「人は,日の下で骨折ってなすそのすべての骨折りと心づかいとに対して何を得ることになるのだろうか」。「千年の倍も生きながら良いものを見ていないとしても,すべての人が向かっているのは同じ所ではないか」。(伝道 2:22; 6:6)そして,彼らもまた,『強健な体の人でも,死ぬとまた生きられるだろうか』との問いを発しました。(ヨブ記 14:14)あなたはこうした問いの答えを知っておられますか。
あなたが今手にしておられる本は,ここで取り上げた問いに対して一般に提出されているさまざまな答えだけでなく,そのおのおのについて聖書がどのように重要な答えを提出しているか,という点を述べています。あなたは,死に直面している人々,また死の恐れに捕われている人々に対して聖書が差し伸べるまたとない希望について学ばれるでしょう。この本から得られる知識を基にして問題を理解するなら,それは,あなたの現在と将来の幸福と平安に大きく資するものとなるでしょう。
-
-
死は人々の日常生活にどのような影響を与えているか今ある命がすべてですか
-
-
第2章
死は人々の日常生活にどのような影響を与えているか
たいていの人は,自分の生活また自分の家族の生活に現在直接影響する事柄に強い関心を払います。そして,死に関してゆっくり時間をかけて話しまた考えようとする人は多くいません。
確かに,死は人にとって明るい見込みではありません。しかし,それは人の日常生活に明確な影響を与えています。親しい友また愛する親族の死に接して深い悲しみや大きな喪失感を味わわなかった人がいるでしょうか。家族内のだれかが死んだためにその家族の生活全体が大きく変わる場合もあります。安定した収入の道が途絶えたり,残された人々が寂しさや憂うつ感に沈んだりするのです。
快いものでないとはいえ,死は日常起きる問題であり,わたしたちはそれを無視してしまうことはできません。定まっている行動をいつまでも無限に延ばすことはできません。あしたではもう遅い場合もあるのです。
このことはあなたにどんな影響を与えてきましたか。命の短さゆえにあせりを感じ,人生から得られるものをできるかぎり得ようといらだつことがありますか。あるいは運命論的な見方をし,結局のところただ成るようにしか成らないのだ,と考えていますか。
運命論的な見方
人の生と死は運命によって支配されている,と信じる人は今日でも多くいます。これは,4億7,700万を数えるヒンズー教徒の持つ基本的な概念です。実際のところ,運命論的な見方はほとんどすべての所に浸透しています。人々が,『それはただそうなることになっていたのだ』とか,『彼の時は尽きたのだ』,また,『命数がまだ尽きていなかったので彼は生き延びた』などと言うのを,あなたもお聞きになったことがありませんか。事故などの時にそうした言葉がよく語られます。しかし,それは真実ですか。次の例について考えてください。
1973年,パリ航空ショウでの実演飛行のさい,ソビエトの超音速旅客機TU-144が爆発事故を起こして,搭乗員全員が死亡しました。機体の大きな破片がフランスのグーサンビユ村にうなりを立てて落下しました。その村の一人の婦人はちょうど寝室を出てその戸を閉めたところでした。その時,残がいの一部が外の壁を突き破って飛び込み,寝室を全く破壊しました。婦人は無傷でした。
災いを免れられなかった人たちもいます。そうした犠牲者の中には,ある年配の婦人の三人の孫たちがいました。しかし,その年配の婦人自身は何事もなく助かりました。
それらの子供や他の人々は,自分の「時」や「命数」が尽きたので死んだのですか。他の人々が助かったのは,その運命の日がまだ来ていなかったためですか。
こうした問いに肯定の答えをする人々は,『時が尽きている』場合,だれがどんな事をしてもその人の死を防ぎえない,と信じています。どれだけ用心していても運命の定めからは全く逃れられない,と感じているのです。これは古代ギリシャ人の抱いた考えと似ています。人間の運命は,三人の女神,クロトとラケシスとアトロポスが支配している,というのが古代のギリシャ人の考えでした。クロトが命の糸を紡ぎ,ラケシスがその長さを決定し,時が尽きるとアトロポスがその糸を切る,とみなされていました。
このような運命論的な見方は論理的に筋の通るものですか。次の点を考えてください。安全規則を守れば事故死が減り,それを無視すれば事故死が増えるのはなぜですか。交通事故死の大多数は,その原因を,人間の不注意,酔酒,誤り,法律違反などに帰することができます。これはなぜですか。衛生水準が高く食糧事情の良い国の人々が,そうしたものの整わない国の人々より平均してずっと長く生きるのはなぜですか。たばこをのまない人よりのむ人のほうが肺ガンにかかって死にやすいのはなぜですか。どうしてこのすべてが,人の全く制御できない機械的な運命によると言えるでしょうか。むしろ,人間の身に起きる事にはそれぞれの理由がある,というのが真実ではありませんか。
事故死の多くは,その人がたまたまその危険な所にいた,ということによるのではありませんか。例えば,仕事の日に毎朝一定の時刻に家を出る人がいます。ある朝,その人が近所の家の前を通っていたところ,悲鳴とどなり声が聞こえます。歩を速めて角を曲がると,そのとたんに流れ弾がその人に当たります。その人の死は,ちょうど悪い時にその曲がり角にいたことによります。その状況は予見しえないものでした。
聖書の伝道之書を記した賢い人は,人の日常生活に起きる事柄を観察して,次のように述べました。「わたしは立ち返って日の下を見たが,速い者が競走に勝つのではなく,強大な者が戦いに勝つのではなく,賢い者が食物をも持つのではなく,悟りのある者が富をも持つのではなく,知識のある人々が恵みを得るのでもない。時と予見しえない出来事とはすべての者に臨むからである」― 伝道之書 9:11。
この点をよく理解する人は,安全規則を無視して不必要な危険を冒したりはしません。自分の「時」が尽きていない間は死に対して免疫である,といった考えは持たないのです。その人は,運命論的な見方が自分自身にも他の人にも危険なものであることを知っています。こうした点を認識し,それに応じて賢明に行動するなら,あなたは自分の命を延ばすことにもなります。
それに対し,運命論的な見方は無謀な行動を誘いやすく,また,自分や自分の家族に大きな影響を与える問題について必要な知識を取り入れるべき時にむとんちゃくな態度を取らせます。
ただその日のために生きる
運命論的な見方に加えて,この20世紀のさまざまな出来事もまた人々の行動に影響を与えてきました。
どのような事が起きているかしばらく考えてください。戦争,犯罪,暴動,飢きんなどの犠牲となって幾百万の人が命を失いました。生命に必須の空気や水が汚染されて危険な段階に達しています。どの面から見ても,人間の生命は脅かされているように思えます。そして,人類がその当面している問題を近い将来に解決できるという真の保証は何もありません。人の命が非常に不安定なものに見えます。これはどのような結果を生んでいますか。
ただ当座のために生き,その日に得られるものからただできるだけ多くを得ようとして生きている人が多くなっています。そうした人々は,それが唯一の道であると感じます。自分の今持つ命が望みうるすべてである,と考えているためです。「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」という聖書中の言葉は,そうした人々の態度をよく表わしています。―コリント第一 15:32。
そうした人々は,厳しい現実の生活から逃れようとして,アルコールや麻薬に頼ったりします。ざせつ感や,短い命に対するあせりのはけ口として,淫行,姦淫,同性愛など,あらゆる性的経験にふける人もいます。「死とその謎」という本はこう述べています。
「今日,ごく正常な人々で,たとえ無意識にせよ,この集団的な死の不安に影響されている人が多くなっているように思われる。これは,現代の混乱状態について少なくともその部分的な説明となる。その混乱は,理由のない犯罪,蛮行,異常な性的関心,生活テンポの速まりなどに表われている。現代の音楽やダンスでさえ,もはや自らの将来を信じない人間の絶望を表現しているように思える」。
あすという日はないかのようにただその日のために生きるこうした生き方は,どんな結果を生み出してきましたか。
多量の飲酒にふける人は,それによって自分の悩みを一時的に忘れるかもしれません。しかし,そうした人々は自己の尊厳を犠牲にし,酔った状態の時に自分や他の人を傷つけることもあります。そして,その翌日には,自分がすでにかかえていた悩みの上にさらに頭痛と苦もんを加えたことを知るのです。
現実からの逃避を求めて麻薬に頼る人もその高い代償を払わされています。その人々は永続的な身体また精神的障害を経験する場合が少なくありません。そして,費用のかかるその習慣を続けるために盗みや売春に身を落とす人もいます。
性の乱行についてはどうですか。それは人の境遇をよいものにするのに役だちますか。それどころか,いまわしい性病,望まれない妊娠,私生児の誕生,堕胎,家庭の破壊,苦々しいねたみ,争い,殺人などがその結実となる場合が少なくありません。
もちろん,乱れた生活に落ち込んでいない人も多くいます。それでも,自分の命がやがて終わるという意識的もしくは半意識的な自覚から来る圧迫感を免れているわけではありません。限られた時間しかないことを知り,なんとかして早く成功を得ようとあせる人もいます。それはどんな結果になりますか。物質上の所有物に対する欲望に引かれて正直さを犠牲にしてしまうのです。聖書の箴言の言葉は真実です。「急いで富を得ようとしている人は潔白のままではいられない」。(箴 28:20)しかし,それだけではありません。
物質面で成功しようとしてそのために多くの時間と精力を費やす結果,自分の家族と楽しく過ごす時間をほとんど取れなくなります。子供たちはその望む物質上のものをすべてあてがわれているかもしれません。しかし,責任感のある青年男女となるに必要な導きやしつけを与えられているでしょうか。自分の子供と過ごす時間が十分でないことに気づいていながら,手遅れになるまで,子供に細かな配慮を払う必要を真に悟らない親が多くいます。自分の息子が警察に捕まったとか,十代の娘が未婚の母親になるというようなことを知るのは,いかにも悲痛なことです。
今日生じている事から見て,たとえ短い命であるとしても,もっと満ち足りた生き方を学ぶべき人の多いことは明らかでありませんか。
死を避けえないことが明らかなように見えても,それによってすべての人が道徳上の原則を捨て去ってしまうわけではなく,また,それがすべての人に運命論的な無関心さを抱かせるわけでもありません。それどころか,死の見込みを前途に見ても,それによって不健全な影響を受けていないために,本当に意義ある生活を楽しんでいる人々が今日幾十万となくいます。
さらに優れた道
正しい見方をする場合,死はわたしたちに貴重な教訓を得させるものともなります。だれかが死の手にかかる場合,わたしたちは自分自身の生き方を静かに考察して益を受けられるのです。今から3,000年ほど前,人間の生活をつぶさに観察した一人の人はこの点に注目して,次のように述べました。「名は良い油に勝り,死の日は生まれた日に勝る。嘆きの家に行くことは宴の家に行くことに勝る。それがすべての人の迎える終わりだからである。生きている者はそれを心に留めるべきである。……賢い者たちの心は嘆きの家にあるが,愚鈍な者たちの心は喜びの家にある」― 伝道 7:1-4。
聖書はここで,喜ぶことより悲しむことのほうが良い,としているのではありません。ここで述べているのは,ある家の人が自分の家族の死を嘆いているという特別の場合です。それは,その遺族のことを忘れて自分の祝宴や浮かれ騒ぎを続けるべき時ではありません。死は故人となったその人のすべての計画と活動を終わらせましたが,それはわたしたちにも同じものをもたらしうるからです。むしろ人は次のように自問するのがよいでしょう。わたしは自分の命をどのように用いているだろうか。自分は良い名を,他からの信望を築き上げているだろうか。自分は他の人の幸福と福祉にどれほど役だっているだろうか。
わたしたちの「名」に真の意味が備わるのは,誕生の時ではありません。それは,わたしたちの生涯の全過程を通してです。それによって,わたしたちのひととなりが明らかになるのです。その心がいわば「嘆きの家」にある人とは,残された命がどれほどであろうとも,自分の生き方について深く考察する人のことです。その人は自分の命を貴重なものとみなします。浮かれ騒ぎの場合によくある軽薄で無思慮な態度を表わしたりはしません。むしろその人は,目的のはっきりした有意義な生活を送ることに努め,こうして仲間の人間の福祉と幸福に資することを求めます。
人は,自分に可能な最善の生き方を自分が今しているかどうか,自分が本当に意義ある生活を送っているかどうかをどうしたら判断できますか。言うまでもなく,判断の規準となるものが必要です。全地の誠実な人々は,聖書こそその信頼できる規準であるとの結論に達しており,そのような人々はしだいに多くなっています。聖書の内容を調べることによって,その人々は,今生きることに真の目的を見いだし,かつ将来に対して壮大な希望を抱くようになりました。その希望は,義の行き渡るこの地上での生活と結び付いています。そして彼らは,死ではなく,生き続けることこそ,人間に対する神の目的であることを知りました。
[11ページの図版]
古代のギリシャ人が信じたとおり,人の命は運命に支配されていますか
-
-
人間は生き続けるように造られた今ある命がすべてですか
-
-
第3章
人間は生き続けるように造られた
神は,生き続けるべきものとして人間を造られました。そのことは,わたしたちの最初の先祖アダムとエバのために神が設けられた備えに関する聖書の記述の中に示されています。その記述は,エホバ神がその二人を美しい庭園のような住まいに置いたことを述べています。それは,「エデン」と呼ばれる地域の一部を占める一つのパラダイスでした。そのパラダイスには,人が生きてゆくに必要なすべてのものが備わっていました。そのことについて,聖書の最初の本創世記はこう述べています。「エホバ神は,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ,また園の真ん中に命の木を,そして善悪の知識の木を生えさせた」― 創世 2:9。
この非常に美しいパラダイスにあったのは,『死の木』ではなく,「命の木」でした。この点に注意してください。その「命の木」は,その実にあずかる権利を与えられる人々のために,どこまでも永く続く命に対する不変の保証として立っていました。アダムとエバにとって,やがて死ぬのではないかという病的な恐れを持つべき理由はありませんでした。禁じられた「善悪の知識の木」の実を食べないで自分たちの創造者に対する従順を守っているかぎり,彼らの命はどこまでも続くはずでした。―創世 2:16,17。
しかし,人間が限りない命を持つように造られたという聖書の記述は,人間の生命についてわたしたちが現実に見ている事と一致していますか。人間はこれまで幾千年もの間ずっと死に続けてきたのではありませんか。そうです。しかし,今日普通に見られるよりはるかに長い寿命を本来持つはずであったという証拠があなた自身の中にあることを知っておられますか。
まず,人間の脳について考えてください。人の脳はわずか70年か80年の生涯に見合うように出来ているのですか。興味深い点として,生化学者アイザック・アシモフは頭脳の収容能力について述べていますが,それによると,脳が持つ情報整理のしくみは「人間が普通に学習し,記憶する事柄をどれだけでも十分に収録でき」,実際には,「その十億倍の情報をも収録でき」ます。
人間の脳には,今日の普通の寿命で使用しうる分の十億倍もの情報収容力があるのです。これは納得のゆくことですか。むしろこれは,人間が,その脳に無限の記憶収容力を求められるほど長く生きるように造られていることを示していませんか。
これがすべてではありません。
人間だけが永遠という概念を持つ
ここで注意すべきなのは,聖書が,地上の他の被造物に対してではなく,ただ人間の前にのみ,限りない命の見込みを置いている点です。事実,無限の過去もしくは無限の将来つまり永遠という概念は人間に特有のものであることを,聖書は述べています。霊感のもとに聖書の伝道之書を記した人はこう語りました。「わたしは,携わらせるため神が人の子らに与えた仕事を見た。神はすべての物をその時に応じてみごとに造られた。定めのない時をさえ彼らの心の中に置かれた」― 伝道 3:10,11。
さて,人間について聖書の述べる事柄が真実であるとすれば,そのことを示す証拠が見られるはずです。わたしたちはそれを見ていますか。人間は他の動物とはっきりした対照をなしていますか。将来について真剣に考え,将来の事を配慮し,そうした目的のために働くのは人間だけですか。死に対する人間の反応の仕方が動物の場合と異なっていること,また生きることがそれまでの自分に何を意味し将来の自分に何を意味するかを認識するのはただ人間だけであることが示されていますか。
生物はみな命を守ろうとします。これは否定できない事実です。他の動物に捕食される動物は,逃げたり隠れたりして本能的にその捕食動物から逃れようとします。自分の子どもを死から守るため,全く勝ち目のないように見える相手に対して必死に闘う動物も多くいます。ウサギは激しく蹴り付けてアライグマを倒すことが知られています。米国西部では,雌のカモシカが自分の子どもをシンリンオオカミの攻撃から守り抜くのが観察されました。雌カモシカの鋭いひづめがオオカミのしりの部分を傷つけ,またその歯を打ち抜いたのです。しかも,逃げ去ろうとするオオカミに飛びかかり,それを地に踏み付けて殺しました。
死の脅威に対するこうした本能的な反応が,動物の生命の護持という面で重要な役割を果たしています。しかしこれは,動物が人間と同じように過去や将来に対する認識を持つという意味ですか。
わたしたちの知るとおり,人間は過去を省察し,将来に対して計画を立てることができます。自分の家に静かに座って,いたずら,失意,失敗,成功,喜びなど,自分の幼いころの事を思い返すことができます。また,新しい家を建てること,家具を買うこと,子供に受けさせる教育のことなど,将来の活動についてあれこれと計画できます。しかし,例えば犬は,自分の子犬時代のこと,そのころ一緒に遊んだ子供たちのこと,十分に成長して連れ合いを持つことなどについて思い巡らすことができますか。「動物は全く異なっている」という本の中で,ハンス・バウアーは,研究の結果についてこう述べています。
「犬は,以前の出来事を思い浮かべるのに,現実の感覚的印象を常に必要とする。例えば,犬をある時知らない町に連れて行っていろいろな経験をさせる。家に戻って来ると,その時受けた印象はもう忘れているであろう。しかし,その同じ場所に行くとそれを思い出すのである。人間の記憶の内容が日常の必要と結び付いているのではなく,意識の流れ全体の中に根を下ろしているという点,これが,動物の心理学的機構と比べた場合の人間の利点また特性の一面である」。
ここに示されるとおり,動物は,人間と違って,過去の出来事を頭の中で思いのままに再現するということができません。
では,動物は将来に対する計画を立てることができますか。ハムスターなどある種のネズミ,ある種のアリ,リス,その他の動物も,食物を保存したり隠したりしておいて後から使うのではありませんか。これは,冬になって物に困らないようにと,将来に備えて物事を計画することではありませんか。前述の著者は,「そうではない」として,それを裏付ける次の事実を挙げています。
「それらの動物は,自分のしている事,またなぜそうしているかを知らない。彼らはただ本能によって物事をするのである。その証拠として,ごく早い時期に親から離されてかごの中で飼われた動物でさえ,秋になると,“物を集め”始めた。それらの動物は冬を経験したことがなく,その後数か月食物が与えられなくなるというわけでもない。それなのに,彼らはただ“ためる”ために“物をためる”のである」。
人間と動物との相違を要約して,同著者はこう述べます。
「それゆえ,動物の世界は,まさに文字どおりの意味でただその瞬間の世界である。最も魅惑的な事物に注意を払っていても,その時点で当面さらに注意を引く物があると容易に最初のものから離れ,その後もうそれに戻らないからである」。
したがって,ただ人間だけが,「定めのない時」という概念,つまり,過去を熟思し,将来を展望してその計画を立てる能力を備えています。
動物にとって,死は人間の場合ほど悲劇にならないことは明らかですが,それは動物がただ現在においてだけ生きるものであるからです。動物は死に対してただ自然の成り行きであるという反応を示すようです。
セレンゲティ国立公園で目撃された,一頭の雌ライオンとその三匹の子どもの場合を例に取りましょう。雌ライオンが離れている間,幼獣たちは茂みの中に隠されていました。そこへ別の地域から二頭の雄ライオンが現われました。隠れている幼獣を見つけると,それら雄ライオンは三匹すべてをかみ殺しました。そして,一匹を食べ,一匹を運び去り,あとの一匹をその場に残して行きました。戻って来て,そこに残されている自分の死んだ子を見た時,雌ライオンはどうしましたか。なんの感情も,なんの悲嘆の色も示さず,ただそこに残されている自分の子の死体のにおいを鼻先でかぎ,その後それを食べ尽くしました。
また,ライオンの捕食する動物たちが,少し離れた所にライオンの姿を見ても恐怖の反応を示さないことは注目に価します。ライオンが一たび食を得ると,動物の群れはやがて再びいつもの活動を始めます。事実,捕食される動物がライオンを目にしながらわずか35㍍ほどの範囲に来ることさえあります。
人間は死が不自然なものであるという反応を示す
人間は死に対して全く異なった反応を示すではありませんか。大多数の人にとって,自分の妻,夫,子供などの死は,その生涯で最も衝撃的な経験となります。自分の深く愛する人が死ぬと,人の感情全体はその後長いあいだ乱されます。
『死は人間にとって自然の過程である』と唱える人々でさえ,自分の死が自分のいっさいの終わりであるという考えを受け入れにくいものとします。「法医学ジャーナル」はこう述べています。「精神病医が広く認める点であるが,自分の死が迫っているように思える時でさえ,人の内面には,死に対する無意識の否定が働く」。一例として,無神論者であることを公言していたある若者は,自分の処刑を前にして,純理的な見方をすれば,自分の死は『短いながら極めて強烈であった生命の決定的な終結にすぎない』と語りました。しかしその後,『いっさいのものが無に帰する』ということは自分にとって認めにくく,現に認めえない,と述べました。
将来の活動にも加わりたいという人間の強い願いの表われとして,死んだあと自分の体を凍らせるようにと生前に取り決めた人も多くいます。そうした処置を取るための当初の費用は250万円にもなり,死体をずっと凍らせておくために以後年ごとに30万円ほどかかります。科学者が将来いつか生き返らせてくれるであろうとの期待のものに,そうした死体凍結の処置がなされます。もちろん,今の段階では,科学者はそうした事の実現からほど遠いところにあります。それでも,そうした事が可能であるかもしれないという着想だけで,ある人々は多大の費用をかけて死体を保存させます。
どこの土地の人も,死者についての記憶を永く保とうとし,遺体の処理を厳粛な儀式の形で行なおうとしていますが,これは,死をすべてのことの終わりとしては受け入れ難いという気持ちの表われです。「世界の埋葬習慣」という本はこう述べています。
「どれほど原始段階にある社会,またどれほど文明化された社会にあっても,自らの自由にされ,またその力がある場合,仲間の遺体を処理するための儀式を行なわない集団はない。とむらいを儀式的に行なおうとするこの傾向は極めて普遍的であり,それは人間の本性から来ている,と言ってよいようである。それは,『自然で』,正常で,理にかなった事とみなされている。それは,人間共通の深い衝動を満たすものである。それを果たすのは『正しい事』とみなされ,それを果たさないこと,とりわけ,家族的なつながりがあり,あるいは感情・生活・経験を共にするなど,緊密な関係のあった人々に対してそれを果たさないのは,『誤った事』,自然に逆らう怠慢,謝るべきもしくは恥じるべき事柄と感じられている」。
とむらいに関して広く見られる習慣に基づいてこの本はどんな結論を下していますか。同書はこう続けています。
「これは極めて真実な点であり,人間とは何かに関するさまざまな定義にあと一つの点を加えることができよう。つまり,人間とは自分の仲間をとむらい,そのために儀式を行なう生き物である」。
しかし,こうした努力を尽くしても,世代が移り変わるにつれ,死んだ人々はやがて全く忘れ去られます。幾世紀か前史上に勇名をはせた人々も,現実の存在としては,生きている人々の日常の記憶から薄れ去っています。そうした人々のかつての影響力はもはや失われています。ネブカデネザル,アレクサンドロス大王,ユリウス・カエサルなどは皆その時代の幾百万の人々の生活に影響を与えましたが,わたしたちの今の日常生活にはなんの影響も与えていません。死者はやがては忘れ去られるという冷厳な事実は,聖書の伝道之書を記した明敏な人の認めるところでした。「前の者のことは覚えられることがない,また,きたるべき後の者のことも,[さらに]後に起る者はこれを覚えることがない」。(伝道 1:11,日本聖書協会口語訳)人間が,やがては忘れ去られることを知りながら,それでもなお人々の記憶に残るようにと可能なかぎり努力を尽くすこのことは,たとえ人々の記憶の中であろうとも生き続けたいという人間の願いが本性的なものであることを示しています。
人間の死は不合理に見える
死に対する人間の一般的な反応の仕方,記憶や学習の面で人間が持つ驚異的な潜在能力,そして,果てしない過去や将来に対する人間の内的認識などから見て,人間は生き続けるように造られたということが明らかではありませんか。今日の死にゆく人間の姿は神が当初意図されたところではなかったという聖書の記述を受け入れてはじめて,わたしたちは,さもなければ説明のつかない種々の問題に対して納得のゆく説明をすることができます。人間の寿命をはるかに超越するある種の樹木や動物を例にして考えてみましょう。
樹木の中には幾百年も生きるものがあります。セコイアやある種のマツは数千年も生きます。また,大きなカメは150歳以上になることも珍しくありません。なぜこのようなことがあるのでしょうか。知力を持たない樹木,理性を持たないカメなどが,どうして理知を持つ人間より長く生きるのでしょうか。
また,人間の死は非常に大きなむだではありませんか。その人の得た知識や経験の幾らかは他の人に伝えられるとしても,その大部分は後の人々に残りません。例えば,傑出した科学者,優れた建築家,完成された音楽家や画家や彫刻家がいるとします。その人は他の人々を訓練してきたことでしょう。しかし,その死の時,その人の持つ才量と経験のすべてを等しく持つようになった人はいません。その人は,数々の問題を解き上げて新たなものを発展させようとしていたところであったかもしれません。その人の得た知識と経験から益を受けえた人々が今や再び試行錯誤を繰り返して学んでゆかねばならず,またその人々自身も自らの業を死によって半ばで断たれねばなりません。知識の分野は広大です。どうして人間は,経験を重ねた人々を死の手に奪われるというハンディキャップを背負って苦労を続けなければならないのでしょうか。
さらに,地上でただ幾年か生きてやがて死ぬことが人間の初めからの定めであるとするのは,愛のある創造者に対する信仰と相入れません。どうしてですか。なぜなら,それは,創造者が,愛と感謝を表現できる人間よりも,理知を持たない植物や物を言わない動物のあるものにいっそうの配慮を示していることになるからです。またそれは,創造者が人間にほとんど同情を働かせていないことにもなります。地上のあらゆる生物のうち,死のために最も大きく傷つくのは人間であるからです。
実際のところ,今あるこの命がすべてであり,神が本当に初めからこのように意図されたのであるとすれば,どうしてわたしたちは神に対する深い愛を抱けるでしょうか。そうです,その持つ潜在的能力を存分に活用できないようにわたしたちを造った創造者にどうして引き寄せられるでしょうか。知識を修得するための膨大な潜在的能力を与えながら,それを実際に使う面で人間を押えるのは,愛の欠けたことではありませんか。
しかし,人間は本来生き続けるように造られたのであるとすれば,では今人が死ぬのはなぜか,という問いに答えねばなりません。しかも,死が幾千年にもわたって人の命を奪い続け,神がそれを許してこられた理由を理解できるよう,納得のゆく答えが必要です。それは,人が神との良い関係に入り,今の生活に真の意義と楽しみを見いだす面で大きな妨げとなっているものを取り除くものともなります。
では,人に死がある理由をどのように確かめることができますか。
[24ページの図版]
人間の寿命は短い ― 納得のゆくこと?
知識修得のための驚嘆すべき潜在能力を備えているにもかかわらず,人間は70年か80年しか生きない
白鳥でさえ80年以上生きることが知られている
理知を持たないカメでさえ150年以上も生きる
幾千年も生き続ける樹木もある
-
-
老化と死はどのようにして始まったか今ある命がすべてですか
-
-
第4章
老化と死はどのようにして始まったか
一般にはあたりまえの事とみなされていますが,それでもなお,老化と死は,人間にとって一つの大きななぞとなっています。人間が年老いて死んでゆく理由を説明しようとするさまざまな伝説が幾世紀もの間語り伝えられてきていることにも,そのことは示されています。
古代ギリシャ神話のある版は,パンドラという名の女が,開けてはならないとされていた箱もしくはつぼのふたを開けたことについて述べています。それによって,「老化」,「病気」,「狂気」,その他の「災い」が解き放たれて,人類を悩まし続けてきた,とされています。
オーストラリア原住民の諸部族は,人間は当初永久に生きるようになっていた,と信じています。人間はうろのある一本の木に近づいてはいけないことになっていました。野生のミツバチがこの木に住みついた時,女たちはそのミツを非常に欲しがりました。男たちの警告を無視して,一人の女がその木におのを当てました。すると,大きなコウモリが飛び出した,とその伝説は述べています。そのコウモリは「死」でした。木から解き放たれた「死」はその翼に触れるすべての者の命を求めた,とされています。
世界の他のいろいろな場所の伝説が,同じように死を人の不従順さに帰し,しかも,多くの場合,女をその発端としている点は注目に値します。
なぜ類似しているか
ここに挙げたような神話を読んで,老化と死の原因に関する聖書の説明をこれと同類に見る人がいるかもしれません。幾つかの点でそうした神話が聖書の記述と一致している,とさえ考えるかもしれません。しかし,なぜそうした類似が存在するのですか。そうした多くの伝説は何か同一の事実に基づき,それをただゆがめて伝えてきたのではないでしょうか。
聖書そのものがこうした問いに答えを与えています。聖書は,命令を無視して神に逆らった人々が全地に散らされたその元の場所として,カルデアの古代バベルを挙げています。(創世 11:2-9)聖書に示される系図によると,この事は,神の忠実なしもべとして,生命や死の理由に関する真理を知っていた幾人かの人々の生存している時代に起きました。(創世 6:7,8; 8:20,21; 9:28; 10:1-9; 11:10-18。歴代上 1:19)しかし,当時の大多数の人は,人間に対する神の目的について真理を無視する態度を取っていたのであり,死の理由に関する真理を正確に保存したとはまず考えられません。そうした人々が各地に散り,また時代が経過するにつれて,事実はゆがめられ,潤色されてゆきました。いろいろな神話が形成されました。こうして,死と老化の原因に関する神話上の説明はさまざまに異なってはいますが,それでもなお,その背景に共通の土台が認められるのです。
これは単なる推測ではありません。入手しうる証拠は,死に関するものを含めさまざまな神話が共通の場所から出ていることを明瞭にしています。「死者の崇拝」という本の中で,カーネル・J・ガルニエはこう述べます。
「エジプト人,カルデア人,フェニキア人,ギリシャ人,ローマ人だけでなく,ヒンズー教徒や,中国やチベットの仏教徒,またゴート人,アングロサクソン人,ドルイド教徒,メキシコ人やペルー人,オーストラリアの原住民,さらには,南洋諸島の未開人にいたるまで,すべてはその宗教上のさまざまな考えを共通の源もしくは共通の中心地から受け継いだに違いない。その典礼,儀式,習慣,伝承,またそれぞれの神や女神の名や関係に,まさに驚くほどの一致がいたるところに見られる」。
では,この共通の源とはどこですか。実際の証拠は,聖書が述べるとおり,それがカルデアであることを示していますか。ジョージ・ローリンソン教授はこう述べます。
「カルデアの体系と古典神話体系[主としてギリシャやローマのもの]との間に見られる驚くほどの類似性は特に注目に値する。この類似性は極めて全般的であり,ある点では非常に近似しているので,そうした一致を単なる偶然とする見方は許されない。ギリシャやローマのパンテオン,またカルデアの万神殿の中では,[神々や女神についての]全体的によく似た類別が認められる。同様の系統的序列が見られることも少なくない。ある場合には,わたしたちのよく知る古典的な神々の名や称号さえ,カルデア神話でもって興味深く説明され,例証されるのである」。
それで,同教授はどのように結論していますか。こう述べます。
「なんらかの方法で,ペルシャ湾岸の地域[古代バベルはその地域にあった]から,地中海に洗われる地方まで,ごく早い時期に,宗教思想の伝達,つまり神話的な発想や概念の伝播があったというのは,まず疑いえない点である」。
ここに示されるとおり,宗教上のいろいろな概念の発達について聖書の述べることは,他の歴史的証拠とも一致しています。さまざまな神話がゆがめて伝えてきた真実の事柄を聖書が本当に正確に保存しているとすれば,聖書の記述にはわたしたちの理性に訴えるものがあるはずです。その記述は分別にかなっているはずです。本当にそうなっていますか。
命は従順さにかかっている
聖書の最初の本創世記は,老化と死の理由を論ずるにあたって,「昔々遠い夢の国で」というような場面を設定してはいません。事実と結び付いた具体的な事項を挙げています。まずそれは,実際の場所であるエデンについて述べています。エデンがおおよそどこに位置していたかは,幾つかの川の名から分かります。そのうちの二つ,ユーフラテス川とチグリス(ヒデケル)川は今日でも知られています。(創世 2:10-14,新英語聖書)時は,聖書中の年代記述から,西暦前4026年,あるいはそのしばらく後と定められます。さらに,最初の人間夫婦というものが存在したことに関する聖書の記述は,科学的に見ても確かなものです。「人種と人類」という出版物はこう述べています。
「全人類の父母とされるアダムとエバに関する聖書の物語は,今日の科学が発見した真理を幾世紀も前から言い表わしていた。すなわち,地上のすべての人々は一つの大きな家族であり,共通の源から出ているのである」。
最初の人間がどのようにして存在するようになったかについて述べた後,聖書の記述は,創造者であるエホバ神が人間の生活を公園のような住まいで始めさせたことを示しています。神は,人間の前に,終わることのない命の見込みを置かれました。しかし,その享受を無条件のものとはされませんでした。神は最初の人間にこう言われました。「園のどの木からも,あなたは満足のゆくまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」― 創世 2:16,17。
これは単純な命令でした。しかし,それはわたしたちが当然予想することではありませんか。その時,人間アダムはただ独りで生活していました。生活は単純であり,入り組んでいませんでした。暮らしを立ててゆく上で難しい問題は何もありませんでした。貪欲な商業体制からの圧迫もありませんでした。その最初の人間について,罪の傾向を律する複雑な法律は必要ではありませんでした。完全な人間として,アダムに罪の傾向はありませんでした。
この命令は単純なものでしたが,それでも,重大な帰結を伴う道徳上の問題を含んでいました。その最初の人間にとって,神の命令に従わないことは,支配者としての神に対する反逆となりました。どのようにですか。
「善悪の知識の木」の実を食べることを非としたのは,それに関する神の禁令でした。その実に何か毒性があったのではありません。それは健康的な実であり,文字どおり「食物として良い」ものでした。(創世 3:6)その木に関する神の禁令は,支配者である創造者に人間が当然依存していることを強調するものでした。それに従うことによって,最初の人間男女は,何が「善」で何が「悪」であるか,つまり,何がよしとされ何が非とされているかを人に知らせる神の権利に対する敬意を示すことができました。したがって,この点で彼らが不従順であることは,神の主権に対する反逆となりました。
エホバ神は,そうした反逆に対する刑罰が死であることを述べました。それは厳しすぎる刑罰でしたか。では,世界の多くの国は,ある種の犯罪を死罪に指定することを,自己の権限内のこととしているのではありませんか。しかし,そのようにする国家も,だれかに命を与えたり,だれかの命を限りなく保たせたりすることはできません。しかし,人間の創造者はそれを行なえます。そして,アダムとエバが存在するようになったのは,その創造者の意志によりました。(啓示 4:11)したがって,命の授与者であり維持者である方が,ご自分に対する不従順を死に値するものとしても,それは正当なことではありませんか。確かにそうです。そしてまた,創造者の法に従わないことから来る結果の重大さを十分に知っていたのも創造者だけでした。
その禁止的な命令に従うことによって,最初の人間夫婦アダムとエバは,神が自分たちにしてくださったすべての事に対する認識と感謝を実証できました。正しい動機で従うなら,自己中心的になったり,多くの恵みを与えてくださった神を無視したりすることはありませんでした。
その命令は,愛と正義の神にわたしたちが当然期待するような性質のものでした。それは道理に外れたものではありませんでした。神は生活上の必要物を彼らから取り去ったのではありません。彼らが食物の源として自分たちの必要を満たすことのできる木はほかにたくさんありました。それゆえ,アダムにしてもエバにしても,「善悪の知識の木」の実を必要とする理由は少しもありませんでした。
しかし,聖書の記述によると,ある日,夫と一緒にいなかった時に,エバはある欺きの犠牲となって禁じられた実を食べました。a 後に彼女は夫に説き付けて,神の律法を破った自分の歩みに加わらせました。―創世 3:1-6。
さて,最初の人間たちのこの反逆に対して神は容認的な態度を取れたのではないか,という点が論じられるかもしれません。神は彼らの悪行に目をつぶって処罰を控えてもよかったのではないか,と唱える人がいるかもしれません。しかし,そのようにすることが最善の道だったでしょうか。今日の人々の間で法がしっかり守られなかったことが,公正な法律に対する不敬や,犯罪や暴力行為の増大をもたらしてきたのではありませんか。神がアダムとエバの悪行を処罰しないでおいたとすれば,それは,彼らとその子孫を厚顔にならせ,いっそうの不法を行なわせる結果になったでしょう。そうなれば,神がそうした事態に対して責任を持つことになります。
また,神がこれを放任したとすれば,神の言葉の信頼性が疑われることになったでしょう。神の言葉は実際の意味とは違う,それゆえ神の律法を犯しても処罰を受けないで済む,といった印象を与えることになったでしょう。
したがって,神がご自身の律法を守り,最初の人間たちに,その意識的で故意の不従順に対する当然の結果を忍ばせたのは,正当かつ当然な唯一の処置であった,と言えます。注目すべき点として,彼らが多少でも悔い改めを示したという証拠はありません。彼らは,心の態度を変えたという証拠を何も示さなかったのです。
根本的な理由 ― 罪
アダムとエバは,神に対する反逆の結果として,神との良い関係を自ら断ちました。彼らは,滅びることのない不死の命を有していたのではありません。聖書は,神がご自分の力によって『太陽と,月と,星を永久に,いつまでも定めなく保って』おられる,と述べています。(詩 148:3-6)最初の人間夫婦についても同じでした。生き続けるために彼らは神からの力を必要としたのです。
神の律法に服することを拒んだアダムとエバは,その結果として神の支えの力を失いました。さらに,神から疎外された結果として,彼らは神の指導や導きを受けられない状態に置かれました。やがて,アダムとエバを神から離間させたその同じ罪が,この両人に死をもたらしました。
しかし,神に対する違犯の道を取った後にも,この両人は依然として強大な生命力を自らのうちに有していました。そのことは歴史的な記録にもうかがえます。それは,アダムが930歳まで生きたことを示しています。(創世 5:5)それでも,「[善悪の知識の木]から食べる日に,あなたは必ず死ぬ」という警告が,アダムにとってそのとおりになりました。神はその日にアダムに死を宣告したからです。―創世 2:17。
人間家族の先祖アダムは,自分の不従順な行為によって,ただ自分に対してだけでなく,まだ生まれていなかった子孫に対しても死をもたらしました。それゆえに聖書はこう述べています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
完全性を喪失したアダムは,それを自分の子孫に伝えることはできませんでした。その初めから,アダムの子供たちは弱点を持つ者として生まれました。その体内における罪の働きの結果として,アダムは,弱点や限界のない子孫をもうけることができませんでした。このことは,ヨブ記 14章4節にある,聖書の次の言葉とも一致しています。「だれが,汚れた者の中から清い者を生み出せるだろうか。一人もいない」。こうして,今日の人間の老化と死の根本の理由は,アダムから受け継いだ罪に帰せられます。アダムの子孫として,人間は,罪の払う報いである死を受け取っているのです。―ローマ 6:23。
実際のところこれはどういう意味ですか。死は人の生命過程の完全な終わりですか。それとも,なんらかの部分がその後も生き続けるのですか。肉体の死後にも意識ある存在がずっと継続するのですか。
[脚注]
a この欺きと,それを弄した者について,詳細な点は第10章の中で論じられています。
[28ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
多くの土地の神話はバベルにその起源がある
ギリシャ
バベル
アフリカ
インド
[32ページの図版]
聖書は,神が最初の人間に限りなく続く命の見込みを与えたことを述べている
-
-
「魂」とはいったいなんですか今ある命がすべてですか
-
-
第5章
「魂」とはいったいなんですか
あなたは何から出来ていますか。あなたは事実上,二つの人格的存在が一体になったものですか。つまり,脳・心臓・目・耳・舌などを備えた人間の肉体であり,同時にまた,有機体としてのその肉体とは全く別個の見えない霊的人格で「魂」と呼ばれるものを,内面に持っているのですか。もしそうであるとすれば,あなたが死ぬ時にはどんな事が起きるのですか。肉体だけが死んで,魂のほうは生き続けるのですか。この点で確かなことをどうしたら知ることができますか。
特に人間の場合,死がいっさいの存在の終わりではない,というのがたいていの宗教の教えです。南北アメリカ,ヨーロッパ,オーストラリアなどのいわゆるキリスト教国ではそのように教えられていますが,それだけでなく,アジアやアフリカのキリスト教以外の国でも同様の教えがなされています。「世界の埋葬習慣」という本はこう述べています。「いずれの文化について見ても,世界のほとんどすべての民は,死のさいに肉体を離れ出るものがその後も生き続ける,と信じている」。
魂の不滅に対する信仰は,キリスト教以外の宗教においても重要な地位を占めています。例えば,ヒンズー教の聖典の中で特に重要視される「バガヴァッド・ギーター」は,魂は不死であるとはっきり述べています。そして,それを理由として戦争における殺りくを正当化し,こう述べています。
「これらの肉体は迎える,
宣せられたごとく,肉体化した永遠なる(魂)の終わりを。
その(魂)は不滅であり,深遠である。
それゆえ,バーラタの子よ,戦え!
それを殺人者と信じる者,
それを殺されたとみなす者,
これらは共に悟りがない。
それは殺さず,殺されない。
それは誕生することも,死ぬこともない。
存在に至ったことも,存在を絶つこともない。
この古来のものは誕生せず,永久,永遠であり,
肉体の殺される時にも殺されない」
― バガヴァッド・ギーター,II,18-20。
しかし,ここで述べられている魂とはなんですか。ヒンズー教徒は,人間の魂の不滅を強く信じてはいても,魂がどのようなものかについては,あいまいな言葉でしか説明できません。スワミ・ビブカナンダという人の「ヒンズー教」という本はこう述べています。
「ヒンズー教徒はこう信ずる。すなわち,魂はすべて円を成しているが,その円周はどこにも存在しない。しかし,その中心は肉体の中に宿っている。そして,死は,この中心が一つの肉体から別の肉体に移ることにすぎない。魂は物質の状態に拘束されることもない。その本質において,魂は自由,無限,神聖,純粋,完全である。しかし,なんらかのことでそれは物質による拘束を意識し,また自らを物質とみなしもする」。
では,キリスト教世界の諸教会の人々は,一般に言ってどのようなことを信じていますか。キュルマン教授(バーゼル大学,およびパリ,ソルボンヌ大学の神学部)はこう述べています。
「今日の普通のクリスチャン(カトリックでも新教徒でも,博識の人でもそうでない人でも)に,死後の人間の運命に関する新約聖書の教えをどう理解しているか尋ねるとすれば,ほとんど例外なく,『魂の不滅』という答えを聞くであろう」。
その「魂」とはどのようなものかと問われると,キリスト教世界の諸教会の成員も,きわめてぼんやりした,あいまいな言葉でしか答えられません。不滅の魂についてのその人々の概念は,キリスト教以外の宗教の人々の場合と同じく不明瞭なものです。これは一つの疑問を感じさせます。魂とは人間の不滅の部分であると,ほんとうに聖書は教えているのですか。
魂は不滅か
聖書の多くの翻訳の中で,「魂」(soul)という言葉は,ヘブライ語ネフェシュ,およびギリシャ語プシュケーの訳として現われています。(その例として,エゼキエル書 18章4節とマタイ 10章28節をご覧ください。欽定訳,新英語聖書,改定標準訳,ドウェー訳)この同じヘブライ語およびギリシャ語は,「生命」,「生き物」,「人」とも訳されています。お持ちの聖書が元の言葉を一貫して「魂」と訳していても(新世界訳聖書はそうしている)いなくても,ネフェシュやプシュケーという語の出て来る句を調べてみれば,これらの語が古代の神の民の間でどのような意味を有していたかを理解する助けが得られます。それによってあなたは,魂が実際にどのようなものであるかをご自身で判断できます。
聖書の巻頭の本は,最初の人間アダムの創造の模様を描写してこう記しています。「エホバ神は地の塵で人を形造り,その鼻に命の息を吹き入れられた。すると,人は生きた魂[ネフェシュ]になった」。(創世 2:7)聖書は,『人は魂を与えられた』とは述べていません。ただ,「人は生きた魂になった」と述べています。この点に注目できるでしょう。
第一世紀のクリスチャンたちの教えは,「魂」に関するこの概念と異なっていましたか。いいえ,異なっていません。一般に新約聖書と呼ばれるものの中に,アダムの創造に関する記録が真実なものとして次のように引用されています。「まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』」。(コリント第一 15:45)この句の原文では,「魂」に当たる語としてプシュケーが用いられています。ゆえに,この聖句の中で,ギリシャ語プシュケーは,ヘブライ語ネフェシュと同じように,人間の内に宿る見えない霊のようなものではなく,人間そのものを意味しています。したがって,ある聖書翻訳者たちが,創世記 2章7節やコリント第一 15章45節の翻訳に当たって,「生き物」,「生きたもの」,「人」などの表現を使用しているのは理由のあることです。―新英語聖書,ヤングの字義訳,改訂標準訳。バイイングトンの現代英語聖書も参照,その中では,創世記 2章7節で「人」,コリント第一 15章45節で「魂」という語が使用されています。
ネフェシュおよびプシュケーという語は動物についても用いられています。これも注目すべき点です。海と陸上の生物の創造に関して,聖書はこう述べています。「神はさらに言われた,『水は生きた魂[「生き物」,新英語聖書]の群れを群がらせ,飛ぶ生き物は地の上……を飛ぶように』。そうして神は巨大な海の生物と動き回るあらゆる生きた魂とを創造された。……『地は生きた魂をその類にしたがって,家畜と動く動物と地の野獣をその類にしたがって出すように』」― 創世 1:20-24。
動物類を指して魂と呼んでいるのは,聖書の巻頭の本だけではありません。聖書の最初の本からその最後の本の中に至るまで,動物は終始魂と呼ばれています。こう記されています。「遠征に出かけた戦人から,人,牛,ろば,羊について,五百ごとに一つの魂[ネフェシュ]を取らねばならない」。(民数 31:28)「義なる者は自分の家畜の魂[ネフェシュ]を顧み(る)」。(箴言 12:10)「すべての生きた魂[プシュケー]が,しかり,海にあるものが死んだ」― 啓示 16:3。
「魂」という語を動物について用いるのは極めて適切です。そのことは,ヘブライ語ネフェシュの元の意味として理解されているものと一致しています。この語は,「呼吸する」という意味の語根から来ている,と考えられています。したがって,字義的に言うと,魂とは,「呼吸をするもの」という意味であり,動物は確かに呼吸をします。動物は,生きた,呼吸する被造物です。
ネフェシュやプシュケーが人を指して用いられている場合について見ると,これらはその人の全体という意味で繰り返し用いられています。聖書は,人間の魂の産まれることについて述べています。(創世 46:18)それは物を食べたり,断食したりすることができます。(レビ 7:20,詩 35:13)それは泣いたり,気を失ったりすることがあります。(エレミヤ 13:17。ヨナ 2:7)魂は誓いを立てることができ,何かを慕い求めたり,恐れに閉されたりすることもあります。(レビ 5:4。申命 12:20。使徒 2:43)魂は誘かいされることもあります。(申命 24:7)魂は追跡され,足かせをかけられることもあります。(詩 7:5; 105:18)これらは皆,肉体を持つ人間が行ない,またそうした人間に対してなされる事柄ではありませんか。ここに挙げた聖句は,人の魂とはその人の全体を指していることを明瞭にしていませんか。
カトリック,プロテスタント,ユダヤ教徒を含め,多くの20世紀の聖書学者はこの同じ結論に達しています。その述べるところに注意してください。
「創世記[2章7節]の有名な聖句は,一般に考えられているように。人間が肉体と魂とから成っている,とは述べていない。それは,ヤハウェが地面から取った土で人を形造り,次いで,生命のための呼吸をその鼻に吹き入れて自働力のないその人形を生きたものとし,こうして人は生きた存在者になった,と述べているのである。それが,ここで言うネフェシュ[魂]の意味である」― ロンドン,リージェンツ・パーク大学のH・ウィラー・ロビンソン,Zeitschrift für die alttestamentliche Wissenschaft(旧約学のための雑誌),第41巻(1923年)。
「人間は魂を持っているとみなしてはならない。人間すなわち魂なのである」― ロンドン聖書大学学長E.F.ケバン,「新聖書注解」(1965年),第二版,78ページ。
「旧約[聖書]における魂とは,人間のある部分のことではなく,一個の人間全体,生きた存在者としての人間そのものを指している。同様に新約[聖書]においても,魂が表わしているのは,人間の命,意識ある主体としての各個人の命である」― 新カトリック百科事典(1967年),第13巻,467ページ。
「聖書は,我々が魂を持っている,とは述べていない。ネフェシュとは人そのもの,食物を必要とするその状態,その血管を流れる血そのもの,人としてのその存在を指している」― ヘブライ・ユニオン大学のH.M.オーリンスキー教授,1962年10月12日付ニューヨーク・タイムズ紙に引用されたもの。
さまざまな宗派の学者たちは今,魂とは人間そのもののことであると述べていますが,これはあなたにとって不可解な事に思えますか。あなたはこのとおりに教えられてきましたか。それとも,魂とは人間の不滅の部分であると教えられてきましたか。もしそうであるとすれば,その教えはあなたにどんな影響を与えてきましたか。そうした教えのために,本来なら生活の必要物のために用いるべき資金を宗教的な事柄のために投じてきましたか。あなたの教会はその教えの面で正直でなかったのではないでしょうか。教会とその学者と,どちらが正しいのですか。
人間の魂とは肉の体を含むその人の全体であるとする学者たちが正しいとすれば,当然聖書は,魂を死ぬべきものとして述べているはずです。実際にそう述べていますか。そうです。聖書は,ネフェシュすなわち魂を死から『引き止め』,『救出し』,『救う』ことについて述べています。(詩 78:50; 116:8。ヤコブ 5:20)またこう記されています。「彼の魂を撃って死に至らせるのはよそう」。(創世 37:21)「意図せずして魂を撃って死に至らせた殺人者はそこに逃げなければならない」。(民数 35:11)「彼らの魂は若くして死に」。(ヨブ 36:14)「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」― エゼキエル 18:4,20。
しかし,少なくとも幾つかの聖句の中で,「魂」と訳されている言葉は,死のさいに肉体を離れる不滅性の何かを指しているのではないでしょうか。次のような聖句についてはどうですか。「彼女の魂が(彼女が死んだために)去ろうとする時,彼女はその名をベンオニと呼んだ」。(創世 35:18)「わたしの神エホバよ,どうかこの子供の魂をその内に戻らせてください」。(列王上 17:21)「騒ぎたててはいけない。彼の魂は彼の内にある」。(使徒 20:10)これらの句は,魂が肉体とは独立して存在するものであることを示しているのではありませんか。
詩の形で書かれたヨブ記 33章22節が,これらの句を理解するためのかぎを与えています。その聖句の中では,「魂」という言葉と「命」という言葉が並行的に置かれ,その両語を置き換えても句の意味が変わらないようになっています。こう記されています。「その魂は穴に近づき,その命は死を来たらせる者たちに近づく」。この並行表現から,「魂」という言葉が人間の持つ命を指す場合のあること,それゆえに,魂が去るとは人の命が終わることであることが分かります。
例を挙げて考えましょう。犬が車にはねられて死んだ場合,人は,犬が『命を失った』とも言います。それは,この動物の命が体を離れて生き続けている,という意味ですか。そうではありません。これは,その動物が死んだという意味の,言葉のあやにすぎません。人が『命を失う』,という言い方についても同じことです。これは,その人の命が体から離れて存在するようになる,という意味ではありません。同様に,『魂を失う』というのは,『魂としての命を失う』という意味であり,死後にそれが引き続き存在するというような意味は含んでいません。この点を認めて,「解説者のための聖書辞典」はこう述べています。
「ネフェシュ[魂]が『去る』というのは言葉のあやとみなさねばならない。ネフェシュは肉体を離れて別個に存在し続けるものではなく,肉体とともに死ぬものだからである。(民数 31:19。士師 16:30。エゼキエル 13:19)死の瞬間に『魂』が肉体から分離するというようなことを裏付ける聖書の言葉はない」。
そうした教えの起源
人間は不滅の魂を持っているのではなく,人間そのものが魂です。聖書的な証拠はこの点で全く明瞭です。では,不滅の魂に関するこの教えは,どのようにしてキリスト教世界の諸教会の教えの中に入って来たのですか。異教ギリシャ哲学の影響としてもたらされたのです。そのことは今日率直に認められています。ダグラス・T・ホルデン教授は,「死に所領はない」という本の中で,こう書いています。
「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため,九割までギリシャ思想を持ち,ほんの一割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。
カトリックの雑誌「コモンウイール」は,その1971年1月15日号の中で,魂の不滅という概念は,「後期のユダヤ人および初期のクリスチャンがアテネ人から受け継いだ」ものであることを認めています。
こうして異教のギリシャ思想とクリスチャン思想が混ぜ合わさったことにはだれに責任がありますか。それは牧師たちの責任ではありませんか。教会員自体は,今日の聖書学者たちが聖書に反するものとはっきり認めるこの教えを,自分からは唱えなかったはずです。
しかし,古代のギリシャ人はその宗教思想の根底をどこから得たのですか。すでに述べたとおり,強力な証拠によって裏付けられる点として,ギリシャ人および他の多くの民族の宗教思想はバビロニア人の影響を受けています。そして,魂に関するバビロニア人の信条として,「国際スタンダード聖書百科事典」が述べる事柄に注意してください。
「人の死後にも魂は存在を続けるものとみなされた。……バビロニア人は……死後の生活で使用すると思われるものを死体のかたわらに置く場合が多かった。……その死後の世界においては,死者の間にいろいろな区別が設けられていたように思われる。戦いで死んだ者たちには特別の好意が示されたらしい。そうした者たちには新鮮な飲み水が与えられ,一方,その墓に供え物をする子孫のいない者たちは多くの悲しい喪失を味わった」。
それゆえ,ギリシャ人は魂の不滅に関するその基本的な概念をバビロンから容易に得ることができた,と考えられます。そして,その概念はギリシャの哲学者たちによって拡張されたのでしょう。
今日存続している,キリスト教以外の宗教についても同様の事が起きたと思われます。一例として,今日ヒンズー教が主流をなしているインダス河流域地方の古代文明とメソポタミアの古代文明とを比較してみると,はっきりした類似性が認められます。メソポタミアの宗教的なジッグラトに似た構造物や,メソポタミアの初期のものと非常に類似した象形記号などはその例です。著名なアッシリア学者サミュエル・N・クレイマーは,自分の研究の結果として,シュメール人がメソポタミアを支配するようになったさいその地方から逃げた人々がインダス河流域に定住した,という説を提出しています。こうして,ヒンズー教が不死の魂に関するその教えをどこから得たかは理解し難いことではありません。
このように,さまざまな証拠は,バビロンが,人間の魂の不滅に関する教えが地の果てに広がったその最古の出所であることを示しています。そして,聖書によると,このバビロンにおいて,神に対する反逆が起きました。それだけでも,不滅の魂に関する教理にためらいを感じさせるものとなるでしょう。しかし,すでに見たとおり,この教えは聖書と全く相入れないのです。この点を忘れないでください。
さらに,魂は不滅であるという考えは,あなた自身がこれまで観察してきた事柄とも一致しないのではありませんか。例えば,人が失神し,無意識になって倒れる場合,また,病院で麻酔をかけられる場合,どのような事が生じますか。その人の「魂」がほんとうに肉体とは別個のものであり,肉体から離れて知的な機能を果たし,死でさえその存在と機能に影響しえないものであるなら,そうした無意識の時間に,その人が周囲の物事について全く自覚がないのはどうしてですか。その間に何があったかを後から話してもらわなければならないのはなぜですか。いろいろな宗教が一般に教えるとおり,死後にもその人の「魂」が見たり聞いたり感じたり考えたりすることができるのであれば,無意識状態など,死よりずっと小さな変化のために,こうした機能がすべて止まってしまうのはなぜですか。
また,人間の場合でも動物の場合でも,死んだ体はやがて分解して大地の要素になります。その死後にも生き続ける不滅の魂の存在については,それを暗示するものさえ何もないのです。
魂不滅の教理が人に与える影響
魂について人がどんなことを信じるかは決して小さな問題ではありません。
人間の魂の不滅という教えは,戦争のさい人々の良心を踏み付けるために用いられてきました。殺される人々は結局のところほんとうの意味で死ぬのではないとして,宗教指導者たちは,人の命を取ることをそれほどの悪ではないかのように思わせてきました。そして,戦争で敵と闘って死ぬ人々に対しては至福が約束されています。典型的なものとして,1950年9月11日付ニューヨーク・タイムズ紙に伝えられた次の例があります。「軍務のために懲兵もしくは再召集された息子を持つ悲しむ親たちは,昨日,セント・パトリック寺院において,戦いにおける死は,『天国』に人を住ませるための神の計画の一部である,という話を聞いた」。ここに言い表わされている考えは,戦争による死者に特別の好意を与えた古代バビロニア人の教えとほとんど異なりません。
魂について聖書の述べる事柄を誤り伝えることによって,こうして人間の命が軽く扱われてきました。またこれは,魂の世話をするとの不真実な主張をする大々的な宗教組織に人々を頼らせてきました。
こうした事を知って,あなたは今どうされますか。真の神は「真理の神」であられ,偽りを憎まれる方です。この神が,偽り事を教える組織に執着する人々に好意を示されないことは明らかです。(詩 31:5。箴 6:16-19。啓示 21:8)そして,実際のところ,あなたは,自分に対して正直でなかった宗教と関係を持つことを望まれますか。
[40ページの図版]
これらはみな魂です
-