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    今ある命がすべてですか
    • 第6章

      神のもとに帰る霊

      聖書が「魂」と呼んでいるものは,死後に意識ある存在を続ける,人間の不滅の部分ではありません。聖書を誠実に調べる人にとって,この点に疑問の余地はないはずです。しかし,魂が実際にはどのようなものであるかについて圧倒的な証拠を前にしても,ある人々は,人間の内にある何かが死後にも存在を続けるという自分の信条を裏付けようとして他の論議を提出します。

      そうした論議のためにしばしば用いられる聖句は,伝道之書 12章7節です。その句はこう述べています。「塵は元どおり地に帰り,霊そのものはこれを与えた真の神に帰る」。ウェスレー系メソジスト派の神学者アダム・クラークは,その著「注解」の中で,この句に関して次のように書いています。「賢人はここで,肉体と魂とをきわめて明瞭に区別している。これらは同じものではない。双方が物質ではない。物質である肉体は,元のものすなわち塵に帰る。一方,非物質的なものである霊は神に帰る」。同じように,「カトリック聖書注解」も,「魂は神に帰る」と述べています。こうして,これら二つの注釈書は共に,魂と霊を同一のものとして述べています。

      しかし,興味深いことに,ローマ・カトリックおよびプロテスタントの他の学者たちは,全く異なった見方を提出しています。カトリックの「新アメリカ聖書」(ニューヨークのP・J・ケネディー社刊,1970年)に載せられている,「聖書神学用語小辞典」の中にはこう記されています。「『霊』が『肉』と対照的な意味で用いられる場合……人間の物質的な部分と非物質的な部分を区別することがその目的ではない。……『霊』とは『魂』のことではない」。伝道之書 12章7節で,上記の聖書翻訳は,「霊」という言葉ではなく,「命の息」という表現を用いています。プロテスタント系の「解説者のための聖書」は,伝道之書の筆者について述べ,「コヘレスは,人の人格が存在し続けることを意味しているのではない」としています。こうした異なった見解が提出されていますが,わたしたちは,霊とは何か,またどういう意味でそれは神に帰るのかを確かめることができますか。

      伝道之書 12章1-7節では,老化と死の与える影響が詩的な言葉で表現されています。人の死後,その体はやがて分解し,再び地の塵になります。一方,「霊」は『真の神に帰り』ます。それで,人間の死は霊が神に帰ることと結び付けられており,これは,人間の命がなんらかの意味でその霊に依存していることを示しています。

      伝道之書 12章7節の原典を見ると,「霊」もしくは「命の息」と訳されているヘブライ語はルーアフです。これに対応するギリシャ語の言葉はプニューマです。わたしたちの命が呼吸作用に依存していることは確かですが,「息」という語(ルーアフやプニューマをしばしばこのように訳す翻訳者は多い)は,必ずしも常に「霊」に置き替えうる訳語とはなりません。さらに,ヘブライ語とギリシャ語の別の言葉,つまりネシャマー(ヘブライ語)とプノエー(ギリシャ語)もまた「息」と訳されます。(創世 2:7と使徒 17:25参照)しかし,そうではあっても,多くの翻訳者たちが,「霊」に替わりうる訳語として「息」という語を使い,その部分の原語が,人格を持たないながら生命の存続に必須なものを指すことを示している点は注目に値します。

      霊とは何か

      人の命が霊(ルーアフまたはプニューマ)に依存していることは,聖書の中にはっきりと述べられています。こう記されています。「あなた[エホバ]がその霊[ルーアフ]を取り去られると,彼らは息絶え,自分の塵に彼らは戻る」。(詩 104:29)「霊[プニューマ]のない体(は)死んだものである」。(ヤコブ 2:26)したがって,霊は体を生かしているものである,と言えます。

      しかし,体を生かしているこの力は単に呼吸のことではありません。なぜ? なぜなら,呼吸が止まった後にも,しばらくの間,生命は体の細胞の中に残っているからです。そのために蘇生の努力がときに成功するのであり,また別の人への臓器の移植が可能なのです。しかし,これらの事は速やかになされねばなりません。体の細胞の生命力がひとたび失われると,命を延ばそうとする努力はむだに終わります。世界のすべての息をもってしても一個の細胞をよみがえらせることさえできなくなります。こうした点から考えると,「霊」とは,人間の体の生きたすべての細胞に作用している見えない生命力であることがはっきりしてきます。

      この生命力はただ人間にだけ作用しているのですか。聖書に述べられている事柄は,この点で確かな結論を得るのに役だちます。全地球的な洪水で人間と動物の生命が断たれたことについて,聖書はこう記しています。「命の力[ルーアフ,霊]の息[ネシャマー]がその鼻に作用しているすべてのもの,すなわち,乾いた地面にいたすべてのものが死んだ」。(創世 7:22)伝道之書 3章19節でも,死に関して同じ基本的な点が示されています。「人の子らについて起きる事と獣について起きる事とがあり,両者には同じ事が起きるのである。これが死ぬように,彼も死ぬ。これらは皆ただ一つの霊[ルーアフ]を持つのであり,人が獣に勝ることはない」。したがって,その体を生かしている霊という面になると,人間は動物に勝りません。同一の見えない霊すなわち生命力を,両者が共通に持っているのです。

      この霊,すなわち動物と人間の双方に働いているこの生命力は,ある意味で,機械その他の装置における電子の流れつまり電流になぞらえることができます。電気は人の目に見えませんが,それが動かす機械や装置の特色に応じてさまざまな機能を果たします。電気コンロであれば熱を出し,扇風機であれば風を送り出し,計算機であればいろいろな問題に答えを出し,テレビの受像機であれば,姿や音声を再生します。ある装置では音を生み出すその同じ力が,別の装置では熱を出し,さらに別の装置では数学の計算をするのです。しかし,そうした電流そのものが,それの動かしたり活動させたりする機械や装置類の種々の特性を帯びることがありますか。いいえ,そのようなことはありません。それは依然として電気であり,単なる力もしくはエネルギーの一形態として変わらないのです。

      同じように,人間も動物も,「ただ一つの霊」,同一の活動力を有しています。人間に生存上の機能を果たさせる生命力つまり霊は,動物に同様の事を行なわせる霊と少しも異なりません。その霊が死んだ体の細胞にあった特性を保持することはありません。例えば,脳細胞の場合,霊がそこに蓄えられた情報を保持したり,そうした細胞を離れて思考作用を継続したりすることはありません。聖書はこう述べます。「その霊[ルーアフ]が出て行くと,その者は自分の土に戻る。その日に彼の考えは滅び去る」― 詩 146:4。

      したがって,ルーアフつまり霊が神のもとに戻るというのは,意識のある存在が継続するという意味ではありえません。霊は人間の思考作用を継続するのではありません。それは,生命のための力にすぎず,体を離れて意識ある存在を保つものではありません。

      どのような意味で霊は神に帰るか

      では,この見えない非人格的な力つまり霊はどのような意味で神に帰るのですか。それは文字どおりの意味で天の神のおられるところに帰るのですか。

      聖書における「帰る」という言葉の用法を見ると,それは必ずしも一つの場所から別の場所への実際の運動を意味してはいません。例えば,不忠実なイスラエル人に対して次のように語られました。「『わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなたがたのもとに帰ろう』と万軍のエホバが言われた」。(マラキ 3:7)もとよりこれは,イスラエル人が地を離れて神ご自身のおられるところに来るように,という意味ではありませんでした。またこれは,神が天のご自分の場所を去り,地上でイスラエル人と共に住むようになる,という意味でもありません。イスラエルがエホバのもとに『帰る』とは,誤った歩みから身を転じて神の義の道に再び従うことでした。そして,エホバがイスラエルのもとに『帰る』とは,ご自分の民に再び好意と配慮を向けることを意味していました。どちらの場合にも,帰るとは態度の変化のことであり,一つの場所から別の場所への実際の運動という意味はありませんでした。

      このように,あるものが帰るということは,実際の運動を必ず意味するわけではありませんが,そのことは,事業や資産をある管理者から別の管理者に移譲する場合の例えで説明できます。たとえば,国によっては,鉄道の管理が私企業の手から政府の手に移されることがあります。そうした移管がなされても,鉄道の設備またすべての記録類さえもその場所にそのまま置かれるでしょう。変わるのは,それらに対する権威がだれの手に置かれるか,という点です。

      霊つまり生命力についても同様のことが言えます。それが「神に帰る」と言っても,人の死のさいに何かが実際に地から天の領域へ移動するのではありません。しかし,死んだ人がかつて享受していたもの,つまり理知ある被造物として存在する恵みもしくは特権は,今では神のもとに戻っています。その人を生きさせるに必要なもの,つまり霊もしくは生命力は,神の手中にあります。―詩 31:5。ルカ 23:46。

      これは,告発を受けた人が,判事に対して,『わたしの命はあなたの手中にあります』と言う場合と似ています。これは,自分の命がどのようになるかはその判事の決定にかかっている,という意味です。告発されている人はこの点で選択の権利がありません。それはその人の手中にはないのです。

      同様に,死んだ人の場合,その人には自分の霊もしくは生命力を支配する力がありません。その人の将来の命の見込みは神が支配しておられるという意味で,それは神のもとに帰っています。死んだその人に再び霊つまり生命力を得させるかどうかは神の決定にかかっています。

      しかし,これは死後の生命の可能性をすべて否定するものですか。ほかにも考えるべき点がありませんか。

      生まれ変わりや再生についてはどうか

      キリスト教もキリスト教以外の宗教も含め,さまざまな宗派の幾百万の人々は,人間には現在の命を得る以前の存在があった,そして人は死んだ後にも生き続ける,と信じています。そうした概念も人によって大いに異なってはいますが,それでも,そうした人々は,人間のある部分が別の体で生まれ変わるもしくは再生する,という信条を共通に抱いています。

      生まれ変わりに対する信仰を言い表わす一つの論議として,「仏教便覧」と題する本はこう述べています。「わたしたちは時おり,生まれ変わりということによってしか説明できない奇妙な経験をする。以前に一度も会ったことがないのに,わたしたちの内面の意識では非常になじみ深く感じられるような人に出会うことが何度あることだろう。どこかの土地を訪ね,自分がその周囲の環境に十分に通じているような印象を受けることが何度あることだろう」。

      あなたもそのような経験をしたことがありますか。だれかと初めて会った後,その人をずっと以前から知っているように感じることがありますか。どうしてそうした経験をするのでしょうか。

      人には似たところが多くあります。おそらく,少し考えた後に,その人があなたの親族や友人とよく似た性格や体の特徴を持っていることに,あなたが気付いたのでしょう。

      同様に,あなたはある特別の都市に住んだりその写真を見たことがあるかもしれません。そして,どこか別の都市を訪ねたさい,幾つか似た点に気付いて,全く不慣れな新しい環境にいるようには感じない,という場合もあります。

      したがって,初めて会った人や行った場所についてなじみ深い印象を持つのは,何か過去の生命の結果ではなく,現在の生命におけるいろいろな経験の結果である,と見るのが道理にかなっていませんか。実際のところ,すべての人に本当に過去の存在があったのであれば,すべての人がそのことに気付いているはずではありませんか。以前の生命についてなんの意識も観念も持たない人が幾百幾千万人もいるのはどうしてですか。さらに,自分の過去の生命について思い出すことさえできないのであれば,人はどうして以前の生命での過ちを避けることができますか。そのような以前の生命にどんな益があるでしょうか。

      『以前の存在について細かな点を知っていたら人生は重苦しくなる』と説明する人もいるでしょう。モハンダス・K・ガンジーもそのような見方をしてこう語りました。「我々が過去の幾度もの出生について覚えていないのは自然の慈しみである。自分がこれまでに経た数えきれない出生について細かな事を知っているからと言ってなんの益があろう。そうした膨大量の記憶を携えているとしたら,我々の人生は重苦しいものとなるであろう。賢い人は多くの事をあえて忘れようとする。弁護士が,決着した事件についてすぐにその詳細事項を忘れてしまうのと同じである」。これは興味深い説明です。しかし,確かな根拠に基づいていますか。

      自分が経験した事柄について思い出すわたしたちの能力は確かに限られたものですが,そうした事柄に関するわたしたちの記憶は全く空白ではありません。弁護士は自分の担当した事件のごく詳細な事柄は忘れてしまうかもしれませんが,それを扱うことによって得た経験はその人の知識の蓄えの中に入ります。実際すべての事を全く忘れてしまったとすれば,それはその人にとって大きな損失となるでしょう。また,人にとって大きな障害となるのは,記憶力の貧弱さですか,それとも記憶力の良さですか。自分の知識や経験の蓄えをよく活用できる老人のほうが,ほとんどすべての事を忘れてしまった老人よりずっと良いのではありませんか。

      実際のところ,以前の存在のさいにすでに学んだ事柄をもう一度始めから学び直さねばならないということにどんな「慈しみ」があるでしょうか。十年ごとに,それまでの人生で知ったほとんどすべての事を忘れ,新たに言語を学んで知識と経験の蓄えを築き直し,次いでまたそれを全く失わねばならないとしたら,あなたはそれを「自然の慈しみ」と呼びますか。それは全くむだなことではありませんか。それは進歩のための妨げではありませんか。では,なぜそうした事が70年か80年ごとに起きると想像するのでしょうか。愛の神がそうした生まれ変わりを,人類に対するご自分の目的の一部にされた,と特に言うことができますか。

      生まれ変わりの教理を受け入れる人々の中には,悪い生活をしている者たちは今より低い階級の者あるいは昆虫や鳥や獣として生まれ変わる,と信じている人が多くいます。では,暴力や犯罪がかつてない規模で増大しているこの時代に人間の人口爆発が大々的に生じているのはなぜですか。また,最下層の階級とされる人々さえ教育の機会を与えられれば他より秀でるようになるのはどうしてですか。一例として,1273年10月26日付ニューヨーク・タイムズは,インド,カリパシムの学校で,低い階級の16歳の少女が最もそう明な生徒であったことを伝えました。彼女はいちばん上の階級バラモンの少女より利発でした。これはどのように説明されるのでしょうか。生まれ変わりや再生の教理はこうした点について満足な説明を提出できないのではありませんか。

      こうした教えが生み出したものについても考えてください。それは多くの人の生活から尊厳を奪い,人々に貧弱な条件下での卑しい労働を強い,教育によって境遇を向上させる機会を否定してきたのではありませんか。

      聖書は生まれ変わりを教えているか

      論理的に推論を進めてゆくと生まれ変わりの可能性は必ずしも否定されない,と論ずる人もいます。そうした人々は,前述の論議に対して次のように答えるでしょう。『聖書でさえ生まれ変わりを教えている。人間が十分に説明できない事柄はいろいろあり,これはその一つである』。

      生まれ変わりを信ずる人々は聖書を引き合いに出していますから,わたしたちは聖書が実際になんと述べているかを考えてみるべきでしょう。聖書の中に,生まれ変わりを信ずるどんな根拠があるのでしょうか。「仏教とは何か」という本はこう答えます。「クリスチャンの読者に特に指摘したいのは,[生まれ変わりの教理]が,今日残存しているキリストの教えの断片の中に明瞭に示されている点である。その例として,キリストがバプテストのヨハネ,エレミヤ,もしくはエリヤであったという一般のうわさについて考えるとよい。(マタイ 16:13-16)ヘロデでさえ,キリストは『バプテスト・ヨハネのよみがえり』と考えていたようである」。

      こうした論議についてなんと言えばよいですか。イエス・キリスト自身が,自分はバプテストのヨハネ,もしくはエレミヤ,エリヤであると唱えましたか。いいえ,そうした主張は,イエスをその真の姿で,つまり約束のメシア,キリストとして受け入れなかった人々によってなされたものでした。イエスがバプテストのヨハネと同じ人であったはずはありません。約30歳の時,少し年下のイエスが少し年上のヨハネからバプテスマを受けたからです。(マタイ 3:13-17。ルカ 3:21-23)王ヘロデは,ヨハネを処刑した極度の良心上のかしゃくのゆえに,イエスはヨハネがよみがえった姿であろうという,理屈に合わない結論を抱くようになったのです。

      しかし,イエス・キリストの明確な言葉で,生まれ変わりや再生の教えを裏付けるとみなされるものがあるのではないでしょうか。はい,そうしたものが一つあります。ある時,イエス・キリストは,バプテストのヨハネと古代のヘブライ人預言者エリヤとを結び付けて,こう語りました。「エリヤはすでに来たのですが,人びとは彼を見分けず,自分たちの望むことを彼に対して行な(いました)」。そして,「このとき弟子たちは,彼がバプテストのヨハネについて語られたのだということに気づいた」と記されています。(マタイ 17:12,13)「エリヤはすでに来た」と述べたイエスは,バプテストのヨハネはエリヤの生まれ変わりである,という意味で言われたのですか。

      この問いの答えは,聖書全体がなんと述べているかに基づいて決定されねばなりません。イエスの地上宣教当時,多くのユダヤ人は,確かにエリヤが文字どおりの意味でもう一度やって来ると考えていました。そして,マラキの預言は,エホバ神が預言者エリヤを遣わす時のことについて述べていました。(マラキ 4:5)しかし,バプテストのヨハネ自身は,自分をエリヤそのもの,もしくはこのヘブライ人預言者の再生とはみなしていませんでした。ある時,幾人かのユダヤ人は,「あなたはエリヤですか」と彼に尋ねました。それに対して,ヨハネは,「そうではありません」と答えました。(ヨハネ 1:21)しかし,ヨハネについては,「エリヤの霊と力とをもって」メシアの前に道を備えるであろう,ということが予告されていました。(ルカ 1:17)したがって,バプテストのヨハネとエリヤを結び付けたイエスは,昔のエリヤと同じような仕事をしたヨハネに預言がいかに成就したかを示したのです。

      再生を信ずる人々が持ち出すもう一つの聖句は,ローマ 9章11-13節です。「[エサウとヤコブ]がまだ生まれておらず,良いこともいとうべきことも行なっていなかった時に,選びに関する神の志が,業にではなく,召されるかたに引き続き依存するため,[リベカ]に,『年上のほうは年下のほうの奴隷になる』と言われたのです。『わたしはヤコブを愛し,エサウを憎んだ』と[マラキ 1章2,3節に]書かれているとおりです」。この句は,神の選びが,リベカから生まれる以前のヤコブとエサウの行状に基づいていたことを示しているのではありませんか。

      どうかもう一度読んでください。神の選びが,どちらの者も善も悪も行なわないうちになされたという点が特にはっきり述べられていることに注意してください。ゆえに,神の選びは,何か以前の生命における過去の業に依存していたのではありません。

      では,神は,何に基づいてそれら男の子の誕生以前に選びをなし得たのですか。聖書は,神が胎児を見ておられること,それゆえに,人間の遺伝的な組立てをその誕生以前から知っておられることを示しています。(詩 139:16)その予知力を行使することによって,神は,それら二人の男の子の基本的な気質や個性をあらかじめ見きわめ,それによって,どちらの者がより大きな祝福に値するかを判別することができました。それら二人の男の子が実際に示した歩みは,神の選びの賢さを確証するものとなりました。ヤコブは神の約束に対する霊的な関心と信仰を示しましたが,エサウは物質中心的な性向と,神聖な物事に対する認識の不足をはっきり示しました。―ヘブライ 11:21; 12:16,17。

      神が「ヤコブを愛し,エサウを憎んだ」というマラキの言葉を使徒パウロは引用していますが,この言葉も,二人の遺伝的な組立てに基づくエホバの見方について述べるものです。この言葉は,マラキにより,二人の生涯が終わった幾世紀も後に記録されましたが,これら二人の男の子について神がその誕生以前に示した事柄の正しさを確認するものとなりました。

      イエスの弟子たちが提出した問いも,再生の裏付けとしてときに持ち出されます。ある生まれつきの盲人について,弟子たちはこう尋ねました。「この人がめくらに生まれついたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」。(ヨハネ 9:2)この問いの言葉は,この人に以前の存在があったことを示しているのではありませんか。

      そうではありません。イエス・キリストは,母親の胎内で成長していた時のその子供が誕生以前に自ら罪をおかしていた,というようなことは示していません。イエスはこう語りました。「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかに示されるためだったのです」。(ヨハネ 9:3)つまり,この人の盲目など,人間の不完全さと欠陥は,奇跡的ないやしという形で神のみ業が表明される機会になった,という意味でした。生まれつき盲目の人がいなかったとすれば,人は,そうした人に視力を得させる神の力を知るようにはならなかったでしょう。エホバ神は罪ある人類の存在を許されましたが,ご自身が人間のために何を行ないうるかを示すために,人の不完全さや欠陥を用いることもされました。

      こうして,ある人にとって生まれ変わりの概念を裏付けるように思える聖書の章句があるかもしれませんが,詳しく調べてみると,そうではないことが判明します。事実,聖書のどこにも,体が死んだ後になお残る魂,霊,その他の生まれ変わりや再生について述べているところはありません。ただ,生まれ変わりや再生の教えを聖書の中に『読み込もう』とした人たちがいるのです。それは聖書の教理ではありません。

      死のさいに体を離れる魂や霊の形で意識ある存在が継続することはありません。聖書はその点を明瞭に示しています。最初の人間に対し,その不従順のゆえに死の宣告をした時,神はその前に生まれ変わりや再生の見込みは置きませんでした。アダムはこう告げられたのです。「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る。あなたはそれから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。(創世 3:19)そうです,人間は生命のない土の塵に戻るように定められたのです。

      では,わたしたちは,今ある命がすべてであると理解すべきなのですか。それとも,何かほかの方法で備えられる将来の命があるのでしょうか。そうした備えのために,生きている人々が死んだ人たちを助けることが必要ですか。あるいは,生きている人々は死んだ人をもはや全く助けられないでしょうか。

      [51ページの図版]

      霊は,多くの機械類を活動させながらそれら機械類の特性は帯びない電気に似ている

  • 死者はあなたの助けを必要としていますか
    今ある命がすべてですか
    • 第7章

      死者はあなたの助けを必要としていますか

      「生けるごとくに死者に仕うるは真の孝心の実践なり」。これは中国の古い格言です。死者がどこか別の世界に本当に存在し,地上に残っている人々の奉仕から益を受けることができるのであれば,そうした死者に関心を払うのは愛のあることと言えるでしょう。

      言うまでもなく,多くの人は昔からのしきたりにただ従っているのであり,死後の存在に対する確たる信念を抱いているのではありません。しかし,死者には助けが必要である,ということを確信している人たちもいます。

      アジアの大部分およびアフリカの多くの土地の幾百幾千万の人々は,死んだ先祖に終生忠順を尽くしてゆかねばならない,と信じています。そうした人々は,故人となった親族の名を記した板の前で香をたき,祈りをし,花を飾り,食べ物を供えたりします。こうした崇敬の行為が死者を助けて死後の生活を安楽にし,死者がうらみを抱いた霊となるのを防げる,と考えられています。

      とりわけ喪や葬儀にあたっては,故人を助けるという名目で,費用のかかる特別の努力が生き残っている人々の手でなされます。東洋のある国で著名な政界指導者の死のさいになされた次のような伝統的行事について考えてください。

      仏教の僧侶がその儀式をつかさどりました。悪霊を追い払うために爆竹が鳴らされました。祈とう文を記したわら紙が燃やされました。それが死者の霊を益すると信じられているのです。その霊がいつでも好きな時にいこえるようにと,食べ物,飲み物,たばこなどが遺体のかたわらに置かれました。

      その後,遺体はひつぎの中に入れられ,それは葬儀場の一室に49日間そのまま置かれました。その家の長男はそこで6日間喪に服し,7日目には家に帰って睡眠を取り,体を洗って着物を替えました。6日間の喪,そして1日の休息という手順が,49日間ずっと繰り返されました。その全期間中ほとんど休みなく爆竹が鳴らされ,その一方では,苗と太鼓とシンバルの音が四六時中響き渡りました。

      49日目には盛大な葬式行列がなされました。楽隊が演奏し,沿道の電柱,街灯,樹木などにつるされた爆竹が鳴りました。食べ物,飲み物,たばこなどが祭壇に載せて運ばれ,祈りを記した紙や線香が,沿道に設けられた小さな社で焼かれました。紙,金ぱく,竹などでこしらえた人目を引く山車がその行列に色彩を添えました。会葬者の多くはちょうちんを手にしていました。その目的は,故人の霊が通る道を照らすことでした。墓のそばでは,宮殿,飛行機,船,軍隊,従僕などを表わす美しい山車が焼かれました。

      資力の少ない人や地位の低い人が死んだ場合には,同様の事がずっと簡略な形でなされます。燃やされる紙細工の数が減り,その作りが簡単になります。

      こうした紙細工を燃やす習慣の背後には煉獄に対する信仰があります。人の死後,その人の霊は煉獄を二年間さまよい,その間は天に行くための助けを必要とする状態にある,と信じられています。紙でこしらえたいろいろな品物がささげられるのは,その死者が生前良い生活をしていたこと,次の世界での務めに必要なすべての物を有していることを示すためである,とされています。こうした考えのもとに,その人の霊を早く煉獄から解放しなければならない,と信ずる中国人が多くいます。

      このように費用のかかる手の込んだ儀式についてあなたはどう感じますか。あなた自身も同様の習慣に従いますか。もしそうであるとすれば,それはなぜですか。

      死者には生きている人からの助けが必要であると信じているのであれば,何か意識あるものが肉体の死後にも残るというどんな確かな証拠を持っておられますか。死者を助けるためとされるいろいろな手段に効果のあることをどのように確信しておられますか。例えば,ちょうちんが霊の通る道を照らし,爆竹が霊悪を追い払い,紙細工を燃やせば死者の霊が天の至福に入る助けになるということを,どのように証明できますか。死者の霊を助けるのにそうした方法に効果があるというどんな根拠がありますか。

      あなたの土地で死者を助けるためになされる宗教儀式はこれとはかなり異なるかもしれません。しかし,そうしてなされる儀式に有益な結果のあることを満足のゆくかたちで証明できますか。

      死者を助けるためとされるこうした努力にどれほど公正さがあるかをも考えてみるべきです。当然のことながら,大きな富を持つ人は,爆竹,紙細工,その他死者の助けになるとされるものをよけい買うことができます。貧しい人の場合はどうですか。善良な生活を送ってきたとしても,その死後にだれも何もしてくれないとすれば,その人は不利な立場に立つのでしょうか。また,貧しい人が死者を助けるための品物を買うのは大きな経済的負担であり,一方富んだ人にとってはそれほどの問題ではありません。

      そうした明白な不公平さについてあなたはどのように感じますか。そのひととなりを考慮せずに貧しい人より富んだ人のほうを顧みる神にあなたは引き寄せられますか。聖書の神はそのような不公平をしません。聖書の神については,「神に不公平はない」と記されています。―ローマ 2:11。

      さて,死者のための宗教儀式が無価値であり,公平な神のみ旨に全く反するものであることを悟ったとしましょう。その人が,ただしきたりのため,また近所の人と違った行動をするのを恐れてそうした儀式に携わるとすれば,それは道理にかなったことと言えますか。自分が偽り事とみなす宗教儀式に自ら支持を与えるのは筋の通ることですか。富んだ人々に特に便宜を与え,貧しい人々にあえて苦境を忍ばせるようなものに従ってゆくのは正しいことですか。

      煉獄に対するキリスト教世界の信仰

      死者には煉獄を出るための助けが必要であるという信仰は,キリスト教世界にも見られます。新カトリック百科事典はこう述べています。

      「煉獄にいる魂は,祈り,贖宥,施し,断食,犠牲などの敬神の業によって助けを受けることができる。……自分の業の価値を貧しき魂に適用するようにと神に指示することはできないが,神が嘆願を聞いてくださり,苦しむ教会の成員を助けてくださることははっきり希望できる」。

      そうした努力が益をもたらすことについてどれほど強い保証が与えられていますか。同百科事典はさらにこう述べます。

      「こうした善業の適用は神に対する当人の嘆願にかかっているから,人の祈りが,煉獄にある一個の魂,あるいはいかなる魂にせよ,それをすぐその場で助け得るという絶対確実な保証はない。しかし,煉獄にある魂で,すでに神に極めて接近している者に対する愛と慈悲のゆえに,神は,地上の信徒たちの祈りに答えて,[煉獄における]浄めの期間からの解放を早めてくださるはずである」。

      このように,煉獄にいるとされる人々のためになされる事柄が必ず何かを成し遂げるという確かな保証は与えられていません。そして,そうした保証を与える根拠は何もありません。聖書がそうしていないからです。聖書には,「煉獄」という言葉さえありません。新カトリック百科事典は次のことを認めています。「結局のところ,煉獄に関するカトリックの教理は,聖書ではなく,伝承に基づくものである」― 第11巻,1,034ページ。

      たしかに伝承は必ずしも悪いものではありません。しかし,今ここで取り上げられている伝承は神の言葉と一致しません。聖書は,「魂」が肉体の死後に生き残るとは教えていません。それゆえ明らかに,それが煉獄での浄めを受けるということはありえません。したがって,煉獄の教理を教えている人々に対しては,ユダヤ教の指導者に対して語られた,イエス・キリストの次の言葉が当てはまります。「あなたがたは,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています。偽善者よ,イザヤはあなたがたについて適切に預言して言いました,『この民は口びるでわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。人間の命令を教理として教えるからである』」― マタイ 15:6-9。

      煉獄にいる人々を助けるためとされる手段についても,聖書に教えられている事柄に照らして考えてください。新カトリック百科事典に述べられていたとおり,煉獄にある魂を助けうるとされる敬神の業の一つは祈りです。そうした祈りについて,「煉獄にある魂を助ける」と題する小冊子(常時聖体礼拝ベネディクト修道会発行)はこう述べています。

      「貧しい魂にとっては,注意力の欠けた長々した勤行より,短いながら熱烈な祈りのほうが益になる場合が多い。短い絶叫的な祈りで,教会がそれに応じて贖宥を与えてきたものは数多い。そのすべては貧しい魂のために適用される。……日中一つの仕事から別の仕事へと進みながら,わたしたちはこれら小さな火失のような祈りを大いに増し加えることができる。忙しく手を動かしている時にさえそれを行なえる。……教会によって贖宥が与えられる,死者のための次の短い祈りを,日中何度となくささげるなら,煉獄にあるどれほど多くの魂を慰めまた煉獄から解き放すことになるだろう。『主よ,彼らにとこしえの休みを与えたまえ。とわの光を彼らに照らしたまえ。彼ら安らかにいこわんことを。アーメン』。(祈るごとに300日の贖宥。『贖宥の手引き』,582ページ)熱情のこもった帰依の態度で,『イエス,マリア,ヨセフ』の聖名を繰り返すなら,そのたびに七年間の贖宥が与えられる」。

      三つの名を繰り返し唱えることが,それよりかなり長い20語の祈りの八倍も効果があるというのは不思議に思えませんか。同じ祈りを何度も繰り返し述べることを神は是認されますか。この点についてイエス・キリストはこう語りました。「祈るさいには,諸国の人びとがするように同じことを何度もくり返し言ってはなりません。彼らはことばを多くすれば聞かれると思っているのです。それで,彼らのようになってはなりません」― マタイ 6:7,8。

      暗記した文句を幾度も繰り返し唱えることではなく,心からの言葉で祈りをささげることを,聖書は勧めています。

      見落としてならないのは,煉獄の教理に関連してお金が果たしてきた役割です。もちろん,教会が金銭を得ること,それがこの教えの理由ではない,という点が論じられるでしょう。しかし,たとえそうであるとしても,煉獄の教理を固守している宗教組織がそれに伴い物質上のささげ物を喜んで受け入れているという事実は変わりません。お金を払って煉獄に行くのを免れ,あるいはだれか他の人のためにそのようにしようとする人が教会からとがめられたということはありません。限られたわずかな資産をむしろ生活上の必要物のために使うようにと教会から忠告された人はいません。幾世紀もの間,富んだ人も貧しい人々も,自分自身や自分の愛する者が煉獄で過ごす時間を短くすることを願って,宗教組織に多額の金銭を支払ってきました。著述家コーリス・ラモントは,「霊魂不滅の幻想」という本の中でこう書いています。

      「死者と結び付いた宗教儀式は,教会にとって計り知れない富の源となってきた。このことは,死者,また死につつある人々,さらには,なんらかの意味で自分の将来を気づかう人々すべてのためのミサや祈とうや儀式に重きを置く,ローマ・カトリック教会や東方正教会の場合に特に真実であった。

      「中世初期以来,カトリック教会は,ただ贖宥状を与えるだけで。富んだ人や貧しい人々から多額の金銭を得てきた。金銭の支払い,施し,その他のささげ物に対して与えられる贖宥は,当人の魂もしくは死んだ親族や友人の魂をして,煉獄で予定されている処罰の全部もしくはその一部を免れさせる,とされている。……ロシア正教会も,死者のための同様の執り成しによって莫大な富を蓄積した。神からの応報を少しでも和らげようとする労働者や貧農から得る着実な収入に加えて,各地の僧院や教会に対しては,貴族や上流階級の多くの者が,自分たちに属する故人のために日ごとの祈りをささげてくれるようにとの条件のもとに,多額の寄付をした」。

      こうした物質上のささげ物が本当に死者を益するのであるとすれば,神は金銭に関心を持っておられることになります。しかし,神はだれの金銭また物質的所有物も必要とはされません。霊感を受けた詩篇作者を通して神はこう言明しておられます。「わたしはあなたの家から雄牛を取らず,あなたのおりから雄やぎを取らない。森林に住むすべての野生動物,一千の山々の獣はわたしのものだからである。わたしは山々の翼あるすべての生き物をよく知り,広い野に群れなす動物はわたしと共にいる。たとえ飢えようとも,そのことをあなたに言わない。産出力のある土地とそこに満ちるものとはわたしのものだからである」― 詩 50:9-12。

      実際のところ,世界のすべての富をもってしても,一人の死人をさえ助けることはできません。金銭や物質上の所有物は死そのものをさえ防ぎ止めることができないのです。聖書はこう述べます。「自分の資力に頼り,自分の富の豊かさを誇りつづける者は,その一人として自分の兄弟を請け出すことはできず,彼のための贖いを神に払うこともできない。(彼らの魂を請け出す価はあまりにも高く,それはいつまでも定めなく絶え果てた。)こうして彼がなお永久に生きて,穴を見ないようにすることはできない」― 詩 49:6-9。

      死者を助けようとする努力が聖書に根拠を置くものでないことは明らかです。死者が生きている人からの助けを受けられるという教えは,人々にただ重い負担をおわせてきたにすぎません。しかし,神の言葉についての知識は,この誤った考えから人を解放します。さらにそれは,自分の家族の者が生きている間に,その人が必要とされ,愛され,感謝されていることを知ってもらえるよう最善の努力を尽くそう,という気持ちを抱かせます。死んだ後になっては,だれにしても,自分の怠った配慮や親切を埋め合わせることはできないのです。

      [64ページの図版]

      魂を煉獄から釈放するためとされる道教の儀式

      [65ページの図版]

      煉獄にある魂を助けるためとされるカトリックの儀式

  • 死者を恐れるべきですか
    今ある命がすべてですか
    • 第8章

      死者を恐れるべきですか

      すべての人が,死者には助けが必要であると考えているわけではありません。それよりさらに広く見られるのは,死者から保護するため,生きている者に助けが必要である,という信仰です。人々は,夜に墓地の近くに行くことを避けようとします。奇妙なことに,生きている時には愛されていた親族や友人さえもが,死後には恐れや恐怖の気持ちでみなされることがあります。

      メキシコ,中央チアパス地方の山岳地帯に住むインデアンの間では,埋葬の日に赤トウガラシを燃やす習慣があります。これは,その不快な煙のために死者の魂が家から早く出て行くであろう,という考えでなされます。

      ヨーロッパのある地方の人々は,だれかが死ぬとすぐ,その家のすべての戸や窓を開け放します。これは,魂を「自由にする」という考えでなされます。そして,だれにも魔力のかけられることのないようにと,その家族の一人が死者の両手を取ってその心臓の上に置き,死者の両眼を硬貨でふさぎます。

      また,モンゴルの仏教徒が天幕の中で死ぬ場合,その体は普通の出入り口からは運び出されません。その天幕に別の出口が設けられ,死体を運び出した後に,この出口は閉じられます。また,普通の入り口の前にわらで作った面が置かれることもあります。死体を運び出した後に,このわら細工の面は焼かれます。死人の霊がその住まいに戻って来て生きている者たちを害するのを防ぐことがこうした行為の目的である,とされています。

      アフリカの多くの所では,家族が何かの病気にかかったり,子供が死んだり,事業がうまくゆかなかったり,他の何かの不幸が起きたりすると,人はすぐまじない師に相談します。まじない師は,死んだ家族が怒っているためである,と告げるのが普通です。うかがいが立てられ,しかじかの犠牲をささげるようにとの指示が与えられます。まじない師はそれに対して多額の料金を請求します。そして,犠牲としてささげられた動物の肉もまじない師のものとなります。

      人はこうして死者を恐れ,自分を保護するために相当の費用をさえ払ってゆくべきなのですか。

      聖書は死者についてこう述べています。「その愛も憎しみもねたみもすでに滅び,彼らは日の下でなされねばならないいかなる事にももはや定めなく分を持たない」。(伝道 9:6)それゆえ,死者が人に危害を及ぼすということはありません。聖書のこの陳述をだれも論ばくしえません。

      たしかに,ある種の事柄を死者の霊の働きに帰する人々もいます。そうした人々は,死者の霊をなだめた後に病気・経済的苦境・その他から救われた,などと言うでしょう。しかし,そうした問題,またそれからの救いと思えるものについては,実際には別の理由があるのではありませんか。

      人々が,まじない師やそれと同じような立場の人の所へ相談に行くまで,死んだ親族を怒らせたことに気づかない,というのは不思議ではありませんか。そして,死んだ父親,母親,息子,娘などの「霊」が,過去には自分が深く愛していた人たちの幸福や福祉を脅かすというのはどうしてですか。生きていた時にはそうした特質などなかったのに,死んで「霊」となってから執念深い性質を持ったりするのはどうしてですか。故人の働きとされる事柄はその人の生前の個性とは大きく異なる場合が多く,これは,死者の「霊」などそこに関係していないという結論に対する強力な裏付けではありませんか。確かにそうです。死者は『日の下でなされるいかなる事にも分を持たない』と述べる聖書はまさに真実なのです。

      死者に対する恐れの気持ちが生きている人々に与える有害な影響についても考えてください。人の幸不幸は死者の「霊」によっておおむね支配されると唱えるまじない師その他の宗教指導者に隷従している人は多くいます。それら指導者は,怒り立った死者との関係を正すことができると唱え,その主張を信じる多くの人は,費用のかかる儀式のために多額の金銭を投じます。それは,その人々にとって,生活上の必要物のために使うことのできたお金です。そうした儀式が確かに助けになったと唱える人たちがいるとしても,その人たちは,そうした経験によって,死んだ愛する者との不和をいやすために何事かをなしえたという現実の喜びを得ていますか。むしろ,その人々は,何かを無理に取られた人のように振る舞うのではありませんか。

      また,死者の「霊」が戻って来て生きている人々をかき乱すのを防ぐためとして,赤トウガラシを燃やし,あるいは故人の体を天幕の別の出口から運び出すなど,人を欺くような方法が多く取られていることについても考えてください。あなたは,生涯このような方法で欺かれることを望みますか。生きている間には欺くことなど考えなかった人々に対して,死んだ後にこうして欺きの手段を弄するというのは理にかなうことですか。

      欺きの手段に頼るという事自体,健全でない影響を人に与えます。死者が意識ある存在を続けているとみなしながら,その死者を欺くことを承認するなら,その良心は弱まり,都合よく思えるときには生きている人々をさえ欺くまでにならないでしょうか。

      聖書を通じて自分が真の神であることを明示しておられる方は,死者に対する恐れから生じた種々の習慣を決して承認されません。なぜ? なぜなら,そうした習慣は誤った考えに基づいているだけでなく,神の個性,および物事に対する神の態度ややり方に全く反しているからです。「神は人ではないゆえに偽りを語るようなことをせず」。(民数 23:19)また神は,利己的な益のために欺きを弄するようなことを是認されません。「欺きの人をエホバはきらわれる」と聖書は述べています。―詩 5:6。

      聖書は,死者に全く意識がないことを明らかにしています。それゆえ,どうして死者を恐れる必要があるでしょうか。(詩 146:4)死者はあなたを助けることも害することもできません。あなたは今,「魂」が死滅するものであり,「霊」が,肉体を離れては意識ある存在を持ちえないものであることを聖書から知っています。したがって,死者に対する恐れを抱かせるどのような現象があるとしても,それはどこか別の源から来ているに違いありません。死者をなだめる行為を行なった結果自分の問題は多少よくなったと唱える人々もいますから,その源は,そうした一時的な安らぎをもたらしながらよこしまな動機を有している者であるとみなされます。その者の目ざすところはなんですか。人々を隷属させ,恐れや恐怖のない生活について人々を盲目にしておくことです。

      この源がどのような者であるかを知ることは大切です。

      [71ページの図版]

      死者に対する恐れのためにまじない師に相談する人が多くいる

  • 死者と話すことができますか
    今ある命がすべてですか
    • 第9章

      死者と話すことができますか

      わたしたち人間は,日常の生活で,自分の愛する者とどうしても話したいと感じることがしばしばあります。わたしたちは,自分の愛する者たちが健康で幸福であることを知りたいと思います。愛する者たちが無事に過ごしていることを知ると,わたしたちは励みを受けます。一方,「自然の」災害その他の災いに見舞われて重大な危険に直面していることを知ると,わたしたちは不安になります。そして,その人々からの便りを聞くことを切望します。その人々が無事であるという知らせを得てはじめてわたしたちは安心します。

      愛する者の様子を知りたいという気持ちから,死者と話したいと考えるようになった人々が多くいます。そうした人々は,故人となった自分の愛する者たちが『あの世』で幸福に過ごしているかどうかを知りたいと思います。しかし,死者と話すことができるのでしょうか。

      死んだ親族や友人が自分のそばにいるのを繰り返し感じ,またその声を聞いた,と唱える人たちがいます。霊媒の助けで同様の経験をした人たちもいます。そうした人たちは,霊媒を通して『あの世』からの声を聞いた,と信じています。そうした声はなんと語っていますか。だいたい次のような事柄です。『死者は非常に幸福で満足している。彼らは,生き残っている自分の愛する者たちの生活に引き続き深い関心を抱いており,その行なうすべての事柄を見聞きできる』。

      こうした音信について,フランソワ・グレゴワールは,「ロー・デラ」(来世)という本の中でこう述べています。「これら霊たちはどんなことを語るだろうか。『何よりも,彼らは自分がだれであるかを示し,自分がまだ存在していることを証明しようと願っているようだ』とされるが,……あの世がどのような所かについて,基本的な事柄はもとより,ごく小さな点についてさえ何も示さない」。

      そうした音信についてあなたはどのように感じますか。本当に死者が語っているのだと思いますか。聖書は,肉体の死後に生き残って意識ある存在を続ける魂や霊は全く存在しないことを示しています。では,これらの声は本当に死者の声でしょうか。

      サウル王の場合

      死者が生きている人々に音信を伝えることができると信じる人の中には,その見方の裏付けとして聖書を指摘する人たちがいます。そうした人たちが挙げる一つの例は,古代イスラエルのサウル王の場合です。

      エホバ神に対する不忠実さのゆえに,サウル王は自分の務めを果たしてゆくための神からの指示を断たれていました。そのため,ペリシテ人が自分に戦いをしかけてきた時,絶望的になったサウルは霊媒の助けを求めました。サウルは,死んだ預言者サムエルを連れ出してくれるようにと霊媒女に頼みました。そのとき何が起きたかについて,聖書はこう述べています。

      「『サムエル』を見た時,女[霊媒]は声かぎりに叫びはじめた。そして女は,さらにサウルに対してこう言った。『なぜわたしをだましたのですか,あなたがサウルでしたのに』。しかし王は彼女に言った,『恐れることはない。で,あなたは何を見たのか』。すると女はさらにサウルにこう言った。『ひとりの神が地から上って来るのを見ました』。直ちにサウルは彼女に言った,『それはどんな姿をしているか』。それに対して彼女は言った,『ひとりの老人が上って来るのです。その人はそでなしの長上着で身を覆っています』。それを聞いて,サウルはそれが『サムエル』であることを認め,身を低くかがめて地に顔をつけ,平伏しはじめた。すると,『サムエル』はサウルにこう言いはじめた。『なぜわたしを連れ出してわたしを煩わすのか』」― サムエル上 28:12-15。

      この場合,サウルは死んだ預言者サムエルと本当に接触したのですか。どうしてそのようなことがあるでしょうか。聖書は,声を出して語ることではなく,沈黙を死と結び付けています。こう記されています。「死者はヤハ[エホバ]を賛美せず,沈黙へ下る者も同様である」― 詩 115:17。

      聖書の他の句はこの問題に光を投じます。まず,明瞭な点として,サウルが霊媒に相談したこと,これは神の律法に対する違反でした。霊媒そのものおよびこれに相談する者は死罪に定められていました。(レビ 20:6,27)イスラエルに対する神の律法はこう定めていました。「霊媒に頼ってはならず,出来事についての職業的な予告者に相談してはならない。それらの者によって汚されないためである」。(レビ 19:31)「あなたの神エホバが与えようとしておられる土地に入った時,あなたはそれら諸国民の行なう嫌悪すべき事柄に倣ってはならない。あなたのうちに……霊媒に相談する者,出来事についての職業的な予告者,死者に問う者があってはならない」― 申命 18:9-11。イザヤ 8:19,20。

      霊媒が本当に死者と接触できるのであるとすれば,なぜ神の律法は,その行ないを,『汚れたもの』,「嫌悪すべき」,死に値する事柄と定めたのですか。その交信が,例えば死んだ愛する者とのものであるとすれば,なぜ愛の神がそれを重罪に指定されるのですか。生きている者が死んだ人々から慰めの音信を多少とも聞くことを,なぜ神が禁じたりされるのですか。この問題に対する神の見方は,人々が実際には死者と話しているのではないこと,恐るべき欺きがここに関係していることを示していないでしょうか。聖書の証拠はそれが真相であることを示しています。

      こうした背景に照らしてサウルの場合を考えてください。サウルは,自分と神との交信について次のことを認めました。「神がわたしを離れ,預言者によっても夢によってももはやわたしに答えてくださらないからです。それでわたしは,自分がどうすればよいか知らせてもらうためにあなた[サムエル]を呼んでいるのです」。(サムエル前 28:15)明確な点として,死んだ預言者と接触してサウルに対する神からの音信を聞き,こうして霊媒が神の定めた交渉断絶の裏をかくようなことを,神が許されるはずはありません。また,サムエル自身も,神の忠実な預言者として,その晩年には,サウルとの交渉をいっさい断っていました。したがって,サムエルが,霊媒を通して,つまり神の非としておられる手段でサウルと話そうとしていた,と見るのは理屈に合いません。

      明らかに,何か欺きが,つまり,極めて汚れたものであるために,霊媒もそれに相談する者も共に死罪に値するような事柄が関係していたに違いありません。そして,その同じ欺きが,今日死者との交信と唱えられるものの背後にも存在しているに違いありません。

      それを裏付けているのは,あの世からの「声」とされるものに動かされた多くの人が自殺を企てている点です。そうした人々は,死んだ愛する者たちに加わろうとして,自分の最も貴重な所有物である命を投げ出しました。そうした声に対する恐怖に捕われた人たちもいます。その伝える音信が陰うつなものであり恐ろしい事故や死を告げるものであったからです。どうしてそのような声が良い源からのものと言えるでしょうか。そうした声の背後には,だれもしくは何があるのですか。

      [76ページの図版]

      エンドルの霊媒を通してサウルに話をしたのはだれでしたか

  • それは巧妙な欺きではないでしょうか
    今ある命がすべてですか
    • 第10章

      それは巧妙な欺きではないでしょうか

      何世紀もの間,人々は極めて不思議な出来事を目撃してきました。石や水飲みコップなどが,見えない手に動かされるかのようにして空中を漂っているのです。人の声,戸をたたく音,その他の物音が聞こえてきたこともあります。しかも,そうした音の原因や出所とみなされるものは何も存在しないのです。ぼんやりした人影が現われ,それがすぐに消えたこともあります。こうした出来事について非常に多くの証人がおり,ほとんど疑う余地のない場合も少なくありません。

      こうした現象こそ,死が意識ある存在の終わりでないことの証拠だ,と考える人が多くいます。この世を去った霊がなんとかして生きている人々の注意を引き,生きている人々と意思を通わせようとしているのだ,と信じる人々もいます。

      しかし,人は次のような点を疑問に感じるでしょう。つまり,死んだ愛する者が本当に生きている人々と接触しようとしているのであるとすれば,一般に言って,その現われが見守る人々に恐怖を抱かせるのはなぜでしょうか。こうした事の背後には実際には何があるのでしょうか。

      聖書は,死が意識ある存在の完全な終わりであることをはっきり示しています。(伝道 9:5)したがって,しばしば死者の霊に帰せられている物事の背後には,何かほかの力が働いているに違いありません。その力とはいったいなんでしょうか。それは理知の働きを伴う力ですか。もしそうであるとすれば,その力の元となっている者は人類に対して巧妙な欺きを弄してきたのではありませんか。

      言うまでもなく,わたしたちは欺かれることを好みません。欺かれるとすれば,それはわたしたちにとって何かの損失となるはずであり,大きな危険をかかえることさえありえます。入手しうる証拠を調べ,それに基づいて推論し,自分が巧妙な欺きの犠牲となっていないことを確かめるべきなのはそのためです。事の真の姿を知るために,わたしたちは人間の歴史をできるだけさか上ってみるべきです。

      それを可能にしてくれるのは聖書です。聖書は,最初の人間夫婦が存在するようになった時のことから記述しています。創世記の第三章には,今日の多くの人が信じ難いとするような会話の模様が記されています。しかし,それは作り話ではありません。人間世界の物事の背後に巧妙な欺き手がいるかどうかについて,その会話がかぎを提出しています。

      欺きの始まり

      ある日,自分の夫から離れていた時,最初の女エバは一つの声を聞きました。どこから見ても,それは一匹のへびが声を出しているとしか思えませんでした。その時の会話の模様について,聖書はこう伝えています。

      「さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうちで,へびが最も用心深かった。それで,へびは女にこう言い始めた。『あなたがたは園のすべての木から食べてよいわけではない,と神が言われたのはほんとうですか』。それに対して女はへびに言った,『園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。しかし,園の真ん中にある木の実を食べることについて,神は,「あなたがたはそれから食べてはならない。それに触れてもならない。あなたがたが死ぬことのないためである」と言われました』。それに対してへびは女に言った,『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれから食べるその日にあなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになり,善悪を知るようになることを,神は知っているのです』。そのため女が見ると,その木は食べ物として良く,目に慕わしいものであった。実にその木はながめるに好ましいものであった」― 創世 3:1-6。

      へびが伝えたのは偽りの音信でした。これは記録に残る最初の偽りです。したがって,その偽りの出どころとなった者は,偽り事の創始者もしくは偽り事の父であるに違いありません。その偽りは人の死を来たらせる結果になりましたから,その偽り者は殺人者でもありました。その場にいた文字どおりのへび,つまり言語能力を付与されていない生き物がその偽り者であったはずはありません。そのへびの背後にだれか,腹話術に似た方法でへびが話しているかのように見せかけた者がいたに違いありません。これは,この20世紀に住むわたしたちにとってそれほど不思議なことではないはずです。ラジオやテレビにある円錐形のスピーカーの震動によって人の音声が再生されるのを見ているからです。では,へびの背後にあって語っていた者はだれですか。

      見えない欺き手

      天から来た方であり,見えない領域で生じている事柄を知っていたイエス・キリストが,その者の正体を明らかにしました。(ヨハネ 3:13; 8:58)幾人かの宗教指導者たちが自分を殺そうとしているのを見て,イエスはその人々にこう語りました。「あなたがたは,あなたがたの父,悪魔からの者であり,自分の父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理のうちにかたく立ちませんでした。真実さが彼のうちになかったからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であり,偽りの父だからです」― ヨハネ 8:44。

      偽り者であり,人殺しであるとされている点から見て,悪魔は明らかに理知を有する者です。これは次の問いを誘います。つまり,悪魔はどのようにして存在するようになったのですか。

      聖書は,地球さえまだ存在しなかった時に,見えない霊者たちが生命を楽しんでいたことを明らかにしています。ヨブ記 38章7節は,それら霊者を「神の子たち」と呼び,地球が創造された時にそれらが「歓呼して呼ばわった」と記しています。「神の子」である彼らは,その命を神から受けました。―詩 90:2。

      したがって,へびを使ってエバを欺いたのは,これら霊者である子,神の理知ある被造物のひとりであるに違いありません。善悪の知識の木に関する神の警告に反ばくすることによって,この者は自分の創造者を中傷し,神が偽り者であるかのごとくに見せかけました。それゆえ,この者が「デビル」(悪魔)と呼ばれるのはいかにも適切です。この語は,「虚偽の訴えをする者,誤り伝える者,中傷する者」という意味のギリシャ語ディアボロスから来ているのです。また,その行動の仕方によってこの被造物は神に反抗する者となり,こうして自らサタン(ヘブライ語サーターン,ギリシャ語サタナス)となりました。サタンとは,「反抗者」という意味です。

      この被造物の行なった事についてエホバ神をとがめることはできません。神について,聖書はこう述べています。「その活動は完全。そのすべての道は公正だからである。忠実の神であり,不公正なところはない。義であり,また方正である」。(申命 32:4)神は,理知を持つ神の子たちを,自由意志の能力を持つ者として創造されました。これは,霊者の場合も人間の場合も同じです。神はそれらがご自分に仕えることを強制せず,むしろ,それらが自らすすんで,愛の動機でご自分に仕えることを望まれました。神は,これらの被造物に対し,自分の神また父への愛を発展させてゆく能力を賦与されたのです。

      しかし,自ら神に対する反抗者また中傷者となったこの霊の被造物は,自分の創造者に対する愛を全うする道を選び取りませんでした。この者は,利己的な野望が自分の心の中に根を下ろすことを許しました。(テモテ第一 3:6と比較)そのことは,エゼキエルの預言の哀歌の中で歌われた「ティルスの王」の行動によく反映されています。その哀歌の中では,イスラエルの王国に対して反逆者となったティルス(ツロ)の王に向かって次のことが語られています。

      「あなたはひな型に封印をする者,知恵に満ち,美の点で全き者である。あなたは神の園エデンにいた。……あなたは油そそがれたケルブ,覆う者であり,わたしがあなたを据えた。あなたは神の聖なる山にいた。あなたは火の石の中を歩き回った。あなたの創造された日から,不義があなたのうちに見いだされるようになるまでは,あなたは自分の道においてとがめのない者であった。……自分の美しさのゆえにあなたの心はごう慢になった。自分のあでやかな光輝のために,あなたは自分の知恵を破滅に至らせた」― エゼキエル 28:12-17。

      反逆した,霊者であるこの神の子は,背信の「ティルスの王」の場合と同じく,自分のことを高く考えすぎました。誇りのあまり,彼は自分で人類を支配することを願うようになり,欺きの手段でその目的を遂げようとしました。今日に至るまで,人類の大多数は依然としてこの欺きの犠牲となっています。そのみことば聖書に示される神のご意志を退けることによって,そうした人々は,実際にはサタンにくみする者となっています。そうすることによって,彼らはエバが受け入れたと同じ偽り,すなわち,神の意志を無視して行動することこそ人の真の益になる,という欺きを受け入れているのです。

      神の言葉は,死者との交信を求めるようなことを非としています。それゆえ,死者と話をしようとする人は自分をサタンの側に置くことになります。そうした人々は,自分は死者と話していると考えるかもしれませんが,実際にはかつがれているのです。サタンは,エバに対し,へびが話しているかのように見せかけましたが,それと全く同じように,死者が霊媒を通して語っているかのように見せかけることができます。しかしこれは,しばしば死者の霊に帰せられる奇妙な現象すべての背後にサタンが直接関係している,という意味ですか。それとも,だれかほかの者たちも関係していますか。

      他の見えない欺き手たち

      聖書は,反逆した霊の被造物がサタンだけではないことを明らかにしています。ヨハネへの啓示 12章3,4,9節は,さらに他の者たちもいることを示しています。その聖句の中で,悪魔サタンは,「火のような色の大きな龍」,その「尾」で「天の星の三分の一」を引きずり落とした者として描かれています。そうです,サタンは自分の影響力を尾のごとくに振るって,他の「星たち」,つまり神のほかの霊の子たちを,自分の反逆の歩みに加わらせることができました。(ヨブ 38:7と比較。そのところで,神の霊の子たちは「明けの星」と呼ばれています。)この事は,ノアの時代の全地球的な大洪水の前に起きました。数多くのみ使いたちが,神の目的に逆らって天における「そのあるべき居どころを捨て」,肉体を着けて人間の女たちと住み,ネフィリムとして知られる合いの子の子供たちを生ませました。その事についてこう記されています。

      「さて,人が地の表に増え始め,彼らに娘たちが生まれると,その時,真の神の子たちは人の娘たちに,それらが器量が良いのに目を留めるようになった。そして彼らは自分のために妻を,すなわちすべて自分の選ぶところの者をめとり始めた。……真の神の子たちが人の娘たちと関係を持ち続け,彼女たちが彼らに息子たちを産んだその当時,またその後にも,ネフィリムが地にいたが,それらは昔の強大な者たちであり,名のある人びとであった」― 創世 6:1-4。

      洪水のさい,これら神の子たちはその妻と合いの子の子孫たちを失いました。彼ら自身は物質の体を離れなければなりませんでした。その後彼らに何が起きたかについて聖書はこう伝えています。「神(は),罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡された」。(ペテロ第二 2:4)そして,ユダ 6節はさらにこう述べています。「[エホバは,]自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられ(る)」。

      これらの描写は霊の被造物に関するものですから,「濃密なやみの穴」とか「とこしえのなわめ」という言葉が文字どおりのものを指していないことは明らかです。これらの表現はただ,拘束の様子,また,神から全く啓発を受けられない卑しめられた状態を表わしているにすぎません。

      これら不従順なみ使いたちが,ホメロスの「イリアド」に出て来る神話的なタルタロス,つまり,霊者であるクロノスや他のティタンたちの閉じ込められているとされる最も低い獄のような所にいると考えるべき聖書的な根拠はありません。使徒ペテロは,そうした神話的な神々をどれも信じてはいませんでした。それゆえ,『タルタロスに投げ込む』というギリシャ語の表現を用いたペテロが,それよりおよそ九世紀前にホメロスの言及した神話的な場所の実在を示唆していたと判断すべき理由はありません。事実,『タルタロスに投げ込む』という表現は,ギリシャ語ではただ一語,タルタローという動詞です。この語は,卑しめて最も低い地位に落とす,という意味でも使われます。

      例えば,英語のdebase(卑しめる)という語には,base(基底)という名詞が含まれています。しかし,debaseという語が使われる場合,その『卑しめる』という行為には,文字どおり空間的な意味での「基底」という意味合いは含まれていません。同様に,『タルタロスに投げ込む』と訳されるギリシャ語動詞についても,実際の場所が存在することを示唆していると見る必要はありません。それはひとつの状態を指しているのです。

      ペテロ第一 3章19,20節の中で,これら卑しめられた霊の被造物は「獄にある霊たち」と呼ばれています。それは,「かつてノアの日に神がしんぼうして待っておられた時に不従順であった者たち」です。こうして聖書は,「罪を犯したみ使いたち」が洪水の後一種の抑制状態に置かれたことを明らかにしています。これら霊たちが洪水後にも物質の体を着けて地上で見える活動を行ないえたと聖書は示していません。それゆえ,彼らはその置かれた抑制状態のゆえにもはや肉体を着けることができなくなった,と考えられます。

      悪霊の影響に注意する

      不従順なみ使いたちは今や悪霊として知られるようになりましたが,人間たちと緊密な交わりを持ちたいという強い欲望をなお捨てていません。この点に注意すべきです。彼らは人間の女たちを妻として持つ快楽のために自分の天の地位を放棄することをためらいませんでした。聖書中の証拠は,彼らがそうした身体的な接触をもはや持てないように抑制されてはいても,依然同じ欲望を抱いていることを示しています。彼らは,人間と接触し,さらには人間を支配するために,自分に開かれたあらゆる手だてを用いようとします。イエス・キリストは,比喩的な表現を用いつつそのことについて述べました。

      「汚れた霊は,人から出て来ると,休み場を捜し求めて乾ききった所を通りますが,どこにも見つかりません。そこで,『出て来た自分の家に戻ろう』と言います。そして着いてみると,それは空いていますが,きれいに掃かれ,飾りつけられています。そこで,出かけて行って自分より邪悪な七つの異なった霊を連れて行き,彼らは中にはいってそこに住みつきます。こうして,その人の最終的なありさまは最初より悪くなります」― マタイ 12:43-45。

      それゆえ,人は,悪霊の影響に屈することのないよう警戒していることが大切です。自分自身また自分の将来について非常におぼつかない気持ちになることがあるかもしれません。物事が自分にとってうまくゆくというなんらかの保証をどうしても得たいと感ずる場合もあるでしょう。あるいは,秘術に伴う超自然的で不思議な現象に気を引かれることもあるでしょう。将来を正確に予言できるとされる人のことについて耳にする場合もあるでしょう。霊応盤,ESP(超感覚的知覚),茶わんの中での茶の葉の模様,水面に浮かぶ油の形状,占い棒,振り子,恒星や惑星の位置や運動(占星術),犬のほえ方,鳥の飛び方,へびの動き方,水晶球を見ることなど,いろいろな占いの方法について知るようになるかもしれません。自分の置かれた状況が非常に絶望的に見え,あるいは,非常な魅惑を感じて,易者や霊媒に相談し,何かの占いをしてみようと思うかもしれません。なんでもともかく一度試してみたいという気持ちになるのです。

      それは賢明なことですか。絶対にそうではありません。そうした好奇心がもとになって悪霊に支配されるようになることがあるのです。そうした歩みは安らぎや慰めをもたらすというよりは,むしろ事態を悪化させるだけのものとなりかねません。超自然的な妨害のために眠りを奪われ,白昼さえ恐怖に満たされることがあります。自殺を,あるいは他の人を殺すことを促す不思議な声が聞こえてきたりもします。

      それゆえ,そうした危険を避け,いっさいの占いから離れているほうが賢明ではありませんか。エホバ神はこの問題を軽視されません。イスラエル人が邪悪な霊たちに欺かれたり害されたりすることがないようにするために,エホバは占いの習慣を重大な罪とし,律法の中でこう述べられました。「男か女で,その内に霊媒の霊や予言の霊がある者,その者は必ず死に処せられねばならない」― レビ 20:27。

      霊媒,呪術,占いなどに対する神の見方は変わっていません。神の定めは,心霊術を常習にする者すべてを依然として明確に非としています。―啓示 21:8。

      それゆえ,邪悪な霊の被造物に欺かれることのないよう懸命に努力してください。不思議な声を聞くことがあり,それが死んだ友人や親族のものであると言われるとしても,決してそれに耳を傾けてはなりません。真の神エホバの名を呼び求め,悪霊の影響に抵抗するための助けを求めてください。まさに神のみ子が忠告したとおり,『わたしを邪悪な者から救い出してください』ということを,自分の願い,また祈りとしてください。(マタイ 6:13)占いと関係のある物品に関しては,古代エフェソスで真の崇拝を受け入れた人々の手本に倣ってください。「魔術を行なっていたかなり大ぜいの者が自分たちの本を持って来て集め,みんなの前で燃やした」。それらの品は高価なものでしたが,それを焼き捨てることをためらいませんでした。―使徒 19:19。

      こうした例を考えるとき,秘術に手を出していることで知られている人々とわざわざ交わりを持ったり,そうした人たちから何か物を受け取ったりするのは正しいことでしょうか。そうしたものが媒介となって悪霊の影響を受けるようにならないでしょうか。

      出どころのはっきり分からない声,物音,人影など,超自然的で不思議な現象の起きることがありますが,そうしたものの背後には邪悪な霊の働いている場合が少なくありません。この点を認めておくことが,欺きから身を守るための大きな要素となります。この点を知っていれば,死者を恐れたり,死者のための無価値な儀式にとらわれたりしないですみます。また,それによって,邪悪な霊たちからの攻撃の犠牲になるようなことからも守られます。

      しかし,サタンと配下の悪霊たちが死者に関してなした欺きのすべての面からしっかり身を守るためには,聖書の全体を信じ,それに一致して行動しなければなりません。聖書は,その全体が,霊感によって記された神の言葉であるからです。

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