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地獄は熱い所ですか今ある命がすべてですか
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第11章
地獄は熱い所ですか
聖書の多くの翻訳は「地獄」(hell)と呼ばれる場所について述べているのではありませんか。そうです,聖書の多くの翻訳はこの表現を使っています。しかし,問題は,「地獄」と呼ばれる場所に関して牧師の教えてきた事柄が聖書から出ているのか,それとも何かほかのところから出ているのか,という点です。
キリスト教世界の教会員だけでなく,キリスト教以外の宗教の多くの信徒たちも,責め苦のある地獄について教えられてきました。地獄に閉じ込められた人々の受ける責め苦に関していろいろな書物の述べるところを読むことには興味深いものがあります。
七世紀に書かれた,キリスト教以外の宗教のある「聖典」は次のように述べています。
「地獄!―彼らはそこで焼かれる ― いまわしい寝床(げに,そこに横たわるなら)!―まさしくそのような所 ― ついで彼らは味わう ― 煮えたぎる液体を,そしてまた,暗く陰気な極寒の液体を!……(彼らは)激しく燃えさかる火の中,煮えたぎる熱湯の中,そして暗黒の煙の陰で苦しむ。憩いを与えるもの,楽しみを与えるものは何もない」。
仏教は西暦前六世紀ごろに始まったものですが,その教える幾つもの「地獄」の一つについて次のように描写しています。
「ここでは,火の炎にも,生ける者の苦痛にも全く休みがない」。
ローマ・カトリックの「キリスト教教理問答」(1949年刊)はこう述べています。
「彼らは神を見る恵みを奪い取られており,恐ろしい責め苦,とりわけ火による責め苦を永久に受ける。……神の示現が与えられなくなることは喪失の苦痛と呼ばれる。新たに設けられた手段によって魂に加えられ,その復活の後肉体に加えられる責め苦は,感覚の苦痛と呼ばれる」。
また,土地によっては,プロテスタント牧師で,地獄の恐ろしさについて生々しい描写をする人たちもいます。また,その教会員たちも,地獄の責め苦を幻で見た,としばしば唱えます。ひとりの人は自分が幻で見たものについてこう語りました。『目の届くかぎり,見えたものといえば,燃える火とその中にある人間たちだけであった。なんという苦痛,なんという苦しみであろう。ある者は絶叫し,ある者は泣きわめき,水を,水をと請い求めた。ある者は髪をかきむしり,ある者は歯ぎしりしていた。また別の者は自らの手や腕をしきりにかみ取ろうとしていた』。
地獄で処罰を受けるかもしれないという恐れが人に正しい事を行なわせる強い力になる,と唱える人たちが多くいます。では,歴史の事実はそれを裏付けていますか。むしろ,最も残酷な行為のあるものは,地獄の火の教理を信じる人々の手でなされてきたのではありませんか。キリスト教世界における恐るべき異端審問所,またおびただしい血を流した十字軍などはその例ではありませんか。
それゆえ,地獄の責め苦ということを実際には信じていない人が増え,また地獄における処罰を悪行の抑制力とはみなさない人が多くなっていても少しも不思議ではありません。そうした人々は,この教えの誤りを自分で証明したわけではありませんが,道理にかなった真実な事柄とは思えないものを信じる気持ちをただ失っているのです。しかしそれでも,そうした人々はこの教理を説く教会の会員となっていることが多く,そのようにして教会を支持することによって,地獄の火の教えを広める面で責任の一端を担っています。
しかし,死後の責め苦ということについて,聖書そのものはなんと述べていますか。この本のこれまでのところをお読みになったのであれば,死者に関して一般に唱えられるいろいろな教えが真実でないことを知っておられるはずです。そして,聖書の言葉に基づいて,死後に肉体から離れて意識ある存在を続ける魂や霊などのないことも知っておられるはずです。こうして,死後の永遠の責め苦という教理に対する聖書的な根拠は存在しません。実際の責め苦に処されうるようなものは何も残らないのです。では,さまざまな聖書翻訳が「地獄」と呼んでいるのは,実際にはなんでしょうか。
シェオールとは何か
カトリック・ドウェー訳の中で,「地獄」(hell)という語が最初に出て来るのは創世記 37章35節です。それは,ヨセフに関して族長ヤコブが語った言葉で,ヨセフがすでに死んだと思ったヤコブは,『わたしは嘆きながら地獄に下って息子のもとに行く』と語りました。明らかな点として,ヤコブは,ヨセフと一緒に責め苦を受けようという考えを言い表わしていたのではありません。ドウェー訳(ニューヨーク,ドウェー・バイブル・ハウス刊,1941年)のこの句に関する脚注も,そのような解釈をしてはいません。それはこう述べています。
「地獄に下って。つまり,孩所に行くことを指す。それは,わたしたちの贖い主の死以前に正しい者の魂が受けとめられた所である。……[それは,]ヨセフの魂がそこにあるとヤコブが信じた,休息の場所を意味していたはずである」。
しかし,聖書そのものは「孩所」というような場所については少しも述べていません。また,肉体とは全く別個になったものとしての魂の特別の休息場所がある,というような考えも支持していません。現代カトリック訳の一つである「新アメリカ聖書」(ニューヨーク,P.J.ケネディー社1970年刊)にある小用語解は次のことを認めています。「魂と体との間に対立関係また対照的相違はない。それは同一有形の実体に対する異なった描写法にすぎない」。
では,ヤコブが自分も行って息子と共になろうとした「地獄」とはなんですか。この問いに対する正しい答えは,「地獄」と訳されている元の言葉,つまり原語のシェオールという言葉の正しい意味を知ることによって得られます。「墓」,「穴」,「死者の住みか」,「下方の世界」などとも訳されるこのシェオールという語は,ヘブライ語聖書の39冊の本(一般に「旧約聖書」と呼ばれる部分)に全部で66回a(新世界訳聖書の中で)表われていますが,生命,活動,責め苦などと結び付けて用いられている所は一つもありません。むしろ,それは死や無活動の状態と多く結び付けられています。幾つかの例を挙げると次の通りです。
「死にあってはあなた[エホバ]について語ることはないからです。シェオール[墓,欽定訳; 地獄,ドウェー訳]にあってはだれがあなたをたたえるでしょうか」― 詩 6:5(6:6,ドウェー訳)。
「あなたの手にあるなすべき事はみな,力を尽くして行ないなさい。シェオール[墓,欽定訳; 地獄,ドウェー訳],すなわちあなたの行こうとしている所には,業も考案も知識も知恵もないからである」― 伝道 9:10。
「シェオール[墓,欽定訳; 地獄,ドウェー訳]があなた[エホバ]をたたえることはできないからです。死があなたを賛美することはできません。穴の中に下る者たちは望みを抱いてあなたの真実さに頼ることはできません。生ける者,生ける者こそあなたをたたえうるのです。今日わたしがするごとくに」― イザヤ 38:18,19。
ここに明らかなとおり,シェオールとは死者の行く所です。それは個々の墓ではなく,死んだ人類一般の共通の墓です。そこでは,意識ある活動はすべてやんでいます。これが聖書におけるシェオールという語の意味であることは,新カトリック百科事典も認めて,こう述べています。
「聖書の中で,これは全くの無活動の場所を指している。それは,義人であれ悪人であれ,貧者であれ富者であれ,人が死のさいに行く所である」― 第13巻170ページ。
ヘブライ語聖書の全期間にわたって火の責め苦の場所など存在しなかったことは,不従順に対する刑罰として責め苦が定められたことはない,という事実にも示されています。イスラエル国民の前に置かれたのは,命か責め苦かではなく,命か死かの選択でした。モーセはイスラエル国民にこう告げました。「わたしは,命と死,祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたもあなたの子孫たちも,生きつづけるために,あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従い,神に付き従って命を選ばねばならない」― 申命 30:19,20。
同様に,不忠実なイスラエル人に悔い改めを勧めた神の後代の訴えも,責め苦ではなく不慮の死を迎える結果にならないようにと諭すものでした。エホバは,ご自分の預言者エゼキエルを通してこう言明されました。「わたしは,邪悪な者の死ではなく,邪悪な者がその道から引き返して実際に生きつづけることを喜ぶ。引き返せ,あなたの悪の道から引き返せ。イスラエルの家よ,どうしてあなたがたは死んでよいだろうか」― エゼキエル 33:11。
ハデスはシェオールと同じ
しかし,イエス・キリストが地上に来たことによって問題は変わったのではないか,と問う人がいるかもしれません。しかしそうではありません。神はご自分の性質や義の規準を変えたりはされません。ご自分の預言者マラキによって神はこう言われました。「わたしはエホバであり,変わってはいない」。(マラキ 3:6)エホバは,不従順に対する刑罰を変えておられません。人々に対して辛抱しておられますが,それは,人々が,責め苦をではなく,滅びを免れるためです。使徒ペテロは仲間の信者にあててこう書いています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:9。
不従順に対する刑罰は依然死であるという事実と一致するものとして,クリスチャン・ギリシャ語聖書(一般には「新約聖書」と呼ばれる)が死者の行く所として説明しているものは,ヘブライ語聖書の述べるシェオールと異なりません。(ローマ 6:23)この点は,ヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシャ語聖書を比較することによって明瞭に示されます。ハデスと音訳されるギリシャ語は全部で十回出ていますが,基本的には,ヘブライ語のシェオールと同じ意味を伝えています。(マタイ 11:23; 16:18。ルカ 10:15; 16:23。b 使徒 2:27,31。啓示 1:18; 6:8; 20:13,14。[ご使用の聖書がこれらの箇所で「地獄」や「ハデス」という語を使っていなくても,代わりに用いられている語には,やはり,責め苦の場所という意味合いのないことに気づかれるでしょう。])次に挙げる例について考えてください。
詩篇 16篇10節(15篇10節,ドウェー訳)にこう記されています。「あなた[エホバ]はわたしの魂をシェオール[地獄]に残して置くことはされないからです。あなたはご自分の忠節な者が穴を見ることを許されません」。使徒ペテロの講話の中で,この詩篇の言葉に預言的な意味のあることが示されました。ペテロはこう語りました。「[ダビデ]は預言者であり,その腰の実のひとりを彼の王座に着かせると,神が誓約をもって誓ってくださったことを知っていたので,キリストの復活を先見し,それについて,彼がハデス[地獄]に見捨てられず,その肉体が腐れを見ることもないと語ったのです」。(使徒 2:30,31)ヘブライ語シェオールの代わりにギリシャ語ハデスが使用されている点に注意してください。シェオールとハデスは互いに対応する言葉なのです。
フランス聖書協会の「ヌーヴェル・ヴェルション」(新訳)にある小用語解は,「死者の住まい」という表現に関してこう述べています。
「この表現はギリシャ語ハデスの訳である。ハデスはヘブライ語のシェオールに対応する。それは,死者が自分の死から復活[の時]までいる所である。(ルカ 16:23。使徒 2:27,31。啓示 20:13,14)幾つかの翻訳はこの語を『地獄』と訳しているが,それは正しくない」。
地獄の火に関する教えはどこから来たか
こうして明らかなとおり,シェオールやハデスに関する聖書の説明は,火の燃える地獄の教理を支持していません。カトリックの定期刊行物「コモンウイール」(1971年1月15日号)はこの教理がキリスト教的なものではなく,キリスト教の精神に反するものでさえあることを認めて,こう述べています。
「幾人かの哲学者を含む多くの人にとって,地獄は人間の想像上の必要に答えるものとなっている。これはサンタクロースの逆版とも言えるものであるが……義なる人々で,不正な者がなんらかの衡平的処罰を受けることを好まない者がいるだろうか。そして,もしこの世で受けないなら,なぜ次の世で受けてはならないだろうか。しかしながら,このような見方は,人を命と愛に呼び招く新約聖書の教えと相入れないのである」。
次いでこの雑誌は,この教理の出所とみなされるものについてこう示しています。
「地獄に関するキリスト教の伝統的な概念の背後にあると思われる別の要素はローマ世界に見いだされる。ギリシャ哲学においては本然的な不滅性ということが中心的な前提であったが,ローマ人の間では,公正ということが主要な徳とされた。キリスト教が栄え始めたころは特にそうであった。……これら二つの精神,つまりギリシャ人の哲学的精神と,ローマ人の公正を追求する精神との結合が,天国と地獄,つまり,善人の魂が報いを受けるのであれば悪人の魂は処罰されるという,神学的対称性をもたらしたと言えるかもしれない。不義の者に対する公正な裁きに関する信仰の裏付けとして,ローマ人はウェルギリウスの『アエネーイス』を取り上げ,祝福されてエリシュウムの楽土にいる人々と,のろいを受けてタルタロスにある者たちとについて読みさえすればよかった。そのタルタロスは,火によって囲まれ,処罰に対する恐怖の満ちあふれた所であった」。
こうして,火の燃える地獄に関する教えは,真の神から離れた人々の奉じたものであることが認められています。それはまさに,「悪霊の教え」と呼ぶことができます。(テモテ第一 4:1)なぜなら,それは,人は実際には死なないという偽りに由来するものであり,また,悪霊たちの病的で残酷でよこしまな気質を反映しているからです。(マルコ 5:2-13と比較)この教理は,人々を不必要な恐れや恐怖で満たしてきたのではありませんか。それは神についてはなはだしく誤り伝えてきたのではありませんか。そのみ言葉の中で,エホバは,ご自分が愛の神であることを明示しておられます。(ヨハネ第一 4:8)しかし,火の燃える地獄に関する教えはこのエホバに対する中傷であり,想像しうる最も残酷な行為を偽りにも神に帰するものです。
したがって,地獄の火の教理を唱える人は神に冒とくとなる事柄を語っているのです。聖書の示す証拠に十分に通じていない牧師がいるかもしれませんが,それはあるべき姿ではありません。彼らは,神の音信を語り告げる者と自ら唱えていますから,聖書の述べる事柄を知る務めがあります。彼らは,自分の話したり行なったりする事柄が,彼らに教導を仰ぎ求める人々の生活を大きく左右しうることは十分に知っています。これは当然,自分の教える事柄の真偽を確かめるよう,慎重な態度を取らせるはずです。神について何か誤った事柄を伝えるなら,人を真の崇拝からそらせ,人に危害をもたらすことにもなるからです。
偽りを教える人々をエホバ神が是認されないことは明らかです。古代イスラエルの不忠実な宗教指導者に対して,エホバは次の裁きを宣告されました。「あなたがたがわたしの道を守ら……なかったことのゆえに,わたしとしてもまた,必ずあなたがたをしてさげすまれさせ,民すべての前に卑しめる」。(マラキ 2:9)今の時代の偽りの宗教教師に対しても必ず同様の裁きが下されることになるでしょう。聖書は,そうした人々が世界の政治勢力によってまもなくその地位と影響力とをはぎ取られることを示しています。(啓示 17:15-18)偽りを教える宗教機構を支持し続ける人々もまたそれと同様の運命をたどるでしょう。イエス・キリストは,「盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込む」と言われました。―マタイ 15:14。
こうした点を考えるとき,あなたは,火の燃える地獄の教理を教える宗教組織を引き続き支持してゆくことを願いますか。自分の父親がだれかから悪意の中傷を受けたとすれば,あなたはどのように感じますか。その中傷者を自分の友として引き続き迎え入れてゆきますか。むしろ,そうした人々との交わりをいっさい断つのではありませんか。わたしたちの天の父を中傷する行為をしてきた人々との交わりについても,同様のことを求めるべきではありませんか。
責め苦に対する恐れは神に仕えるための正しい動機ではありません。神はわたしたちの崇拝が愛に根ざしたものであることを求めておられます。これはわたしたちの心に訴えるはずです。死んだ人々は全く意識がなく,死んだ人類すべてに共通な,生命のない沈黙の墓に眠っているのであり,燃えさかる炎の中,叫びと苦痛の満ちる所にいるのではありません。この点を理解するなら,愛を抱いて神に仕えるさいの妨げは除かれます。
[脚注]
a 創世 37:35; 42:38; 44:29,31。民数 16:30,33。申命 32:22。サムエル前 2:6。サムエル後 22:6。列王上 2:6,9。ヨブ 7:9; 11:8; 14:13; 17:13,16; 21:13; 24:19; 26:6。詩 6:5; 9:17; 16:10; 18:5; 30:3; 31:17; 49:14,15; 55:15; 86:13; 88:3; 89:48; 116:3; 139:8; 141:7。箴 1:12; 5:5; 7:27; 9:18; 15:11,24; 23:14; 27:20; 30:16。伝道 9:10。雅歌 8:6。イザヤ 5:14; 7:11; 14:9,11,15; 28:15,18; 38:10,18; 57:9。エゼキエル 31:15-17; 32:21,27。ホセア 13:14。アモス 9:2。ヨナ 2:2。ハバクク 2:5。
[90ページの図版]
地獄に関する仏教画の一部分
[91ページの図版]
カトリック教徒ダンテの「地獄篇」の一場面
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富んだ人とハデス今ある命がすべてですか
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第12章
富んだ人とハデス
ハデスが死んだ人類の共通の墓にすぎないものであるとすれば,なぜ聖書は,ある富んだ人がハデスの火の中で責め苦に遭うことについて述べているのですか。これは,ハデスが,あるいは少なくともその一部が,火の燃える責め苦の場所であることを示しているのでしょうか。
地獄の火について教える人々は,この記述こそ,悪人の前途に責め苦の場所の地獄が控えている明確な証拠である,としきりに指摘します。しかし,そのようにしつつも,そうした人々は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」と聖書が繰り返しはっきり述べている点を無視します。(エゼキエル 18:4,20)そしてまた,「死者は,なんの意識も全くない」と述べられているのです。(伝道 9:5)「失われた魂」が火の燃える地獄で責め苦を受けるという考えを,これらの言葉が支持していないことは明白です。
それゆえ,死者の状態に関する聖書の教えは,キリスト教世界の多くの牧師を苦しい立場に立たせています。彼らがその教えの基であるとする聖書そのものが,彼らの教理と相入れないからです。それでも彼らは,意識的にも無意識的にも,自分たちの論点を証明する何かを聖書の中に読み取らねばならないと考え,こうして自らと他の人々を真理に対して盲目にならせています。これが故意になされる場合さえ少なくありません。
他方,誠実な態度で真理を探求しようとする人々は,何が正しいのかを知りたいと思います。そうした人々は,自分の信仰が聖書のある部分に基づいていると唱えても,それによって神の言葉の他の部分を退けているなら,ただ自分を欺く結果になることを知っています。彼らは,死者の状態について聖書が真実になんと述べているかを知りたいと思います。そして,十分な理解を得るために,ハデスで責め苦を経験したある富んだ人について述べられている事柄の意味を知り,それが聖書の他の部分とどのように調和するかを知りたいと思います。
ある富んだ人およびラザロという名のこじきに関する話をしたのはイエス・キリストでした。そのイエスの言葉はルカ 16章19-31節にあり,以下のとおりです。
「ある富んだ人がいて,紫と亜麻布で身をかざり,豪しゃな日々を楽しんでいました。一方,ラザロという名のあるこじきは彼の門のところに置かれ,かいようだらけの身で,その富んだ人の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた,犬が来ては彼のかいようをなめるのでした。さて,やがてこじきは死に,み使いたちによってアブラハムのふところの地位に運ばれました。
「また,富んだ人も死んで葬られました。そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦にありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがそのふところの地位にいるのが見えました。それで彼は呼びかけて言いました,『父アブラハムよ,わたしにあわれみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦しみもだえているからです』。しかしアブラハムは言いました,『子よ,あなたが自分の生がいに,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロがよくない物を受けたことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんの中にある。そして,これらすべてに加えて,わたしたちとあなたがたとの間には大きく深い裂けめが定められており,そのため,ここからあなたがたのもとに行きたいと思う者たちもそれができず,人びとがそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない』。すると彼は言いました,『それなら,お願いです,父よ,彼をわたしの父の家に遣わしてください。わたしには五人の兄弟がいるものですから。こうして彼が徹底的な証しをし,彼らもこの責め苦の場所にはいることがないようにするのです』。しかしアブラハムは言いました,『彼らにはモーセと預言者たちがある。これに聴き従えばよい』。すると彼は言いました,『いいえ,そうではありません,父アブラハムよ,だれかが死人の中から行けば,彼らは悔い改めることでしょう』。しかしアブラハムは彼に言いました,『モーセや預言者たちに聴き従わないなら,だれかが死人の中からよみがえっても,やはり説得に応じないであろう』」。
この富んだ人について述べられている事柄に注意してください。この人がハデスで責め苦に遭ったのはなぜですか。この人が何をしたのですか。この富んだ人が堕落した生活を送っていたとは述べられていません。イエスが述べたのは,この人が富んでいて,りっぱな身なりをし,ぜいたくな食事をしていたということだけです。そうした行為によって自動的に責め苦の処罰に価するのでしょうか。こじきのラザロに対するこの富んだ人の態度に大きな失態の示唆されていることは確かです。この富んだ人はラザロに対する思いやりに欠けていました。しかし,その失態はラザロとの間にそれほど大きな相違を生むものでしたか。
イエスがラザロに関して述べた事柄についても考えてください。仮に立場が逆であったらラザロは思いやりのある態度を取ったであろうと判断させるものが何か示されていますか。ラザロが神の前でりっぱな業の記録を築き上げ,それによって「アブラハムのふところの地位」,つまり神の恵みに浴する地位を得たと記されていますか。イエスはそのようには語りませんでした。ラザロを病気のこじきとして語られただけです。
病気のこじきはみな死のさいに神の祝福を受け,一方富んだ人はみな意識下での責め苦の場所に行くと結論するのは条理にかなっていますか。決してそうではありません。物ごいをすることそれ自体は神の恵みのしるしではありません。むしろ聖書は,「わたしに貧しさも富も与えないでください」という祈りの込められた言葉を載せています。(箴 30:8)また,ダビデ王は自分の時代のことについてこう記しました。「わたしは,義なる者が全く捨てられ,またその子孫がパンを探し求めているのを見たことがない」― 詩 37:25。
イエスの言葉を文字どおりに取ると,この例えについてほかにもいろいろと奇妙な結論を下さねばならないことになります。例えば,天の至福にあずかっている人はハデスで責め苦を受けている人を見,その人と話ができる位置にいるのでしょうか。人の指先についた水はハデスの火で蒸発してしまわないのでしょうか。そして,ハデスでの責め苦は大きなものであるのに,わずか一滴の水で,そこで苦しむ人に安どがもたらされるのでしょうか。
文字どおりに取った場合のこうした点はあなたにとって納得のゆくものですか。それとも,イエスがここで述べた事柄は文字どおりに取るべきものではない,と感じますか。この点を確かめる方法がありますか。
「富んだ人」と「ラザロ」はそれぞれだれを表わしているか
文脈を調べてください。イエスはだれに話していましたか。ルカ 16章14節にこう記されています。「さて,金を愛する者であるパリサイ人たちがこれらのすべてのことを聴いていて,彼のことを冷笑しはじめた」。
イエスはパリサイ人たちの聞いている所で話をされました。イエスは現実の事として話しておられたのでしょうか。それとも,単に一種の例えを用いておられたのでしょうか。群衆を教えるさいのイエスの手法についてこう記されています。「イエスは……例えを用いないでは話そうとされなかった」。(マタイ 13:34)それゆえ,富んだ人とラザロに関する話も一つの例えであるに違いありません。
明らかに,この例えはパリサイ人にあてて語られたものでした。一つのクラスとして見る場合,彼らはその富んだ人に似ていました。彼らは金を愛し,また人前での目だった地位やへつらいの称号を愛していました。イエスは彼らについてこう語りました。「すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです。彼らは,お守りとして身につける聖句入れの幅を広げ,衣のふさべりを大きくしているからです。また彼らは晩さんにおいては最も目だつ場所を,そして会堂ではいちばん前の座席を好み,また市の立つ広場でのあいさつと,人にラビと呼ばれることを好みます」― マタイ 23:5-7。
パリサイ人たちは,他の人々,とりわけ,収税人,娼婦,その他罪人と評されている人々を見下していました。(ルカ 18:11,12)ある時,イエスを捕縛するために遣わされた下役たちがイエスの教えに感動してむなし手で戻って来たことがありましたが,その時パリサイ人たちは声を強めてこう語りました。「あなたがたまで惑わされたわけではないだろう。支配者やパリサイ人で彼に信仰を持つ者はひとりもいないではないか。だが,律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」― ヨハネ 7:47-49。
したがって,たとえ話の中のこじきラザロは,パリサイ人たちにさげすまれながら,悔い改めてイエス・キリストの追随者となった謙遜な人々を表わしています。イエスは,これらさげすまれた罪人たちも,悔い改めることによって神からの恵みの地位を得,一方,パリサイ人その他目だった宗教指導者たちは,一つのクラスとしては,失敗する結果になることを示されたのです。イエスはこう語りました。「あなたがたに真実に言いますが,収税人や娼婦たちがあなたがたより先に神の王国にはいりつつあるのです。ヨハネが義の道をもってあなたがたのところに来たのに,あなたがたは彼を信じなかったからです。ところが,収税人や娼婦たちは彼を信じたのであり,あなたがたは,それを見ながら,あとから後悔して彼を信ずるようにはなりませんでした」― マタイ 21:31,32。
「富んだ人」と「ラザロ」の死
では,「富んだ人」と「ラザロ」の死によって何が表わされているのですか。それが実際の死を指していると判断する必要はありません。聖書中での用法で言えば,死は人の状態の大きな変化をも表わします。例えば,神の意志に反した生き方を追求している人は『罪過と罪にあって死んでいる』と述べられています。しかし,そうした人がイエス・キリストの弟子となり,神の前で是認された立場を持つようになると,そうした人々は『生かされた』と言われます。(エフェソス 2:1,5。コロサイ 2:13)同時に,今や生きるようになったその人々は,「罪」に対しては死んだ者となります。こう記されています。「自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい」― ローマ 6:11。
イエスのたとえ話の中の「富んだ人」と「ラザロ」は共に象徴であることは明らかですから,これら両者の死にも当然象徴的な意味があります。では,これら両者はどのような意味で死ぬのですか。
この問いに対する答えのかぎは,この例えを話す直前にイエスが語った次の言葉の中にあります。「だれでも自分の妻を離婚して別の女をめとる者はみな姦淫を犯すのであり,夫から離婚された女をめとる者は姦淫を犯すのです」。(ルカ 16:18)この言葉は,ここで取り上げている例えと無関係なように思えるかもしれません。しかしそうではないのです。
モーセの律法のゆえにイスラエル国民は神との契約関係にあり,そのゆえに神に対して妻の立場にあったと言えます。それを示す例として,エレミヤ記 3章14節の中で,神はこの国民を不忠実な妻になぞらえてこう述べておられます。「これはエホバのみ告げである。『変節の子らよ,帰れ。わたしがあなたがたの夫なる所有者となったからである』」。次いで,イエスの到来とともに,イエスの「花嫁」の構成員となる機会がユダヤ人に差し伸べられました。バプテストのヨハネが自分の弟子たちに次のように語ったのはそのためです。「わたしは,自分はキリストではなく,そのかたに先だって遣わされた者であると言いましたが,そのことについてあなたがた自身がわたしに証ししています。花嫁を持つ者は花婿です。しかし,花婿の友人は,立って彼のことばを聞くと,その花婿の声にひとかたならぬ喜びをいだきます。そのわけで,わたしのこの喜びは満たされているのです。あのかた[イエス]は増し加わってゆき,わたしは減ってゆかねばなりません」― ヨハネ 3:28-30。
キリストの「花嫁」の構成員となるために,ユダヤ人は,自分たちを比喩的な意味で神に対する妻の立場に置いた律法から解き放されねばなりませんでした。そのような立場から解き放されないかぎり,彼らはキリストに対する妻という新たな関係に入ることができませんでした。そうでないと,それはいわば姦淫の関係になるからです。ローマ 7章1-6節の言葉は,この見方の正しさを確証しています。
「兄弟たち,律法が人に対して主となるのはその人が生きている間であるということを,あなたがたは知らないのでしょうか。(わたしは,律法を知っている人たちに話しているのです。)例えば,結婚している女は,夫が生きている間は律法によって彼のもとに縛られています。しかし,夫が死ねば,彼女は夫の律法から解かれます。ですから,夫が生きている間に別の男のものとなったとすれば,その女は姦婦と称えられるでしょう。しかし,夫が死ねば,その女は彼の律法から自由になるので,別の男のものとなったとしても,姦婦ではありません。
「わたしの兄弟たち,同様にあなたがたも,キリストの体により律法に対して死んだものとされたのです。それは,あなたがたが別のかたのもの,死人の中からよみがえらされたかたのものとなって,わたしたちが神への実を結ぶためです。……今やわたしたちは律法から解かれました。自分たちが堅く抑えられていたものに対して死んだからであり,それは,霊によって新しい意味の奴隷となり,書かれた法典による,古い意味の奴隷とはならないためです」。
イエス・キリストの死がユダヤ人を律法から解き放すためのよりどころとなりましたが,イエスの死以前にも,悔い改めた人々は,み子の弟子となって神の恵みを受ける関係に入ることができました。バプテストのヨハネとイエス・キリストの伝えた音信と活動は,ユダヤ人が神の恵みを得,キリストの花嫁の成員となって天の相続財産を受ける立場に身を置くための門戸を開くものとなりました。イエス自らそのことを次のように言い表わしました。「バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人びとの押し進む目標となっており,押し進んでいる者たちはそれをとらえつつあるのです」― マタイ 11:12。
こうして,バプテストのヨハネとイエス・キリストの伝えた音信やその活動は,象徴的な「富んだ人」と「ラザロ」のそれぞれの状態に全面的な変化をもたらすようになりました。どちらのクラスも自分たちの以前の状態については死にました。悔い改めた「ラザロ」のクラスは神の恵みを受ける地位に入りました。一方,「富んだ人」のクラスは,悔い改めのない状態にずっととどまっていたために神の不興を被るようになりました。かつて,「ラザロ」のクラスは,パリサイ人その他ユダヤ教の指導者に,霊的な意味での「パンくず」を仰ぎ求めていました。しかし,イエスが真理を分かち与えたことによって,彼らの霊的な必要は満たされました。霊的な糧を与えるという面でイエスと当時の宗教指導者がどのように異なっていたかについて,聖書はこう伝えています。「群衆はその教え方に驚き入っていた。権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかったからである」。(マタイ 7:28,29)まさに全面的な逆転が起きていました。ユダヤ教の指導者は,「ラザロ」クラスに提供しうる何ものも有していないことを暴き出されました。
西暦33年のペンテコステの日,こうした状態の変化が完了しました。その時,新しい契約が古い律法契約に取って代わりました。悔い改めてイエスを受け入れていた人々は,そのとき律法契約から全面的に解き放されました。彼らはそれに対して死にました。そのペンテコステの日,イエス・キリストの弟子たちがパリサイ人その他著名な宗教指導者よりはるかに高められているという歴然たる証拠が示されました。ユダヤ教の宗教指導者ではなく,これらの弟子たちに神の霊が注がれ,世界のさまざまな国から来た人々のそれぞれの土地の言葉で「神の壮大な事がら」について語らせたのです。(使徒 2:5-11)これは,彼らが神の祝福と是認を受けていることを示す,まことに驚嘆すべきしるしでした。「ラザロ」クラスは,大いなるアブラハムなるエホバの霊的な胤となり,本当に恵みを受けた状態に入りました。この事が,「ふところの地位」という言葉で表わされています。―ヨハネ 1:18と比較。
悔い改めないパリサイ人その他目だった地位の宗教指導者たちのほうは,表向き恵みを受けているように見えた以前の地位については死んだ者となりました。彼らは「ハデス」にありました。依然として悔い改めていなかった彼らは,イエスの忠実な弟子たちからは隔てられ,両者の間には「大きく深い裂けめ」があるかのようでした。義に基づく,神の不変の裁きこそその「深い裂けめ」です。それについて聖書にこう記されています。「あなたの司法上の裁きは広大なる水の深みです」― 詩 36:6。
「富んだ人」に臨んだ責め苦
「富んだ人」のクラスは責め苦を経験する結果にもなりました。どのようにですか。イエスの弟子たちがふれ告げた,神からの,火のような裁きの音信によってです。―啓示 14:10と比較。
イエスの弟子たちのふれ告げた音信が宗教指導者たちにとって責め苦となったことは疑いありません。彼らはそのふれ告げる業をやめさせようとして躍起になりました。イエス・キリストの使徒たちが,名だたる宗教家から成るユダヤの最高法廷で自分たちの弁明をした時,それら裁き人たちは「いたく身を切られるように感じ,この者たちを除き去ってしまいたい」と思うほどでした。(使徒 5:33)後に弟子ステファノの行なった弁明も,その法廷の構成員にとっては責め苦のように感じられました。「彼らは心臓まで切られるように感じ,ステファノに向かって歯ぎしりしはじめた」のです。―使徒 7:54。
これら宗教指導者たちは,イエスの弟子たちが来て,『自分の舌を冷やして』くれることを願いました。彼らは,「ラザロ」クラスが神の恵みを受けた「ふところの地位」を離れ,神の音信を自分たちに快い形で提出してくれることを願いました。また彼らは,「ラザロ」クラスが神の音信を水で薄めてくれるようにとも願いました。それは,彼らは「五人の兄弟」,つまり彼らの宗教上の同盟者が「責め苦の場所」に入らないようにするためでした。そうです,彼らは,自分たちの提携者が宗教上の音信で責め苦に遭うことを願いませんでした。
しかし,イエスの例えの中に示されているとおり,「富んだ人」のクラスもその宗教上の同盟者も,「ラザロ」クラスのふれ告げる音信のもたらす責め苦を免れられません。主イエス・キリストの使徒たちは音信を水で薄めようとはしませんでした。使徒たちはイエスの名によって教えることをやめようとはしませんでした。彼らはユダヤの最高法廷の前で,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と答えました。―使徒 5:29。
「富んだ人」の宗教上の同盟者たちは,望むなら,こうした責め苦を免れることができました。彼らには「モーセと預言者たち」がありました。つまり,彼らはモーセおよび他の古代の預言者たちの記した霊感の聖書を有していました。それら霊感のもとに記された聖書は,死後の文字どおりの責め苦の場所については一度も述べていません。むしろそれらは,イエスが約束のメシアつまりキリストであることを示すに必要なすべての証拠を含むものでした。(申命 18:15,18,19。ペテロ第一 1:10,11)したがって,「モーセと預言者たち」に注意を払っていたなら,「富んだ人」のクラスとその「五人の兄弟」はイエスをメシアとして受け入れたことでしょう。そうすれば,神の恵みを受ける立場に身を置くことができ,神からの裁きの音信のもたらす責め苦を味わわないですんだでしょう。
キリスト教世界は知っているはず
キリスト教世界の牧師がイエスのたとえ話に関するこの理解に通じていないというのは十分に理由のあることではありません。プロテスタントの指導的な注解書である「解釈者のための聖書」は,同様の説明に注意を促しています。同書は,イエスの言葉を「寓意的な付加物」と見る解釈者の多いことを指摘し,さらにこう述べています。「それは,初期キリスト教と伝統的ユダヤ教との衝突を想定したものであると見られている。富んだ人とその兄弟たちは不信仰なユダヤ人を指す。彼らは,聖書にある,イエスに関する明瞭な証言にもかかわらず,かたくなな態度で悔い改めを拒んだ,それゆえイエスの復活によっても心を動かされないであろう,というのが,この記述中でのイエスの主張である。ルカ自身およびその記述の読者たちがこれらの句にそうした解釈を施したのは考えうることである」。また,カトリックの「エルサレム聖書」は,ルカ 16章に関する脚注の中で,これは「特定の実在人物を持たない寓話的な物語である」と認めています。
こうした点から考えるとき,わたしたちは当然次のことを尋ねます。キリスト教世界の牧師はこれが寓話であるということをなぜ自分の教会員に対して認めていないのでしょうか。聖書は人間の魂の不滅を教えていないということを知っている人々が,明らかな寓話をなおも字義どおりに当てはめようとするのはなぜですか。それは正直さの欠けたことではありませんか。それは,事実を意識的に覆い隠して,神の言葉を無視することではありませんか。
富んだ人とラザロに関する例えは,今日のわたしたちにとって重要な教訓を含んでいます。わたしたちは,霊感のもとに記された神の言葉に注意を払っていますか。献身した,イエス・キリストの弟子として,それに従うことを願い求めていますか。そのようにしない人々は,ユダヤ教のパリサイ人と同じように,自分たちに向けられる神からの裁きの音信がもたらす責め苦を免れることができません。神の忠節なしもべたちはたゆむことなく真理を宣明し続け,宗教上の誤りを恐れることなく暴き出すでしょう。
あなたはこの点でどのような所に立っておられますか。どんな宗教にも良いところがあるという気持ちで,そうした暴露の業はやめるべきだと考えていますか。それとも,キリスト教世界が死者に関するその偽りの教えによって神の真理を誤り伝えてきたことに憤りを覚えますか。種々の偽りの教理によって神のみ名に浴びせられてきた非難が一掃されることを望みますか。心の正直な人々を宗教上の偽りによる束縛から解放するため惜しみない努力の払われることを願いますか。もしそうであれば,あなたは,死んだ人々と生きている人々に対する神の目的が真に慰めに満ちたものであることを見いだされるでしょう。
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ゲヘナの火についてはどうですか今ある命がすべてですか
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第13章
ゲヘナの火についてはどうですか
『ハデスという言葉が,聖書の中で火による責め苦の場所を指して用いられている例はないとしても,聖書は確かに「地獄の火」について述べているのではないか』と問う方がおられるかもしれません。
確かに,クリスチャン・ギリシャ語聖書(一般には「新約聖書」と呼ばれる)の翻訳の中には,「地獄の火」という表現を用いているものが多くあります。しかし,この場合,「地獄」と訳されている元のギリシャ語はゲヘナです。ゲヘナは,火の責め苦のある場所の名ですか。そうである,というのが,キリスト教世界の多くの注解者たちの答えです。それでも,そうした人々は,魂が不滅ではないことをよく知っています。彼らはまた,聖書の示すとおり,不滅性は,それを受けるにふさわしいと神が指定する人々にのみ報いとして授けられるものであり,邪悪な者が永遠の責め苦を受けるためにのろいとして与えられるものではないことをも知っています。―ローマ 2:6,7。コリント第一 15:53,54。
キリスト教世界の他の注解者たちは,ゲヘナが火によるとこしえの責め苦の場所ではないことを認めています。「新聖書注解」(779ページ)はこう述べています。「ゲヘナというのは,エルサレムにあったヒンノムの谷のギリシャ語名である。そこでは,市の廃物を焼くため常に火が燃やされていた。これは最終的な滅びを強力に描き出すものである」。
この問題に関する真実はどこにあるでしょうか。それを見いだす最善の方法は,聖書そのものがなんと述べているかを調べてみることです。
ゲヘナという語はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中に全部で12回出ています。そのうち1回は弟子ヤコブが使用したものですが,残りの11回はイエス・キリストの言葉とされるものの中に,有罪の宣告と関連して出て来ます。それらの聖句は以下のとおりです。
「わたしはあなたがたに言います。自分の兄弟に対して憤りをいだきつづける者はみな法廷で言い開きをすることになり,言うまじき侮蔑のことばで自分の兄弟に呼びかける者はだれでも最高法廷で言い開きをすることになり,一方,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者[こうして自分の兄弟を道徳的に無価値な者と決めつけて不当な裁きを下す者]はだれでも火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう」― マタイ 5:22。
「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」― マタイ 10:28。
「だれを恐れるべきかをあなたがたに示しましょう。殺したあとにゲヘナに投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうです,あなたがたに言いますが,このかたをこそ恐れなさい」― ルカ 12:5。
「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたはひとりの改宗者を作るために海と陸を行きめぐり,それができると,これを,自分に倍してゲヘナに行くべき者とするからです。へびよ,まむしらの子孫よ,どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」― マタイ 23:15,33。
「もしあなたの手があなたをつまずかせることがあるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,不具の身で命に入るほうが,二つの手をつけてゲヘナに,すなわち消すことのできない火の中に行くよりはよいのです。また,もしあなたの足があなたをつまずかせるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,足なえの身で命に入るほうが,二つの足をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを投げ捨てなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです」― マルコ 9:43-48。マタイ 5:29,30; 18:8,9にある同様の言葉もご覧ください。
「舌は火なのです。舌はわたしたちの肢体の中で不義の世界をなしています。それは全身に汚点をつけ,生まれついた人生の車輪を燃やし,自らはゲヘナによって燃やされるのです[つまり,舌の無思慮な使い方は,ゲヘナと同じほどに人の身を滅ぼすものとなります。それは,生まれついた人生全体に影響を与え,ゲヘナの裁きを受けさせるほどのものともなります]」。―ヤコブ 3:6。
これらの句は火とゲヘナを結び付けてはいますが,人の死後に意識ある存在が続くとか,何かの苦しみがあるとか述べているものは一つもありません。この点に注意してください。むしろ,マタイ 10章28節に示されるとおり,イエスは,単に人の体だけでなく,その人の全体である魂を,神がゲヘナで『滅ぼし』うることを指摘しました。この滅びはどのような性質のものでしょうか。ゲヘナという語をさらに詳しく調べることによってこの点の理解が得られます。
ゲヘナ ― ヒンノムの谷
ゲヘナはクリスチャン・ギリシャ語聖書の中にある言葉ですが,実際には,ヘブライ語の二つの言葉,ゲーとヒンノムから来ており,「ヒンノムの谷」という意味です。この谷はエルサレムの南および南西側に位置していました。アハズやマナセなど,ユダの不信仰な王の時代に,ヒンノムの谷は偶像崇拝的な宗教儀式のための場所となり,子供のいけにえという恐るべき事柄さえ行なわれました。(歴代下 28:1,3; 33:1,6。エレミヤ 7:31; 19:2,6)後に,善王ヨシアはそこでなされていた偶像崇拝をやめさせ,その谷をそうした崇拝のために使用できないようにしました。―列王下 23:10。
伝承によると,この後ヒンノムの谷はごみの処理場となりました。聖書もそれを裏付けています。例えば,エレミヤ記 31章40節の中で『しかばねと灰の谷』(文語訳)と呼ばれているのは明らかにヒンノムの谷のことです。また,「灰づかの門」と呼ばれるものもありました。これは,ヒンノムの谷の東端,キデロンの谷との合流点に向かって開いていた門であると思われます。―ネヘミヤ 3:13,14。
ゲヘナをごみ焼却場の壊滅的な面と結び付けて考えることは,イエス・キリストの言葉とも調和します。ゲヘナについて,イエスは,「そこでは,うじは死なず,火は消されない」と語りました。(マルコ 9:48)イエスの言葉は明らかに,そのごみ捨て場で火が絶えず燃えていたことを暗示しています。火の勢いを強めるため,そこにはおそらくいおうが加えられていたでしょう。火の届かない所では,うじもしくは他の虫が育って,火で焼かれなかったものを食べていたと思われます。
ゲヘナについてこのように語ったイエスは,ヘブライ語聖書に全く異質な考えを持ち出したのではありません。この点にも注目すべきです。それら以前に書かれた聖書の中にも,不敬虔な人々に臨む事柄に関してほとんど同様の表現が出ています。
イザヤ書 66章24節は,神の恵みを受けている人々について,『かれら出でて[神]にそむきたる人のかばねを見ん そのうじ死なず その火きえず よろずの人にいみきらはるべし』と予告しています。(文語訳)これが,意識下で受ける責め苦を描いているのではなく,徹底的な滅びを描いていることは明らかです。そこに残されているものは,意識を持つ魂や「肉体から分離した霊」ではなく,ただの「かばね」です。そこに生きているのは,人間ではなく,それについたうじのような虫であることを,聖書は示しています。この言葉の中に,「不滅の魂」に関することは何も述べられていません。
エレミヤの預言の中でも,ヒンノムの谷は不信仰な人々の滅びと結び付けられています。「これはエホバのみ告げである。『見よ,この場所がもはやトフェテとかヒンノムの子の谷とではなく,殺りくの谷と呼ばれる日が来る。そしてわたしは,ユダとエルサレムの計り事をこの場所で空しくし,彼らをして,剣によってその敵の前に,また彼らの魂を求める者たちの手によって倒れさせる。そしてわたしは,彼らの死体を,天の飛ぶ生き物と地の獣に食物として与える」― エレミヤ 19:6,7。
ヒンノムの谷に関するエレミヤの言葉に,死後の意識下での責め苦を暗示するものは何も含まれていません。この点に注意してください。腐肉を食べる鳥や獣によって「死体」が食い尽くされること,これは全くの滅びを描くものです。
滅びの象徴
したがって,聖書中の証拠から見る場合,ゲヘナつまりヒンノムの谷は,意識下での火の責め苦ではなく,滅びの適切な象徴であると言えます。カトリックの定期刊行物「コモンウイール」の中で,ジョセフ・E・コクジョンはその点を認めて,こう述べています。
「最終的な処罰の場所は明らかにゲヘナ,つまりヒンノ[ム]の谷である。これは,一時期には,人間のいけにえが異教の神々にささげられた場所であったが,聖書時代にはすでに市のごみ捨て場,エルサレム市の外れに出来た廃物の堆積場であった。ここでは,悪臭と煙と火が,市の住民に,その目的を果たした事物に生じた事柄を常に思い出させた ― それらは滅ぼし尽くされたのである」。
ゲヘナの象徴した滅びが永続的なものであったことは,聖書のほかの所にも示されています。使徒パウロは,テサロニケのクリスチャンに手紙を書いたさい,それらクリスチャンに患難をもたらしている人々が「主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受け(る)」と述べました。―テサロニケ第二 1:6-9。
こうして,聖書に基づく証拠は,命に価しないという裁きを神から受ける人々が,文字どおりの火の中でのとこしえの責め苦ではなく,「永遠の滅び」を受けることを明瞭にしています。彼らはどこかに生きたかたちで保たれるのではありません。ゲヘナの火は,その滅びが全面的なもの,徹底的なものであることの象徴にすぎません。
時の宗教指導者に語りかけたさい,イエス・キリストが,「へびよ,まむしらの子孫よ,どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」と言われたのは注目に値します。(マタイ 23:33)なぜこう言われたのですか。なぜなら,それら宗教指導者は偽善者であったからです。彼らは人々から見上げられ,仰々しい称号で呼ばれることを望んでいました。それでいて,自分が霊的に助けるべき人々に対してなんの顧慮も払っていなかったのです。彼らは伝統的なさまざまな規定によって他の人々に重い荷を負わせ,自らは公正とあわれみと忠実を無視していました。彼らは偽教師であり,人間の伝統を神の言葉以上のものとしていました。―マタイ 15:3-6; 23:1-32。
あなたは,今日の宗教指導者たち,特にキリスト教世界の指導者の中に同様のものを見いだしていますか。そうした人々は,イエスの地上宣教当時のユダヤ教の指導者たちと比べて何か勝るところがあるでしょうか。そうではありません。キリスト教世界の宗教指導者たちは不従順にも神の真理と「わたしたちの主イエスについての良いたより」を誤り伝えてきたからです。したがって,偽りの教理を教え続けているかぎり,彼らは「永遠の滅びという司法上の処罰」を被る危険な立場にあります。
したがって,ゲヘナに関する真理は,偽りの宗教と関係を持たないようにすることの大切さを認識する助けになります。イエスが示したとおり,指導者たちだけでなく,偽りの宗教の教え手を支持する人々も危険な立場にあるのです。事実,イエス・キリストは,書士やパリサイ人の改宗者となる人々が『彼らに倍してゲヘナに行くべき者』となる,と述べました。(マタイ 23:15)したがって,今日,偽りの宗教の教えに盲従してゆく人々は,神からの不利な裁きを免れることは期待できません。
これは,わたしたちが自分の立場を真剣に考慮することを促しますが,同時にまた慰めの保証をも与えています。どのようにですか。エホバ神は重大な悪行を処罰のないままにはしておかれない,ということを確信させるからです。エホバの義の律法に従うことを望まず,殊更に悪の道を歩み続ける人がいるなら,エホバは,そうした人々が義に従う人々の平和を乱し続けることを長くは許さないのです。
[113ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
第一世紀のエルサレム
神殿域
ヒンノムの谷(ゲヘナ)
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『火の湖での責め苦』とはなんのことですか今ある命がすべてですか
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第14章
『火の湖での責め苦』とはなんのことですか
聖書は,死者に意識がないことを述べています。そのことを知った今,責め苦の場所について述べる聖書の句を見つけたとすれば,あなたはどのように反応しますか。それによって他のすべての聖句を無視し,やはり死後に意識的な存在が続くのかもしれないと考えますか。それとも,その句の前後関係を慎重に調べ,その句が実際に何を意味しているのか,それが聖書の他の部分とどのように調和するかを考えますか。
上記のことを述べるのは,聖書の「ヨハネへの啓示」が「火の湖」における「責め苦」について述べているからです。啓示 20章10節はこう述べています。「彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。―啓示 19:20もご覧ください。
「火の湖」に投げ込まれる者はどのようなかたちで責め苦を受けるのでしょうか。わたしたちはこの表現を,早まって文字どおりの意味に取るべきではありません。そのことは,「ヨハネへの啓示」がどのような性質の書であるかという点を考えれば明らかです。その書の冒頭の言葉はこう述べています。「イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである。そして,彼は自分の使いを送り,その使いを通して,しるしによりそれを自分の奴隷ヨハネに示したのである」― 啓示 1:1。
ここに述べられているとおり,この啓示は「しるし」によって示されたものです。では,「火の湖」とそこでの「責め苦」についてはどうでしょうか。それは文字どおりのものですか。それとも,やはり「しるし」つまり象徴ですか。
悪魔と「野獣」と「偽預言者」以外に何が火の湖に投げ込まれるかについてさらに情報を得れば,問題の答えがいっそう明らかになります。啓示 20章14,15節の言葉に注意してください。「死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
さて,死とハデスを文字どおり火の湖に投げ込むことができるでしょうか。もとよりそのようなことはできません。それらは,物体や動物や人間ではないからです。死とはひとつの状態です。それをどのようにして文字どおり火の湖の中にほうり込むことができるでしょうか。ハデスのほうは,人類の共通な墓を表わしています。どのような湖がそれを入れることができるでしょうか。
また,啓示 20章14,15節自体も,その湖が文字どおりのものであるとは述べていません。むしろ,「火の湖」とは「第二の死」を表わすしるしもしくは象徴であると述べています。同じことは啓示 21章8節の中でも述べられています。「憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。
火の湖とは第二の死の象徴ですから,死とハデスをその中に投げ込むということは,それらのものが永久に滅ぼし去られることの象徴表現にすぎません。このことは,『最後の敵として,死が無に帰せしめられる』という聖書の言葉とも一致します。(コリント第一 15:26)そして,人類一般の共通の墓であるハデスは空になって「もはや死もなく(なる)」のです。このことは,ハデスがその機能を持たなくなり,存在しなくなることを意味しています。―啓示 20:13; 21:4。
比喩的な意味での責め苦
では,「火の湖」に投げ込まれる邪悪な人間その他が経験する「責め苦」とはなんでしょうか。意識のあるかたちで存在しているのでないかぎり,それらが文字どおりの責め苦を経験することはできないはずです。そして,それらが意識のあるかたちで存在し続けることを示す聖書の証拠は何もありません。では,なぜ聖書は,「火の湖」におけるとこしえの責め苦について述べているのでしょうか。
「火の湖」は象徴的なものですから,それと結び付いている責め苦も象徴的もしくは比喩的なものであるに違いありません。「火の湖」に投げ込まれるものについて聖書がなんと述べているかを知れば,この点はいっそう理解できます。銘記すべきなのは,「火の湖」が「第二の死」を象徴している,という点です。アダムによる死,つまり,アダムとエバが罪を犯した後に生まれた人間すべてがこの二人から相続した死は,「罪の報い」と呼ばれてはいますが,この死が恐ろしいものと結び付けられていることはありません。―ローマ 6:23。
イエス・キリストは,相続した罪のゆえに死んだ人の死の状態を眠りになぞらえました。例えば,足かけ四日のあいだ死んで横たわっていたラザロについて,「わたしたちの友ラザロは休んでいますが,わたしは彼を眠りから覚ましにそこへ行きます」と言われました。(ヨハネ 11:11)その後,イエス自身も足かけ三日死の眠りに就きました。「今やキリストは死人の中からよみがえらされ,死の眠りについている者たちの初穂となられた」。(コリント第一 15:20)やがて目覚めてその状態が終わるという点で,死は眠りに似ています。
しかしながら,「第二の死」を受けねばならない者たちは,復活の希望という慰めがありません。この種の死は眠りではありません。第二の死は滅びであり,それからの目覚めはありません。この望みのない状態が固くとらえているために,この種の死に就く者たちは,意識のあるかたちでの存在や活動をもはやとこしえに持てないという意味で,「永久に責め苦」に遭うことになります。こうした「第二の死」による拘束が,獄の中に閉じ込められることによる責め苦にも例えられるということは,感謝とあわれみのない奴隷に関するイエスのたとえ話の中に示されています。その奴隷に対して主人が取った処置について,イエスはこう言われました。「怒った主人は,負債をすべて払うまで,彼を拷問者たちに引き渡した」。(マタイ 18:34,エルサレム聖書)新世界訳聖書は次のように訳出して,この責め苦を加える者たちがだれであるかを示しています。「そうして憤った主人は,借りているものすべてを返すまで,彼を牢番たち[英文1971年版脚注,責め苦を加える者たち]に引き渡しました」。
「火の湖」は「第二の死」の象徴であるということ,これは,それが意識下での責め苦の場所であるという考えを閉め出します。聖書の中には,死者が意識下での責め苦を経験できることを暗示しているところさえありません。むしろ,死者はいっさいの感覚を失っていることを示しています。人類の共通の墓の中で死んでいる者たちについて,聖書はこう述べています。『かしこにては悪しき者しへたげをやめ うみつかれたる者やすみを得 かしこにてはとらはれ人みな共に安らかに居りて駆ひ使ふ者の声を聞かず 小さき者も大いなる者も同じくかしこにあり 僕も主の手を離る』― ヨブ 3:17-19,文語訳。
今日人類一般が服し続けている死はいっさいの感覚や感情の終わりとなりますが,これは「第二の死」についても同じです。しかしながら,「第二の死」の処罰を受けた者に対しては罪のゆるしや贖いは全くありません。その恥ずべき状態が,その永久の受け分となるのです。そうした者たちについての記憶は朽ち果てます。―イザヤ 66:24。箴 10:7。
しかし,邪悪な者たちは,全くの絶滅である「第二の死」に投げ込まれる以前から,ある意味で責め苦を経験します。そのことは,啓示 14章9-11節の中で象徴的に述べられています。「野獣とその像を崇拝して,自分の額または手に印を受ける者がいれば,その者は,憤りの杯に薄めずに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲むことにもなり,聖なる使いたちの見るところで,また子羊の見るところで,火といおうによる責め苦に遣わされるであろう。そして,彼らの責め苦の煙はかぎりなく永久に上り,彼ら,すなわち,野獣とその像を崇拝する者,まただれでもその名の印を受ける者には,昼も夜も休みがない」。「野獣」とその「像」を崇拝する者たちはどのような手段で責め苦に遭うのでしょうか。啓示のそのすぐ後の言葉は答えの手がかりを与えています。「ここが,聖なる者たち,すなわち神のおきてとイエスの信仰を守る者たちにとって,忍耐となるところである」― 啓示 14:12。
「野獣」とその「像」の崇拝者たちが文字どおりの責め苦の場所に閉じ込められているのであるとすれば,聖なる者たちが忍耐することは特に求められないでしょう。そうした場所にいれば,それら偽りの崇拝者たちは,神の忠実なしもべたちに危害を加える力をすべて奪い取られているはずです。しかし,生きていて自由であれば,そのかぎり彼らは,「聖なる者たち」に対する悪意と敵対の行為に携われるのです。
「聖なる者たち」がここに登場しているということは,彼らが,邪悪な者たちに責め苦をもたらす器となっていることを示しています。どうしてでしょうか。それは,彼らが,「野獣」とその「像」の崇拝者たちを待ち受けるとこしえの滅びに関する音信をふれ告げるからです。この音信はそれら偽りの崇拝者たちにとって責め苦となり,彼らに昼も夜も休みを与えません。そのゆえにこそ,彼らは自分の力を尽くして神のしもべたちを沈黙させようとするのです。こうして及び来る迫害が「聖なる者たち」に忍耐を求めるものとなるのです。そして最後に,「野獣」とその「像」の崇拝者たちが「火といおう」によるかのようにして滅ぼされる時,その全き滅びの証跡は,さながら煙のごとく,その後いつまでも立ち上ります。
その滅びが完全なものであることは,ソドムとゴモラの両市に臨んだ事柄を例にして説明できます。弟子ユダはこう書きました。「ソドムとゴモラおよびその回りの都市も……永遠の火による司法上の処罰を受け,警告の例としてわたしたちの前に置かれています」。(ユダ 7)それらの都市を滅ぼした火は,ユダがこの手紙を書くずっと以前に消えていました。しかし,その火がもたらした壊滅に関する,「永遠」,不変の証跡は依然残っていました。それらの都市は存在を断たれたままになっていたからです。
とこしえの責め苦は神の個性と相入れない
意識下での永遠の責め苦ではなく,全き滅びこそ,あくまでも神に逆らい続ける者に対して下される処罰です。このことは,神がそのみ言葉である聖書の中でご自身について啓示しておられる事柄とも一致します。エホバ神は,その被造物である人間,また動物に対しても,優しい情感を抱いておられます。
仕事をする牛に関する神の律法について少し考えてください。「脱穀している牛にくつこをつけてはならない」。(申命 25:4)この律法は,理性のない動物に対する神の思いやりある配慮と関心を反映するものでした。牛が脱穀をしている場合,その脱穀している穀物の幾らかを食べて食欲を満たそうとすることを強制的に阻んで,その牛に責め苦を与えてはなりませんでした。
人類に対する神の配慮と愛には,理性のない動物に対する場合よりはるかに大きなものがあります。イエス・キリストは弟子たちに次のことを諭しました。「すずめ五羽はわずかな価の硬貨二つで売っているではありませんか。それでも,その一羽といえども神のみまえで忘れられることはありません。ところが,あなたがたの髪の毛までがすべて数えられているのです。恐れてはなりません。あなたがたはたくさんのすずめより価値があるのです」― ルカ 12:6,7。
したがって,こうした優しい情感を持たれる神がある人々を文字どおり永遠に責め苦に遭わせると唱えるのは,いかにも筋の通らないことではありませんか。たとえ一時間にせよ,だれかが恐るべき拷問に処せられるのを見たいと思うのはどんな人でしょうか。他の人が苦しみに遭うのを見て喜ぶのは,まさに極悪非道の非人間的な人々だけです。何かの不従順な行為のゆえに父親が自分の子供をいじめてひん死のめに遭わせたというような話を聞けば,わたしたちの内的な愛と正義の感覚は,それに対してむかつくものを覚えるのではありませんか。その子供がどれほど悪かったとしても,わたしたちはそのような父親に同情を感じることができません。
しかし,不完全な人類に対する神の思いやりある取り扱いにはわたしたちの道徳的な感覚に訴えるものがあります。それはわたしたちに暖かなものを感じさせ,創造者にいっそう近づこうという気持ちを抱かせます。どうか考えてください。人々が処罰に価するような場合でさえ,神はそれを加えることに喜びを抱きません。預言者エレミヤは,不忠実なエルサレムに下った神の裁きに関して次のように叫びました。「悲嘆を生じさせたとはいえ,その愛ある親切の豊かさにしたがって必ずあわれみをも示されるのである。心から人の子を苦しませたのではなく,悲嘆させるのでもないからである」― 哀歌 3:32,33。
当然処罰に価する人間に苦しみを与えたり悲嘆を来たらせたりすることがその心からの願いでないのであれば,どうしてエホバ神は邪悪な者の永遠の苦もんを承認されるでしょうか。さらに,そうした事がいったいなんの役にたつのでしょうか。牧師たちの述べる,非聖書的な「地獄の火」の理論によれば,その責め苦に遣っている人々は,自分の道を改めようとしても改めることができず,自分の境遇を改善することも全くできません。しかし,神の言葉は,責め苦ではなく,完全な滅びこそ,あくまでも悪を行ない続ける者すべての受ける処罰であることを明瞭に示しています。
エホバが,愛がありしかも公正な神であることを認識するわたくしたちは,神に仕えようとする人々に対するエホバの目的がまさに壮大なものであることを確信できます。それゆえ,切なる期待を抱いて聖書を調べ,病苦と死の束縛から人類を救い出すため神が設けられた愛の備えについてさらに学びましょう。
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人間の敵である死を征服する政府今ある命がすべてですか
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第15章
人間の敵である死を征服する政府
人間が生き続け,パラダイスの地上で生命を楽しむこと,これが,人間に対する神の初めの目的でした。わたしたちは,この目的が果たされることを確信できます。この確信は,人間の敵である死が征服され,滅ぼし去られるという,たがうことのない神の約束によって裏付けられています。―コリント第一 15:26。
70年か80年の生涯だけがすべてではありません。これが神を愛する人の望みうるすべてであるとすれば,そうした人々の立場は,神やそのみ言葉になんの顧慮も払わない人々の場合とさして変わらないことになります。しかし,そうなのではありません。聖書はこう述べています。「神は不義なかたではないので,あなたがた……の働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」― ヘブライ 6:10; 11:6。
エホバ神とその義の道に対する深い愛のゆえに神に仕えている人々に対する報いはなんでしょうか。現在と将来の報いが共にあるのです。使徒パウロはこう書きました。「敬神の専念はすべての事に益がある……それは,今の命ときたるべき命との約束を保つ」。(テモテ第一 4:8)今でさえ,神の律法に従順に従うなら,幸福で満足のある生活を楽しむことができます。「きたるべき命」については,ローマ 6章23節が,「神の賜物は…永遠の命(である)」と述べています。
もちろん,今日のような状態下での永遠の命は願わしいものに見えないかもしれません。しかし,これは,神の約束された,義に基づく管理のもとでのとこしえの命です。この約束が実現するために,人間はまず,死を引き起こしているものから解放されなければなりません。その,死を引き起こしているものとはなんですか。使徒パウロは,霊感のもとに,「死を生み出しているとげは罪であ(る)」と答えています。―コリント第一 15:56。
すでに,反逆した人間夫婦アダムとエバおよびその反逆を唆した者に対して裁きを宣告した時,エホバ神は,人間が罪と死から解放されるその方法について指摘されました。欺きのために用いられた理性のないへびに対してではなく,「初めからのへび」と呼ばれるサタンそのものに対して,神の次の言葉が語られました。「わたしは,おまえと女との間,またおまえの胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。創世記 3章15節に記録されるこの裁きは,後に生まれて来るアダムとエバの子孫にとって希望のよりどころとなりました。これは人間の敵がやがて征服されることを示していました。―啓示 12:9。
言うまでもなく,「初めからのへび」である悪魔サタンを打ち殺すだけでは,サタンが最初の人間夫婦を神に反逆させたことによるすべての害悪を除き去るのに十分ではありません。しかし,元の状態がどのように回復されるかは,神が啓示を与えるその選びの時まで秘められていました。―ヨハネ第一 3:8。
今日のわたしたちは,完成された聖書を基にして,この聖なる秘密を解くことができます。創世記 3章15節の中で述べられている「女」はエバではありえません。その反逆の歩みによって「初めからのへび」にくみしたエバは,自らサタンの「胤」の一部となっていました。また,アダムとエバの女の子孫のだれも,その預言に語られた女ではありえません。なぜですか。なぜなら,その「女の胤」は,「初めからのへび」である見えない霊者悪魔サタンを砕くために,ただの人間よりはるかに大きな力を持たなければならないからです。そのような強大な「胤」を生み出すために,その「女」は,人間ではなく,霊的なものであることが必要です。
ガラテア 4章26節の中で,この「女」は「上なるエルサレム」であることが示されています。これには大きな意味があります。どのような意味ですか。
古代都市エルサレムはユダ王国の都でした。ユダ人の最初の王ダビデがここを統治の中心としたために,以来エルサレムはこの国の歴代の王を生み出す所となりました。したがって,「上なるエルサレム」も当然に王を生み出すことが期待されます。このことは,天的な王を持つ,天の政府があること,それが,罪と死を終わらせるための機関となることを示しています。
こうして,「上なるエルサレム」は文字どおりの女や都市ではありません。それは,象徴的また霊的な都市です。それは天的なものであり,強大な霊者であるみ使いたちから成っています。それで,これら霊者のひとりが王の地位に指名されたとすれば,この「上なるエルサレム」がひとつの王国のための相続人を生み出したということになります。そのようなことがありましたか。
王が生み出される
まさにそのとおりの事が西暦29年に起きました。その時,人間イエスは神の聖霊をもって油をそそがれ,指名を受けた王となりました。これは,水の浸礼を受けるため,イエスが自分の身をバプテストのヨハネに差し出した時のことでした。どのような事があったかについて,聖書はこう伝えています。「バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,イエスは,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。『これはわたし子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した』」― マタイ 3:16,17。
その数か月後,イエスは,「あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と宣明しはじめました。(マタイ 4:17)そうです,指名を受けた王の到来というかたちでその王国は近づいていたのです。
地上に人間として生まれてはいましたが,イエスには人間となる以前の存在がありました。イエス自らこう語りました。「天から下った者,すなわち人の子のほかには,だれも天に上ったことがありません」。(ヨハネ 3:13)イエスの際だった謙遜の手本について論じたさい,霊感を受けた使徒パウロはこう書きました。「[彼は]自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました」。(フィリピ 2:5-7)この,天の命から地上の命への転移がどのように起きたかについて,み使いガブリエルと処女マリアとの間の会話が次のように記録されています。
「それでみ使いは彼女に言った,『マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません』。
「しかしマリアはみ使いに言った,『どうしてそのようなことがあるのでしょうか。わたしは男と交わりを持っていませんのに』。み使いは答えて言った,『聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたを覆うのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます』」― ルカ 1:30-35。
こうして,「上なるエルサレム」を構成する神の子たちのひとりであったイエスは,自分の命を天から処女マリアの胎内に移され,完全な人間の赤子として生まれました。この奇跡を信じ難いことと見る人がいても,それは,この出来事の現実性を疑う十分な論拠とはなりません。この文の終わりにある句点より小さな卵細胞から,すべての器官の整ったひとりの人間が形成されるようにした方は,ご自分の霊つまり活動力によって,一つの命を天から地に移すこともできるはずです。ダビデ王の永遠の相続者となるためにイエスの命はこうして天から移されましたから,確かにイエスは「上なるエルサレム」から来た者であると言えます。
創世記 3章15節の神の預言の中であらかじめ語られたとおり,イエスは,「初めからのへび」の手で『かかとに傷』を受けました。それは,西暦33年ニサン14日,刑柱にくぎ付けにされた時のことでした。頭を砕かれたのであればそれから立ち直ることはできません。しかし,「かかと」に受けた傷は一時的なものでした。三日目に,神はイエスを死からよみがえらせ,「滅びることのない命の力」を授けました。(使徒 10:40。ヘブライ 7:16)王イエス・キリストは,今や不滅の霊者であり,「初めからのへび」の頭を砕き,この者が引き起こしたすべての害悪を除き去る立場にいます。
仲間の支配者たち
イエス・キリストは,多くの人で構成される「胤」のうちの主要な者です。このイエスによって,全能の神は,天の王国でイエスと共になる人々の足下に悪魔サタンを砕きます。(啓示 20:1-3)イエスと共に支配の務めに携わる人々にあてて手紙を書いたさい,クリスチャン使徒パウロは次のように述べました。「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンをあなたがたの足の下に砕かれるでしょう」。(ローマ 16:20)これら,イエスの仲間の支配者とはどんな人々でしょうか。
聖書の最後の本「ヨハネへの啓示」の中で,その数は14万4,000人であることが示されています。「啓示」の筆者使徒ヨハネは,自分が幻の中で見たものについてこう述べています。「見よ,子羊[犠牲の子羊のようにして死を遂げたイエス・キリスト]がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた。……これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から[イスラエルの場合のようにただ一つの国民からではなく]買い取られたのであ(る)」― 啓示 14:1-4。
この14万4,000人が子羊と共にシオンの山にいると描かれているのはいかにも適切です。古代都市エルサレムにあったシオンの山は王宮の所在地であり,ユダの王たちが治めた所でした。ダビデが神聖な契約の箱のための天幕を張ったのもこのシオンの山でした。その箱の中には,十のおきてを書き記した石の板二枚が収められていました。後にこの箱は,ダビデの子ソロモンが少し離れたモリア山の上に建てた神殿の一番奥の仕切り室の中に移されました。シオンという語はやがてモリアの地域も包含するようになりました。こうしてシオンは,王権および祭司職と目だった結び付きを持つようになりました。―サムエル後 6:12,17。列王上 8:1。イザヤ 8:18。
このことは,イエスが王でありしかも祭司であって,古代サレムのメルキゼデクと同じように両方の職務を兼ねている事実とも一致します。ヘブライ 6章20節は,イエスが「メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司とな(った)」ことについて述べています。イエスは,王なる祭司として天のシオンの山から支配するのです。
イエスと共に支配の務めに携わる人々も祭司となります。一つの集団として彼らは「王なる祭司」と呼ばれています。(ペテロ第一 2:9)その果たす職務について啓示 5章10節はこう記しています。「[キリストは]彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配する」。
管理の目的
王なる祭司イエス・キリスト,およびイエスと共に祭司となりまた支配者となる人々の主な関心は,全人類をエホバ神と一致した関係に導き入れることです。つまりこれは,罪と不完全さのなごりをことごとく一掃することを意味しています。神の像を完全に反映する者だけが,自らのいさおによって神のみ前に立つことができるからです。管理体としての王国は,これを実現するための,神による物事の管理の一環を成しています。そのことは,エフェソス 1章9-12節の中に次のように示されています。
「[神は]み旨の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださ(いました)。それは,定められた時の満了したときにおける管理のため,ご自身のうちに定められた意向にしたがってであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです。そうです,彼において,彼との結びつきにおいて,わたしたちはまた相続人として選定されたのです。み旨のおもむくままにすべてのものを作用させるかたの目的のもとに,わたしたちがあらかじめ定められていたからであり,それは,キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが,その栄光の賛美に仕えるためです」。
イエス・キリストは罪がなく,エホバ神と完全に一致調和しています。したがって,すべてのものをイエスと一致させるなら,人類はエホバ神と一致する結果になります。このことは,王国の活動のこの面が完了した後にイエス・キリストが「王国を自分の神また父に渡(す)」,と聖書に記されていることからも明らかです。―コリント第一 15:24。
人類を完全な状態に至らせるという膨大な仕事を成し遂げるために,天で働く支配者たちは地上の代理者たちをも用います。それは,義に対する献身という点で抜きん出た人々です。(詩 45:16。イザヤ 32:1,2)その人々は,王イエス・キリストから責任をゆだねられる者に求められる資格を満たさなければなりません。基本的な二つの点は,謙遜さと,自己犠牲的な愛です。イエスはこう言われました。「あなたがたは,諸国民の支配者たちが人びとに対していばり,偉い者たちが人びとの上に権威をふるうことを知っています。あなたがたの間ではそうではありません。かえって,だれでもあなたがたの間で偉くなりたいと思う者はあなたがたの奉仕者でなければならず,また,だれでもあなたがたの間で第一でありたいと思う者はあなたがたの奴隷でなければなりません」。(マタイ 20:25-27)イエスはまたこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したとおりにあなたがたが互いを愛すること,これがわたしのおきてです。友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」― ヨハネ 15:12,13。
こうした愛と謙遜さを示す,王国の代理者たちのもとにあるなら,人は本当に安心感を持つのではありませんか。そうした人々は純粋な態度で各人の必要を顧みます。
王イエス・キリストの地上の代理者たちと天の政府との間に,意思の伝達に関する問題はありません。過去において,エホバ神は,み使いや見えない活動力の働きによって,地上のしもべたちに音信を伝達されました。(ダニエル 10:12-14。ペテロ第二 1:21)人間でさえ,地球のはるか上空を周回する宇宙船や宇宙ステーションと地上との間で音信のやり取りを行なえます。不完全な人間にそうした事が行なえるなら,天の完全な支配者たちにそれが不可能であるとだれが考えるべきでしょうか。
しかし,イエス・キリストとその仲間の支配者たちの王国による管理が人類を神と一致調和させる活動を始めるに先だち,すべての敵対勢力が除き去られなければなりません。今日人類を治めている者たちが,自分たちの持つ主権を,イエス・キリストおよびその仲間の支配者たちにすすんで引き渡すというきざしは少しもありません。むしろ彼らは,天の政府が地上の物事を全面的に支配する,という考えをあざ笑います。彼らがキリストによる神の王国の権威を強制的に認めさせられるのはそのためです。これは,彼らにとって,その持つ支配者としての地位また命を失う結果になるでしょう。聖書はこう述べています。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至ることのない一つの王国を建てられます。その王国は,ほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体はいつまでも定めなく保ちます」― ダニエル 2:44。
すべての敵対勢力を一掃した後,管理機関としてのこの王国は,人間を病気と死から解放する仕事に取りかかります。これはどのようにして成し遂げられるでしょうか。
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