『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
「マルコによる書」の内容(つづき)
24,25 (イ)どんな行動によってイエスは自分の持つ権威を立証しますか。(ロ)敵対する人々に対して,彼はどのような論議で答えますか。(ハ)イエスは群衆に対してどんな警告を与えますか。どんなことをほめることばを弟子たちに語りますか。
24 エルサレム市内およびその周辺におけるイエス(マルコ 11:1–15:47)記述は足速に進みます。イエスは子ろばに乗って市内に入り,人々は歓呼して彼を王として迎えます。次の日,イエスは神殿を清めます。祭司長や書士たちは彼に対して恐れを持つようになり,彼の死を探り求めます。「どんな権威であなたはこうしたことをするのか」と彼らは尋ねます。(11:28)イエスは巧みにその質問のほこ先を彼らに転じ,ぶどう園の相続人を殺した耕作人たちのたとえ話をします。彼らはその要点を知り,イエスから去って行きます。
25 ついで彼らは,税金に関する質問で彼をわなにかけようとして幾人かのパリサイ人を遣わします。デナリ貨一つを求めてイエスは尋ねます,「これはだれの像また銘刻ですか」。彼らは,「カエサルのです」と答えます。そこでイエスは言います,「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。彼らがイエスに驚嘆したのも不思議ではありません。(12:16,17)ついで,復活を信じないサドカイ人が彼をわなにかけようとして質問します。『次々に七人の夫を持った女がいる場合,復活のさい彼女はだれの妻となるのですか』。イエスは即座に彼らに答えます。死人の中からよみがえる者たちは「天にいるみ使いたちのように」なり,結婚しないのです。(12:25)「すべてのうちどのおきてが第一ですか」と書士のひとりが尋ねます。それに対してイエスは答えます,「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』」。(12:28-31)こののち,だれもあえて彼に質問しようとはしません。完全な教師としてのイエスの権威は多くの者に認められます。大群衆は喜びながら彼の教えを聴き,イエスは尊大な書士たちについて人々に警告します。そののちイエスは,神殿の納金箱に他のすべての人より多く入れたとして,貧しいやもめをほめることばを弟子たちに語ります。彼女の入れた二つの小さな硬貨は「自分の持つもの全部」であり,彼女は「その暮らしのもとをそっくり入れた」からです。―12:44。
26 長い話としてマルコが記録している唯一のものはどれですか。それはどのような勧めのことばで終わっていますか。
26 神殿をながめながらオリーブ山の上に座したイエスは,弟子のうちの四人の者だけに,これらのものの終結の「しるし」について話します。(これは,マルコの記録した長い話としては唯一のものであり,その記述はマタイ 24および25章と並行しています。)それはイエスの次の勧めのことばで結ばれています。「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます。しかし,わたしがあなたがたに言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」― 13:32,37。
27 ゲッセマネでイエスが敵対者の手に渡されるまでのできごとを述べなさい。
27 近くのベタニヤで,ひとりの女が高価な香油をイエスに注ぎます。ある者たちは,これはむだづかいであるとして抗議しますが,イエスは,ご自分の埋葬に対する準備であり,りっぱな行ないであると語ります。定めの時に,イエスと十二弟子は過ぎ越しのために市内に集まります。イエスはご自分を裏切る者がだれであるかを明らかにし,忠実な弟子たちに対して記念の夕食を制定します。そののち,一同はオリーブ山に出て行きます。その途中,イエスは,弟子たちがみなつまずくであろうと語ります。「わたしはつまずきません」とペテロが叫びます。しかしイエスは彼に語ります,「今夜,おんどりが二度鳴く前に,あなたでさえ三度わたしのことを否認するでしょう」。ゲッセマネと名づけられた所に着くと,イエスは祈りをするために引き下がり,見張っているようにと弟子たちに求めます。彼はその祈りの最高潮としてこう述べます。「アバ,父よ,あなたにはいっさいのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。でも,わたしの望むことではなく,あなたの望まれることを」。イエスは三度弟子たちのところに戻り,三度とも,「このような時」にさえ,彼らが眠っているのを見ます。(14:29,30,36,41)しかし,時が来ました! ご覧なさい! 裏切る者が来ました!
28 イエスが捕縛され,大祭司の前で裁かれた時の状況について述べなさい。
28 ユダは近づいてイエスに口づけをします。これは,祭司長たちのもとから来た武装した人々が彼を捕縛するための合図です。彼らはイエスを大祭司の家の中庭に連れて来ます。そこで多くの者が彼に敵する偽証をします。しかし,彼らの証言は一致しません。イエス自身は沈黙を守っています。最後に大祭司が彼に質問します,「あなたは祝福されたかたの子キリストか」。イエスは,「わたしはその者です」と答えます。大祭司は,『冒とくである』と叫び,すべての者は,彼を死に当たるべき者とします。(14:61-64)その時,下の中庭では,ペテロがイエスを三度否んでいました。おんどりが二度めに鳴きます。そしてペテロは,イエスのことばを思い出して泣きくずれます。
29 マルコはイエスに対する最終的な裁きと刑の執行についてどのような記録を残していますか。王国が論争点であったことがどのように示されていますか。
29 明け方になるとすぐ,サンヘドリンは協議し,イエスを縛ったままピラトのもとに送ります。ピラトはイエスが犯罪者ではないことにすぐに気づき,彼を釈放しようとします。しかし,祭司長たちに扇動された暴徒の執ような要求に屈し,ついに彼は,杭につけさせるためにイエスを引き渡します。彼はゴルゴタ(「どくろの場所」という意味)という所に連れて来られて杭につけられ,「ユダヤ人の王」と記した罪状書がその頭上に掲げられます。そばを通る者たちは彼を非難し,「ほかの者は救ったが,自分は救えないのだ!」と言います。正午(第六時)にやみが全土に垂れこめ,午後三時にまで及びます。そしてイエスは,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」と大声で叫び,そののち息を引き取られます。これらのことを見ていたひとりの士官は,「確かにこの人は神の子であった」と言います。サンヘドリンの一員ながら神の王国を信ずる者となっていた,アリマタヤのヨセフがピラトにイエスの体を請い求め,岩塊をくりぬいた墓の中にそれを横たえます。―15:26,31,34,39。
30 週の最初の日,墓ではどんなことが起きますか。
30 イエスの死後のできごと(16:1-8)週の最初の日の朝非常に早く,三人の女が墓のところに行きます。彼女たちが驚いたことに,入り口の大きな石が転がしのけてあります。墓の中に座っていた「ひとりの若者」が,イエスはよみがえらされたと告げます。イエスはもはやそこにはおらず,彼らに先だってガリラヤに行くところです。恐れとおののきに満たされた彼女たちは,逃げるようにして墓を去ります。
なぜ有益か
31 (イ)マルコはイエスがメシアであることをどのように立証していますか。(ロ)イエスが神の子としての権威を持つ者であったことを何が証明していますか。イエスは何に重点を置きましたか。
31 初期クリスチャン時代から今日に至るまで,「マルコによる書」を読む人はみな,イエス・キリストに関するこの生き生きした文章描写を通して,メシアに関するヘブライ語聖書の多くの預言がどのように成就したかを明確に見きわめることができました。「見よ,わたしはあなたの顔の前にわたしの使者を遣わす」という冒頭の引用から,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」という,杭の上でのイエスのもだえのことばにいたるまで,マルコの記した,イエスの熱心な宣教に関する記述全体は,ヘブライ語聖書の予告した事がらと一致調和しています。(マルコ 1:2; 15:34。マラキ 3:1。詩 22:1)さらに,イエスの奇跡とその驚嘆すべき業,その健全な教えと欠けたところのない論ばくのことば,エホバのことばと霊に全くより頼む態度と羊に対する優しい配慮,こうした点のすべては,彼が神の子としての権威を携えて到来した者であることをはっきり示しています。彼は「権威を持つ者のようにして」教えましたが,その権威はエホバ神から受けたものです。そして彼は,地上における自分の主要な仕事として,「神の良いたより」,すなわち,「神の王国は近づきました」というたよりを宣べ伝えることに重点を置きました。イエスの教えは,それに注意を払う人すべてに計り知れない益を与えてきました。―マルコ 1:22,14,15。
32 マルコは「神の王国」という表現を何回使っていますか。その王国を通して命を得るために導きとなる原則としてどんなことを記していますか。
32 イエスは,「あなたがたには神の王国の神聖な奥義が与えられています」と弟子たちに語りました。マルコはこの「神の王国」という表現を全部で15回使い,その王国を通して命を得ようとする人々の導きとなる原則を数多く述べています。イエスは言われました,「だれでもわたしと良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを救うのです」。命を得るために妨げとなるものはすべて除かれねばなりません。「あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです」。イエスはさらに言明されました,「だれでも,幼子のごとくに神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」,そして「お金を持つ人びとが神の王国に入るのはなんとむずかしいことなのでしょう」。またイエスは,二つの大きなおきてを守ることが全焼のささげ物と犠牲全部よりもはるかに大切であることを悟る者は『神の王国から遠くない』と言われました。これら,マルコの福音書にある,王国に関する教えは,わたしたちが自分の日常生活に当てはめることのできる多くの健全な助言を含んでいます。―マルコ 4:11; 8:35; 9:43-48; 10:13-15,23-25; 12:28-34。
33 (イ)わたしたちはマルコの福音書からどのような益を受けられますか。(ロ)マルコによる書はわたしたちにどんなことを励ますはずですか。なぜ?
33 「マルコによる」良いたより全体は一,二時間で読み通すことができ,読者はイエスの宣教について,その概要を手速くつかむことができます。しかもそこには興味と躍動があふれているのです。この霊感の記述をこうしてまっすぐに読み通すこと,また,さらに精細に研究し,その内容について熟思することは,いつの時でもきわめて有益です。マルコの福音書は,第一世紀の場合と同じように迫害されている今日のクリスチャンにとって有益なものを含んでいます。真のクリスチャンは今,「対処しにくい危機の時代」に直面しており,わたしたちの模範者イエス・キリストに関するこの記録に見いだされるような霊感の導きを必要としているからです。それを読み,そこにある劇的な動きを感じ,わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスの足跡に,彼が示したと同じ不動の喜びをいだいて従うための励みをくみ取ってください。(テモテ第二 3:1。ヘブライ 12:2)そうです,行動の人としてのイエスを見,彼の熱心さを吸収し,試練と反対の中で示されたイエスの不屈の忠誠と勇気を見習ってください。霊感による聖書の,内容豊かなこの部分から,慰めを得てください。この書に,永遠の命を追い求めるあなたに対する益を与えさせてください。