ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • イエス・キリスト ― 歴史上の人物
    ものみの塔 1975 | 7月15日
    • イエス・キリスト ― 歴史上の人物

      聖書に記録されている事柄の真偽をめぐって多くの本が書かれています。疑問視する批評家たちが特にほこ先を向けているのは,イエスの生涯を記した福音書です。わたしたちは何を信ずることができますか。イエスは実在の人ですか。間違いなくイエスは福音書に描かれているとおりの人物でしたか。

      多くの批評家の意見は,故アルバート・シュヴァイツァーが表明したものと大同小異です。彼によれば,福音書に描かれている種類の,つまりメシアであると主張し,神の王国を宣べ伝え,死んでそのわざを最終的に神聖なものにしたイエスは,「最も初期の福音書筆者の文学的な虚構」です。シュヴァイツァーがわたしたちに信じさせようとしているのは,イエスは差し迫った宇宙の滅びを宣べ伝えた狂信的な宗教家であり,「歴史上の人物として具体的に」イエスを知るのは不可能であるということです。このような結論に達したシュヴァイツァーは牧師および神学の教授の職をやめて学校にもどり,医学を修めて医師になりました。

      一部の批評家の間には,イエスという人の実在を否定する論まであります。ではイエスの実在を示すどんな証拠がありますか。

      ユダヤ人の証言

      まず,初期タルムード関係の著作から得られる証拠があります。それらを徹底的に調べた高名なユダヤ人の学者ジョゼフ・クラウスナーは,イエスに関する「初期タルムードの記述」は,『イエスの実在およびイエスのおよその人間像』を確証するものであると,報告しています。―「ナザレのイエス」,20ページ。

      また一世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスの著作は,二回ほどイエスに言及しています。その一つはヨセフスがクリスチャンであるかのような印象を与えるとの理由で,少なからず疑問視されています。(「ユダヤ古誌」第18巻3章3節)しかしクラウスナーや他の学者の指摘するように,ヨセフスはバプテストのヨハネの宣教を詳しく扱っている以上,イエスの宣教に触れなかったと考えるのは,当を得た結論ではありません。そのうえ後の巻でイエスに触れた箇所において,ヨセフスは「裁判官たちの最高法院は,キリストと呼ばれたイエスの兄弟で,ヤコブという名の者を呼び出した」と記しています。(「ユダヤ古誌」第20巻9章1節)当然にこれらの学者が考えているように,この言葉はその前にイエスについて何か述べられていることを暗示しています。さもなければ,ヤコブがだれであるかの説明に,イエスの兄弟であるということは述べないでしょう。ゆえに学者たちは次のようにみています。すなわちヨセフスは確かにイエスの宣教のことを書いたが,後代の人がその記述に手を加えたということです。

      ローマの歴史家の証言

      ローマの歴史家が,遠いパレスチナでの,明らかに小さな宗教運動について多くを語っているとは考えられません。せいぜい,それについての記述は散見されるに過ぎないことが予想され,また事実はそのとおりです。それでローマ第一の歴史家タキツスは,ネロがローマ大火の責任を「俗にクリスチャンと呼ばれる」人々に押し付けたことまた「クリスチャンの名の起こりであるクリスタスは,ティベリウスの治世に我々の行政長官の一人ポンチウス-パイレタスの手によって極刑に処せられた」と述べています。―「タキツス全集」,A・チャーチ,W・ブロッドリブ共訳,380ページ。

      ほかにも小プリニー,セネカ,ユベナルを含め,ローマの著述家の多くが,キリストの追随者のことに触れています。

      それで大英百科事典は,初期のユダヤ人および異教徒の証言に関して次のように正しく述べています。「これら別個の記述は,昔はキリスト教の反対者でさえ,イエスの史実性を疑わなかったことを証明している。これが初めて,しかも十分な根拠なしに問題とされたのは,18世紀末,19世紀および20世紀初頭においてであった」― 1974年版,第10巻145ページ。

      忘れ得ぬ記録

      イエスの史実性はこれら「別個の」記述によって証明されるだけでなく,福音書の内容自体によっても証明されます。どのようにですか。19世紀英国の有名な経済学者また哲学者のジョン・ステュアート・ミルはこう述べています。「彼の追随者たち,あるいは彼らの改宗者の中に,イエスの語ったものとされている言葉を創作し得た者がいるだろうか。福音書が明らかにしているイエスの生涯と人間像を想像し得た者がいるだろうか。ガリラヤの漁師には,到底不可能なことである」。アメリカのセオドア・パーカーも同じ点を論じています。「このような人は実在したことがなく,すべては作り話であると言うならば,プラトンやニュートンも実在しなかったと仮定してみよう。すると,だれが彼らの業績を成し遂げ,彼らの思想を生み出したのか。ニュートンを作り上げるにはニュートンが必要である。だれがイエスという人を作り得ただろうか。イエスをおいて他にはない」。

      また英国の哲学者デイビッド・ハートレイも,これと関連した,また説得力のある論議をしています。「この人物[イエス]の優れた偉大さが間接的に述べられていることを考えるならば……これを彼らの創作つまり本物が実在しなかったと考えることは不可能にみえる……人物を描くことにおいて,古今を問わず最も偉大な天才たちでさえなし得ないようなことを,無学の,卑しい人々がどうしてなし得るであろうか。彼らが間接的な描写をしているのは,どうしてだろうか。これこそ真実さを強力に証拠だてるものである」。

      彼の特異な個性

      イエス・キリストの史実性をさらに強く裏付けるとさえ言える証拠は,イエスの与える影響が彼ご自身地上におられることに依存していないという点です。ネブカデネザル,アレクサンドロス大王,ユリウス・カエサルなど,強大な力を持った支配者の影響はもはや見られません。しかしイエス・キリストが歴史に与えた影響は残っており,今日なおイエスの教えを守る人々が何百万人といます。

      ナポレオンは当時の権力者ですが,イエスが人間として及ぼした影響力の特異性を認めざるを得ませんでした。「人々に感化を与え,また命令する非凡な力がアレクサンドロス,シャルルマーニュそして私自身に与えられている。しかし我々の場合は生きていることが必要である。……しかるにイエス・キリストは目に見える形で自ら存在していないのに1,800年の間彼の民に感化を与え,また命令してきた」。また「アレクサンドロス,カエサル,シャルルマーニュそして私自身は帝国を築いた。しかし我々が自分の天分によって作り上げたものはどんな基礎によって立っているか。それは力である。愛の上に王国を建てたのはイエス・キリストだけである」。

      18世紀フランスの有名な哲学者ルソーはイエスについて次のように書きました。「イエスの格言の崇高さ! その教えの深い知恵! その答えの沈着さ,巧みさ,適切さ! 感情の完全な制御! 弱さなしに,また見せびらかすことなしに,そのように生き,そのように死ぬことのできる人がどこにいるだろうか。また哲学者がどこにいるだろうか」。

      現代の例を挙げれば,インド国民にとってヒンズー教の『父』であるマハトマ・ガンジーは,前インド総督アーウィン卿に次のように語ったことがあります。「あなたの国と私の国が山上の垂訓の中でキリストの述べた教えに基づいて話し合うならば,我々両国の問題はおろか全世界の問題が解決されていたであろう」。老練なアメリカの精神科医J・T・フイッシャーは,成功を収めた医師としての晩年に,山上の垂訓は世界の哲学者,心理学者,詩人が提供できる最善のものをはるかにしのいでいると書いています。

      イエスの奇跡についてはどうか

      福音書の中で他のどの面よりも,多くの人にとっておそらくつまずきの石となってきたのは,奇跡の記録です。奇跡が普通の出来事として述べられているならば,あるいは異論の余地があるかもしれません。しかし福音書の場合はそうではありません。福音書は,イエスが確かに神の子であることを確証する異常な出来事として奇跡を述べています。次のように記されています。「確かにイエスは,弟子たちの前でほかにも多くのしるしを行なわれたのであるが,それはこの巻き物の中には記されていない。でも,これらのことは,イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため……である」。(ヨハネ 20:30,31)イエスがご自分は神の子であることを単に主張するだけでは,確かに不十分であったでしょう。イエスはそのことを証明できなければなりませんでした。またそれをするのに奇跡を行なうよりも勝った方法があったでしょうか。

      しかし奇跡は自然界の法則に反するという論についてはどうですか。この点について,宇宙線の発見者ビクター・ヘスはかつて次のように述べました。「奇跡は自然界の『法則』の『必然性』と相いれないと,時に言われる。しかしそうではない。……物理の法則の多くは,実は統計的に述べているに過ぎない。それは非常に多くの事例の中で平均的に当てはまるものである。個々の場合には,それは意味を持たない。……科学者は奇跡が事実であることを疑わなければならないだろうか。科学者として私は否であるとはっきり答えよう。人間や自然の万物を創造した全能の神は,もしそうすることが良いと認めるならば,物事の,自然で普通の成り行きを一時,停止したり,あるいは変えたりしないであろうか。全能の神にとってそれはしごく当然であると,私は思う」― W・ホウェイ編「偉大な科学者の信仰」,10ページ。

      またイエスの奇跡の真実さを裏付けているのは,奇跡が目撃者に与えた影響です。W・ペイレー博士が述べているように,彼らは「労苦,危険,苦しみの中を生きた。彼らは自分たちの宣べ伝えた出来事の真実さのゆえに,それらの出来事を信じたというだけの理由で受けた苦しみを甘んじて受けた。また……同じ動機から,行動の新しい規則に従った」―「ウイリアム・ペイレー著作集」,300ページ。

      事実を避けることはできません。前述の証拠に照らしてみるとき,客観的かつ合理的な見方をする人はただ一つの結論に達します。すなわちナザレのイエスは実在しただけでなく,聖書に描かれたイエスの生涯の記録は,歴史上の人物であるイエスの生涯を明らかにしているということです。

  • 真理は人の生活に大きな変化をもたらす
    ものみの塔 1975 | 7月15日
    • 真理は人の生活に大きな変化をもたらす

      「インドでも,偽りの宗教の教えにひたっていた人たちが真理に接して,生活に大きな変化をもたらしています。ヒンズー教のある宗派の信者は,男根崇拝の象徴物を首にさげています。その派のある神殿のプージャリ(司祭)が証言を受け,『真理』の本を求めて読み,その内容に深い感銘を受け,ほどなくして聖書研究に応じました。その結果は実に興味深いもので,その人と家族はともに男根崇拝の象徴物をからだから取り去り,ヒンズー教の神話の偶像や宗教画を家から一掃し,今では王国会館の集会に出席しています」。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする