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    目ざめよ! 1975 | 7月22日
    • 繁盛する競売業

      ◆ 経済状態が悪くなると,競売人の景気がよくなる。倒産する企業が増えるので,その結果競売の必要が増大する。同様に,安い物をあさるためにしばしば競売に足を運ぶ人は増えている。米国セントルイスのアメリカ競売人協会の会長はこう述べた。「時代が良ければ食べて行けるが,時代が悪ければ金持ちになれると競売学校で教えられた」。

      水の“代用品”

      ◆ 中世ヨーロッパにおけるビールの年間消費量は,伝えられるところによると,一人当たり平均106ガロン(約400リットル)であった,とマシン・デザイン誌は述べている。それは,真水その他の飲み物が入手困難で高価であったためだと言われている。今日,ドイツ人が一年間に飲み干す量はわずか35ガロン(約130リットル)ほどであり,アメリカ人が飲むのは19ガロン(約70リットル)を少し上回る程度である。

      乱暴なスポーツ

      ◆ アイス・ホッケーは乱暴なスポーツだろうか。それとも過敏な観察者の目にそう映るだけなのだろうか。次の事実を考慮してみるとよい。1973年にはアイス・ホッケーのゲームに関連して約3万人が重傷を負った。昨年はどうだっただろうか。その数は35%以上も増加し,4万1,000人になった。負傷した人の中には選手とファンの両方が含まれていた。重傷を負った人の中には,ホッケーの試合後のけんかの結果,けがをした人が少なくない。

      しっと心を除く

      ◆ ある人々は,結婚せずに“同棲”したり,配偶者同士が互いに相手の性の自由を認める“自由な結婚”を行なったりするならわしは,しっと心を除くことになると論じてきた。果たしてそうであろうか。著名な一家庭社会学者は,「自由な結婚はしっと心を経験する人の数を増加させている」と断言した。著述家ノーマン・ロブセンツはレッドブック誌上で,自分の研究が同じようなことを明らかにしたとして,同棲している未婚の男女は,彼らが「いつなんどきしっと心を起こすかもしれないという不安に非常に悩まされている」と述べた。聖書の高い道徳基準をわきに押しやることによって良い結果は決してもたらされない。

      増大する積荷泥棒

      ◆ 積荷泥棒が今までにないほど流行している。米国の上院議員アラン・バイブルは最近,次のように述べた。「トラックを襲う昨今の積荷泥棒は,銀行を襲って得るお金の10倍ものかせぎを上げている。満載のトラックを襲うと,平均4万7,000ドル(約1,410万円)のお金になるが,普通の銀行強盗は一回につき4,500ドル(約135万円)を得るだけである」。同上院議員は,積荷泥棒を10億ドルの犯罪と呼んでいる。積荷泥棒の腕前もいよいよ熟達してきている。一つの事例では,午後4時30分に乗っ取られたコーヒーの積荷が,5時15分にはすでにスーパーマーケットに出回っていた。ニューヨーク市警察の当局者によると,同市内で売られている紙巻きたばこ全体の20%は盗品である。

      たばこの害

      ◆ 最近,英国の医学刊行誌ランセットに報告されたイスラエルのある研究結果から,たばこを吸う母親から生まれる赤ちゃんが入院するひん度は,たばこを吸わない人から生まれる赤ちゃんよりも20%も多いことがわかった。そうした乳児が気管支炎や肺炎にかかる可能性は38%も高かった。一酸化炭素が,たばこを吸う人の子どもの運動神経や感覚機能に影響を及ぼすことは,そうした子どもの事故を起こす率が150%も高いことからも明らかである。また,アメリカでのある新しい研究結果によると,喫煙が原因で生じる危険性のある病気としてガンや心臓発作に加えて卒中も考えられることが分かった。45歳から54歳までの人で一日一箱たばこを吸う人は,卒中に襲われる危険が吸わない人の6倍も大きいことを同研究結果は示している。

  • 聖書の第66番めの本 ― ヨハネへの啓示
    目ざめよ! 1975 | 7月22日
    • 『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』

      聖書の第66番めの本 ― ヨハネへの啓示

      筆者: 使徒ヨハネ

      書かれた場所: パトモス

      書き終えられた時期: 西暦96年ごろ

      含まれている時代: 確定できない

      1 (イ)啓示の書にある象徴的表現について,神のしもべたちはどんな点に同意しますか。(ロ)この書が聖書の最後に置かれているのはなぜふさわしいことですか。

      ヨハネへの啓示にある数々の象徴的表現は読む人を恐れさせるためですか。決してそうではありません。その預言の成就は,邪悪な者には恐怖となるかもしれませんが,神の忠実なしもべたちは,霊感によるその書き出しのことばと,終わりの部分にあるみ使いの注解に同意するでしょう。こう記されています。「この預言のことばを朗読する者,またそれを聞き,その中に書かれている事がらを守り行なう者たちは幸いである」。「この巻き物の預言のことばを守り行なう者は幸いである」。(啓示 1:3; 22:7)「啓示」はヨハネの手になる他の四つの霊感の書よりも前に書かれましたが,聖書を構成する66冊の霊感の書をまとめるさい,これをその最後に置くのはいかにも適切なことです。この書は,人類に対する神の目的について包括的な幻を与え,王国の胤によってエホバのみ名を神聖なものにするという聖書の主題に関しその輝かしい最高潮を示して,読者をずっと先の時代にまで導き入れているからです。

      2 この啓示はどのような経路でヨハネに与えられましたか。なぜこの書の表題はきわめて適切なものですか。

      2 標題となっている最初の節によると,これは「イエス・キリストによる啓示」であり,それは「神が彼に与えたもの」です。そして「彼は自分の使いを送り,その使いを通して,しるしによりそれを自分の奴隷ヨハネに示し」ました。したがって,ヨハネは単なる筆者にすぎず,その内容の本源となった者ではありません。それゆえ,ヨハネはその啓示者ではなく,またその書もヨハネの啓示を記したものではありまん。(啓示 1:1)これは,将来に対する神の驚嘆すべき目的を神の奴隷に明らかにしたものであり,この書に与えられた表題はきわめて適切です。この書のギリシャ語名アポカリュプシスには「覆いをはずす,隠されていたものを明らかにする」という意味があります。

      3 啓示の書そのものはこの書の筆者がだれであることを示していますか。古代の歴史家たちはこの点をどのように支持していますか。

      3 第一章でこの「啓示」の筆者とされているヨハネとはだれのことですか。このヨハネはイエス・キリストの奴隷,患難にともにあずかる兄弟で,パトモス島に流刑になっていた者であることが述べられています。明らかにこのヨハネは,その書の最初の読者たちによく知られた人でした。その人々にとって,このヨハネがだれであるか,それ以上の説明は必要でなかったのです。これは使徒ヨハネであったに違いありません。この結論は古代の大方の歴史家たちによって支持されています。二世紀の初めに著述活動をしたパピアスは,この書を使徒の手になるものとみなしていました。殉教者ユスティヌスは二世紀の半ばに次のように述べました。「わたしたちの仲間の一人で,ヨハネという者,キリストの使徒の一人は,自分に与えられた啓示の中で,唯一のキリストを信ずる者たちが[新しい]エルサレムで千年間生きることを預言した」。イレナエウスは,使徒ヨハネがその筆者であることをはっきり述べており,アレクサンドリアのクレメンス,またテルツリアヌスも同じことを認めています。これらはみな二世紀末の人です。三世紀の著名な聖書学者であるオリゲネスはこう語りました。「イエスの胸によりかかったヨハネはわたしたちに一つの福音書を残したが,また黙示録をも記した」。彼は,このヨハネが「ゼベダイの子」であること,また「真理のことばについてこの証言をしたためにパトモス島に流罪にされた」ことについて述べています。a

      4 ヨハネの記した他の書物に比べて,啓示の書の文体がやや異なっていることをどのように説明できますか。

      4 ヨハネの記した他の書物の中では愛に大きな重点が置かれていますが,これは,きわめて力強く,躍動に富む啓示の書を彼が記したことを否定するものではありません。ヨハネおよびその兄弟ヤコブは,ある都市のサマリア人に対して非常な憤りに満たされ,その人々の上に天からの火を呼び求めようとしたほどでした。この二人が「ボアネルゲス」つまり「雷の子ら」という異名を与えられたのはそのためです。(マルコ 3:17。ルカ 9:54)「啓示」の中では扱う主題が異なっているのであり,この点を銘記すれば,スタイルの違いは問題にならないはずです。ヨハネがこの幻の中で見たものは,彼がそれまでに見たいかなるものとも異なっていました。

      5 「ヨハネへの啓示」が霊感による聖書の一部として典拠の正しいものであることをどんな事実が証明していますか。

      5 啓示の書の典拠性に関して,ヘースティングの「聖書辞典」,1902年版,第四巻,240ページはこう述べています。「新約[クリスチャン・ギリシャ語聖書]の中で,第二世紀にこれほどの証言を与えられている書はまずほかにない」。この書は,文章のスタイル,文法的構成,また教理という面で著しいまでの一致を見せています。また,聖書の預言的な部分との際だった調和は,この書が神の霊感によることばの一部として典拠の正しいものであることを疑問の余地なく証明しています。

      6 ヨハネが啓示を記したのはいつですか。どのような状況のもとで?

      6 最古の証言によると,ヨハネは,エルサレムの滅亡の約26年後,西暦96年ごろに啓示の書を記しました。それはドミチアヌス帝の治世の終わり近くです。この点の立証として,イレナエウスは黙示録についてこう述べています。「それが登場したのはそれほど前のことではなく,ほとんど我々の時代,ドミチアヌスの治世の終わり近くである」。メリト,アレクサンドリアのクレメンス,エウセビオス,ジェロームなどは皆,上記の証言に同意しています。b ドミチアヌスは,ローマ軍を率いてエルサレムを滅ぼしたティツスの弟でした。彼はティツスの死に続いて帝位に就きましたが,それは啓示の書が書かれる15年前でした。ドミチアヌスは,神として自分を崇拝することを要求し,ドミヌス・アク・デウス・ノステル(「我らが主にして神」の意)の称号を自らに冠しました。偽りの神々を崇拝していた人々にとって皇帝崇拝はなんの問題もきたしませんでしたが,初期クリスチャンたちはこれを,行なってはならないこととみなし,この点で自分たちの信仰を妥協させることを拒みました。c そのため,ドミチアヌスの治世の終わりごろ,激しい迫害がクリスチャンに臨み,その結果としてヨハネはパトモス島に流されました。西暦96年,ドミチアヌスは暗殺され,彼より寛容なネルヴァが帝位を継ぎ,ヨハネは流刑を解かれました。ヨハネが自分の書き記した幻を与えられたのは,パトモス島に幽閉されている間のことでした。

      7 わたしたちは啓示の書をどのようにみなすべきですか。これは四つのどんな部分に分けることができますか。

      7 ヨハネが見,諸会衆に書き送るようにと告げられた事がらは,無関係な幾つかの幻をとりとめもなく書き記したものではありません。わたしたちはこの点を認識すべきです。啓示の書の始めから終わりまで,その全体は,来たるべき事がらに関する一貫した描写であり,一つの幻から他の幻へ移行しつつ,やがてそれらの幻が終わるまでに,神の王国に関する目的の全容が明らかにされているのです。それゆえわたしたちは啓示の書の全体を見,その各部が相互に関連と調和を保ちながら,読者をヨハネの時代よりずっと将来に運び入れるものであることを知らなければなりません。この書は次の四つの部分に分けられます。(1)前書き(1:1-9);(2)七つの会衆に対する音信(1:10–3:22);(3)来たるべき事がらに関する幻(4:1–22:7);(4)結び(22:8-21)。

      ヨハネへの啓示の内容

      8 ヨハネはこの啓示の由来についてなんと述べますか。彼は七つの会衆とどんなものを共にしていると述べていますか。

      8 前書き(1:1-9)ヨハネは,この啓示がみ使いを通して神から与えられたものであることを説明し,ついで,アジア地区の七つの会衆に対して語りかけます。イエス・キリストは彼らを「ご自分の神また父」すなわち全能者なるエホバ神に対して「王国とし,祭司とし(た)」のです。ヨハネは,自分がパトモスに流され,「イエスとともになって患難と王国と忍耐を」彼らと「分け合う者である」ことを銘記させます。―1:6,9。

      9 (イ)ヨハネは何を行なうように指示されますか。(ロ)彼は燭台の中央にだれを見ますか。その者は何について説明しますか。

      9 七つの会衆に対する音信(1:10–3:22)霊感によって,ヨハネは,自分が主の日にいるのを見ます。ラッパの音のような強い声が,その見る事がらを巻き物に書き,エフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアの七つの会衆にそれを送るようにと告げます。その声のほうを向くと,七つの燭台の中央に「人の子のような者」が見えます。その右手には七つの星があります。その者は,自分が「最初であり最後であ(る者)」,一たび死んだが今やかぎりなく永久に生きる者,また死とハデスの鍵を持つ者であることを述べます。それゆえ,これは復活したイエス・キリストです。イエスはこう説明します。「七つの星は七つの会衆の使いたちを表わし,七つの燭台は七つの会衆を表わしている」― 1:13,17,20。

      10 エフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラの会衆に,それぞれどんな賞賛のことば,また助言が与えられますか。

      10 ヨハネはエフェソスの会衆の使いに書き送るようにと告げられます。その会衆は,多くの労苦と忍耐,また悪人たちと歩みを共にすることを拒んだ記録を持つにもかかわらず,その最初の愛を離れましたから,悔い改めて以前の行ないをすべきです。スミルナにある会衆に対しては,患難と貧しさの中にあっても実際には富んでいるのであるから,恐れてはならない,と告げられます。「忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば,命の冠をあなたに与えよう」。ペルガモンの会衆は「サタンの座のある所」にありますが,キリストの名をしっかり守りつづけています。しかし,その会衆のただ中に背教者たちがいます。それらの者は悔い改めなければなりません。でなければ剣に処せられることになるでしょう。テアテラの会衆は「愛と信仰と奉仕と忍耐」を保持していますが,それでも「かの女イゼベル」を容認しています。しかし,良いことをしっかりと守り通す忠実な者は「諸国民に対する権威」を受けることになります。―2:10,13,19,20,26。

      11 サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアの会衆にそれぞれどんな音信が送られますか。

      11 サルデスの会衆は,生きているとの名を持ちながら,その行ないが神の前で十分になされていないゆえに死んだものとなっています。しかし,征服する者たちは,命の書から自分の名を消されることはありません。フィラデルフィアの会衆はキリストのことばを守ってきました。それゆえ,イエスは,その会衆を,「人の住む地全体に臨もうとしている試みの時から守る」ことを約束します。征服する者,イエスはその者を自分の神の神殿の柱とし,自分の神の名と,自分の神の都市つまり「新しいエルサレム」の名をその者の上に書きます。キリストは,自分のことを「神による創造の初め」と呼んだ後,ラオデキアの会衆に対し,その会衆が熱くも冷たくもないゆえに自分の口から吐き出そうとしていることを告げます。富んでいると誇りながら,彼らは実際には貧しく,盲目で,裸の者となっています。彼らには白い外衣が必要です。また,見えるようになるために目薬も必要です。キリストに対して戸を開く者がいれば,キリストはその者のところに来て晩さんを共にします。征服する者に対し,キリストは,自分の座にともにすわることを許します。キリスト自身,み父の座に,み父とともに座ったのと同じようにです。―3:10,12,14。

      (この続きは次号に載せられます)

      [脚注]

      a アルバート・バーンズ著「黙示録注釈」,1852年,14ページ。

      b アルバート・バーンズ著「黙示録注釈」1852年,15-17ページ。

      c A・T・ロバートソン著「新約聖書におけることばによる描写」,1933年,第六巻,271,272ページ。

  • 真の更生
    目ざめよ! 1975 | 7月22日
    • 真の更生

      ◆ USニューズ・アンド・ワールド・リポート誌は最近,議論の的になっている考え方として,囚人を釈放する前に社会で“試験的に生活させる”ための“休暇を与える”という問題を論じた。そのような囚人の一人で,無期懲役刑に服しているある囚人に関して,同誌はこう述べている。「[その囚人は]良い記録を残したため……数え切れないほどしばしば休暇を与えられた」。その囚人が「良い記録」を残すのに何が寄与したのだろうか。その記事は,彼が「敬虔なエホバの証人になった」ことに注目している。

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