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  • 神のもとに帰る霊
    今ある命がすべてですか
    • が支配しておられるという意味で,それは神のもとに帰っています。死んだその人に再び霊つまり生命力を得させるかどうかは神の決定にかかっています。

      しかし,これは死後の生命の可能性をすべて否定するものですか。ほかにも考えるべき点がありませんか。

      生まれ変わりや再生についてはどうか

      キリスト教もキリスト教以外の宗教も含め,さまざまな宗派の幾百万の人々は,人間には現在の命を得る以前の存在があった,そして人は死んだ後にも生き続ける,と信じています。そうした概念も人によって大いに異なってはいますが,それでも,そうした人々は,人間のある部分が別の体で生まれ変わるもしくは再生する,という信条を共通に抱いています。

      生まれ変わりに対する信仰を言い表わす一つの論議として,「仏教便覧」と題する本はこう述べています。「わたしたちは時おり,生まれ変わりということによってしか説明できない奇妙な経験をする。以前に一度も会ったことがないのに,わたしたちの内面の意識では非常になじみ深く感じられるような人に出会うことが何度あることだろう。どこかの土地を訪ね,自分がその周囲の環境に十分に通じているような印象を受けることが何度あることだろう」。

      あなたもそのような経験をしたことがありますか。だれかと初めて会った後,その人をずっと以前から知っているように感じることがありますか。どうしてそうした経験をするのでしょうか。

      人には似たところが多くあります。おそらく,少し考えた後に,その人があなたの親族や友人とよく似た性格や体の特徴を持っていることに,あなたが気付いたのでしょう。

      同様に,あなたはある特別の都市に住んだりその写真を見たことがあるかもしれません。そして,どこか別の都市を訪ねたさい,幾つか似た点に気付いて,全く不慣れな新しい環境にいるようには感じない,という場合もあります。

      したがって,初めて会った人や行った場所についてなじみ深い印象を持つのは,何か過去の生命の結果ではなく,現在の生命におけるいろいろな経験の結果である,と見るのが道理にかなっていませんか。実際のところ,すべての人に本当に過去の存在があったのであれば,すべての人がそのことに気付いているはずではありませんか。以前の生命についてなんの意識も観念も持たない人が幾百幾千万人もいるのはどうしてですか。さらに,自分の過去の生命について思い出すことさえできないのであれば,人はどうして以前の生命での過ちを避けることができますか。そのような以前の生命にどんな益があるでしょうか。

      『以前の存在について細かな点を知っていたら人生は重苦しくなる』と説明する人もいるでしょう。モハンダス・K・ガンジーもそのような見方をしてこう語りました。「我々が過去の幾度もの出生について覚えていないのは自然の慈しみである。自分がこれまでに経た数えきれない出生について細かな事を知っているからと言ってなんの益があろう。そうした膨大量の記憶を携えているとしたら,我々の人生は重苦しいものとなるであろう。賢い人は多くの事をあえて忘れようとする。弁護士が,決着した事件についてすぐにその詳細事項を忘れてしまうのと同じである」。これは興味深い説明です。しかし,確かな根拠に基づいていますか。

      自分が経験した事柄について思い出すわたしたちの能力は確かに限られたものですが,そうした事柄に関するわたしたちの記憶は全く空白ではありません。弁護士は自分の担当した事件のごく詳細な事柄は忘れてしまうかもしれませんが,それを扱うことによって得た経験はその人の知識の蓄えの中に入ります。実際すべての事を全く忘れてしまったとすれば,それはその人にとって大きな損失となるでしょう。また,人にとって大きな障害となるのは,記憶力の貧弱さですか,それとも記憶力の良さですか。自分の知識や経験の蓄えをよく活用できる老人のほうが,ほとんどすべての事を忘れてしまった老人よりずっと良いのではありませんか。

      実際のところ,以前の存在のさいにすでに学んだ事柄をもう一度始めから学び直さねばならないということにどんな「慈しみ」があるでしょうか。十年ごとに,それまでの人生で知ったほとんどすべての事を忘れ,新たに言語を学んで知識と経験の蓄えを築き直し,次いでまたそれを全く失わねばならないとしたら,あなたはそれを「自然の慈しみ」と呼びますか。それは全くむだなことではありませんか。それは進歩のための妨げではありませんか。では,なぜそうした事が70年か80年ごとに起きると想像するのでしょうか。愛の神がそうした生まれ変わりを,人類に対するご自分の目的の一部にされた,と特に言うことができますか。

      生まれ変わりの教理を受け入れる人々の中には,悪い生活をしている者たちは今より低い階級の者あるいは昆虫や鳥や獣として生まれ変わる,と信じている人が多くいます。では,暴力や犯罪がかつてない規模で増大しているこの時代に人間の人口爆発が大々的に生じているのはなぜですか。また,最下層の階級とされる人々さえ教育の機会を与えられれば他より秀でるようになるのはどうしてですか。一例として,1273年10月26日付ニューヨーク・タイムズは,インド,カリパシムの学校で,低い階級の16歳の少女が最もそう明な生徒であったことを伝えました。彼女はいちばん上の階級バラモンの少女より利発でした。これはどのように説明されるのでしょうか。生まれ変わりや再生の教理はこうした点について満足な説明を提出できないのではありませんか。

      こうした教えが生み出したものについても考えてください。それは多くの人の生活から尊厳を奪い,人々に貧弱な条件下での卑しい労働を強い,教育によって境遇を向上させる機会を否定してきたのではありませんか。

      聖書は生まれ変わりを教えているか

      論理的に推論を進めてゆくと生まれ変わりの可能性は必ずしも否定されない,と論ずる人もいます。そうした人々は,前述の論議に対して次のように答えるでしょう。『聖書でさえ生まれ変わりを教えている。人間が十分に説明できない事柄はいろいろあり,これはその一つである』。

      生まれ変わりを信ずる人々は聖書を引き合いに出していますから,わたしたちは聖書が実際になんと述べているかを考えてみるべきでしょう。聖書の中に,生まれ変わりを信ずるどんな根拠があるのでしょうか。「仏教とは何か」という本はこう答えます。「クリスチャンの読者に特に指摘したいのは,[生まれ変わりの教理]が,今日残存しているキリストの教えの断片の中に明瞭に示されている点である。その例として,キリストがバプテストのヨハネ,エレミヤ,もしくはエリヤであったという一般のうわさについて考えるとよい。(マタイ 16:13-16)ヘロデでさえ,キリストは『バプテスト・ヨハネのよみがえり』と考えていたようである」。

      こうした論議についてなんと言えばよいですか。イエス・キリスト自身が,自分はバプテストのヨハネ,もしくはエレミヤ,エリヤであると唱えましたか。いいえ,そうした主張は,イエスをその真の姿で,つまり約束のメシア,キリストとして受け入れなかった人々によってなされたものでした。イエスがバプテストのヨハネと同じ人であったはずはありません。約30歳の時,少し年下のイエスが少し年上のヨハネからバプテスマを受けたからです。(マタイ 3:13-17。ルカ 3:21-23)王ヘロデは,ヨハネを処刑した極度の良心上のかしゃくのゆえに,イエスはヨハネがよみがえった姿であろうという,理屈に合わない結論を抱くようになったのです。

      しかし,イエス・キリストの明確な言葉で,生まれ変わりや再生の教えを裏付けるとみなされるものがあるのではないでしょうか。はい,そうしたものが一つあります。ある時,イエス・キリストは,バプテストのヨハネと古代のヘブライ人預言者エリヤとを結び付けて,こう語りました。「エリヤはすでに来たのですが,人びとは彼を見分けず,自分たちの望むことを彼に対して行な(いました)」。そして,「このとき弟子たちは,彼がバプテストのヨハネについて語られたのだということに気づいた」と記されています。(マタイ 17:12,13)「エリヤはすでに来た」と述べたイエスは,バプテストのヨハネはエリヤの生まれ変わりである,という意味で言われたのですか。

      この問いの答えは,聖書全体がなんと述べているかに基づいて決定されねばなりません。イエスの地上宣教当時,多くのユダヤ人は,確かにエリヤが文字どおりの意味でもう一度やって来ると考えていました。そして,マラキの預言は,エホバ神が預言者エリヤを遣わす時のことについて述べていました。(マラキ 4:5)しかし,バプテストのヨハネ自身は,自分をエリヤそのもの,もしくはこのヘブライ人預言者の再生とはみなしていませんでした。ある時,幾人かのユダヤ人は,「あなたはエリヤですか」と彼に尋ねました。それに対して,ヨハネは,「そうではありません」と答えました。(ヨハネ 1:21)しかし,ヨハネについては,「エリヤの霊と力とをもって」メシアの前に道を備えるであろう,ということが予告されていました。(ルカ 1:17)したがって,バプテストのヨハネとエリヤを結び付けたイエスは,昔のエリヤと同じような仕事をしたヨハネに預言がいかに成就したかを示したのです。

      再生を信ずる人々が持ち出すもう一つの聖句は,ローマ 9章11-13節です。「[エサウとヤコブ]がまだ生まれておらず,良いこともいとうべきことも行なっていなかった時に,選びに関する神の志が,業にではなく,召されるかたに引き続き依存するため,[リベカ]に,『年上のほうは年下のほうの奴隷になる』と言われたのです。『わたしはヤコブを愛し,エサウを憎んだ』と[マラキ 1章2,3節に]書かれているとおりです」。この句は,神の選びが,リベカから生まれる以前のヤコブとエサウの行状に基づいていたことを示しているのではありませんか。

      どうかもう一度読んでください。神の選びが,どちらの者も善も悪も行なわないうちになされたという点が特にはっきり述べられていることに注意してください。ゆえに,神の選びは,何か以前の生命における過去の業に依存していたのではありません。

      では,神は,何に基づいてそれら男の子の誕生以前に選びをなし得たのですか。聖書は,神が胎児を見ておられること,それゆえに,人間の遺伝的な組立てをその誕生以前から知っておられることを示しています。(詩 139:16)その予知力を行使することによって,神は,それら二人の男の子の基本的な気質や個性をあらかじめ見きわめ,それによって,どちらの者がより大きな祝福に値するかを判別することができました。それら二人の男の子が実際に示した歩みは,神の選びの賢さを確証するものとなりました。ヤコブは神の約束に対する霊的な関心と信仰を示しましたが,エサウは物質中心的な性向と,神聖な物事に対する認識の不足をはっきり示しました。―ヘブライ 11:21; 12:16,17。

      神が「ヤコブを愛し,エサウを憎んだ」というマラキの言葉を使徒パウロは引用していますが,この言葉も,二人の遺伝的な組立てに基づくエホバの見方について述べるものです。この言葉は,マラキにより,二人の生涯が終わった幾世紀も後に記録されましたが,これら二人の男の子について神がその誕生以前に示した事柄の正しさを確認するものとなりました。

      イエスの弟子たちが提出した問いも,再生の裏付けとしてときに持ち出されます。ある生まれつきの盲人について,弟子たちはこう尋ねました。「この人がめくらに生まれついたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」。(ヨハネ 9:2)この問いの言葉は,この人に以前の存在があったことを示しているのではありませんか。

      そうではありません。イエス・キリストは,母親の胎内で成長していた時のその子供が誕生以前に自ら罪をおかしていた,というようなことは示していません。イエスはこう語りました。「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかに示されるためだったのです」。(ヨハネ 9:3)つまり,この人の盲目など,人間の不完全さと欠陥は,奇跡的ないやしという形で神のみ業が表明される機会になった,という意味でした。生まれつき盲目の人がいなかったとすれば,人は,そうした人に視力を得させる神の力を知るようにはならなかったでしょう。エホバ神は罪ある人類の存在を許されましたが,ご自身が人間のために何を行ないうるかを示すために,人の不完全さや欠陥を用いることもされました。

      こうして,ある人にとって生まれ変わりの概念を裏付けるように思える聖書の章句があるかもしれませんが,詳しく調べてみると,そうではないことが判明します。事実,聖書のどこにも,体が死んだ後になお残る魂,霊,その他の生まれ変わりや再生について述べているところはありません。ただ,生まれ変わりや再生の教えを聖書の中に『読み込もう』とした人たちがいるのです。それは聖書の教理ではありません。

      死のさいに体を離れる魂や霊の形で意識ある存在が継続することはありません。聖書はその点を明瞭に示しています。最初の人間に対し,その不従順のゆえに死の宣告をした時,神はその前に生まれ変わりや再生の見込みは置きませんでした。アダムはこう告げられたのです。「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る。あなたはそれから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。(創世 3:19)そうです,人間は生命のない土の塵に戻るように定められたのです。

      では,わたしたちは,今ある命がすべてであると理解すべきなのですか。それとも,何かほかの方法で備えられる将来の命があるのでしょうか。そうした備えのために,生きている人々が死んだ人たちを助けることが必要ですか。あるいは,生きている人々は死んだ人をもはや全く助けられないでしょうか。

  • 死者はあなたの助けを必要としていますか
    今ある命がすべてですか
    • 第7章

      死者はあなたの助けを必要としていますか

      「生けるごとくに死者に仕うるは真の孝心の実践なり」。これは中国の古い格言です。死者がどこか別の世界に本当に存在し,地上に残っている人々の奉仕から益を受けることができるのであれば,そうした死者に関心を払うのは愛のあることと言えるでしょう。

      言うまでもなく,多くの人は昔からのしきたりにただ従っているのであり,死後の存在に対する確たる信念を抱いているのではありません。しかし,死者には助けが必要である,ということを確信している人たちもいます。

      アジアの大部分およびアフリカの多くの土地の幾百幾千万の人々は,死んだ先祖に終生忠順を尽くしてゆかねばならない,と信じています。そうした人々は,故人となった親族の名を記した板の前で香をたき,祈りをし,花を飾り,食べ物を供えたり

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