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第2部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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で奉仕するため,特別なしもべたちが協会の本部から派遣されました。地帯のわざは1938年10月1日から始まり,1941年11月いっぱいまで続けられました。
クリスチャンたちが地帯のわざにどのように反応したかについて,エドガー・C・ケネディはこう語っています。「彼らは強い精神を持っていて,わたしたちの訪問に対する感謝を暖かく表わしてくれました。会(会衆)はどこも小さかったのですが,そこには活発なふんい気が見られました。会が神権的な指示を喜んで受け入れ,真理を愛し,群れの奉仕と模範研究を伴うわざに応じたので,成長のきざしが見えはじめつつありました。新しい会がいくつか形成されるようになりました」。
「救いはエホバにあり」
その頃エホバの証人は激しい迫害の的となっていましたから,強いクリスチャンの組織がぜひとも必要でした。迫害が強くなり始めたのは1935年のことです。その年の6月3日,月曜日に首都ワシントンでの大会においてラザフォード兄弟は学童の国旗敬礼に関する質問に答えました。彼は,地的な象徴を敬礼してそれに救いを帰することは神に対して不忠実な行為であり,自分は国旗を敬礼しないと大会の聴衆に話しました。
H・L・フィルブリクの話では,ラザフォードの解答は「いく人かの若い人に聞かれたに違いありません。というのは,その年の秋に学校が始まると,突然,ボストンの新聞の見出しに,マサチューセッツ州リンに住むある少年が新学期の初めに学校で国旗敬礼を拒否したことが出たのです。その少年の名前はカールトン・ニコルスでした。同じ日,マサチューセッツ州のサドベリの学校でバーバラ・メレディスという少女も同様の立場を取りました」。しかし,彼女の担任の教師は寛容でそれを問題にしなかったため,少女のことは新聞で取り上げられませんでした。
幼いカールトン・B・ニコルス2世が国旗に敬礼することを拒否したのは1935年9月20日でした。その事件はアメリカ全土で公表されました。連合通信社はものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードに近づき,その件に関するエホバの証人の見解について公式の声明を求めました。声明は与えられましたが,新聞社はそれを発表することを拒否しました。そこでラザフォードは1935年10月6日の全国放送を通して,「国旗敬礼」という主題の話をしました。その講演は「忠節」と題する32ページの小冊子の形で出版され,何百万部も配布されました。新聞社に対するその解答の中で,ラザフォードは,エホバの証人は国旗を尊重するが,聖書的な義務と神との関係からどんな偶像に対しても絶対に敬礼できないことを示しました。エホバのしもべにとって,それは十戒中に述べられている諸原則に反する崇拝行為となります。(出エジプト 20:4-6)その解答はさらに,主としてクリスチャンの両親は子どもを教える責任を持っており,子どもたちは聖書に対する両親の理解と認識に従って真理を教えられねばならないことも示していました。
多くの学校職員は寛大でしたが,他の人々は専横な振舞いをして,国旗敬礼拒否を理由にエホバの証人の子どもたちを放校処分に付しました。その一例として,1935年11月6日に,エホバの証人の子どもふたりはペンシルバニア州マイナースビルの公立学校からこの理由で放校処分を受けました。ふたりの父親であるウォールター・ゴビティスは,マイナースビル学区の教育局を相手取って訴訟を起こしました。訴訟はペンシルバニア州東部地区の合衆国地区裁判所で始められ,エホバの証人に有利な判決が下されました。その判決に対して異議が申し立てられましたが,証人は巡回上訴裁判所でも有利な判決を勝ち得ました。しかし,事件は次に合衆国最高裁判所に持ち込まれました。1940年6月,同裁判所は8対1で有利な判決をくつがえし,悲惨な結果をもたらしました。
ひとつの場所から他の場所へと各地で,国旗敬礼に対する聖書的な立場のためにクリスチャンは迫害されました。たとえば,1940年6月20日に,数名の警官を交えた暴徒はメリーランド州ロックビルで聖書の集会を開いていたエホバの証人を攻撃しました。暴徒の指導者は,王国会館に押し入ると国旗を掲げて,「アメリカ時間で2分を与えるから国旗に敬礼しろ。さもないと虐殺だ」と言いました。ソティール・K・バッシルはその時の模様をこう伝えています。「1分ほど沈黙がありましたが,突然,集会に初めて来た男の人が恐怖にかられて飛び上がるなり,国旗に敬礼して出て行きました。……他のだれも国旗に敬礼しませんでした。2分たつと,指導者はわたしが手にしていた物を全部たたき落とし,いす,その他『なにもかもばらしてしまえ』と暴徒に命じたため,調度品が飛びはじめました。腰にピストルを付けたふたりの警官が彼らに混じっていたので,わたしはふたりのところへ行って何とかしてもらえないかと頼みました。ふたりは口さえきかず,暴徒を止める何らかの行動を取る様子すらありませんでした」。事態は悪化して行きました。バッシル兄弟の話は続きます。「暴徒は悪鬼の一味のように振舞い始め,わたしたちを押したり突いたりして会館から出しました。そして,『やつらはナチだ。殺せ。殺せ』と叫び続けていました。会館にいた子どもの中の数人が泣き始めると,暴徒のある者は『あのがきどもを窓からほうり出してしまえ』と叫びました。彼らはわたしたちを建物から街路へと文字通りけちらかし,次には『町から追い払うんだ。町から追い払うんだ』とわめいていました」。
その後,暴徒を逃れたバッシル兄弟は,地帯のしもべのチャールズ・エバールに会いました。エバールはただちにその事件を合衆国法務長官に報告しました。連邦調査局は翌日事情を調べ始め,ついに,事は法廷に持ち出されました。バッシル兄弟はこう語っています。「裁判はわたしたちに有利な結果となってエホバに栄光が帰されました。その後,ロックビル町区はわたしたちの集会のつど王国会館を警備する警官を配置してくれたので,再びそうした事件が起こることはありませんでした。わたしたちの新たに作られた会衆と王国会館を滅ぼすためのサタンの手だてはその時失敗したのです。―イザヤ 54:17」。
この話はひとつの例に過ぎません。他にも多くの事件がありました。たとえば,インディアナ州コンネースビルでは,証人たちの弁護士が打ちたたかれて町から追い出されました。神のしもべたちはそうした激しい迫害に忍耐を示し続けました。なぜなら,彼らは聖書に堅く付き従い,敵や危険からの救いと釈放が国家からではなく神からもたらされることを勇敢に主張したからです。確かに,『救いはエホバにあり』ます。―詩 3:8。アメリカ標準訳(英文)と比較してください。
王国学校
学校で国旗敬礼が強制された結果,エホバの証人の生徒多数が放校処分を受けました。しかし,ものみの塔協会は真のクリスチャンが子どもに教育を施すのを援助しました。早くも1935年に,その目的で私設の「王国学校」が開かれたのです。その学校では,エホバの証人の中の資格を持つ教師が自分の時間と力を捧げて公立学校から放校された証人である子どもたちの教育に当たりました。神の民は,そうした私設の学校を各地で組織し,経済的に支援しました。
ニュージャージー州レイクウッドには王国学校のひとつがありました。かつてそこの生徒だったC・W・アーリンメヤーの話では,1階がレイクウッド会衆の王国会館および教室と台所と食堂になっていました。女生徒の寝室は2階,男生徒のそれは3階でした。アーリンメヤー兄弟はこう述べています。「むろん,生徒の大半はそこに寄宿して,家に帰るのはせいぜい週末でした。遠方から来ていた生徒は一週おきの週末に帰りました。最後の年には,戦時中でガスが配給になったため,2週間おきに家へ帰りました」。
なすべき仕事がたくさんあったので,食事を作る人とそうじをする人がいました。しかし,子どもたちも割当てを受けて,料理を作ったり皿を洗ってふいたり,ゴミを捨てるなどの手伝いをしました。朝の食卓では日々の聖句の討議が行なわれ,授業は毎朝30分の聖書研究で始まりました。したがって,子どもたちは霊的に養われ,さらに,土曜日と日曜日には野外奉仕に参加して,自分が学んだ事柄を用いる機会にあずかりました。
ペンシルバニア州のゲイツにも王国学校が建てられました。そこで教べんを執っていたのは,担任のクラスで忠誠の誓いや国旗敬礼をさせようとしなかったために解雇された公立学校の教師グレース・A・エステプでした。エステプ姉妹は,王国学校の第一年目の思い出を,あらゆる方面の「役人」が何か理由を見つけて学校を閉鎖しようとしたため「騒乱の一年」だったと語っています。彼女はさらにこうも述べています。「学校その他の関係の役人が,あらさがしをしたり,いっそう困らせる目的で授業中に入ってくることがよくありました。そのうえ,一般の人々の多くに愛国熱が行き渡っていました。ある時など,怒った群衆が,わたしたちの家主に抗議し,学校を爆破するか焼打ちにするために集まりました。でも,家主は町の有力者でしたし,学校を爆破すると(同じ建物の中にあった)理髪店をも爆破しなければならなかったので,そうするのをあきらめました」。やがて生徒数は増加し,幼稚園,小学校8学年そして中学校4学年を設けることが必要になりました。
王国学校の教育の方の成果はどうだったでしょうか。マサチューセッツ州サウガスの学校で教えたロイド・オーエンは次のように伝えています。「どれほど成果があったかを見るためアチーブメントテストをすることにしていました。ほとんどの場合,生徒は普通の学力より半年か1年進んでいました。……1年に少なくとも2回試験をしましたが,生徒はそうした優秀な成績を維持しました」。
王国学校に関係した人々の間にはすぐれた精神が行き渡っていました。エステプ姉妹はこう語っています。「皆さんはほんとうにすばらしく,とても多くの方法でいつも援助を差しのべてくださいました。その全体は一種の共同体のようなもの,各人が皆何らかのかたちで関係した『共同体』でした。その頃やさしい仲間の人たちがしてくださったすばらしい事柄すべてを思い起こし,あの方々のとどまる所を知らないエホバへの愛を思う時,わたしの胸は愛と感謝でふくらむのです。お金はなくても,時間と体力の及ぶ限り必要な物を整えてくださいました」。
最高裁判所は自らの判決を翻す
1942年6月8日,合衆国最高裁判所は,ジョーンズ対オペリカの許可税をめぐる裁判でエホバの証人を5対4で有罪としました。ところが,興味深いことに,ブラック裁判官とダグラス裁判官それにマーフィ裁判官は意見を異にしたうえ,1940年のゴビティス国旗敬礼事件の票決を撤回しました。それに伴い,ものみの塔協会の弁護士は,西ヴァージニア州教育委員会を相手に西ヴァージニア州南部地域合衆国地域裁判所に禁止命令請願を提出しました。強制的国旗敬礼法の実施を抑えるのがその目的でした。3人の裁判官は全員一致でエホバの証人に有利な判決を下しましたが,西ヴァージニア州教育委員会は上訴しました。1943年6月14日旗の日に,合衆国最高裁判所は(西ヴァージニア州教育委員会対バーネットの争いで)学校の理事には放校処分をとる権利はなく,したがって国旗を敬礼しないエホバの証人の子どもを教育するのを拒否する権利はないと決め,ゴビティス事件におけるその立場を翻しました。
その判決は,ゴビティス事件における最高裁の決定をくつがえすものでした。国旗敬礼に対するクリスチャンの立場に関連した問題がそれによってすべて解決したわけではありませんが,王国学校はもはや必要ではありませんでした。したがって,エホバの証人の子どもは約8年ぶりで公立学校に戻ることができました。
「良いたよりを擁護して法的に確立する」
エホバのクリスチャン証人は,老若を問わず,迫害されることを予期しています。結局,イエスが弟子たちに言われたとおり,「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的になるでしょう」。(マタイ 10:22)「実際」,パウロは書きました,「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」。(テモテ第二 3:12)迫害は時に,許可なく販売するもしくは平和をかき乱すといった偽りの告発によるクリスチャンの逮捕という事態にまで至ることもありました。最初統計は取られていませんでしたが,1933年にはアメリカ全国で268件の逮捕が報告されました。1936年までにその数は1,149件に上りました。不当にも,エホバの証人は福音宣明者としてよりもむしろ,勧誘員もしくは行商人の部類に入れられました。
といっても,エホバの証人は戦わずして逮捕や裁判また投獄の苦しみに遭うままになったわけではありません。法廷での不利な判決を上訴する方針をとったのです。エホバの援助により,彼らは「良いたよりを擁護して法的に確立すること」ができました。―フィリピ 1:7。
わずか数ページで,感動的な劇を再演する,つまりエホバのしもべが伝道の自由のために戦った勇敢な神権的闘争の数々の場面を再現するのは不可能でしょう。それでも,荒れ狂った「ニュージャージーの戦い」から始めるのは適切です。『火ぶた』が切られたのは神のしもべ数名がニュージャージー州のサウス・アンボイで逮捕された1928年でした。しかし,同州の証人に対するカトリックの主戦場となったのはプレインフィールドでした。
プレインフィールド事件
エホバの民が迫害される土地としてプレインフィールドが筆頭にあげられていたため,J・F・ラザフォードはそこにおいて「今日,我が国に宗教的偏狭が見られるのはなぜか」という主題で公開集会を開くことを決めました。1933年7月30日のその特別な催しに対して,おそらく劇場を警備するつもりなのか,こちらが招待せず,望みもせず,必要ともしない50名ほどの警官が入って来ました。なんとか集会を妨害し,あわよくば講演者を葬り去ろうとうかがうカトリックの僧職者の要請でやって来たことに疑問の余地はありませんでした。
劇場に着いたラザフォード兄弟は,幕の背後で警官が兄弟と聴衆に向けて二丁の機関銃を持っているのに気づきます。兄弟は抗議しますが,警官も武器も動きもしません。警官たちは,暴動が起きるという内報を受けているので秩序を維持するためにその場にいるのだと言います。ジョージ・ギャンギャスは,話が終わるまで緊張したふんい気だったと言っています。彼は特に,ラザフォードの講演の結論に近い,次の部分にひやひやさせられました。
「人々を真理に対する無知の状態に置いて,自分たちがあばかれないようにするために,エホバの証人に対する迫害を黙認したりそれを引き起こしたりした司祭と牧師に恥がもたらされるように。自らの利己的な目的にかなうように,エホバの証人を利己的な行商人や呼売り商人の部類へ唯々諾々とまた進んで入れてきた公官吏に恥がもたらされるように。法廷の判事席で審理をする法律家たちに恥がもたらされるように。彼らは個人的な利益が失われるのを恐れるゆえに問題を回避し,行商人や呼売り商人を取り締まる市条令の制定および施行によって神の王国の福音を伝道することが妨げられて然るべきか,という問題に勇断を下すことを怠ったり拒否したりしているのである」。
ギャンギャス兄弟は次のように認めています。「わたしは内心,『今度は撃たれるだろう。今度こそ逮捕されるだろう』と言い続けていました。しかし,『偏狭』の小冊子の前置きに述べられていたように,『〔エホバ〕の使いは〔エホバ〕をおそるる者のまわりに営をつらねてこれを助け』ました」。(詩 34:7)厳しい状況でしたが,ラザフォード兄弟の講演は何事もなく行なわれ,熱烈に受け入れられました。後に「偏狭」の小冊子が出版され広く配布されました。
証人は独裁者に告げる
エホバの証人が言論と崇拝の自由のために戦っていたのはアメリカだけではありませんでした。いわゆる「聖年」の1933年6月にアドルフ・ヒトラー政権はマグデブルクにあったものみの塔協会の資産を占拠し,同年の10月にそれを返還したものの,ドイツのエホバの証人の集会と文書配布を禁止しました。1934年10月7日,ドイツのエホバの証人はいくつかの群れになって集まり,真剣な祈りをささげた後にヒトラー政府の役人にあてて抗議の電報を打ちました。しかし,他の国々の神のしもべたちも何もせずに傍観してはいませんでした。
グラディス・ボルトンは次のように回顧しています。「1934年のある晩,奉仕会で,特別なことがあるので日曜日の午前9時に集会場所に来るようにと言われました。だれもが興奮していました。なにがあるのでしょう。日曜日の朝,家は満員でした。話し手は,その日世界中のエホバの証人が同時刻に集まって,ドイツのエホバの証人を迫害するのをやめることを要請した電報をヒトラーに送るという発表をしました」。エホバへの祈りの後,各グループは以下のような電文を送りました。「ドイツ国ベルリン市,ヒトラー政府殿。エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。その電報には「エホバの証人」と署名され,集まった会衆の所在都市もしくは町の名前が明記されていました。
そうした電報は,アメリカの電報局においてさえ非常な騒ぎを引き起こしました。「ヴァージニア州のケイスビルや他のいくつかの場所で,仲間の信者が電文を持って行ったところ,係りの人はもう少しで気絶するほどでした」,とメルビン・ウィンチェスターは語ります。
ナチ政権はどんな反応を示したでしょうか。エホバの証人の迫害は激しくなったのです。しかし,ドイツや他の場所の神の民は前途に迫害や苦難のあることを覚悟していました。エホバは適切な時にご自分の民が必要な聖書的助言と励ましを受けられるように取り計らわれました。それは,1933年の末に「ものみの塔」誌の「彼らを恐れてはならない」と題する記事によって与えられました。その記事は,ローマ・カトリック教会の敵意を暴露し,神の忠実なしもべのある人々は反対のために死ぬかもしれないことを警告しました。しかし,それはまた,大胆さと喜びを持って引き続き神のお名前の証しをし,その神聖なみ名の立証にあずかるよう神の民に勧めました。
抗弁するための助け
クリスチャンにとって当時は信仰を試みられる時代でした。いうまでもなく,あからさまな反対事件のすべてが,あるいは逮捕事件でさえことごとく法廷に持ち出されたわけではありません。しかし,エホバのしもべが合衆国の法廷で抗弁に成功するための助けを必要とすることが少なからずありました。王国宣布者を助けるために,ものみの塔協会はニューヨーク市のブルックリンの本部に法律部門を設けました。
当時を振り返って,ロバート・E・モルガンは次のように語っています。「毎週の奉仕会で,協会が準備した『裁判の手続』を勉強して,野外奉仕でわたしたちを絶えず悩ましていた警官と判事に対処する備えを身につけるよう努力しました。警官に呼び止められた時の答え方や,市民としてわたしたちにはどんな権利があるかということ,また,有罪の判決を受けて上告裁判所へ行かねばならなくなった場合,良いたよりを擁護して法的処置を取るうえの十分な根拠を確立するためどうしても踏まねばならない手順などを奉仕会で教えられました」。
「奉仕会の実演で,逮捕の時から裁判の終了および事件の処理までの過程が示されました。会衆のしもべたちが検察官や弁護士を演じ,ある“裁判”は数週間も続きました」と,レイ・C・ボップは回顧します。
逮捕され投獄される
協会によって備えられた法律的な助けと奉仕会の優れた訓練は,神の民にとって大いに役立ちました。しかし,獄中の厳しい生活で民を強め得たのはただエホバご自身だけでした。パウロはこう述べています。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:13。
1930年代と1940年代の動乱の時に,何百人ものエホバのクリスチャン証人は逮捕投獄されました。ある地域でエホバの民が遭遇した法律上の問題に関してホーマー・L・ロジャースは次のように語っています。「ラ・グランジェ市(ジョージア州)は,市内の家庭を訪問して何らかの印刷物を提供することを禁じる条例を定めていました。それはエホバの証人をねらいとしており,エホバの証人に対してのみ実施されました」。彼はどうしてそう確信できたのでしょうか。同市の住民が,ラ・グランジェで他のすべての印刷物は当局の干渉を受けることなく自由に配布された,と証言したからです。
1936年5月17日,176名の証人はラ・グランジェにおいて伝道したかどで逮捕され,投獄されました。翌日女性は釈放されましたが,76名の男子は同市から約6㌔の郊外にあるトループ郡刑務所および営そうに14日間勾留されました。普通そこでは,囚人たちは鎖でじゅずつなぎにされ,日の出から日没まで道路工事をしている間,文字通り足かせをかけられました。C・E・シラウェイによると,裁判を受けた証人たちは有罪の宣告を受け,各人1㌦の罰金か30日の懲役を申し渡されました。市の代理人は事件移送命令による上訴の契約書に署名しないようにと市の書記に命じたため,兄弟たちは上訴する権利を失い,57人が1937年5月28日に営そうで30日の刑期を終えるために戻りました。無実であったにもかかわらず,それら証人たちは囚人服を着,寒い夜にふたりで1枚の毛布を使わなければなりませんでした。その上,街頭その他の場所で重労働をしたのです。
投獄された人々は多くの苦しみを経験しましたが,霊的に善を行なう機会も得ました。C・E・シラウェイ兄弟は次のように書いています。「30日の刑期の終わりごろ,わたしのグループともうひとつのグループの合計12名は,たいていいなかに隔離されている黒人基地に割り当てられました。午前10時ごろ,葬式の行列が正門から入って来て止まると,葬儀屋がわたしたちに近づいて来ました。その家族はあまりに貧しくて説教者に葬式の定まった費用を払えず,説教も祈りもしてもらえなかったようでした。わたしたち奉仕者のだれかがふたことみことでも話してあげられないでしょうか。その少数の人々に死者のほんとうの状態と復活の希望について話すのは特権でした。その人たちは囚人服を気にしませんでした」。
テレサ・ドレイクは,神の民に対する不寛容さを初めて知ったのは,彼女がニュージャージー州のバーゲンフィールドで最初に逮捕された1930年代初期のことだったと語っています。ドレイクはこう続けます。「わたしは最初ニュージャージー州のプレインフィールドで指紋を取られました。わたしが他の28人の姉妹たちと一晩勾留されたのはプレインフィールドでした。わたしたちはひとつの小さな監房に入れられたのです。そこにわたしたち29人が入れられたのですから,横になって寝ることなどできませんでした。とうとう当局は,わたしたちを同じ建物にある体育館に連れて行き,横になるためのマットをくれました。わたしはひとりの警官が戸を開けてわたしたちをのぞき込みながら,『ほふり場に引かれる羊のようだ』と言ったのを覚えています」。
ドレイク姉妹はもうひとつの事件のことを次のように書いています。「パース・アンボイでわたしたちは逮捕され,朝の10時から夜の8時まで勾留されました。わたしがラザフォード兄弟にお会いしたのはその時でした。兄弟は逮捕されたわたしたち150人を保釈金で仮出所させるために来られたのです。わたしたちは,裁判所庁舎の大きなひと部屋に勾留されました。外では,人々がわたしたちの車から文書類を持ち出して庁舎の芝生一面に投げちらしていました。庁舎の裏には6人の男たちがいて,ラザフォード兄弟を捕まえようと待機していました。彼らは兄弟を脅迫しましたが,その機会を得ることは決してできませんでした。なぜなら,兄弟はわたしたちに取り囲まれて庁舎を出,待機していた,いつものとは違う車にすばやく乗り込んだからです」。
オハイオ州と西ヴァージニア州について,エドナ・バウアーは,「友人の多くは逮捕され,けたたましくサイレンを鳴らして逮捕の起きたことを知らせる消防自動車で刑務所に運ばれました」と語っています。一度に多くの人が刑務所に入れられるということは珍しくなく,年齢も考慮されませんでした。たとえば,ジェイムズ・W・ベネコッフ姉妹は,南カロライナ州コロンビアの事件で「200名が刑務所に入れられましたが,最年少者は生後6週間の赤ちゃんでした」と語っています。
刑務所の状態はまったくひどいこともありました。アール・R・デイルは,ニューハンプシャー州サマズワースでクリスチャンゆえに不当な監禁を受けた時の思い出をこう書いています。「わたしはその夜眠りました。いえ,眠ろうとしました。刑務所はあまりきれいではありませんでした。夜に何やら小さな生き物がわたしたちの上をはっていました。わたしはそれが好きではありませんでしたが,彼らはわたしが好きでした」。R・J・アデール兄弟と姉妹は,1941年にミズーリ州カルサースビルで良いたよりを伝道したために78日間投獄されました。アデール姉妹は監禁された所を「土牢」だったと言っています。姉妹の健康は監禁中にそこなわれてしまいました。「78日間コンクリートの上に1枚の毛布と枕で寝るのは気持ちの良いものではありませんでした。でも,大切なのはエホバに忠実であり続けることでした」と述懐しています。
アメリカのエホバの証人は,王国のたよりを伝道したかどでしばしば投獄されましたが,そのために彼らの口びるが閉ざされることはありませんでした。囚人の身でも良いたよりをどしどし宣明し続けたのです。たとえば,ドラ・ワダムスは投獄中に様々な伝道の機会を得ました。かつて,ニュージャージー州のニューアークでエホバの証人が釈放されるというニュースが知れ渡った時,ワダムスによればこんな事があったそうです。「わたしたちがそれぞれの監房に閉じ込められていたある晩,まわりの囚人たちが,『聖書の人たちはあしたここを出るんだってさ。ここも変わっちまうだろうな。あの人たちはわしらに遣わされた天使のようだからな』と言うのを聞きました」。
法廷での戦い
エホバのしもべは,いつなんどき逮捕されて裁判を受けるようになっても自分自身と神から与えられたわざを擁護できる備えをしていました。彼らは弁護士に代理をしてもらうことさえできない時がありました。たとえば,1938年のこと,マサチューセッツ州のオレンジ会衆と交わっていたローランド・E・コリアは近くのアトルで宣伝カーを使う許可を得ました。彼ともうひとりの兄弟は宣伝カーに乗って「敵」と題するレコードをかけ,他の王国伝道者たちは戸別に伝道していました。コリア兄弟は,その時戸別に訪問していなかったにもかかわらず,そうしていたとのかどで逮捕され告発されました。彼は次のように話してくれました。「わたしたちは興味を抱いて裁判を待ち,それに備えました。わたしは法廷の審理に備えて協会から発行された『裁判の手続』を注意深く勉強しました。裁判の日,数人の兄弟はわたしを力づけるために法廷にやってきました。わたしは協会が略述してくれた適切な裁判の手順に従い,警察署長に反対尋問をすることさえしました。法廷での審理が完了してすべての証拠が提出された時,わたしは無罪とされました。そして新聞は,『オレンジ市の男,出所して伝道を続ける』という見出しを掲げました」。
エホバの証人ではない数人の弁護士たちも,神の民を擁護するために奮闘しました。しかし,たいてい,証人の弁護士が裁判の時に仲間の信者を代表しました。そうした人のひとりにビクター・シュミットがいました。彼の妻ミルドレドは一部こう語っています。「合衆国最高裁判所が国旗敬礼事件に対して不利な判決を下してからというもの,シンシナチ市(オハイオ州)の外の多くの場所で,兄弟たちに対する暴徒の襲撃や逮捕がまるでなだれのように続きました。主人は自動車を運転しなかったので,わたしが主人を自動車でそうした所へあちこちと運ばねばなりませんでした。しばらくの間はほとんど毎日のように違った場所へ行かねばなりませんでした。ですから,わたしはやむなく開拓者の人たちといっしょに奉仕するのをあきらめました。……ビクターはエホバに厚い信仰を持っていました。そのことは,同様の信仰を持つようわたしを強めました。法廷で兄弟たちの代理をすることになっている町に近づくと,主人はわたしに車をわき道へ入れさせ,エホバに祈りをささげました。つまり,自分が兄弟たちになにか助けとなることができる道を開いてくださるように,また,エホバのご意志であれば,わたしたちをやさしく保護し,人間に対する恐れに決して屈しないよう自分たちを助けてくださるようにと祈ったのです。わたしたちは,エホバの使いの軍勢の強力な力がわたしたちのために働いた証拠を何度も見ました」。
合衆国最高裁判所へ
エホバの証人に関する様々な裁判事件は,ついに合衆国最高裁判所に持ち込まれました。ロベル対グリフィン市の件はそのひとつでした。それまでにも神の民はジョージア州のグリフィン市で良いたよりを伝道したためにしばしば逮捕されていましたが,ある時,「グリフィン市の市長から書面による許可を得ずに……何らかの文書の……配布をならわしにすることを禁じる市の条令に違反したとして,大ぜいの人が逮捕されました」。G・E・フィスク兄弟は次のように語ってもいます。「身長が180㌢を越える兄弟が数人いたので,当局者はグループの代表者を自分たちで適当に選ばせてほしいと言いました。監督たちは承諾しました。そこで彼らは,良いえじきになると考えて,小柄でやせたひとりの姉妹を選びました。ところが彼女(アルマ・ロベル)は『裁判の手続』を学んでいたのです。……男性の中にはその小柄の姉妹ほど勉強していた人はひとりもいませんでしたから,事件が裁判にかけられた時に彼女は法廷に対して1時間以上にわたって抗弁し,すばらしい証言を行ないました。しかし,裁判官は少しの関心も示さず,足を机にのせていました。姉妹が着席すると,裁判官は足をおろして,『それで全部ですか』と言いました。姉妹が,『はい,裁判官殿』と言うと,彼は全員に有罪を宣告しました。協会の弁護士はその事件をただちに上訴しました」。1938年3月28日,最高裁判所は問題の条令は明らかに無効であることを満場一致で判定しました。
1938年4月26日,王国伝道のわざに携わっていたクリスチャン証人ニュートン・カントウェルは,「敵」と題するレコードを聞かせ,同名の書籍を配布していたところを,ふたりの幼い息子とともに逮捕されました。ふたりのローマ・カトリック教徒によってその事件はコネチカット州の裁判所に訴えられました。その理由は,治安妨害と,州の公共福祉協議会の幹事の承認なくして慈善事業や宗教的な運動へ寄付を懇願することを禁じた,コネチカット州の法律に違反したというものでした。コネチカット州の裁判所では有罪判決を受けました。R・D・カントウェルは次のように書いています。「その事件は協会によって上訴され,合衆国最高裁判所まで行きました。……有罪判決はくつがえされ,宗教文書を販売したり,宗教的な運動のために寄付を受けるには許可が必要であるとするコネチカット州の法律をエホバの証人に適用することは憲法違反であるとされました。エホバの民はまたもや勝ちました」。
しかし,1942年6月8日,エホバの証人は合衆国最高裁判所での重要な裁判において5対4で敗れました。それはジョーンズ対オペリカ市の戦いであり,街頭で雑誌活動を行なったロスコ・ジョーンズが,許可を得ず,またしかるべき税金を支払わずして「書籍を販売」することに関してアラバマ州オペリカ市の条令に違反したとして有罪とされることの是非が問題になりました。
神の民にとって「大成功の日」
1943年5月3日が来ました。それはエホバの証人にとって「大成功の日」と呼ぶにふさわしい日でした。なぜなら,裁判にかけられた13件のうち12件が有利な判決を受けたからです。際立っていたのは許可税をめぐるムルドック対ペンシルバニア州の戦いでした。合衆国最高裁判所が下したこの判決はジョーンズ対オペリカ市事件でのその立場を翻すものでした。ムルドックの判決の中で,最高裁は次のように述べています。「しかしながら,許可税がこの活動を抑制もしくは統制し得るという事実はそれが実際に抑制しない限り重要でないと主張されている。しかしながら,それはこの税金の性質を無視することになるであろう。これは,権利宣言で認められた特権の行使に対して一律に課される許可税である。州は,連邦の法律で認められた権利の行使に対して料金を課さないであろう」。ジョーンズの件に関して,最高裁はこう述べています。「ジョーンズ対オペリカの判決は今日無効になった。あの支配的な判例にとらわれることなく,文書類の配布によって自分たちの宗教的信念や信仰信条を巡回しながら広める福音宣明者の自由を,高潔な憲法上の位置にまで復帰させることができる」。ムルドックの有利な判決は,エホバの民を巻き込んだ許可税に関する洪水のような問題を解消しました。
彼らの努力は法律にも影響を与えました。適切にも次のように言われているからです。「合衆国最高裁判所が権威をもって解釈している,個人の自由に関する現在の法的保証は,1938年春以降それまでよりはるかに広範に及ぶようになったことは明らかである。さらに,そうした保証範囲の拡大が見られるのはほとんど31件に及ぶエホバの証人の判例(16件は決定的な意見)の場合であり,ロベル対グリフィン市はその最初のものであった。『殉教者の血は教会の種子たり』とされるなら,憲法がこの奇妙なグループの戦い抜こうとするしつようさ ― あるいは献身的な態度と言うべきであろうが ― に負うところは何であろうか」― 1944年3月発行の「ミネソタ法律レビュー」誌,第28巻4号,246ページ。
激しい暴徒たちはエホバの賛美者を沈黙させることに失敗
エホバの証人は,崇拝の自由と良いたよりを宣べ伝える権利のために法的な戦いをしていましたが,野外では時々激しい暴徒に出会いました。しかし,それは類例のないことではありませんでした。イエス・キリストご自身その種の経験をされたからです。(ルカ 4:28-30。ヨハネ 8:59; 10:31-39)また忠実なステファノは怒った群衆の手にかかって殉教の死を遂げました。―使徒 6:8-12; 7:54–8:1。
1939年6月23日から25日にかけて開かれた世界的なクリスチャンの大会は,ならず者たちからは神の民を悩ますチャンスであると見なされました。その時,主要都市であるニューヨーク市と,アメリカ,カナダ,英国諸島,オーストラリアおよびハワイの他の大会開催地が無線で直接結ばれました。J・F・ラザフォードの「政府と平和」と題する講演を宣伝している時に,エホバのしもべは,カトリック・アクションのグループが6月25日の公開集会を阻止する計画をしていることを知りました。それで,神の民は騒動に備えました。ブロスコ・ムスカリエロはこう話してくれます。「エルサレムの城壁を建てる時,人々に建築の道具と戦いの道具の両方を持たせたネヘミヤのように(ネヘミヤ 4:15-22),わたしたちも武装しました。……わたしたち若い男子数人は案内係として特別な指示を受けました。また,主要な講演中に妨害が起きた場合に使うがん丈なこん棒が各人に支給されました」。とはいえ,R・D・カントウェルによると,「どたん場に追い詰められた場合でない限りそれを使わないようにと言われていました」。
一般に知られていなかったことですが,1939年6月25日,日曜日午後にニューヨーク市のマジソン・スクウェア・ガーデンで演壇にあがったラザフォード兄弟は健康をそこねていました。まもなく講演が始まりましたが,遅れてきた人々の中に,ローマ・カトリックの僧職者チャールズ・E・コフリンの信奉者が500名ほど混じっていました。コフリンは1930年代の名高い「ラジオの司祭」で,何百万人もの人々が彼の定期的な放送を聞きました。講堂の下の方の席は証人用になっていて詰まっていましたから,数人の司祭を含むコフリンの信奉者たちは,講演者の背後にあるバルコニーの最上段の一画を占めなければなりませんでした。
「慰め」誌の通信員は次のように書いています。「講堂内のどこにおいてもたばこを吸っている人はいませんでした。ところが,講演が始まってから18分たった時,その群衆の最前列の左端にいたひとりの男がたばこに火をつけました。ついで,最前列の右端にいた別の男もたばこに火をつけました。それから,その一画の電燈だけが明滅し,そこだけに非難の声や叫びややじがありました」。エドワード・ブロード姉妹はこう語っています。「わたしは,ガーデン中に混乱が広がるのではないかと緊張して座っていました。でも,しばらくたつと,騒いでいるのは講演者のまうしろにいるクループの人たちだけだということがわかりました。『講演者はどうするのかしら』とわたしは思いました。演壇に物が投げ落とされたり,いつなんどきマイクロフォンが奪われるかわからない中で講演を続けることは不可能に思われました」。エステル・アレンは,「荒々しい叫びや,『ヒトラー万歳』とか『フランコ万歳』,また『ラザフォードの畜生を殺せ』ということばが空中にみなぎりました」とその時の様子を話してくれます。
病身のラザフォードはそれら乱暴な敵に屈するでしょうか。「彼らが講演者の声をかき消そうと叫び声を大きくすればするほど,ラザフォード判事の声はますます強くなりました」とA・F・ラウパートは語っています。また,アレック・バングルはこう述べました。「協会の会長は恐れるどころか勇敢にも,『ナチとカトリック教徒はこの集会を解散させようと願っていますが,神の恩ちょうによってそうできないことをきょう心に留めておきなさい』と言いました」。「その時こそ,心からの拍手をどっと送って,わたしたちが熱烈に支持していることを講演者に示す待ちに待った機会でした」とロジャー・モルガンは書き,「ラザフォード兄弟は時間の終わりまで一歩も退きませんでした。後日,人々の家庭でその講演のレコードをかけるたびにわたしたちは感激しました」と付け加えています。
C・H・リオンはこんな話をしています。「場内整理係は自分の務めを立派に果たしました。相当手におえないコフリン派の二人はこん棒で頭をたたかれ,彼ら全員は講堂から坂道へ儀礼抜きでほうり出されました。そのうちのひとりは,翌朝,タブロイド版の新聞紙上で一般の人々の注意を引きました。なぜなら,ターバンを巻いたように頭を包んだその人の写真が新聞に載せられたからです」。
案内係をしていた証人三名が逮捕され,「暴行」のかどで訴えられました。三人は1939年10月23日と24日にニューヨーク市の特別法廷で三人の裁判官(ローマ・カトリック教徒ふたりとユダヤ人)によって審理されました。裁判で,場内整理係がマジソン・スクウェア・ガーデンの妨害の起きた一画へ妨害者を取り除くために入って行ったことが明らかにされました。暴徒に襲われるにいたって,案内係は抵抗し,その急進的なグループに属する数名の人を断固とした態度をもって処理したのです。検察側の証人は多くの矛盾する証言をしました。法廷は三人の案内係を無罪としたばかりか,証人の案内係はその権限内で行動したことも明らかにしました。
世界大戦は暴力の炎をあおる
暴徒の暴力行為は1939年のエホバの証人の大会の時に勃発しましたが,彼らに対する暴力の炎があおられて非常に強くなったのは,世界が戦争に入った時でした。アメリカがドイツとイタリアと日本に宣戦を布告したのは1941年の末でしたが,国家主義の精神はそれよりもずっと以前から高まっていました。
第二次世界大戦勃発直後の数か月間に,エホバ神はご自分の民に優れた備えを設けられました。1939年11月1日号の英文の「ものみの塔」誌に「中立」と題する記事が載せられたのです。見出しの聖句には,ご自分の弟子について語ったイエス・キリストの次のことばが出ていました。『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』。(ヨハネ 17:16,文語)クリスチャンの中立に関するそうした聖書の研究は,まさに適切な時に,前途の難しい時代に対してエホバの証人にあらかじめ備えをさせるものでした。
王国農場で焼打ちの脅威にさらされる
ニューヨーク州サウス・ランシングに近い王国農場は,協会本部職員にくだもの,野菜,肉,牛乳,チーズを供給する大きな働きをしていました。ダビデ・アブールは,王国農場の平和と安全が破られた1940年の当時そこで働いていました。同兄弟はこう語っています。「1940年6月14日の旗の日の前夜,サウス・ランシングの居酒屋へウイスキーを買いに行くために毎日通る老人から,町の人々とアメリカ世界大戦参加軍人会の人々が協会の建物を焼き払い,機械を破壊する計画をしていることを知らされました」。治安官に連絡がなされました。
ついに敵が現われました。当時農場のしもべだったジョン・ボガードは,以前に,その騒動の模様を生き生きと話してくれたことがあります。「晩の6時ごろ,車が次から次へとやって来て一味が集まり始め,ついに30台から40台になりました。治安官とその部下が到着し,運転手を止めて免許証を調べ,王国農場にいかなる手出しもしないようにと警告し始めました。一味は夜遅くまで協会の土地の前を走る高速道路を車で行ったり来たりしていましたが,警官がいたために高速道路から出ることができず,農場をこわす計画は失敗しました。農場にいたわたしたちみなにとってそれはほんとうに興奮の夜でした。しかし,わたしたちはご自分の追随者に対する,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。それでも,あなたがたの髪の毛一本すら滅びることはありません』というイエスの保証のことばを鮮明に思い出しました。―ルカ 21:17,18」。
こうして,威嚇攻撃と計画的焼打ちは回避されました。推定1,000台の車が,4,000人ぐらいの人々を乗せて,協会の王国農場の資産を破壊するためにニューヨーク州西部の各地からやって来ましたが,無駄に終わりました。「あの人たちの目的は失敗しました。そして,まさに暴徒に加わっていた人のうちいく人かが今エホバの証人になっていて,全時間奉仕者になっている人たちさえいます」とカスリン・ボガードは語っています。
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第3部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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第3部 ― アメリカ合衆国
リッチフィールドで暴力行為が勃発
王国農場が襲撃と焼打ちの脅威にさらされていたのと同じ頃,イリノイ州のリッチフィールドでもエホバの証人に対するいやがらせの火の手が上がりました。クラレンス・S・ハゼイは次のように回顧しています。「リッチフィールドの暴徒たちは何かの方法でわたしたちの計画をかぎつけ,わたしたちが奉仕のために町に入った時には,彼らは待ちかまえていました。町の司祭が教会の鐘を鳴らして合図すると,彼らは兄弟たちを取り巻き始め,町の刑務所に連れて行きました。数人の兄弟はひどく殴打され,暴徒たちは刑務所を焼き払うと脅しさえしました。そのうちのある者は兄弟たちの車を見つけてこわし始め,がらくた同然にしてしまいました」。
ウォルター・R・ウィスマンはこう語ります。「暴徒に殴打された後,兄弟たちは州の高速道路巡視隊によって刑務所に集められ,保護されました。一兄弟チャールズ・セルベンカは,国旗に敬礼することを拒否したため地面にたたきのめされ,顔に旗を押し付けられ,頭やからだのあたりをしたたかけられたり打たれたりしました。彼は兄弟たちのうち一番ひどく傷つけられ,殴打のあとが完全には良くならず,2,3年後に亡くなりました。後日,彼は話していましたが,これが比較的新しい兄弟にでなく自分にふりかかってよかった,自分はこれをがまんできるが,新しい人は弱くなって妥協するかもしれないから,と打たれながら思ったそうです」。
ウィスマン兄弟はさらに次のように回顧します。「リッチフィールド市は,それをやり遂げたことを非常に誇りにしていました。事実,何年も後の1950年代に,リッチフィールドは百年記念祭を催して,同市の100年の歴史で際立った出来事を描いた山車を作りましたが,その山車のひとつは1940年にエホバの証人を襲撃したことを記念するものでした。市の当局者はそれを同市の歴史上記念すべき出来事だと考えたのです。エホバが彼らに返報されますように」。
無視された訴え
エホバの証人に対する暴力的な攻撃が非常に激しくひんぱんに行なわれたため,アメリカ合衆国の首席検事フランシス・ビドルとエリノア・ルーズベルト夫人(フランクリン・D・ルーズベルト大統領夫人)は,そうした行為をやめるよう一般に呼びかけました。実際,ちょうどリッチフィールド事件の起きた1940年6月16日に,NBCの国内放送を通してビドルは次のように語りました。
「エホバの証人は繰り返し襲われて殴打されています。彼らは罪を犯していません。しかし,暴徒たちは彼らが罪を犯したとして暴力的な制裁を加えています。法務長官は,そうした暴力行為をただちに調査するよう命じました。
「国民は油断なく警戒し,とりわけ冷静かつ健全でなければなりません。暴徒による暴力行為は政府の業務をきわめて難しくしますから,それを大目に見ることはできません。ナチの方法をまねてみたところでナチの悪を滅ぼすことにはなりません」。
しかし,そのような訴えもエホバの証人に向けられたうしおのような憎しみをせき止めませんでした。
乱されたクリスチャンの集まり
そうした騒乱の時代,アメリカでは,クリスチャンたちは聖書の教育を受けるため平和裏に集まっている際中に襲われることがありました。その一例は1940年にメイン州のサコで起きた事件です。ハロルド・B・ダンカンの話では,ある時エホバの証人が二階の王国会館に集まってレコードによる聖書講演を行なう準備をしていると,1,500人から1,700人の暴徒が現われました。ダンカン兄弟は,ひとりの司祭が暴徒に加わり,会館の前にいた自動車の中に座っていたのをはっきりと覚えています。「(隣りの)ラジオ修理店の人はありったけのラジオのスイッチを入れてボリュームをいっぱいに上げ,講演をかき消そうとしました」とダンカン兄弟は述べ,こう付け加えました。「すると暴徒は窓に石を投げ始めました。懐中電燈を持った私服の警官は,石を投げる窓に光を当てました。警察署は一区画半しか離れていなかったので,わたしはそこへ二回足を運び,起きていることを知らせました。警察は,『おまえたちがアメリカの国旗に敬礼したら助けてやろう』と言いました。暴徒は会館の(小さな窓ガラス)70枚を石でこわしました。わたしのこぶしくらいある石がガートルド・ボッブ姉妹の頭をかろうじてはずれ,しっくいの壁の角を落としました」。
暴徒による暴力行為は,オレゴン州のクラマス・フォールズで開かれた1942年の大会中にも起きました。ドン・ミルフォードによると,暴徒たちはもうひとつの大会都市に講演を伝える電話線を切りましたが,講演の写しを持っていた兄弟がただちに引き継いでプログラムは続けられました。ついに暴徒は会場に押し入ったので,証人たちは自己防衛しました。とびらが再び閉まった時,暴徒のひとり ―「大きくて強そうな男」が建物の中で意識を失って倒れていました。その人は警察署員でした。顔のそばにバッジを置いてその人の写真が撮られました。ミルフォード兄弟はこう語っています。「わたしたちは赤十字を呼びました。担架を持ったふたりの女性が派遣され,その人は運ばれて行きました。彼は後日,『やつらが戦うとは思っていなかった』と語ったそうです」。警察は証人を助けることを拒否しました。そのため州の国民軍が暴徒を追い払うまでに4時間以上たっていました。
街頭の雑誌活動中に襲われる
いくつかの土地の警官はエホバの証人を保護することを怠りましたが,きまってそうだったわけでは決してありません。たとえば,L・I・ペインは,数十年前にオクラホマ州のツルサで街頭の雑誌活動をしていた時,ひとりの警官がいつもそばにいることに気づきました。「それで」とペイン兄弟は話します。「ある日わたしはどうしていつもそんなに近くにいるのかと警官に聞いてみました。担当区域は広いが,だれかがわたしを追い払ったりたたいたりすることがないようにその付近にいるのだという答えでした。その警官は小さな町で証人がどんな扱いを受けているかを新聞で読みましたが,このわざを妨害しようという人の気持ちが理解できなかったのです」。
しかし,エホバのしもべが「ものみの塔」と「慰め」誌を用いて街頭で証言している時にしばしば激しい暴徒の襲撃を受けたことは確かです。たとえば,ジョージ・L・マッキーは,オクラホマ州のある所で来る週も来る週も100人から1,000人を優に超す怒り狂った男たちが徒党を組み,街頭の雑誌活動をしている証人を襲ったと語っています。市長や警察署長,また他の役人は何ら保護の手を差し伸べませんでした。マッキー兄弟の話では,暴徒を率いていたのは,たいてい,名うての女強盗ベル・スターのいとこにあたる米国在郷軍人会連盟の指導者で,著名な医師でもある人物でした。まず,酔った手下が騒ぎを起こし,それから,玉突きの棒やこん棒,ナイフ,大きな肉切り包丁,銃で武装した暴徒がやってきました。彼らの目的,それは証人を町から追い出すことでした。しかし,王国の宣布者たちは土曜日ごとに何時間ぐらい街頭伝道をするかをあらかじめ決めていました。そして,暴徒はたちまち集まりましたが,証人たちは定められた時間いっぱい首尾よく奉仕できました。多くの雑誌が買物客に配布されました。
ある土曜日,15人ほどの証人はだし抜けに襲われました。マッキー兄弟は,「わたしたちは生きて逃げおおせるには,エホバ神と正しい判断に頼らねばならないことを知りました」と言ったあと,こう続けました。「なんの警告もなく,彼らは包丁とこん棒を持ってわたしたち三人の兄弟に襲いかかったのです。……腕を折られたり,頭骨にひびが入るほど打たれたり,ほかにもけがをさせられたわたしたちは,その土地の四人の医者へ行きましたが,四人ともわたしたちに必要な治療を施すのを断わりました。わたしたちは,ある同情心に富んだ医師の治療を受けるために80㌔離れた土地まで行かねばなりませんでした。心身の傷がまもなくいえたわたしたちは,次の土曜日に王国の良いたよりを携えて街頭に戻りました。こうした精神は,迫害のさなかの難しい期間全体を通じて示されました。
コナースビルの狂暴
暴徒による暴力行為のなかでも有名なのは,インディアナ州コナースビルで1940年に起きた事件でした。その町で数人のクリスチャン婦人が裁判にかけられ,「暴動を共謀した」という偽りの告発を受けました。裁判の第一日目に地帯のしもべのレインボー兄弟とビクター・シュミットおよびミルドレド・シュミットが裁判所を出ると,約20人の男たちが三人の自動車目がけて突進し,殺してやると脅して車を転覆しようとしました。
裁判の最終日,検察官は弁論の時間の多くを暴動を扇動することに用い,時には建物内の武装した人々に直接話しかけました。午後9時ごろ,「有罪」の評決が下ると,暴力のあらしが切って放たれました。シュミット姉妹によると,彼女と,裁判に立ち会った弁護士のひとりである夫のビクターはふたりの兄弟とともに他の証人からしゃ断され,200人ないし300人の暴徒に襲われました。彼女の話は次のとおりです。
「ほとんど間髪を入れずに,くだものや野菜や卵などありとあらゆる物が雨あられのようにわたしたちに浴びせられ始めました。後で聞いたのですが,暴徒たちはそれらをトラック1台分も投げたそうです。
「わたしたちは自動車へ走って行こうとしましたが,さえぎられて市の外へ通じる高速道路の方へ追いやられました。それから暴徒はわたしたちに突進して,兄弟たちを打ったりわたしの背中をたたいたりしました。わたしたちはのめったり,のけぞったりしました。その時までにはあらしがたけり狂っていました。雨は滝のように降り,風は吹き荒れていました。でも,自然力の猛威はその悪霊につかれたような暴徒の猛威に比べれば問題ではありませんでした。あらしになったので多くの者たちは自動車に乗り,わたしたちのそばを走りながら,叫んだりのろったりしました。のろいのことばには決まってエホバの名前を使ったので,わたしたちは心を突きさされる思いでした。
「でも,あらしにはおかまいなく,少なくとも100人の男は歩いてわたしたちに押し迫っていたように思います。オハイオ州スプリングフィールドから来たヤコビー姉妹(現在のクレイン姉妹)の運転する自動車に乗った友人たちが一度わたしたちを救おうとしました。しかし,暴徒は自動車を倒さんばかりにし,自動車をけったりドアをこわしたりしました。そして,その自動車からわたしたちを引き離すと,いっそうひどく殴打を浴びせました。友人たちはわたしたちを置いたまま自動車を走らせなければなりませんでした。わたしたちは追い立てられ,あらしはいっこうに弱まらず,暴徒は叫んだり,『やつらを川へぶち込め,川へぶち込め』と言い続けていました。絶えず繰り返されるそのことばに,わたしの心は恐ろしさでいっぱいでした。ところが川に渡した橋にさしかかった時,繰り返されていたそのことばが突然やんだのです。やがて,わたしたちはほんとうに橋を渡っていました。まるでエホバの使いたちが暴徒をめくらにして,わたしたちがどこにいるかわからないようにしているかのようでした。わたしは,『ああ,エホバ,ありがとうございます』と心の中で言いました。
「それから,大きくてがっしりした暴徒たちが兄弟たちを打ちたたき始めました。自分の愛する人が打たれているのを見るのはほんとうにつらいことでした。彼らが打ちたたくたびにビクターはよろめきましたが,決して倒れませんでした。そうした殴打はわたしにとって恐怖の殴打でした……
「彼らはたびたび背後からわたしに近づいてドンと突き,のけぞらせました。とうとう,わたしたちは他のふたりの兄弟と離ればなれになりました。ふたりで腕をがっちり組んで歩きながら,ビクターはこう言いました。『ぼくたちはパウロほどの苦しみに遭ってはいない。血を流すほどに抵抗してはいないんだ』。(ヘブライ 12:4と比較してください。)
「あたりはまっ暗になり,夜がふけて行きました。(あとで知ったのですが,11時ごろになっていました。)わたしたちが市外に出て,疲れきってしまいそうになっていた時,突然1台の車がわたしたちのすぐそばで止まりました。聞き慣れた声が,『速く! 乗ってください!』と言いました。そこにいたのは,なんと,あのりっぱな若い開拓者,レイ・フランズでした。わたしたちをそのすさまじい暴徒から助けに来てくれたのです。……
「その時も,わたしたちはみな,エホバの使いが敵の目をくらまして,わたしたちが自動車に乗るのを見えないようにしてくれたと感じました。暴徒から襲われる心配のない車の中には,レインボー兄弟と彼の妻のほか3人が乗っていました。その小さな車に全部で8人がなんとか乗れました。エホバの使いは,わたしたちが自動車に乗るところを敵に見えないようにしてくれたのだとだれもが思いました。暴徒たちはわたしたちに対してなおも激しく怒り,わたしたちを自由にする様子はなかったのです。まるで,エホバがその優しい腕をわたしたちに伸ばして救ってくださったように思われました。あとでわかったのですが,ふたりの兄弟はわたしたちから離された後,早朝ほかの兄弟たちに見つけられるまで干し草の中に隠れていました。ひとりの兄弟は物を投げつけられてひどくけがをしていました。
「わたしたちは朝の2時ごろ,ずぶぬれになり,冷え切って家にたどり着きました。あらしとともに温暖な気流が終わり,寒波に変わっていたのです。兄弟や姉妹たちはわたしたちを介抱し,ビクターの顔の5つの傷口をふさいでくれさえしました。愛する兄弟たちのやさしい世話を受けて,わたしたちはどれほど感謝したかしれません」。
しかし,そうした厳しい経験にもかかわらず,エホバはご自分のしもべを支え,強めておられます。「このようなわけで,わたしたちはまた異なる種類の試練に遭いましたが,エホバはそれを耐え,『忍耐にその働きを全うさせる』ようわたしたちをあわれみ深く助けてくださいました」とシュミット姉妹は語っています。―ヤコブ 1:4。
暴徒による他の残虐行為
エホバの証人を標的とした暴徒の暴力行為は,多くを数えました。1942年12月のこと,テキサス州のウィンズボロで,街頭の雑誌活動をしていたエホバの証人多数が暴徒に襲われました。その証人の中に,兄弟たちのしもべ(巡回監督)をしていたO・L・ピラーズがいました。暴徒が近づいて来たので,証人たちはそうした状況で街頭のわざをするのは無理だと結論し,自動車の方に向かって歩き始めました。ピラーズ兄弟はその時のことを次のように語っています。「目抜き通りのまん中に,宣伝カーに乗ったバプテスト派の伝道師のC・C・フィリプスがいました。彼はキリストとキリストがはりつけにされたことを話していましたが,わたしたちの姿を見ると,さっそく説教の内容を変えました。フィリプスは,エホバの証人が国旗に敬礼しようとしないことを大声で熱烈に話し始めたのです。彼は米国国旗のために喜んで死んでも良いと述べ,国旗に敬礼しない者は町から追放されるべきだと言いました。わたしたちがその宣伝カーのそばを通った時,前方にもう一組の暴徒がこちらへ来るのが見えました。彼らはたちまちわたしたちのほうへ押し寄せて来て,警察署長が来てわたしたちを逮捕するまで,わたしたちを押えていました」。
その後,暴徒は警察署に入ってきて証人を捕まえましたが,署長は証人を守るために何もしませんでした。路上で,少なくともピラーズ兄弟自身はこぶしで続けざまに打たれました。同兄弟は次のように語っています。「その時,わたしは非常に不思議な助けを受けました。わたしは猛烈に打たれ,鼻や顔や口から血が吹き出ましたが,ほとんど,もしくは全然痛みを感じませんでした。打たれながらも,わたしにはそれが不思議で,み使いが助けてくれているのだと感じました。……ドイツの兄弟たちが,どうしてナチの火のような迫害を動じることなく忠実に耐えたかがその経験でわかりました」。
ピラーズ兄弟は意識がなくなるまで何度も打たれ,息を吹き返すと再び打たれました。とうとう息を吹き返さなくなると,暴徒たちは彼を冷たい水につけ,縦5㌢横10㌢の国旗に敬礼させようとしました。ピラーズ兄弟によれば,「それは大いなる『愛国主義者たち』が見つけたただひとつの国旗でした」。暴徒たちは旗を掲げると,ピラーズ兄弟の腕も上げようとしましたが,彼は手をたれて敬礼する意志のないことを示しました。間もなく彼らは兄弟の首に綱を巻きつけて地面に引き倒し,刑務所に引っぱって行きました。兄弟は彼らが,「このままこいつを絞首刑にしてしまおうじゃないか。そうすりゃ,証人どもを永久に除けるだろう」と言うのをぼんやり聞きました。彼らはそれをさっそく実行しました。ピラーズ兄弟は次のように書いています。「彼らは新しい1.3㌢ほどの絞首索をわたしの首に巻き,耳のうしろで結ぶと通りへ引きずって行きました。それから索は建物から出ているパイプに渡しかけられ,4,5人の暴徒が索を引き始めました。わたしが地面からつり上げられると,索が締まって,わたしは意識を失いました」。
気がついてみると,ピラーズ兄弟は寒々とした刑務所に戻っていました。医師は彼を診察して,「この人を生かしておきたいなら病院へ入れたほうがいいですね。出血多量ですし,瞳孔が開いています」。それに対して警察署長は,「これは,わたしが会った中で一番しぶといやつです」と言いました。「そのことばはわたしをほんとうに力づけました。それによって,わたしが妥協しなかったということを確信できたからです」とピラーズ兄弟は言っています。
医師が出て行くと,暴徒たちが列を作って寒いまっ暗な留置所に入ってきました。彼らはピラーズ兄弟の顔を見ようとマッチをすりました。兄弟は彼らが「こいつは死んでいるのか」というのを聞きました。だれかが,「いや,だが死にそうだ」と答えました。冷え切ってずぶぬれになっていたピラーズ兄弟は,自分が死んだものと思ってくれることを願いながら,ふるえないようにしました。とうとう暴徒たちは立ち去り,すっかり静かになりました。やがて戸があき,テキサス州警察がはいって来て,ピラーズ兄弟は救急車でテキサス州ピッツバークの病院へ運ばれました。彼は6時間も暴徒の意のままにされていました。それにしても,暴徒が兄弟を絞首刑にした時,何が起きたのですか。どうして死ななかったのでしょうか。「わたしはその答えをあくる日遅くなってから知りました」とピラーズ兄弟は語り,こうつけ加えました。
「わたしが回復を待っていたピッツバーク病院の囚人用の部屋へ,トム・ウィリアムズ兄弟が来ました。彼はサルファー・スプリングス出身の地方弁護士で,正義のための真の闘士でした。ウィリアムズ兄弟はわたしを懸命に捜しましたが見つからなかったので,町を相手どって訴訟を起こすと脅しました。すると彼らはわたしが病院にいることを明らかにしました。兄弟の顔を見るのは実にうれしいことでした。そして兄弟は,わたしが絞首刑にされたが索は切れたということが町中のうわさになっていると話してくれました。
「後日,連邦警察が公式の調査をして,大陪審による尋問がなされた時,ペンテコステ派の人々は進んで証言しました。彼らは,『今日はエホバの証人なら,あすはわたしたちです!』と言いました。そして,絞首刑のことについてはこう説明しました。『わたしたちは彼が索にぶらさがるのを見ましたが,それは切れたのです。索が切れるのを見た時,わたしたちはそれを切ったのは主であると思いました』」。
警察署長と他の役人は州の境界線を越えて逃亡したため裁判にはかけられませんでした。ピラーズ兄弟は回復して,その地域の兄弟たちのしもべとしての仕事に戻りました。
残酷な迫害に耐える
読者は,「わたしだったらそうした残酷な迫害にとても耐えられません」と言うかもしれません。自分の力では耐えられないでしょう。しかし,霊的に築き上げるエホバの備えを今活用しているなら,エホバはあなたを強めてくださいます。迫害を受ける一番の理由は,宇宙主権の論争に関連があります。事実上,サタンは,悪魔の試みを受けてエホバへの忠実を保てる人間はだれもいないと主張して,神に挑戦しました。神への忠誠を保ち,それによってサタンが偽り者であることを証明し,その論争でエホバの側を支持するのはなんという特権でしょう。―ヨブ 1:1–2:10。箴 27:11。
暴徒による攻撃がアメリカのエホバの証人に幾度となく浴びせられた激動の時代以来,神の民はエホバに全く依り頼む必要を年ごとに認識してきました。彼らはクリスチャンの原則に一致して自分と愛する人々を守りますが,攻撃を予想して凶器を身に帯びることはしません。(マタイ 26:51,52。テモテ第二 2:24)むしろ,彼らは『自分たちの戦いの武器は肉的なものではない』ことを認めています。―コリント第二 10:4。1968年9月1日号の「ものみの塔」誌の536-542ページをご覧ください。
セント・ルイスでの神権的な大会
人類は第二次世界大戦に苦しみ,神の民に対して迫害が荒れ狂いました。しかし,『万軍のエホバは彼らとともに』おられました。(詩 46:1,7)
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