ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 善良さ ― 人を引き付ける特質
    ものみの塔 1975 | 11月1日
    • 働いたことを,あなたがた自身が知っています。わたしは,このように労して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』とのことばを覚えておかなければならないことを,すべての点であなたがたに示したのです」― 使徒 20:31,33-35。

      善良さを示す点でりっぱな模範を残したことにより,パウロはそれらの長老たちから深く愛されました。肉の体で再び会うことはないかもしれないという事態に面した時,長老たちは「パウロのくびをだいて優しく口づけし」,とめどなく涙を流しました。―使徒 20:37,38。

      エホバ神がわたしたちのために行なってくださった事柄を思いめぐらすと,わたしたちも使徒パウロと同様,エホバ神の善良さを見倣いたいと思わずにはいられません。そのために,他の人々に有用な働きをする機会を尋ね求め,身体的,霊的に困っている人々を助けるべく,利他的な態度で身を粉にして働いてゆけますように。そうするなら,わたしたちも,他の人々から愛される人になるでしょう。

  • 忠実を守るためであり,殉教者となるためではない
    ものみの塔 1975 | 11月1日
    • 忠実を守るためであり,殉教者となるためではない

      命が危ないと医者から言われても輸血を拒むエホバの証人について取り上げた新聞記事を時折りご覧になることがあるでしょう。エホバの証人は,殉教者となって他の人から称賛を受けようとしてそのようなことをしているのだろうか,といぶかる人がいるかも知れません。

      アメリカ外科ジャーナル誌(第116巻,1968年7月号)はこの点に関して次のように注解しています。「その一人一人を見た場合,概してエホバの証人は,その一般的な印象よりずっと道理をわきまえた人々である。力による強制は彼らのきらうことであり,彼らは圧迫に対して抵抗する。しかし,聖人になりたいとの野心を持っているわけではなく,また自己犠牲的な欲求に動かされて輸血を拒んでいるのでもない」。

      そうです,エホバの証人は殉教者になろうとしているのではありません。むしろ,クリスチャンは血を避けねばならないと聖書そのものが述べているゆえに,他の治療法は喜んで受け入れても,良心のゆえに輸血は退けるのです。―使徒 15:19,20,29。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1975 | 11月1日
    • 読者からの質問

      ● イエス・キリストは血肉の体を持つ人間として復活を受けましたか。

      霊感を受けて書かれた聖書によると,イエス・キリストは肉においてよみがえらされたのではありません。ペテロ第一 3章18節には,「彼は肉において死に渡され,霊において生かされた」と書かれています。(新世界訳,アメリカ標準訳,C・B・ウイリアムズの翻訳)他の聖句も,イエスが血肉の体を持つ人間としてよみがえらされたのではないという点を確証しています。

      神の目的は,み子が天の命を再び得ることであって,地上で人間として生き続けることではありませんでした。それゆえ,イエスは霊者としてよみがえらされねばなりませんでした。血肉を持つ人間は天で生きることができないからです。使徒パウロはこう書いています。「肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません」― コリント第一 15:50。

      人間としてのイエス・キリストの場合,天の領域に近づくのを妨げる障害物となったのは,その肉体でした。ゆえにイエスの「肉体」は,ヘブライ 10章20節の中で,幕屋の聖所と至聖所を隔てる「幕」によって象徴されているのです。真の至聖所である天に入る前に,イエスは肉体としての自分の存在を捨て,霊の本質を受けねばなりませんでした。その肉体は,イエスが霊者として「幕」の内側に入るのに障害物となっていたに違いありません。

      見過ごしてならないもう一つの要素は,贖罪の日にささげられたやぎと雄牛がイエス・キリストの犠牲を象徴していた,という点です。そうした犠牲を規定したモーセの律法は,「きたるべきものの影」としての役割を果たしていました。(コロサイ 2:17。ヘブライ 10:1)ご存じのように,影はそれを投げかけている本体の大体の形やかっこうを映し出します。それで,影が本体において成就するためにも,イエスはご自分が犠牲にした血肉の体を取り戻すことはできませんでした。というのは,それら犠牲にされた動物は焼き尽くされ,完全に処分されたからです。(ヘブライ 13:11,12)ですから,犠牲となったみ子の肉体をエホバ神が処分されたのは,道理にかなったことです。その上,イエスがご自分の肉体を取り戻されたとすれば,その犠牲は一時的なものとなり,継続的に罪を贖う価値を持たないものになってしまいます。

      イエスが肉体でよみがえらされたのではない,ということは,二人の弟子とマリア・マグダレネが復活後のイエスを外見だけでは見分けられなかったことからも明らかです。それらの人々は,イエスの言動を見聞きして初めて,それがだれであるかを悟ったのです。―ルカ 24:13-31。ヨハネ 20:14,15。

      確かにイエスは,疑い深いトマスのために,目に見える証拠として,手にくぎ跡があり,わき腹にやりの傷跡のある姿で現われました。(ヨハネ 20:24-29)しかし,その顕現に関してさえ,イエスは一時的に目に見える肉の体を付けて現われたに相違ないことを示す証拠があります。目撃証人である使徒ヨハネはこう報告しています。「戸に錠がかかっていたのに,イエスは来て彼らのまん中に立(った)」。(ヨハネ 20:26)イエスが単に戸を開いて,目に見える様で部屋の中に入って来られたのであれば,もちろん使徒ヨハネはそうした点をあえて指摘しなかったはずです。明らかにイエスは,突然に弟子たちのただ中に現われたのです。錠のかかった戸は,イエスが部屋に入るのに妨げとはなりませんでした。肉体を持つ人間ならそのようなことはできません。しかし,肉体を着けて現われた霊者には,それができたのです。例えば,み使いガブリエルは,神殿の聖所の中にいた祭司ゼカリヤに,目に見える様で現われました。(ルカ 1:11)また,サムソンの両親に現われたみ使いは,火の炎に包まれて昇って行きました。―士師 13:19,20。

      サムソンの両親に語りかけたみ使いに関する出来事は,イエスの昇天を理解するのにも役立ちます。サムソンの両親の目には,そのみ使いが火の炎に包まれて昇って行くのが見えました。しかし,それから明らかに霊の体に戻り,視界から消え去りました。同様に,イエスの昇天の際にも,イエスは雲に取り上げられて弟子たちの視界から見えなくなるまで,人間の目に見える様にとどまりました。それからイエスは,別の時に肉体を付けて現われたみ使いたちと同様,目に見える肉体を捨て霊に戻ったに違いありません。―使徒 1:9-11。

      イエスが,過去に現われたみ使いたちと同様,単に弟子たちの目に見えるよう肉体を着けていただけであることは,イエスがきちんと衣服を身に着けて現われた点からも明らかです。墓の中に横たえられた時,イエスは服を着ておらず,上等の亜麻の巻き布で包まれていただけでした。イエスの復活後,その巻き布は墓の中に残されていました。それでちょうどイエスが衣服を目に見える形で出現させねばならなかったように,イエスご自身も弟子たちの肉眼に見えるよう肉体を着けて現われねばなりませんでした。―ルカ 23:53。ヨハネ 19:40; 20:6,7。

      こうした背景に照らしてみると,イエスが天に行かれてからでさえ「人の子」と呼ばれてはいても,イエスが天において人間の体を持ってはいないことを認識できます。(使徒 7:56)イエスがみ父から王権を受けることを述べる,メシアに関する預言は,「人の子のごとき者」としてイエスに言及しています。(ダニエル 7:13,14)ゆえに,ご自分の人間としての本質をなげうって,要求された犠牲をささげたとはいえ,イエス・キリストはメシアを表わす「人の子」という称号を保持したのです。同様に,イエス・キリストは犠牲としてご自分の命をなげうったので。「子羊」という称号を持っておられます。(啓示 21:22)その称号は,明らかに天におけるイエスの姿や本質を描写しているものではありません。

      それで,聖書は全体として,イエスが血肉を持つ人間としてでなく,栄光を受けた霊者として復活を受けたことを立証しています。

      ● エホバ神やそのみ子が,腎を「見」,それを「練りきよめ」,「試み」,「調べる」と述べる聖句は,何を意味していますか。

      そのような聖句の中で,腎は明らかに最も奥深い感情

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする