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  • キリストを宣べ伝える ― そねみによるか,それとも善意によるか
    ものみの塔 1976 | 8月15日
    • キリストを宣べ伝える ― そねみによるか,それとも善意によるか

      神のしもべたちは,人々を助けようとして,始終厳しい反対に遭遇してきました。イエス・キリストに反対した者たちは,ささいな言い掛かりを見付けては,偽りの非難とともにあらゆる嘲笑や批判を浴びせました。

      イエスが飲み食いしたために,彼らはイエスを食い意地の張った,大酒飲みとして非難しました。(マタイ 11:19)イエスが招待を受けて罪人たちの家に出掛けて行き,良いたよりを語ったがゆえに,イエスは罪人たちと交わっている,と言いました。(マルコ 2:15,16)イエスが人々を実際にいやし,ひどい病気への捕らわれから解放すると,彼らは安息日に関して自分たちが作った規則をイエスが破っているとして,その業をやめさせようとしました。―マタイ 12:9-14。

      これら宗教家たちは,イエスを無力にすることができるなら,たとえ人々が苦しんでも一向に構いませんでした。イエスが行なった伝道とその歩みは,彼らが価値のない教え手であることを暴露したからです。(マタイ 15:14)彼らは神に対する,あるいは神からの誉れではなく,人間からの賞賛を求めていたのです。―マタイ 23:5-7。

      使徒たちも同様の反対に遭いました。パウロは自由をもたらす良いたよりの光を広めたために,宗教上の反対者から訴えられ,不当にもローマで投獄されていましたが,反対者たちはその間に,パウロの伝道のもたらした良い結果を無に帰せしめようとあらゆる手を尽くしました。パウロはそれについてこう語っています。「たしかに,そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが,ほかの者たちは善意によってそうします……前者は闘争心からそうしているのであり,純粋な動機によるのではありません。彼らは獄につながれているわたしに患難を引き起こそうと考えているのです」― フィリピ 1:15-17。

      パウロに『患難を引き起こしていた』人々は主にユダヤ人でした。そうしたユダヤ人たちはクリスチャンになったと唱えていましたが,パウロの純粋な使徒的教理から逸脱していました。そして,イエスが受けたような非難や迫害を受けることを恐れていました。(ガラテヤ 6:12,13)彼らは純粋な動機を抱いてはおらず,かえって疑いや争いや分裂を引き起こそうとしていました。つまり,使徒の成し遂げた業や,彼が熱心に築き上げた人々の霊性を打ち壊そうとしていたのです。患難を引き起こしていた者たちは,パウロが獄につながれて受けていた苦しみに,さらにこうした重荷を加えて,使徒の霊を弱らせようとしていたのです。

      そのような反対者に関してコリントの会衆に手紙を書いた際,パウロは自分とその同労者たちが『栄光と不名誉により,良い評判と悪い評判とによって,人を欺く者のようで真実な者として』受けた苦難について描写しています。(コリント第二 6:8)そうです,パウロに戦いをいどんだ者たちは,パウロは弟子たちを誤導する,欺く者であるとまで言ったのです。これは,会衆が分裂することを,また反対者たちが真のクリスチャンを会衆から引き離すことを目的としたものでした。それは,自分たち独自の新しい弟子を外部の世界から得ようと努力したというよりは,むしろ,キリストの「弟子たちを引き離し」,それら真の弟子たちが宣明していた音信を他の人々に聞かせないようにするために,クリスチャン会衆に加えられた攻撃にほかなりませんでした。―使徒 20:30。

      ゆえに,これら初期クリスチャンの反対者たちが,自分たちはクリスチャンであると唱えてはいても,他の人々を励まそうとしていなかったことは明白です。彼らはキリストの弟子を作る業に従事しないだけでなく,良いたよりに耳を傾けようとする人々の霊性を打ち壊そうとしたのです。

      真の伝道は築き上げる

      キリストの王国と,地に対するその来たるべき支配に関する良いたよりを宣べ伝える,今日の業についてはどうですか。今日のクリスチャンであるエホバの証人は,この良いたよりをあらゆる人に伝えるために熱心に働いています。エホバの証人は自分たちが間違うことのない,完全な者であるなどと唱えてはいません。また,彼らは霊感を受けた預言者でもありません。しかしエホバの証人は,清い生活を送り,良いたよりを教えることによって人々を助けようとしています。幾百万もの人々がそれに答え応じています。

      そのような活動は築き上げる業であると言えますか。結果を見るだけでその答えは明らかです。その活動を調べてみれば,教え,振舞い,愛において世界的に一致しているという顕著な例が見られるのではありませんか。毎年,幾十万もの人が自分たちの人格を変え,法を守る市民になり,聖書の道徳律を守り,幸福な家庭生活を築き,同様の高い規準に従うよう他の人々をも導いているのをわたしたちは見ています。仲間の人間に対する愛を示すために,自分の時間や資力を用いる人々を,他のどこに見いだすことができますか。彼らは人々の家を訪問し,関心を持つ人々に神のみ言葉の真理を教えるために時間を費やして,そうした愛を示すのです。教えを受ける人々の間から人種差別を一掃する国際的なプログラムや『つるぎを打ちかえて,すきとし,もはや戦いのことを学ばない』人々を他のどこで観察できますか。(イザヤ 2:4,口)いかなる犠牲を払ってでも,聖書の真理の純粋さを支持し,擁護することに関心を払う人々を他のどこに見いだすことができますか。―テモテ第一 3:15。

      打ち壊しても,再建しない

      とはいえ,初期クリスチャンと同様,今日のエホバの証人にも反対者がいます。中には,初期のキリスト教の場合と全く同様,彼ら自身の中から出てくる反対者もいます。(使徒 20:30)しかし,そうした反対者たちの目的は何ですか。それは打ち壊すことです。彼らの言ったり広めたりする事柄は,エホバの証人に対する攻撃にほかなりません。そうした人々は他の人を築き上げていますか。彼らは,清い生活を送り,王国を宣べ伝えるクリスチャンを集める大規模な業に携わっていますか。もしそうした人がエホバの証人との交わりからだれかを引き離したとしたら,引き離された人は一体どこへ行けばよいのでしょうか。その人はどこで霊的に築き上げられますか。

      イエスが地上にいた時にも,同様の質問が起きました。ある人々は,自分たちがイエスの言葉を受け入れられなかったために,不平を言うようになり,イエスから離れて行きました。その時,イエスは使徒たちにこう尋ねました。「あなたがたも去って行きたいと思っているわけではないでしょう」。シモン・ペテロはこう答えました。「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます」。(ヨハネ 6:67,68)どこへ行けば,霊的に築き上げるものを得られるでしょうか。それら不満を抱いて離れていった人々のところへ行って,助けを得られるでしょうか。使徒たちはそれが不可能であることを知っていました。キリストから離れるとすれば,自分たちが信じてきた事柄を捨てて何も信じなくなるか,キリストによって自分たちがそのなわめから解放されたはずのユダヤ教に逆戻りするかしか道はありませんでした。―ガラテア 4:8-11。

      今日エホバの証人に反対する人々は,神に関する知識の面で人々を築き上げるためのプログラムを持っていますか。そして,人々に漸進的な霊的教育を与えているでしょうか。いいえ,それどころか彼らはキリスト教世界の宗教体制と手を結び,大抵自分たちの選ぶ教派に加入,ないし再加入するよう人々に勧めます。場合によっては僧職者がそうした不満を抱く人々に自分の説教壇を使わせますが,それは福音を伝道させるためではなく,エホバの証人をけなすためです。その上こうした人々は,自分たちが一度は捨てたはずの教え,それらが偽りであることを公に宣明してきた教え,すなわち三位一体(『神には三つの位格がある』)の教理,人間の魂の不滅,邪悪な者に対する地獄の火の責め苦などの非聖書的な教えに戻ってゆくのです。そうした人々は,場合によっては長年にわたって,自分たちがエホバの証人に欺かれてきた,と唱えます。それは「偽使徒たち」がパウロに浴びせた非難と同じです。ところがそうした人々は,自分たちが突然啓発を受け,自分たちが否認したはずのそうした教理は元々間違ってはいなかったことに気付いたと言うのです。そして,そのような教理を疑い,エホバの証人と交わっていたときにそうした教理を批判したことを悔いるのです。

      このように一つの立場から別の立場へとさまようことは,それら反対者の誠実さに疑問を投げ掛けるのではありませんか。そうした人々の大半は,そのような教理が偽りであり,キリスト教以外の宗教に由来していることを宣明するようになった,元教会員です。エホバの証人と交わっていた間,彼らは自分たちの確信する事柄に関して証拠を提出して人々に宣べ伝えました。これらの人々は,エホバの証人に敵対するようになったとすれば,パウロの模範に従っていると言えるでしょうか。彼は元来ユダヤ教の一途な信者で,モーセの律法の業によって義とされ得ると信じていました。しかしクリスチャンになったとき,そうした事柄を捨てました。パウロに反対した人々はクリスチャンは律法の事柄に再び服し,救いのためにそのような業に信頼を置かねばならないと唱えました。それに対してパウロはこう答えています。「自分が一度打ち倒したそのものを再び築き上げるとすれば,わたしは自分が違犯者であることを明示することになるのです」― ガラテア 2:18。

      神とキリストを一つの方法で説明しておきながら,その後聖書の主要な教えや基本的な教理に関する自分たちの理解が誤っていたことに気付き,長年にわたる研究の末,誤っていると確信していたはずの教理に戻るとすれば,それは重大な問題です。クリスチャンはそのような基本的な教えに関して心の定まらない,“優柔不断”な状態にあってはなりません。そのような人の誠実さや判断にどれほどの信頼を置けるでしょうか。

      さらに,イエスはご自分の弟子たちについて,『彼らは世のものではありません』と言いました。(ヨハネ 17:16)しかし,キリスト教世界の諸教会が世の肝要な部分となっていることを否定できる人がいるでしょうか。こうした諸教会に逆戻りして彼らと手を握る人々は,僧職者が諸国民の戦争を祝福し,同じ教派に属する人々が両方の側で自国の軍隊の勝利と相手国の軍隊の破滅を祈っていたという事実を無視しています。そうした諸教派を再度支持するようになるなら,流血の罪から一度は解放されたものの,再びそれを自分の身に招くことになります。―民数 35:33と啓示 18:24を比較してください。

      三位一体,永遠に火の燃える地獄でひどい責め苦を受ける魂,惑星としての地球の滅び,国家間の流血の戦争を支持するといった,クリスチャンをこの世の一部として堕落させるような信条など神を辱めるような教理から身を清め,それから後にそうした教理を再び採用するのであれば,その人は使徒ペテロが当時のある人々について述べたような事柄をしていることになります。ペテロは次のように書いています。「たしかに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。彼らにとっては,義の道を正確に知らないでいたほうが,それを正確に知ったのち,自分に伝えられた聖なるおきてから離れてゆくよりはよかったのです。真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。

      自分の立場を確かめる

      それでは,エホバの証人との研究を通してエホバ神とその王国に対する信仰を築いたなら,どのようにして自分の立場が正しいものであると確信できますか。使徒パウロは,この点に関して,信仰を揺るがせようとする人々に直面したテモテに訓戒を与え,こう述べています。「しかしあなたは,自分が学びまた確信した事がらに引き続きとどまっていなさい。あなたは,それをどのような人たちから学んだか,また,幼い時から聖なる書物に親しんできたことを知っているのです。その聖なる書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます」― テモテ第二 3:14,15。

      この諭しはテモテにとって,どれほど有益でしたか。テモテは敬けんなユダヤ人である母と祖母によって育てられました。ですから,ヘブライ語聖書の述べている事柄を知っていました。テモテはそれを信じ,かつ「少しも偽善のない」信仰を身に付けるよう勧められていました。(テモテ第二 1:5)それから使徒パウロの教えを聞き,(滑らかな話しぶりによってではなく,パウロの教えを聖書から証明することによって)キリスト教を受け入れるようさらに説き勧められました。さてパウロは,それをどのような人たちから学んだかを思い出すようテモテに告げています。彼らは利己的な目的で,つまりお金を取ったり,テモテを利用したりするために彼を教えたのでしょうか。それとも,テモテを本当に愛していたからでしょうか。テモテはパウロという人間の弟子になったのですか。それとも主イエス・キリストの弟子になったのでしょうか。こうした事柄を知っていれば,自分を引き離そうとする人々の悪い動機を見抜くことができました。

      同様に,今日のエホバの証人,およびエホバの証人と勉強している人々は,次の点を考慮できます。わたしが信じるようになった事柄を自分に確信させる説得力となったものは何だろうか。それは人間の滑らかで巧妙な話しぶりだろうか。自分は何らかの仕方で強制されたり,圧制の下に置かれたりしただろうか。そして,わたしを教えてくれた人々についてはどうだろうか。彼らは経済的な面で利益を受けただろうか。定期的にわたしの家へやって来るための費用やその時間に対する支払いを請求しただろうか。わたしを教えてくれた人たちはわたしを彼らの弟子にしただろうか。そして,わたしを教えるにあたって,自分たちの“知恵”に基づいてどうすべきかを告げただろうか。それとも聖書に導きを求めただろうか。わたしのところへ訪ねて来た人々は,わたしに対する関心を示していただろうか。そのような関心を示す宗教組織がほかにあるだろうか。パウロは,テサロニケにいたとき,自分とその仲間の人々についてこう言いました。「[わたしたちは,]乳をふくませる母親が自分の子どもを慈しむときのように,あなたがたの中にあって物柔らかな者となりました。こうして,あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。(テサロニケ第一 2:7,8)あなたのところへ来た人たちはこれと同じほどあなたを愛し,『あなたのために自分の魂を分け与える』ほど,自らを繰り返し差し出しましたか。

      反対者たちの示した人格を考えれば,そのようなクリスチャンは彼らの目に何と対照的なものと映ったのでしょう。パウロがローマにあった会衆に書き送ったとおりです。「さて,兄弟たち,あなたがたに勧めますが,あなたがたが学んだ教えに逆らって分裂とつまずきのきっかけとをもたらす者たちに目を留め,その者たちを避けなさい。そうした人びとは,わたしたちの主キリストの奴隷ではなく,自分の腹の奴隷となっているのです。そして,彼らは滑らかな話しぶりやほめことばによって,偽りのない者たちの心をたぶらかします」― ローマ 16:17,18。

      神のしもべと闘う者に及ぶ結果

      では,エホバの証人の行なう宣べ伝える業とその結果を破壊しようとする,不満を抱く少数の人々の努力については何と言うべきですか。それは,使徒パウロをけなそうとして宣べ伝えた人々に関して,同使徒の述べたとおりになります。「ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは喜んでいます」。(フィリピ 1:18)そうした人々は,争いを引き起こすことによって,図らずもエホバの証人の述べている事柄に対する注意を喚起します。そうした反対者たちの努力の最終的な結果の一例として,使徒パウロはモーセの時代のエジプトの魔術師に言及して,こう述べています。「また,ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったと同じように,これらの者も真理に逆らいつづけます。これらは,思いの腐りきった者,信仰については非とされた人びとです。とはいえ,彼らがそれ以上進むことはありません。彼らの狂気は,そのふたりの狂気の場合と同じように,すべての人にきわめて明らかになるからです」― テモテ第二 3:8,9。

      同使徒は,ヘブライ 6章4節から8節までの中で,真理から脱落してゆく人々のさらに危険な事態について述べています。それから,忠実かつ誠実に神に仕えている人々に語りかけ,こう述べています。「しかし,愛される者たちよ,わたしたちはこのように語りながらも,あなたがたに関して,より良い事がら,また救いを伴う事がらを確信しています。神は不義なかたではないので,あなたがたがこれまで聖なる者たちに仕え,いまなお仕えつづけているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです。しかしわたしたちは,あなたがたひとりひとりが同じ勤勉さを示して,希望に対する全き確信を終わりまで保つようにと願います。それは,あなたがたが怠惰な者となったりせず,むしろ,信仰としんぼうとによって約束を受け継ぐ人びとに見倣う者となるためです」― ヘブライ 6:9-12。

      聖書の優れた諭しに従って,キリストとそのみ父エホバのお名前を負う民すべてが,信仰と忍耐によって,自分のクリスチャン兄弟たちや隣人たちを築き上げ,自ら永遠の命というすばらしい約束を受け継ぎ,さらに他の人々がそれを得るよう助けてゆけますように。―テモテ第一 4:15,16。

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      とこしえの命に対する夢

      ● 「永遠の命に対する夢は,恐らく人類の誕生以来のものであろう」と,ビクトル・トビアッシ博士は西ドイツの一雑誌「アウスブリック」の中で述べています。同博士は,人間の寿命を延ばそうとする様々な試みを列挙しました。その中には,摘出された臓器を用いる方法や,液体窒素の中で“凍らせ”,後で解かして「新しい命」に生き返らせる方法まで記されています。

      またトビアッシ教授は,先進国における平均寿命が1955年当時約70歳にまで達していたと語っています。しかし同博士の説明によると,これは新生児や幼児の平均余命が延びたためであり,成人の平均寿命が延びた訳ではありません。

      これらは,聖書にある二つの点を裏付けるものです。一つは,「われらが年をふる日は七十歳にすぎず あるひは壮やかにして八十歳にいたらん」という点です。(詩 90:10)二番目は,「[エホバ]神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」ゆえに,人間が永遠の命を夢見るのも驚くには当たらないという点です。(伝道 3:11,口)地上のすべての創造物の中で,人間だけが,過去や永遠の将来,あるいは永遠性という概念を神から与えられています。しかもエホバは,ご自分を愛する人々にとこしえの命を与えることを目的としておられるのです。

      将来はどうなるか?

      ● チャールズ・F・ケタリング財団とライト・イングラハム研究所の後援で集まった,各分野の専門家20人は,「四半世紀への疑問」と題する印刷物を最近発行しました。彼らはこのような結論を下しています。「ききん,社会不安,そして起こり得る政治上の混乱は,恐らく遠い将来の問題ではないだろう……西暦2000年までには,食糧の生産,貯蔵,輸送,分配などの諸問題は,今日のそうした問題が子供の遊び程度にしか見えなくなるほど悪化しているだろう」。

      人間はそのような問題を自分で解決することは決してできません。「歩む人が,その歩みを自分で決めること(は)できない」からです。(エレミヤ 10:23,口)社会不安を終わらせ,十分な食物を約束し,また人間の他の難問題を除き去るのは神だけです。エホバは間もなく,『すべての民のために祝宴を設け』,敬けんな人々を豊かに祝福します。(イザヤ 25:6-8,口。啓示 21:4)そうした喜ばしい見込みに思いを留め,それを正しく評価する人々は,次のような祈りを神にささげたダビデと同様,賢明にも創造者に頼る道を追い求めます。「わたしの歩みがあなたの道筋につき従いますように。その道筋にあってわたしの足取りは決してよろめきません」― 詩 17:5,新。

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