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「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい」ものみの塔 1977 | 11月15日
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(コロサイ 4:5,6)箴言 15章1節にも注目してください。
26 わしたち自身の中にひゆ的な塩を持つことは,イエスが使徒たちにお与えになったどんな最後の諭しを守るのに助けになりますか。そしてイエスの弟子としてのわたしたち自身にどんな結果が及びますか。
26 自分の中に塩を持ち,それで自分の言葉を味つけるなら,イエスが十二使徒との話を終えるときに言われたことをするのに,つまり『互いの間で平和を保つ』のに役立ちます。(マルコ 9:50)わたしたちが如才なく振舞い,思いやりを持ち,健全で,人の心をいやすような物の言い方をするなら,キリストの弟子としての互いの平和な関係が促進されることは間違いありません。わたしたちの中に神の霊があることはそれによって明らかになります。「霊の実は,愛,喜び,平和」だからです。(ガラテア 5:22)また,「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,ついで,平和を求め」ます。(ヤコブ 3:17)したがって,平和に関するイエスの諭しに従うときには高度の知恵が示されます。それは競争の激しい,分裂した,崩壊しつつあるこの世界のただ中にあって,キリストの真の弟子であることを示すしるしです。それはキリストの支配下に組織された神の民としてわたしたちを団結させるのです。
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あなたの信仰は生きた信仰ですかものみの塔 1977 | 11月15日
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あなたの信仰は生きた信仰ですか
信仰という敬虔な特質は,極めて望ましいものです。(ヨハネ 3:16。コリント第二 5:7。ヘブライ 10:38)とはいえ,信仰には単に信じることだけでなく,それ以上の事柄が含まれています。聖書の筆者であるヤコブは「ああむなしい人よ,あなたは,業を別にした信仰が無活動であることを知りたいと思いますか」と尋ね,次いで,「実に,霊のない体が死んだものであるように,業のない信仰も死んだものなのです」と述べています。(ヤコブ 2:20,26)クリスチャンの信仰は発展しないものであってはならず,地を美しく飾る植物のように,生き続け,成長し続けなければなりません。―テサロニケ第二 1:3。
神が古代イスラエル人にカナンの地を与えると約束された時に,イスラエル人の取った態度から,この点に関する貴重な教訓を得られます。神は,超人的な支援をイスラエル国民に与えると保証し,次のように言われました。
「わたしは使をあなたの前につかわし,あなたを道で守らせ,わたしが備えた所に導かせるであろう。あなたはその前に慎み,その言葉に聞き従い,彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに,彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし,もしあなたが彼の声によく聞き従い,すべてわたしが語ることを行うならば,わたしはあなたの敵を敵とし,あなたのあだをあだとするであろう」― 出エジプト 23:20-22,口。
イスラエル人は,神と協働し,カナン人を根絶する義務の下にありました。神はこう命じておられたのです。「あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。また彼らと婚姻をしてはならない」― 申命 7:2,3,口。
イスラエルが約束の地に入り,エリコの東方にあるギルガルで営を張った時,「エホバの軍の君」と名乗るみ使いが,ヨシュアの前に現われました。そのみ使いは,神が奇跡によってエリコの城壁を崩壊させることを明らかにしました。そして,実際にその城壁は崩れ落ちたのです。(ヨシュア 5:13–6:27,新)それは神が確かに『イスラエルの敵を敵とされる』ことを証明する,何と信仰を鼓舞する出来事だったのでしょう。
しかし,それがすべてではありませんでした。エホバのみ使いの君の導きのもとに,諸都市は次々にヨシュアとイスラエル国民の前に陥落していったのです。(ヨシュア 6,10,11章)神の民は,熱意を込めて,カナン人を追放するという神のご命令を完全に遂行するに当たり,信頼の置ける根拠を与えられました。しかし彼らは,生きた信仰を全く保つほどまで,その命令に従ったでしょうか。
いいえ,後日聖書は,神のみ使いが今度は暗い音信を携えて再び現われたことを述べているのです。次のように記されています。
「主[エホバ,新]の使がギルガルからボキムに上って言った,『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて,あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて,言った,「わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない」と。しかし,あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは,なんということをしたのか。それでわたしは言う,「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり,彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう」と』」― 士師 2:1-3,口。
イスラエル人が神に「従わなかった」ことを示す例として,聖書は,カナンの南部のある特定の地域の住民が,「鉄の戦車をもっていたので」,ユダの部族が彼らを追い払おうとしなかったことを挙げています。(士師 1:19,口)これらの鉄の戦車は,ユダの部族に恐れを抱かせたようです。その後,ベニヤミン,マナセ,エフライム,ゼブルン,アセル,ナフタリ,ダンの諸部族も,数々の町や村里からカナンの住民を追い出すことをしませんでした。それどころか,彼らはカナン人たちの間に住むことに同意し,カナン人のうちの幾らかの人々を「強制労働」に服させました。―士師 1:21-36,口。
イスラエル人はエホバへの信仰を公に言い表わし,かねて「エホバの語られたすべての事を」守ることに同意していましたが,生きた信仰を示す敬神の行ないに欠ける場合が多くありました。(出エジプト 19:8,新; 24:3-7)イスラエル人は信仰に欠けた歩みをした結果,益を受けるどころか,自責の念にさいなまれることになりました。ボキムにおいてみ使いがイスラエルを叱責したことについて,聖書はこう述べています。「主[エホバ,新]の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので,民は声をあげて泣いた。それでその所の名をボキム[“泣く者”の意]と呼んだ」― 士師 2:4,5,口。
そして,さらに悪い結果が続いてもたらされました。堕落したカナン人たちの中に住んだため,イスラエルは偶像崇拝に誘い込まれ,その子供たちは悪霊への犠牲とされ,その上多くの無実の人の血が流されました。それゆえ,エホバの怒りがその民に向かって燃え上がったのです。―詩 106:34-42。
聖書の歴史に残るこうした出来事から,今日のクリスチャンはどんなことを学べるでしょうか。クリスチャンは,文字通りの諸国民を追い出すように命じられてはいませんが,成し遂げるべき挑戦的な業を持っています。その業は,エホバを崇拝しない者たちから,クリスチャンを分けるものとなります。イエスはご自分の弟子たちに,神の王国の「良いたより」を全地で宣べ伝え,『行って,すべての国の人びとを弟子とする』よう,お命じになりました。―マタイ 24:14; 28:19,20。
あなたは,王国を宣べ伝え,弟子を作るこの業に,従順にあずかっておられますか。聖書は,この業にもみ使いの支援があり,神にとって満足のゆく仕方で完了することを保証しています。(啓示 14:6)前述の通り,古代イスラエルは,カナン人を根絶するようにとの神のご命令を成し遂げるための信仰と熱意の欠如に陥りました。同様に今日,クリスチャンは,イエスがご自分の追随者たちに行なうよう命じられた業に対する自分の熱意が,冷めてしまわないように気をつけねばなりません。
また,カナン人と「なんの契約をもしてはならない」というイスラエルに対する神のご命令と同様,クリスチャンは,次の命令を与えられています。「不つりあいにも不信者とくびきを共にしてはなりません。……『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』とエホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。(コリント第二 6:14-17)あなたは,世の汚れすべてから離れることによって,自分の信仰が本当に生きたものであることを示しておられますか。
古代イスラエルは,神への信仰に欠け不従順であったため,ボキムにおいて叱責を受け,涙を流す結果になりました。同様に今日,不信仰はさらに重大な嘆きをもたらしかねません。どうしてそう言えますか。
イエスのお与えになった「しるし」の世界的な成就は,1914年以来,人類がキリストの「臨在と[現在の]事物の体制の終結」の時に生きていることを示しています。(マタイ 24:3–25:46)ですから,イエスはご自分の例え話の一つの中で,今の世代の人々に関して次のように述べておられたのです。「事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って義人の中から邪悪な者をより分け,彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」― マタイ 13:49,50; 24:3,34。
聖書によれば,「火の燃える炉」とは,「神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復」がなされる際に,そうした邪悪な者たちが受ける「永遠の滅び」を象徴しています。(テサロニケ第二 1:6-10)一方,良いたよりに従う人々,つまり日々行なっている聖書に基づいた業によって,神とイエス・キリストへの信仰を輝かせている人々にとっては,義の新秩序に生き残るという幸福な見込みがあります。(ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-5)あなたの信仰は,そうした生きた信仰ですか。
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読者からの質問ものみの塔 1977 | 11月15日
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読者からの質問
● ヤコブ 4章5節には,聖書からの引用が含まれているようですが,ヤコブはどの聖句を引用していたのですか。またヤコブは何を言おうとしていたのでしょうか。
ヤコブ 4章5節にはこう記されています。「あるいは,あなたがたにとって,『わたしたちのうちに宿っている霊は,そねみの傾向をもって絶えず慕う』と聖句が述べていることは無益に思えるのですか」。
実際のところ,弟子ヤコブが引用した聖句としてはっきり挙げられるような単一の聖句はありません。恐らくヤコブは,幾つかの聖句に見られる基本的な考えを,言わば簡単にまとめていたのでしょう。
ヘブライ語聖書の中には,ヤコブの言葉遣いに見合う特定の聖句がないため,聖書注釈者の中には,ヤコブが外典や失なわれた書物から引用していると示唆する人もいます。しかし,霊感を受けた,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちが「聖句が述べている」という表現を用いる場合,ヘブライ語原典からであれ,そのギリシャ語訳からであれ,霊感された正典から引用したり,一部を参照したりしているという点で一貫しています。(ヨハネ 19:37。ローマ 4:3; 9:17。ガラテア 4:30。テモテ第一 5:18)ギリシャ語聖書の筆者が,聖書の正典として認められていない外典から引用することはありませんでした。
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