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  • 神の王国 ― 唯一の希望
    ものみの塔 1979 | 7月1日
    • さえされたのです。王国の支配の下で,キリストは地上のあらゆる人に祝福と恩恵を施すために,その奇跡的な力を再び行使されます。やがて,全地はすべての人が楽しく過ごす,美しいパラダイスに変えられるでしょう。―ルカ 23:43。啓示 21:4。

      神の王国こそ,わたしたちすべての切に求める祝福を実現するための唯一の希望なのです!

  • だれが本当に真理をもっているか
    ものみの塔 1979 | 7月1日
    • だれが本当に真理をもっているか

      「あなたの真理のうちを歩ませ,わたしを教えてください。あなたはわたしの救いの神なのです」― 詩 25:5,新。

      1 真理という語にはどんな意味がありますか。エホバは真理の基であると言えるのはなぜですか。

      真理という語は,事実と一致し,現実と一致する事柄と定義されています。真理は正しく,純粋なもののことを表わします。真理の源,真理の基は,全能者なる宇宙創造者エホバ神です。エホバ神はご自分の創造物のあらゆる面についての真理をご存じです。また正邪,善悪をご存じです。現在の世界情勢の意味するところのみならず,過去に起きた事柄,またそれが起きた原因についても真実のことをご存じです。そして将来をどうするかもすでに決めておられますから,将来についての真理もご存じです。―イザヤ 14:24。

      2 聖書はエホバの真実さをどのように表現していますか。

      2 こうした理由で詩篇作者は創造者を,「真理の神なるエホバ」と表現しています。(詩 31:5,新)したがって神が語られるなら,その言葉はいつの場合でも信頼できます。「あなたのみことばは真理です」。(ヨハネ 17:17)人間の行動に関する命令をお出しになるなら,それはすべて正しい命令です。「あなたのすべての戒めは真実です」。(詩 119:151,新)エホバが何事かを約束されるなら,わたしたちはそれを当てにすることができます。「エホバが……なさったすべての良い約束のうち,ひとつとして果たされないものはなかった。それは皆その通りになった」。(ヨシュア 21:45,新)したがって聖書は神に関し,「とこしえの王よ,あなたの道は義であり真実です」と述べています。―啓示 15:3。

      真理のうちを歩む

      3,4 (イ)人はどのように真理のうちを歩みますか。(ロ)なぜエホバは人間が真理のうちを歩むことを望まれますか。

      3 真理の神が,ご自分の創造物である人間に真理のうちを歩むよう望まれるのは道理です。ではそれはどんな方法でなされるべきでしょうか。神とはだれか,神の目的は何か,に関して正確な知識を得,わたしたちが何をすることを神が望んでおられるかを学び,そしてそれを行なうという方法です。(ヨハネ 17:3。ヨハネ第一 2:3,4)これは実際に,真理のうちを歩むことは命の道になるということです。聖書はそれを「この道」と表現しています。―使徒 9:2。

      4 神が人間に真理のうちを歩むことを望まれる理由の一つは,人間が神の立派な特質を反映させるとき,栄光と喜びが創造者にもたらされるからです。(創世 1:26,27。箴 23:24,25と比較してください)さらに,神は人間をお造りになったので,人間にとって何が最善かを知っておられる,という理由もあります。ですから神の指示に従う人々は,自分自身と他の人々に最大の,いや永遠の益をもたらすのです。(イザヤ 48:17)さらに言うならば,真理のうちを歩むことによって人間は,神がご自分の目的を真理探求者に知らせるためにお用いになる人々と交わる特権が得られる,という理由もあります。なぜなら聖書には,「主権者なる主エホバは,その内密の事柄を自分の僕なる預言者たちに啓示してからでなければ何一つ事を行なわないのである」と述べられているからです。―アモス 3:7,新。

      5 真理のうちを歩まねばならない重要な理由としてほかにどんなものがありますか。

      5 真理のうちを歩まねばならないもう一つ重要な理由があります。そうする人は,エホバの宇宙支配権の正当性を支持していることを公表することになります。これは,反逆者に変わった霊者,悪魔サタンが挑戦を投げかけた点です。(創世 3:1-4。啓示 12:9)その挑戦には,神とその真理に対して忠節を保つ人々を神は生み出すことができない,というあざけりも含まれていました。(ヨブ 1:6-12)ですから,どんな圧力のもとにあっても真理をしっかり擁護するなら,正義を曲げない忠誠の人たちがいることを示すことになります。(箴 27:11)逆に,真理のうちを歩まない人は,単にまちがった道を歩むだけにとどまらず,そのほかのことも行なっていることになります。その人は「偽りの父」であり,「不信者の思いをくらまし」てきた「この事物の体制の神」である悪魔サタンと,意識的にあるいは無意識に,手を結んでいるのです。―ヨハネ 8:44。コリント第二 4:4。

      6 真理はどのようにして全世界に確立されますか。箴言 12章19節をお読みください。

      6 しかし真理の神は,虚偽とその結果の悪の存在を許す期間に限りを設けておられます。(箴 12:19。伝道 3:1)その時が尽きるとき,神はこのサタンの体制を,その支持者や愛好者もろともに粉砕することを意図しておられます。(ダニエル 2:44。啓示 19:17-21)「わたしの天の父がお植えになったのでない植物はみな根こぎにされます」とイエスは予告されました。(マタイ 15:13)このことは,『義の宿る』神の新秩序に道を開きます。(ペテロ第二 3:13)それはつまり,真理に基づいた地的社会ができ,地には真理を愛する人々だけが住むようになるということです。

      7 もし真理を愛するなら,わたしたちの態度はどのようなものであるべきですか。

      7 ですから,正しいことを愛し,神の新秩序に住むことを願うなら,真理のうちを歩むことがぜひとも必要です。「あなたご自身の道をわたしに知らせてください,ああエホバよ。あなたご自身の行路をわたしに教えてください」と祈った詩篇作者の態度に倣わねばなりません。(詩 25:4,5,新)また,預言者サムエルが古代イスラエルに与えた次の助言にも留意すべきです。「あなたがたはそれて行って,無益で,救い出しもしない実在しないものに従ってはなりません。……ただエホバを恐れなさい。あなたがたは心を尽くし,真実をもって彼に仕えなければなりません」― サムエル前 12:21,24,新。

      わたしたちの時代のために残された“型”

      8,9 (イ)イスラエルは,周囲の国々とは対照的に,真理のうちを歩むことによってどんな益を得ましたか。(ロ)しかし真理のうちを歩みつづけることをやめたとき,イスラエルはどうなりましたか。

      8 過去における神の人々に対する行動は,わたしたちのための“型”すなわち例となっています。真理のうちを歩む者,また歩まない者を神はどのように扱われるかを,わたしたちはそれらの型から学ぶことができます。(コリント第一 10:11。ローマ 15:4)その一つは古代イスラエルという型です。古代イスラエルは神の律法を与えられた恵まれた民でした。神の真理のうちを歩んでいるかぎり,イスラエル人は豊かに祝福されました。例えば,敵国のとりこになることはありませんでした。(申命 28:7)作物はよくでき,家畜も豊富でした。(申命 11:8-15)その社会制度は秩序のある高度に発達したものであったので,刑務所の必要はありませんでした。(出エジプト 22:1-15)神を恐れぬ国々を襲った疫病も,彼らには臨みませんでした。(申命 7:15)そしてもし彼らが真理のうちを歩みつづけるなら,「あなたはすべての民の中で最も祝福された民となります」と,エホバは彼らに約束されました。(申命 7:14,新)これと対照的な周囲のカナン人の国々の堕落した状態に注目してください。ヘンリー・H・ハリー著「聖書ハンド・ブック」には次のように述べられています。

      「カナン人の行なった崇拝というのは,彼らの神々の前で,宗教儀式として,不道徳にふけることであった。また,その同じ神への人身御供として初子を殺すことであった。

      「カナンの地は大分,国家的な規模で,ソドムやゴモラのようなところになっていたようである。……そのようないまわしくも不潔な,そして残忍な文明に,生き延びる権利が少しでもあったであろうか。……

      「カナンの町々の遺跡を発掘する考古学者たちは,神がもっと早く彼らを滅ぼさなかったことを不思議に思うくらいである」。

      9 しかし,イスラエルは真理のうちを歩みつづけませんでした。その結果,神はイスラエルを支持することをおやめになりました。イエスが神殿におられたときイスラエルに対して,「見よ,あなたがたの家はあなたのもとに見捨てられています」と言われたのは,そのためでした。(マタイ 23:38)さらにイエスは,「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」と言われました。(マタイ 21:43)イスラエルはもはや神の特別の恵みの下にある国民,神の証人ではなくなりました。

      10 第一世紀に新しい霊的国民はどのように出現しましたか。

      10 西暦一世紀に,神は一つの新しい霊的国民をつくり出されました。それはクリスチャン会衆で,いろいろな国籍の人からなる組織です。(使徒 10:34,35; 13:46)神から任命された代弁者イエスはその土台をすえ,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言われました。(ヨハネ 14:6)イエスは,教えたことまた成し遂げたことによって,ご自分が真理を有し,また神の支持を得ていることを証明されました。(マタイ 3:16,17; 15:30,31。使徒 2:22)一世紀のクリスチャンたちも同じ点を証明し,神のクリスチャン証人としてはっきり認定されました。(使徒 1:8; 2:1-4,43)それらのクリスチャンたちを通して流れはじめた真理について,使徒パウロは,「神はそれを,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示された」と言いました。またそれとは対照的に「この事物の体制の支配者はだれひとり知るに至りませんでした」と述べています。(コリント第一 2:8,10)「あなた[神]はこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し,それをみどりごたちに啓示された」と,イエスは言われましたが,その通りになりました。―マタイ 11:25。

      11,12 (イ)わたしたちの時代における真の崇拝の復興を聖書はどのように予告していましたか。(ロ)その復興の目的は何でしたか。

      11 その第一世紀の終わりまでに,神は別のことも成し遂げておられました。つまり,真理を見定めるために後日用いられる,霊感によって書かれた記録を完成されました。(テモテ第二 3:16,17)完成した聖書には多くの預言,すなわち前もって書かれた歴史が含まれています。(ペテロ第二 1:21)それらの預言によると,使徒たちの死後,真理から脱落する期間がはじまります。(使徒 20:29)しかしそれらの預言は,後に,つまりこの体制が終わる直前の「末の日」に,真の崇拝が復興することも示しています。(イザヤ 2:1-4。ミカ 3:12から4:5まで)人々は二つのグループに集められるとイエスは言われました。真理のうちを歩むキリストの兄弟たちに善を行なう人々は報いとして「永遠の命」を与えられ,そうしない人々は「永遠の切断」に入ります。―マタイ 25:31-46。ヨハネ第二 4。ヨハネ第三 3,4。

      12 現代行なわれている,クリスチャン会衆を集め再組織する業には,いくつかの目的があります。その一つは同会衆が統一された指示を神から受けるためです。イザヤ 2章3節の預言には,「彼はご自分の道を教えてくださる。わたしたちはその道筋を歩こう」とあります。(ミカ 4:2にもこのように預言されています)真理のうちを歩むことによって神のそのしもべたちは,神の宇宙支配の正当性を支持し,神に栄光と喜びをもたらし,自分自身も多くの益を得ます。(箴 12:22)それで神も,今の時代の人々にご自分の音信を伝えさせるべく彼らに備えをさせ,ご自分の現代の証人としてお用いになりました。

      13 エホバがいずれかの時代に,二つ以上の組織をお用いになったことがありますか。

      13 神はこの「終わりの日」にご自分の真理を分かち与えるために,二つ以上の組織をお用いになるでしょうか。神はかつて他の裁きの期間に二つ以上の組織をお用いになったことがあるでしょうか。ノアの日に,人々を乗せた船で,ノアの箱船のほかに,神に保護されて大洪水を生き残った船があったでしょうか。いいえ,その船と船の中に住んでいた人々が生き残ったにすぎません。(ペテロ第一 3:20)第一世紀にクリスチャンの組織が二つあったでしょうか。いいえ,神が交渉をもたれたのは一つだけでした。ですからわたしたちの時代においても,やはり「主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ」です。(エフェソス 4:5)一致した会衆は一つしかあり得ないということは,「あなたがたすべての語るところは一致しているべきです。あなたがたの間に分裂があってはなりません」というパウロの言葉から明らかです。―コリント第一 1:10。

      「その実によって」

      14 どうすれば,今日だれが本当に真理をもっているかを見定めることができますか。

      14 今日だれが本当に真理をもち,神の地上の証人として神に用いられる資格を備えているかは,どうすれば見定めることができるでしょうか。イエスは次のように述べて,本物と偽物とを見分ける際の基本原則を設けられました。「あなたがたは,その実によって彼らを見分けるでしょう。……良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです」。(マタイ 7:16,17)そうです,「実」,すなわち神の強力な聖霊がその人々を確かに後押ししている証拠がなければなりません。では神のその力は,神のしもべたちのうちにどんな実を生み出すのでしょうか。神の言葉はこう答えます。「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です」― ガラテア 5:22,23。

      15 神への愛はどのように神のみ名と結びついていますか。

      15 とくに最初に掲げられている「実」である愛に注目してください。神の真のしもべたちがこれを示さなければならない一つの方法として,イエスは次のように言われました。「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」。(マタイ 22:37)神への愛は多くの方法で示されます。その一つは神のみ名を愛することです。(ヘブライ 6:10。詩 69:36; 119:132)確かに,この世から取り出されたクリスチャンたちは,「み名のための民」とならねばなりません。(使徒 15:14-18)今日,神のみ名(エホバ)を擁護し,それを全世界に知らせているのはだれでしょうか。―イザヤ 43:10-12。

      16 神への愛は王国の関心事に関連してどのように示されますか。

      16 神への愛は,全地を治める来たるべき神の政府,すなわち神の王国を信じ,かつ語ることをも意味します。イエスはわたしたちに,「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」と祈ることを教えてくださいました。(マタイ 6:9,10)イエスと同じように,今日神の王国を自分たちの教えと伝道の中心教理としているのはだれでしょうか。人々の自宅を訪問して,神の王国が地上で成し遂げる事柄を伝えているのはだれでしょうか。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」とイエスは予告されましたが,イエスが言われたこの使命をだれが遂行していますか。―マタイ 24:14。

      17 神への愛はほかにどんな形で現われますか。

      17 神への愛はさらに別の方法,つまり神のおきてすべてに従うことによっても示されます。(ヨハネ第一 5:3)神のおきてと人間の法律が対立する場合,本当に真理をもつ人たちのための聖書的規準は,「自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」ということです。(使徒 5:29)これをする人だけが「聖霊」の後押しを得ます。「神はそれを,支配者としてのご自分に従う者たちにお与えになりました」。(使徒 5:32)例えば,クリスチャンたちは今日神のおきてに従うので,『世のものではなく』,イエスや一世紀のクリスチャンたちと同じく,この世の政治問題に対して中立です。(ルカ 4:5-8。ヨハネ 6:15; 15:19; 17:14-16)今の時代に,世から,つまり世の政治的腐敗,世の暴力行為,世の不道徳などからいつも離れており,イエスの足跡に従うゆえの投獄や死をさえ辞さない人々はだれでしょうか。―ペテロ第一 2:21。ヘブライ 13章もご覧ください。

      18 本当に真理を持っている人々をそれと示す別の明確なしるしは何ですか。

      18 この霊の実である愛にはもう一つ別の面があります。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」と,イエスは言われました。(ヨハネ 13:35)そういう愛が,神の真のしもべたちをそれと示すしるしであることを物語る聖句は,ほかにもたくさんあります。その例を挙げてみましょう。

      「神の子どもと悪魔の子どもはこのことから明らかです。すなわち,すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うこと……です。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を殺りくしました」― ヨハネ第一 3:10-12。

      「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」― ヨハネ第一 4:20,21。

      この種の愛を,言葉だけでなく行ないによってお互いに示し合っているのはどの国際団体でしょうか。過去一世紀間,戦時には他の国々に住む仲間の信者たちを殺さないようにし,また人種や国家,文化や経済などに関する偏見を自分たちの間に入り込ませないようにしてきたのはどの団体でしょうか。

      今日,だれが本当に真理をもっているか

      19 今日,だれが本当に真理をもっていますか。そう言える理由はどこにありますか。

      19 神の霊のこの重要な実である愛について,証拠は何を物語っていますか。だれがこの愛を実行していますか。エホバに忠実に奉仕し,エホバの王国を他の人々に告げるために,エホバのみ名のもとに団結している,あらゆる国籍また人種の人々の大群衆はどこに見られますか。そうです,愛によって結ばれた真の世界的兄弟関係はどこに見られますか。(啓示 7:9,10。コロサイ 3:14)宗教関係の出版物「インタープレテーション」の「聖書と現代の宗教,エホバの証人」と題する章には,次のように述べられています。

      「彼ら[エホバの証人]の組織と証言活動は,いずれの団体にも劣らず原始キリスト教徒の共同体に近いものである。

      「彼らは世から離れて超然としており,証言に熱心で,世の攻撃に左右されない。彼らのその態度は,自分たちが神から選ばれた者であることを固く信じ,神に無条件の忠誠を誓った人々の態度である

      「口頭によるにせよ文書によるにせよ,メッセージを伝える際に彼らほど広く聖書を用いる団体はほかにない。また組織の仕事を推進するうえで,彼らほどいわゆる平信徒から多くの奉仕を得る団体もほかにない」。

      20 真理愛好者はみな何をすべきですか。

      20 偏見をもたずに神の言葉を調べ,エホバの証人の教えることや実践していることを神の言葉と比較してみるなら,神の霊が確かに彼らの背後にあること,また,今日真理をふれ告げる器として神が彼らを用いておられることが,はっきりわかるでしょう。それでもすべての真理愛好者は,エホバの証人が本当に真理をもっているというこの主張を調べてみるように勧められています。これを調べるにあたっては,使徒たちの話に耳を傾けた一世紀の人々がしたことに倣う必要があります。彼らは「きわめて意欲的な態度でみことばを受け入れ,それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べた」のです。―使徒 17:11。

  • エホバがその民を導く方法
    ものみの塔 1979 | 7月1日
    • エホバがその民を導く方法

      「この神は,定めなき時に至るまで,実に永遠に我らの神だからである。彼自らわたしたちが死に至るまで導いてくださる」― 詩 48:14,新。

      1 エホバがご自分を愛する者たちを導かれることを,聖書はどのように示していますか。

      エホバは多くの世紀を通して,ご自分を愛し,ご自分に仕えることを望む者たちを導いて来られました。詩篇作者もそのひとりでした。彼は,「あなたの光と真理を送り出してください。それらのものがわたしを導くものとなりますように」と神に願いました。(詩 43:3,新)預言者ダニエルは,『天に神が,秘密を明らかにされる方がおられる』ことを知っていました。そしてわたしたちの時代に,この「終わりの時」に,「真の知識が満ちあふれる」ことを予告しました。(ダニエル 2:28,新; 12:4,新)イザヤも,この「末の日」に真の崇拝が「固く据えられ」ることや,「彼はわたしたちにご自分の道を教えてくださる。わたしたちはその道筋を歩こう」と述べてエホバがその民を導かれることを預言しました。したがって今日人々に差し伸べられているのは,「来なさい。エホバの光のうちを歩もう」という招待です。―イザヤ 2:2-5,新。

      2 真理のうちにその民を導くとき,エホバは何を考慮に入れられますか。

      2 エホバはいったいどのようにしてその民を真理に導かれるのでしょうか。まずエホバはご自分が人間を自由意志のある者として創造されたことに留意されます。ですから使徒パウロはフィレモンの「自発的な意志」に注目しました。(フィレモン 14)この自由意志を創造したのは神ですから,神は人々に対し,ご自分の真理を信じることや,ロボットのようにある型にはまった行動をすることを強制して,自由意志を相殺するようなことはされません。神はこのキリスト教時代に,ご自分の是認した組織に来てそれと交わるよう,心の正しい人々に愛をこめて訴え,それから聖霊と,霊感による言葉,および真理を分け与えるご自分の地上の組織とを通して,彼らをやさしく導かれるのです。

      3 エホバがその民を導かれることに関して,どういう点に留意することは特に重要ですか。

      3 もう一つ,神がその民を導かれることに関して考慮すべき点があります。つまり神はご自分が定めた時に,ご自分の方法で,真理に関する理解をお与えになるということです。(ダニエル 12:9)またエホバは真理の道においてその民を徐々に教え導かれます。エホバは人間の知性を創造された方ですから霊的“食物”が少な過ぎても知性は正しく養われず,一度に多く与え過ぎても人間はそれを吸収できないということをご存じです。ヨハネ 16章12節でイエスは忠実な使徒たちに,「わたしにはまだあなたがたに言うべきことがたくさんありますが,あなたがたは今はそれに耐えることができません」と言われました。例えば,長い期間暗い部屋に監禁されていた人が出て来るときは,徐々に光にさらされるようにするのが一番よい方法です。すぐに強い光を浴びるなら衝撃を受けるかもしれず,有害でさえあるかもしれません。神の真理に関する場合でも同様に漸進的な啓発が必要です。それは賢人が言ったことと一致します。「正しい者の道は,夜明けの光のようだ,いよいよ輝きを増して真昼となる」― 箴 4:18,口。

      4 (イ)真理を徐々に明らかにする必要について,イエスは何を示されましたか。(ロ)エホバの真理はだんだんに明らかにされてゆくので,エホバのしもべたちは進んで何をする心構えがなければなりませんか。

      4 真理を徐々に解明していくのがエホバの方法であることを,イエスはよくご存じでした。ですから,後ほど神の聖霊があなたがたを真理の全体へと案内するでしょう,と使徒たちに言われました。(ヨハネ 16:12,13)真理は前もって確立されていましたが,その解明はだんだんに行なわれたので,それに呼応して神のしもべたちは,時の経過と共に,さまざまな聖書的事柄に関する自分たちの見方を正しまた調整する必要が生じました。

      王国の真理に関する導き

      5,6 神の王国に関し,イエスの弟子たちが正しくない見方をしていたことは,どんなことからわかりますか。

      5 第一世紀のクリスチャンたちを導くにあたって,エホバはご自分の目的に関係した真理を一度に全部明らかにするようなことはされませんでした。一例として,聖書の中心教理である神の王国のことを考えてみましょう。イエスはその追随者たちに,「あなたの王国が来ますように」と祈ることを教えました。(マタイ 6:10)そして「王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と励まされました。(マタイ 6:33)しかしイエスの追随者たちは,イエスが地上におられた間に,王国支配について詳細な点まで全部理解したでしょうか。神の王国とは何か,その中でだれが支配するか,支配者は何人いるか,王国はいつ来るか,地と人類に対してそれは何を行なうか,といった王国に関する質問に正確に答えることができたでしょうか。

      6 イエスと話した人々が,こうした知識を持っていなかったことは,イエスの復活後彼らがイエスに,「主よ,あなたはいまこの時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」と尋ねたことから見ても明らかです。(使徒 1:6)これに対する答えとしてイエスは,王国支配のあらゆる面について話す代わりに,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなたがたのあずかるところではありません」と言われました。(使徒 1:7)イエスはどうして問題をそのように扱われたのでしょうか。それは王国についての彼らのまちがった考えが根深いものだったからです。王国はローマの支配を振り捨てる,地上における統治と彼らは信じていたのです。しかし実際には王国は天のもので,キリストと共に支配すべく選ばれた人々は地から天に取られるのです。(啓示 5:9,10; 14:3; 20:4)さらに,王国が直ちに建てられることを彼らが期待していたことも,その質問からわかります。しかし実際にはそうではなく,王国が建てられるまでに多くの世紀を経ることになっていました。

      7 (イ)王国に関して見方を誤っていたにもかかわらず,イエスはそれらの弟子たちに対してどんな態度を取られましたか。(ロ)わたしたちは神の王国支配についてすべてのことを理解できますか。

      7 弟子たちは正しくない見方をしていましたが,イエスは彼らを非難したり,見捨てたりされませんでした。彼らが神の真理を徐々に理解していき,聖霊が彼らを漸進的に導く結果,しかるべきときに明確な理解を得るようになることをイエスはご存じでした。王国支配に関する完全な知識はついには彼らのものになります。しかしその間,イエスは初期の追随者たちの心に,まず王国を求めることに対する深い関心と熱意,また王国についての見方を進んで調整する心構えを教え込まれました。ですから王国の真理に関する正確な知識は限られていても,彼らが確かに知っていたことは,彼らが待つ間,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留めている』ことを可能にしました。(ペテロ第二 3:12)神の王国支配に関する今日のわたしたちの知識,王国とは何でありまた何を成し遂げるかに関する知識は,はるかに進んでいますが,まだ完全ではありません。

      異邦人に関する真理

      8 異邦人に関連してどんな問題がありましたか。それはペンテコステに提起されましたか。

      8 神の真理の理解が徐々に進むものであることを示すもう一つの問題は,西暦36年以降の非ユダヤ人すなわち異邦人改宗者を,キリスト教に改宗していたユダヤ人の中のある者たちがどう見たかということと関係があります。例えば,異邦人の改宗者たちは生来のユダヤ人のように割礼を受けるべきでしょうか。西暦33年,ペンテコステに神の聖霊がそそがれたとき,この問題は提起されましたか。(使徒 2:1-4)それはなされませんでした。なぜなら,神がそれらの弟子と共におられ今後も彼らを導かれることはその油そそぎによって確証されましたが,神の真理のごく詳細な点についての知識が奇跡的に与えられることはなかったからです。このことは,割礼の問題がそのペンテコステ後16年たって初めて,すなわち西暦49年に,エルサレムにいた使徒たちや長老たちの決めた定めとして発表された事実からもわかります。―使徒 16:4。

      9-11 (イ)何年かエホバの導きに従ったあと,エホバのしもべたちが割礼の問題をよりよく扱い得たのはなぜですか。(ロ)ペテロに与えられた幻は,真理の正しい理解に合わせて見方を正すのにどう役立ちましたか。

      9 その間エホバは,ご自分が異邦人をどのように扱うかを,ご自分の民に実際に経験させたのです。そのようにしてこの問題に関する彼らの認識と理解は深まりました。したがって,果断な行動が要求される問題が生じても,神のしもべたちは知恵とどう察力をもってそれを扱う備えが十分にできていました。例えば,ペテロが彼の見解を調整しなければならなかったことを考えてみましょう。ペンテコステから三年余りたって,使徒ペテロは異邦人に対する見方を正すよう,聖霊の導きを受けました。異邦人のことを彼は汚れた者,清くない者と考えていました。

      10 ある幻の中でペテロは,モーセの律法によって汚れたものとされていた食物を食べるように言われました。ペテロが驚いて,そのような食物は食べたことがありません,と答えると,神が清いと言われるものを清くないと考えることはもはやできない,と言う声が天から聞こえました。ちょうどその時,異邦人コルネリオの使いがやって来ました。コルネリオが使いを遣わしたのは,自分の家に来て神の目的を話してくれるようペテロに頼むためでした。しかしペテロは,清くない食物を食べることなどとてもできません,と言ったばかりのところでした。それなのに,やはり清くないと彼が考えていた異邦人の家に行くように頼まれたのです。どうすべきでしょうか。聖霊が答えを与えました。「立って,階下に降り,何も疑わないで彼らといっしょに行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのですから」― 使徒 10:9-20。

      11 ペテロはわけを悟りました。以前清くないものとされていたものをエホバが清いとされることに関する幻は,単に食物のことだけではなく,異邦人に対するペテロの態度とも関係があり,むしろその方が重要でした。そのことを理解した証拠に,ペテロは後ほどコルネリオとその一族に,「そのようなわけで,使いのかたが見えた時,わたしはなんの異存もなくやって来ました」と言いました。それから聖霊がその異邦人の一族の上にそそがれ,彼らはバプテスマを受けました。割礼を受けなくても,いまや異邦人は神から恵みを与えられるようになったということを,聖霊は示しました。―使徒 10:21-48。

      12 (イ)異邦人についてさらにどんな問題が生じましたか。それはいつのことですか。(ロ)中央機関は何に基づいて決定的な答えを与えることができましたか。

      12 しかし,クリスチャンになったユダヤ人全部が,異邦人のことにつき,それで満足したでしょうか。そうではありません。さらに13年すぎて,シリアのアンティオキアに来た割礼のあるいく人かのユダヤ人が,異邦人に割礼を施すべきかどうかについて論争を引き起こしました。(使徒 15:1,2)そこで西暦49年に,エルサレムにいた使徒たちや他の長老たちでなる中央機関との集会が取り決められました。その集まりで,ペテロやパウロやバルナバは,彼らが伝道した無割礼の異邦人たちの間で神が成し遂げられたことを話しました。多くの年月にわたりエホバがそれら異邦人を実際にどのように扱って来られたかを検討したあと,彼らはそれが聖書の言葉通りであることを全員が一致して認め,異邦人に割礼を施す必要はないという真理はいよいよ固くされました。

      13 ある人々は,エホバがその民を導かれる方法についての認識に欠けていることを,どのように示しましたか。どんな結果を招いたと思われますか。

      13 しかし,キリストの追随者の全部が全部,時代遅れの考え方を進んで正そうとしたわけではありません。中には種々の解明を,エホバがその民を徐々に導いておられることの証拠と見ずに,真理を捨てる口実としました。例えば,イエスが象徴的な意味でご自分の肉を食べまたご自分の血を飲むことについての例えを話されたとき,「このために,弟子のうち多くの者が後ろのものに戻って行き,もはや彼とともに歩もうとしなかった」と,聖書には記録されています。(ヨハネ 6:53-66)それはなんと近視眼的な見方だったのでしょう! エホバがその民を導かれる方法についての認識がなんとひどく欠けていたのでしょう! そういう人たちの中には,38年後に大きな代償を支払った者もいたことでしょう。理解の進む真理のうちを歩みつづけなかった者は,エルサレムが破壊されないうちにそこから逃げなさいというイエスの指示も退けたからです。彼らはそのために命を失いましたが,エホバの導きに従いつづけていた人々は逃げて命を救われました。―ルカ 21:20-24。

      わたしたちの時代における導き

      14 過去一世紀間に,基本的真理に関するわたしたちの見方はどの程度正されましたか。

      14 過去100年間に,「ものみの塔」誌その他の出版物の頁を通してエホバの組織が公にしてきた事柄を考えてみるなら,健全な霊的食物がふんだんにあることに気づきます。この期間の初めに,聖書の基礎的真理が明らかにされ,そのまま今日に至っています。地獄,三位一体,煉獄,魂,死者のいるところ,贖い,復活,地球の運命,王国その他の重要な教理に関するわたしたちの見解は,この100年間ほとんど変わっていません。真理に対するわたしたちの理解は時に調整を要求されましたが,真理はいつも真理です。―ヨハネ 16:13と比較してください。

      15 エホバの今日のしもべたちには,その見方を調整する必要がありましたか。

      15 エホバはその民が真理の理解を深めるように,ご自分の定めた時にご自分の方法で,彼らを一歩一歩導きつづけられます。そのためにエホバの証人は,過去100年間その初頭から,もしエホバの霊が教理,実践,組織の運営方法などを調整する方向へ導いていることが明らかになったなら,それらに対する見方を進んで改め正す心構えがなければならないことを知っていました。ブライアン・ウィルソン氏が「ニュー・ソサイエティ」誌の中で認めているように,エホバの証人は「聖書の研究を継続するならより完全な知識が得られるという考えを持ちつづけて来ました。以前,預言の解釈を誤ったことがあることも認めています」。

      16 (イ)聖書預言が,見方を進んで再調整する心構えを特に強く求められる分野であるのはなぜですか。(ロ)エホバのしもべたちは,「終わりの日」に関する情報にどう反応してきましたか。そしてどのように後ろだてを得ましたか。

      16 見方を再調整する心構えが最も強く求められるところは,聖書預言の分野にあると言えるでしょう。ほとんどの預言は大体の輪郭でしかありません。したがって,細かな部分が実現するのを待つには信仰が必要です。(ヘブライ 11:1)その一つの例は,サタンの支配下にあるこの邪悪な体制が滅ぼされて,「新しい天と新しい地」がそれに取って代わることを示す預言に関係したものです。(ペテロ第二 3:13)しかし聖書には,差し迫った終わりの総合的な「しるし」となる多くの特徴が記されており,それらは今が「終わりの日」,「終わりの時」であることをはっきり示しています。(テモテ第二 3:1。ダニエル 12:4,新)神のしもべたちはこれに励まされて,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」というイエスの言葉を遂行する業に拍車をかけました。(マタイ 24:14)彼らはこのことにも,組織として生き残ることにも成功し,また非道な迫害にもかかわらず霊的に栄え,この堕落した世にあって新しい人格を身につけそれを示すことにも成功しました。こうしたことはすべて,エホバが実際に彼らの背後におられることの証拠です。―イザヤ 54:17。

      17 わたしたち自身の早まった期待が実現しなかったことは,エホバがその目的を変更されたことを意味しますか。

      17 しかし,この「終わりの日」の間,エホバの一部のしもべたちは,現体制の終わり,すなわちテロス(ギリシャ語)について,以前誤った見方をしていたでしょうか。その通りです。その誤った見方には,終わりが来るまでの時の長さに関するものも含まれています。エホバのみ名,言葉,目的の正しさを立証する熱意と,新しい体制を願う心から,神のしもべたちの中には,時々早まった期待をする人たちがいます。それは,弟子たちが彼らの時代に神の王国がすぐにも来るという見方をしていたのに似ています。(使徒 1:6)しかし,時に期待を早まり,それが実現しなかったからといって,それは神が目的をいくらか変更されたということでしょうか。決してそうではありません。「わたしの計り事は立つ。わたしの喜ぶところはすべて行なう」とエホバは言われました。(イザヤ 46:10,新)したがって,義の新秩序を確立するというエホバの目的またその時は定まっていて,変わることはないのです。

      18 「書かれている事がら」を超えないようにするのはなぜ重要ですか。

      18 このことからわたしたちは確かに,他の要素が覆い隠されてしまうほど一部の要素を強調するのではなく,すべての聖書的要素を注意深く検討することの必要を痛感させられます。イエスご自身きわめて明確に,「その日と時刻についてはだれも知りません」と言っておられます。(マタイ 24:36)「書かれている事がらを越えてはならない」というパウロの助言に厳重な注意を常に払うことが必要です。―コリント第一 4:6。

      19 見方は再調整されても,証拠は現体制の終わりが近いことをどのように示していますか。

      19 多数のエホバの証人が,この問題に関して見方を調整しなければならなかったとはいえ,いまが「終わりの時」であることをわたしたちは否定できるでしょうか。犯罪や暴力が増加し,神に対する不敬がいよいよひどくなっているうえに,結婚,家族,政治,この世的な宗教などの諸制度の崩壊は進んでおり,確かに,現体制の終わりが差し迫っている証拠は日増しに増大しています。―テモテ第二 3:1-5。

      20,21 輝きを増すエホバの光のうちを歩みつづける人は,どのように報われますか。

      20 この「終わりの日」がまだ後どれほど残されているかはわかりませんが,一つの事は確かです。輝きを増すエホバの光の中を歩みつづけ,進んで調整を行なう心構えを持つ人たちは,油そそがれた残りの者,また「大患難から出て」神の義の新秩序に入る「大群衆」の一員となるでしょう。「み座の中央におられる子羊が,彼ら[大群衆]を牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。―ペテロ第二 3:14,15。啓示 7:9-17。

      21 したがって,エホバに導きを仰ぐ人々は,確信をもって新しい体制の確立を待ち望むことができます。その体制においては,「義なる者たちは自ら地を所有し,そこに永久に住まう」のです。『邪悪な者はもういません』。邪悪な者に代わって温和な,教えをよく聞く人々が,「平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだす」でしょう。―詩 37:10,11,29,新。

      22 エホバのしもべたちは,現在と将来に対してどんな確信を抱いていますか。

      22 ですから,現代のエホバの民の組織が過去100年間そうであったように,今日のわたしたちも,終わりの日が残されている間,『神が定めなき時に至るまで,実に永遠に我らの神』であり,「彼自らわたしたちが死に至るまで導いてくださる」という確信を抱いています。(詩 48:14,新)そして新秩序においても,エホバが引き続きそのしもべたちを永遠にわたって導いてくださることを同じように期待することができます。彼らはもはや死ぬ必要は全くありません。「神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1979 | 7月1日
    • 読者からの質問

      ● ヤコブ書 1章12節に述べられている「命の冠」とは何のことですか。そしてこの冠を得るのはだれであると言えますか。

      ヤコブ書 1章12節にはこう書かれています。「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛しつづける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」。

      「命の冠」という表現は,キリストの足跡に従う油そそがれた追随者たちが第一の復活の際に受けるような最高形態の命,不滅の命を意味すると説明されてきました。(コリント第一 15:53,54。啓示 20:4,6)このような命がそれを所有する人々にとっては冠であり,命の最高の形態であることは疑いありません。しかし,ヤコブは「冠」という言葉を用いてそのような命の最高形態のことを言おうとしていたのでしょうか。

      「命の冠」という表現に最高のものという概念を付与する必要はないように思われます。そのギリシャ語はステファノスです。この語は「取り囲む」を意味する語根から派生しているため,王冠,花輪,競走の勝者が獲得する賞つまり報酬を指すものとして用いられています。したがって使徒パウロはテモテ第二 4章7,8節で,「わたしは…走路を最後まで走り…ました。今からのち,義の冠がわたしのために定め置かれています。それは,義なる審判者である主が,かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです」と書いています。パウロが述べていたのは最高の義ではなく,将来得ることになっていた賞,義の報いでした。(フィリピ 4:1,テサロニケ第一 2:19,20と比較してください)ですからヤコブ 1章12節の「命の冠」も,患難を耐えたことによって得る賞,命の賜物のことです。患難を生き残る「大群衆」に関しては,忠実に忍耐するなら「命の冠」つまり彼らの場合に地上での永遠の命を得ると言うことができます。―啓示 7:9,10。

      啓示 2章10節にも命の賞のことを述べている類似の表現があります。それを得るのは死に至るまで忠実に耐え忍んだ人々です。しかしこの箇所で話しかけられているのは,天で不滅の命を得ることのできる油そそがれたクリスチャンたちです。(啓示 2:26,27)ヤコブ 1章12節の言葉は,啓示 2章10節とは違って,特別な人々の級に言及するものではなく,一般的原則を述べていると言えるかもしれません。

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