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  • 死後の命があるのだろうか
  • 目ざめよ! 1980
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  • 魂は生き続けるのではないか
  • 死後の命があるという教えの起源はどこにあるか
  • それらの教えはどのように保たれているか
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目ざめよ! 1980
目80 10/8 3–4ページ

考えてみたことがありますか ―

死後の命があるのだろうか

愛する人の葬式に臨むことほど悲しい経験は人の生涯の中でもまずないでしょう。父親,母親,夫,妻,あるいは子供など,それが身近な人であればあるほど,喪失感やむなしさをひしひしと感じます。

そうした悲しみの時には,「死後の命があるのだろうか」とか「愛する人に再び会えるだろうか」とか考えるものです。

死とは何か

まず生について考えるほうがやさしいでしょう。生とは何でしょうか。それは存在していることです。生きている人は見たり,聞いたり,話したり,動いたりすることができます。温かいとか冷たいとか感じますし,喜びや悲しみを感じます。確かに生きていれば,様々な感情を抱いたり,感覚を十二分に働かせたりすることができます。

さて,死は生と真っ向から対立する状態です。死んだ人は見たり,聞いたり,話したり,動いたりすることがありません。温かいとか冷たいという感覚はなく,喜んだり悲しんだりすることもありません。死とは無意識の状態,無存在の状態を意味します。

とはいえ,次のように質問する人がいることでしょう。

魂は生き続けるのではないか

人類最古の言語であり,聖書に使われている言語でもあるヘブライ語には,今日日本語で「魂」と訳されている言葉があります。興味深いことに,その「ネフェシュ」という言葉は,肉体から分離しているもの,もしくは肉体から分離し得るものを指してはいません。むしろ,その用法からすると,それは人間であれ動物であれ被造物そのものを指している言葉です。(創世 2:7。民数 31:28)字義的に言うと「ネフェシュ」には「呼吸をするもの」という意味があります。呼吸が止まれば被造物は死にます。つまり魂は死ぬのです。―エゼキエル 18:4,20。

愛する人を亡くして悲しんでいる人にとって,それを信じるのは難しいことでしょう。その結果,死の事実とは一致しない信仰や習慣が数多く作り上げられました。

死後の命があるという教えの起源はどこにあるか

6,000年ほど昔,最初の人間夫婦が誕生した時にまでさかのぼらなければなりません。アダムとエバは,完全な人間としての命を楽しめる美しい環境の中にいました。ただし,生き続ける権利は従順であるかどうかにかかっていました。こう命じられていました。「善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:17,新)これは人間の創造者エホバ神の言葉です。生の反対が死であることは明白です。

ところが,しばらく後,別の声が聞こえて,「あなた方は決して死ぬようなことはありません」と言いました。(創世 3:4,新)それは偽りでした。しかし,残念なことに,エバは,『あなた方は死なない』という声に耳を傾け,禁じられた木から実を取って食べました。エバに強く勧められて,アダムも食べました。その結果二人は楽園の住みかを追われ,両人の子供たちはみな,罪と死ののろいの下に生まれました。(ローマ 5:12)その偽りを語った者はサタン悪魔として知られるようになりました。

人間が確かに死ぬことは間もなく明らかになりました。それからどんなことが起きたでしょうか。サタンの影響を受けて,目に見えない人間の魂が不滅であるという教えが作り上げられ,代々受け継がれてきたのです。

それらの教えはどのように保たれているか

宗教的な伝統によって保たれています。愛する人を亡くして悲しみに暮れている人は,故人は霊界にいるのだ,と告げられます。悪人が死ぬと地獄へ行って苦しめられ,善人は天国へ行って至福を受けるとも教えられます。地獄と天国の中間に煉獄があると教える宗教もあります。宗教の教師たちは,死者が最終的に天国とか極楽に達することを確実にするミサや祈り,その他の形式のとりなしを行なうよう人々に求めてお金を取ります。

特別な行事を行なう日も設けられています。11月1日ごろには「万聖節」があります。日本で,それに相当するのは「盆」で,8月の中旬か,所によっては7月の中旬に行なわれます。寺院は檀家の死者の命日を記録していて,僧りょたちは檀家を訪問し,各家の仏壇で経を上げます。

何か不幸があると,僧りょは,死んだ先祖が粗末にされており,ふさわしく祭られていないと言って圧力を掛けます。このように,魂は死なないという偽りは強迫や義務感によって保たれています。

死者にどんな希望があるか

死者に祈りをささげることが,詠唱することが,ろうそくをともすことが,あるいは,線香を上げることが希望になるでしょうか。そうではありません。み子イエス・キリストを通して死者を復活させるというエホバ神の約束こそ死者にとっての希望なのです。イエス・キリストは,犠牲の死を遂げることによって,アダムから受け継がれた罪と死をぬぐい去る基礎を備えられました。ですから,死者が地上によみがえらされることを期待できます。イエスは人間であられた時にそのことを実証されました。―ヨハネ 5:28,29; 11:23,39-44。

復活とは何か

それは,神が同一の性格を持つ同一の人物を再創造されるということです。神は地の諸要素から新しい体を造られ,その体に,当人が死ぬまでに培ったのと同一の性格や個性,記憶,生活の型を付与されます。一体そのようなことは可能でしょうか。

あなたは,10年か15年,あるいは20年前一緒に学校へ通った人たちのことを思い出せますか。完全な記憶力を持っていなくても,わたしたちはかつての仲間のことを思い出せます。

ましてや,記憶の創始者であられる神に,愛するがゆえに記憶にとどめている人々を再創造できないはずがありません。神はご自分の定めの時に,最初の人間を創造された時と同様,死者をよみがえらされます。ただ,復活の際には,何度も繰り返してそれを行なわれるのです。―使徒 24:15。

確かに,死後の命はあります。復活という方法によってそれが可能になるのです。あなたは,親しかった人々がよみがえって来る時その場に居合わせて迎えたいと思われますか。では,聖書を学んで,その特権にあずかる者に神の求めておられる事柄を知ってください。エホバの証人は喜んでご援助いたします。

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