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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
塔81 6/15 5–7ページ

神の望まれる仕方で神を崇拝する

次のような宗教上の矛盾の現われにお気付きになったことがありますか。

「1980年代には『歴史上かつてないほど大勢の人がキリスト教に改宗し,同時にこれまでのどの時代よりも多くのクリスチャンが組織化されたキリスト教から脱退する』であろう」― 1979年7月21日付,シドニー・モーニング・ヘラルド紙。

50の大きな宗教と9,000の“キリスト教”の団体を対象にした調査に基づくこのオーストラリアの新聞報道は,自分の教会を捨てる人が記録的な数に上っていることを示しています。かつてはかなり信仰心も厚く,教会にも通っていたのに,今では通っていない人を大勢ご存じかもしれません。

それでも,多くの人々は神を崇拝する内的な必要を感じ,何らかの宗教に引かれてゆきます。大抵の場合それは,人々の感情を動かす宗教で,“救われる”ことを勧めるものです。

神は,創造者を崇拝したいという欲求を人間の内に植え込まれました。でも,どのようにそれを行なったらよいでしょうか。崇拝を受けるに当たって神の望まれる方法はどのようなものですか。

どうすれば分かるか

もちろん,何が真理か,また真の崇拝かを定めるのは,いかなる人間でも教会でもなく,神であるはずです。イエスは1世紀のある宗教社会に属していた一婦人に,「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければならないのです」と語られました。(ヨハネ 4:24)この言葉は今日の人々にも当てはまります。

確かに,神に喜ばれるには真の崇拝を求める気持ちが必要とされ,それを心から誠実な態度で示さなければなりません。また,真理を求め,それに従うよう一生懸命努力すべきです。それは,単なる教会の伝統や聖書の真理と矛盾する場合さえある教理に従うことなく,神のみ言葉に啓示されている真理に従って行動することを意味します。

自分の通う教会や周囲で人気のある信仰をも含め,ある宗教が真理に即しているかどうかを分析するため,数々の異なった分野を調べることができます。しかし,三つの分野だけに限って調べてみても,神の望まれる仕方で神を崇拝するのに役立つでしょう。次の点を考えてみましょう。

一般に信じられている事柄 ― それは真理だろうか

世界中のほとんどの宗教に共通する一つの教理は,人間の内には目に見えない魂があり,それは体が死んでもなくならず,霊としていつまでも生き続けるという教えです。この教えを認めておられますか。この教えは大抵,死に際して善い人の魂は天国へ行くという考えと結び付けられています。また,広く見られる,死んだ親族の“霊”あるいは幽霊に対する懸念の背後にあるのもこの教えです。ブリタニカ百科事典(英文)は,「何らかの形での人間の不滅性に対する信仰はほとんど普遍的と言える」ことを指摘しています。それはきっとご承知のことでしょう。

しかし,同百科事典が「ほとんど普遍的」と述べているのは極めてふさわしいことです。なぜなら古代ヘブライ人と初期クリスチャンは人間に不滅の魂があると信じてはいなかったからです。

それを聞いて驚かれるかもしれません。教会で教えられているこの教理は聖書に由来すると思っている人が少なくないからです。しかし,次の点に注目しなければなりません。

聖書によると,人間が罪を犯しても死なないという最初のうそをついたのはサタン悪魔でした。(創世 3:1-4)人類の最初の先祖はサタンの言葉とは裏腹にやはり死に,その後すべての人に死が臨んだのに,『この人たちは本当に死んではいない。体は死んだが,魂は不滅で生き続けている』というのです。これ以上の欺瞞があるでしょうか。確かに,霊魂不滅の教理はサタンのうそを推し進め,無数の人々が死を恐れる原因となりました。

しかし,一口に言うと,聖書は人の魂とはその人自身のことであると教えています。聖書のアダムに関する記述の中に,そのことを示す言葉が見られます。創造者は塵から人の体を形造り,次に命とその命を支えるのに必要な息とをお与えになりました。その結果,アダムは「生きた魂になった」のです。(創世 2:7,新)アダムは魂を与えられたのではなく,アダムが一つの魂だったのです。―コリント第一 15:45と比較してください。

この点と調和して,魂(人)は死ぬことがあると聖書は教えています。エゼキエル 18章4節をご覧ください。では,人が死ぬと当人の考えや感情も失われてしまうということですか。その通りです。事実,伝道之書 9章5節(新)は,『生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし死んだ者には何の意識もない』と述べています。

では,故人となった親族や友人にはもはや何の希望もないということになりますか。そうではありません。聖書は神が死者を生き返らせた,つまり死者を復活させた例を挙げているからです。例えば,すでにご存じかもしれませんが,神はイエス・キリストを死後三日目に霊者として復活させました。(使徒 10:39,40。ペテロ第一 3:18)この事実およびこれと関連した聖書の約束に基づいて,神がご自分の記憶の中にある者たちを復活させてくださる時を楽しみにして待つことができます。―使徒 17:31; 24:15。

事実を熟考してみれば,ほとんどの宗教の教える霊魂不滅の教理は聖書の教えと真っ向から対立することに気付かれるでしょう。そこでこう自問してみてください。『これはわたしにとって何を意味しているだろうか。神の望まれる仕方で,真理をもって神を崇拝するために,自分には何らかの調整を加える必要があるだろうか』。

振舞いも関係している

イエス・キリストは,神の望まれる崇拝の仕方を見分ける助けをさらに与えてくださいました。イエスはご自分の追随者にこう語られました。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:35)今日の大抵の教会は,イエスの示された正にその種の愛を示すよう追随者すべてに本当に勧めていますか。

例えば,初期クリスチャンはローマ軍に入隊したりそれを支援したりするよう求められた時に,真の愛を培っているかどうか試みられました。政府の法に従いたいと思っても,それが人を殺してはいけないという神の律法に反することになる場合には従えませんでした。(マタイ 22:21。使徒 5:29)その上,神はご自分の民に関してこう言われていました。「彼らはその剣を鋤の刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」― イザヤ 2:4,新。

この点と調和して,初期クリスチャンはローマ帝国のためにも,ほかのいかなる国のためにも戦おうとはしませんでした。

しかし,現代の諸教会や僧職者や司祭の取っている立場について考えてみてください。口実を幾つか並べますが,戦争を肯定し,祝福してきました。しかも,その戦争ではカトリック教徒がカトリック教徒を殺し,プロテスタントがプロテスタントを殺しているのです。それは決して神の道ではありません。

神の道徳規準

神の望まれる崇拝の仕方を見定めるために検討すべき三番目の分野として,悪行を見過ごすような宗教団体ではなく,神の道徳規準を擁護するものであるかどうかを調べてみなければなりません。

イエスは,大酒飲みや性的に不道徳な人々を含む罪に苦しむ人々を助けるために働かれました。弟子たちも同じようにすることになっていました。(マタイ 9:10-13; 21:31。ルカ 7:36-48。コリント第一 6:9,11)さらに聖書は,悔い改めてクリスチャンになった後にも,道を踏み外して重大な罪を犯す者が出ることを示しています。(ガラテア 6:1)例えば,古代コリントにあったクリスチャン会衆の一人の男は淫行を犯しました。―コリント第一 5:1。

あるクリスチャンが罪を習わしにする場合,他のクリスチャンはその人を神の恵みと霊的な力のある状態に立ち返らせるよう努めることになっていました。(ヤコブ 5:13-16)しかし,人が悔い改めることなく罪を習わしにするならどうなりますか。神のみ言葉は前述のコリントの人やそれに類するすべての人についてこう述べています。

「兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように……『その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい』」― コリント第一 5:11-13。

ゆゆしい罪を犯した者が助けを受け入れず悔い改めようともしないなら,その者は真のクリスチャン会衆から除名,つまり排斥されねばなりません。そうすれば,あるいはショックを受けて本心に立ち返るかもしれません。たとえ立ち返らなくても,会衆から除名するというこうした神の導きによる処置によって,誠実なクリスチャンたちは保護されます。―コリント第一 5:2-8。

では,ご存じの教会の大半で,そうした懲らしめが与えられていますか。むしろ,公然と罪を習わしにする教会員も大抵その一員として相変わらず受け入れられているのが実情ではありませんか。

ナイジェリアのある新聞は第一面で最近次のように伝えました。

「ルサカ大司教管区に住むローマ・カトリック教徒の既婚男性の3分の1近くは自分の家の中に複数の妻を置いている。……エマヌエル・ミリンゴ大司教の行なった調査に基づく報告によると,カトリックを奉ずる家庭1万903世帯のうち3,225世帯に複数の妻がいた」― 1980年9月14日付。

悔い改めない罪人を排斥するようにとの神の命令に諸教会が従わないため,人々は罪を犯しても逃げおおせると考えたり,宗教に背を向けるようになったりしています。―伝道 8:11。

ある若者は新聞にこんな投書を寄せました。

「教会に行くのがいやなのは,大酒飲み,うわさ好き,うそつき,詐欺師だと分かっている人々が毎週日曜日そこにやって来てお祈りをし,賛美歌を歌っているからです。偽善者を尊敬することは決してできません。ところが,わたしの通っている教会は偽善者で一杯です」― 1979年5月27日付,パームビーチ・ポスト-タイムズ紙。

そのような実を生み,「霊と真理をもって」神を崇拝しない人々や教会を,神が是認されないのは明らかです。―ヨハネ 4:24。マタイ 7:15-20。

どうすることにしますか

ここまでで三つの分野を検討しただけですが,神の望まれる仕方で神を崇拝したいと思うなら,自分の信念や生き方をある面で根本から変えなければならない場合のあることは明確になったはずです。そうした変化は,使徒パウロや真のクリスチャンになった他の大勢の人々が経たものと全く同じです。神の望まれる崇拝の仕方を促進していない宗教から離れるのは肝要です。事実,神は,『彼らの罪にあずかることを望まず,神からもたらされる災厄をともに受けることを望まないなら,出て来なさい』と命じておられます。―啓示 18:4,5。コリント第二 6:14-18。

エホバの証人は自分たちの生活を神のみ言葉に合わせることを真剣に考え,それによって「霊と真理をもって」創造者を崇拝しています。神の望まれる仕方で神を崇拝したいと思われる方をエホバの証人は喜んでご援助いたします。

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「入手し得る限りの情報を精細に検討して言えば,マルクス・アウレリウス[在位161-180]の時までクリスチャンはだれも兵士とはならなかった。クリスチャンとなった兵士でその後兵役にとどまった者もいない」―「キリスト教の興隆」。

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「アウシュビッツの価値基準と暴力」

このような主題の本の中で,その著者であるポーランドの社会学者,アンナ・パベルチンスカは,ナチ・ドイツにおいて,「エホバの証人は,あらゆる戦争や暴力を非とするその信条を守るために,受動的な抵抗を展開した」と述べています。その結果どうなりましたか。同女史はこう説明しています。

「受刑者たちの中のこの小さなグループは強固な思想集団であり,ナチズムに対する闘いに勝利を収めた。恐怖政治をしく国家のまっただ中に浮かぶ孤島のように,ドイツにおけるこの宗派は衰えることのない抵抗を示した。アウシュビッツの収容所でも,これらの人々は同様のおくすることのない精神を抱いて行動していた。これらの人々は,仲間の受刑者や……囚人の中から選ばれた監督,そして親衛隊員の間でさえ尊敬を勝ち得ていた。いかなるエホバの証人も自分の信仰や信念に反する命令には従わないということは周知の事実だった」。

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