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    聖書から論じる
    • 人は世のどんな党派を支持しようとも,実際にはだれの支配下にいることになるでしょうか。)

      政治に巻き込まれることに関し,初期クリスチャンとして知られる人々の取った態度について,一般の歴史家は何と述べていますか

      「初期のキリスト教は異教世界の支配者たちからほとんど理解されず,また好意をもって見られることもほとんどなかった。……クリスチャンはローマ市民の特定の義務にあずかることを拒んだ。……彼らは行政職に就こうとしなかった」―「世界史,文明への道」(フィラデルフィア,1937年),A・ヘッケルとJ・シグマン共著,237,238ページ,英文。

      「クリスチャンは祭司的,霊的な人々の集団で,国家とは別個の超然とした存在であり,正直に言わざるを得ないが,キリスト教はあの最も純粋な方法によってのみ,つまり聖なる感情を市民の中に一層浸透させるよう実際に努力することによって,市民の生活に影響を及ぼし得たようである」―「キリスト教と教会の最初の3世紀間の歴史」(ニューヨーク,1848年),オーガスタス・ネアンダー著,H・J・ローズによるドイツ語からの英訳,168ページ。

      国旗や国歌の関係する儀式に対して真のクリスチャンの取る態度に常に関係してきたのはどんな聖句ですか

      コリント第一 10:14: 「偶像礼拝から逃げ去りなさい」。(出エジプト記 20:4,5も参照)

      ヨハネ第一 5:21: 「子供らよ,自分を偶像から守りなさい」。

      ルカ 4:8: 「イエスは答えて言われた,『「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない」と書いてあります』」。

      また,ダニエル 3:1-28も参照。

      そのような愛国主義的な象徴や儀式には実際に宗教的な意味がありますか

      「[歴史家]カールトン・ヘーズはずっと前に,アメリカの学校における国旗崇拝や宣誓などの儀式が宗教的行事であることを指摘した。……また,毎日行なわれるそのような儀式が宗教的なものであることは,一連の訴訟事件で最高裁判所により,ついに確認された」―「アメリカ人の性格」(ニューヨーク,1956年),D・W・ブロガン,163,164ページ,英文。

      「昔の旗はほとんど純粋に宗教的性格のものであった。……何世紀にもわたって用いられてきたイングランドの国章 ― 聖ジョージ十字章 ― は宗教的なものであった。実際,国旗に神聖さを付与するため,いつも宗教に助けが求められてきたようであり,多くの国旗の起源は神聖な紋章にまでたどることができる」― ブリタニカ百科事典(1946年版),第9巻,343ページ,英文。

      「11月19日,[軍事]最高裁判所副長官の司会による公の儀式でブラジル国旗に対する敬礼が行なわれた。……国旗が高く掲げられた後,陸軍大臣,トリスタオ・デ・アレンカル・アラリペ元帥はその記念祝典に関し次のような見解を述べた。『……国旗は崇拝を要求する愛国主義的宗教の神になっており……国旗は尊敬され,崇拝されている。……祖国が崇拝されているとおり,国旗も崇拝されている』」―「ディアリオ・ダ・ジュスティッサ」(連邦首府,ブラジル),1956年2月16日,1906ページ。

      愛国主義的な儀式に関し,一般の歴史は初期クリスチャンとして知られる人々の取った態度について何と述べていますか

      「クリスチャンは……皇帝の精に犠牲をささげる……ことを拒んだ。―それは大体,今日の国旗敬礼や忠誠の誓いの復唱を拒むことに相当する行為である。……火の燃える祭壇は通常,彼らの便宜を計って闘技場に置かれていたが,信仰を撤回したクリスチャンはほとんどいなかった。囚人は,一つまみの香を炎の上に振りまきさえすれば,犠牲証明書が与えられて釈放された。当人に対しては,皇帝を崇拝したのではなく,ローマ国家の首長としての皇帝の神格を認めたにすぎないということも,注意深く説明された。しかし,その逃亡の機会を利用したクリスチャンはほとんどいなかった」―「まさに死のうとしている人々」(ニューヨーク,1958年),D・P・マニックス,135,137ページ,英文。

      「皇帝崇拝の行為は,皇帝の像の前に置かれた祭壇にわずかばかりの香か数滴のぶどう酒をふりかけることであった。当時からずっと離れてしまった現代の見地からすれば,その行為は……礼節,尊敬,愛国心などの表われとして,国旗や国の著名な支配者に挙手の礼をすることと少しも変わらないように見えるかもしれない。1世紀のかなり大勢の人々もそれと同じように考えていたと思われるが,クリスチャンはそうではなかった。彼らは,そうした事柄すべては宗教上の礼拝の一部であるとみなし,皇帝を神として認めることになるゆえ,神とキリストに対する不忠節な行為になるとして,そうした行為を拒んだ」―「キリスト教の始まり」(コネティカット州ニューヘブン,1958年),M・F・エラー,208,209ページ,英文。

      クリスチャンが中立を守っていることは,隣人の福祉に無関心であることを意味しますか

      もちろんそうではありません。クリスチャンはイエスが繰り返し述べられた,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という命令をよく知っており,それを良心的に自分に当てはめるよう努力します。(マタイ 22:39)また,使徒パウロの記した,「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」という助言についても同様です。(ガラテア 6:10)クリスチャンは,神の王国の良いたよりを隣人と分かち合うことこそ,隣人に対して行ない得る最大の善であると確信しています。その王国は人類の直面している諸問題の恒久的解決を図り,王国を受け入れる人々に,とこしえの命を得るすばらしい可能性を開くものとなります。

  • 罪
    聖書から論じる
    • 罪

      定義: ヘブライ語聖書やギリシャ語聖書の本文によれば,文字通りには,的を外れることです。神はご自分の理知ある被造物が到達すべき“的”を設けられます。その的を外れることは罪で,それはまた不義もしくは不法です。(ローマ 3:23。ヨハネ第一 5:17; 3:4)罪とは,すべて神聖な,神の性格や規準,道やご意志と調和しない事柄です。それには,間違った行ない,なすべき事をしないこと,不敬虔な言葉,汚れた考え,あるいは利己的な欲求もしくは動機などが関係することもあります。聖書は受け継いだ罪と故意の罪,人が悔い改めている一度の罪の行為と罪を習わしにすることとを区別しています。

      もしアダムが完全だったのなら,どうして罪をおかすことができたのですか

      アダムが完全だったことについては,創世記 1章27,31節と申命記 32

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