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どんな人がエホバに是認されますかものみの塔 1988 | 11月15日
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れた者とみなせないのは明らかです。そうした者たちは,悪行を悔い改めなかったために追放されたからです。(ヘブライ 10:38。コリント第一 10:5と比較してください。)明らかに,排斥される人たちはごく少数でした。「神……からの過分のご親切と平和」を得,『神のご意志にかなうところにしたがい,養子と』された大半の人たちは,忠実を保ちました。―エフェソス 1:2,5,8-10。
24 この問題のどんな面には,さらに注意を払う価値がありますか。
24 現代の状況も基本的にはそれと同じです。しかし,今日,神の是認を受けられるよう,どのように「不信者または普通の人」を援助できるか,またそのような人たちがその途中で過ちを犯した場合,援助するために何ができるかを考慮してみましょう。次の記事では,それらの問題を扱います。
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神を崇拝するよう他の人を援助するものみの塔 1988 | 11月15日
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神を崇拝するよう他の人を援助する
「不信者または普通の人が入って来れば……その心の秘密は明らかにされ,そのため彼はひれ伏して神を崇拝し……ます」― コリント第一 14:24,25。
1-3 神の是認を得るように,コリントの多くの人はどのように援助されましたか。
使徒パウロは二回目の宣教旅行の際,コリント市に1年半滞在しました。そこでパウロは『ひたすらみ言葉のことに携わり,証しをし』ました。どんな結果になりましたか。「み言葉を聞くコリント人の多くが信じてバプテスマを受けるようになった」のです。(使徒 18:5-11)彼らは「神聖なものとされ,聖なる者となるために召され」ました。―コリント第一 1:2。
2 その後,アポロがコリントを訪れました。それよりも前にプリスキラとアクラは,バプテスマに関する事柄を含め,「神の道をより正しく」理解できるようアポロを援助したので,アポロは神の善意つまり是認を得たクリスチャンとなりました。(使徒 18:24-19:7)次いでアポロは,かつて『声のない偶像のもとへと導かれていた』コリント人を援助しました。(コリント第一 12:2)それらの人々は,恐らく自分の家で聖書の教えを与えられたのでしょう。それに加え,クリスチャンの集会に出席して学ぶこともできました。―使徒 20:20。コリント第一 14:22-24。
3 そうした教えの結果,以前の『不信者と普通の人』が大勢,真の崇拝に引き寄せられました。男女の別を問わず,人々がバプテスマと神の是認という段階に進歩してゆくのを見るのは,非常に喜ばしいことだったに違いありません。それは今でも喜ばしいことです。
『不信者と普通の人』を援助する
4 コリントの人たちと同様,今日の多くの人は,どのような方法によって援助されていますか。
4 今日のエホバの証人も,『すべての国の人々を弟子とし,彼らにバプテスマを施す』ようにとのイエスのご命令に従っています。(マタイ 28:19,20)そして,受け入れる力のある心に真理の種を植えた後,再訪問を行なってその種に水を注ぎます。(コリント第一 3:5-9。マタイ 13:19,23)証人たちは,人々が質問の答えを得て聖書の真理を学べるよう,毎週行なわれる無償の家庭聖書研究を申し出ます。そのような人たちも,1世紀の「不信者」がコリントの集会に出席したように,エホバの証人の地元の集会に出席するよう勧められています。では,エホバの証人は,聖書を研究して集会にやって来る人たちをどのようにみなすべきですか。
5 特定の人々と接する際に警戒すべき,聖書的などんな根拠がありますか。
5 そのような人たちが神に近づくのを見るのはうれしいものです。とはいえわたしたちは,彼らがまだバプテスマを受けた信者ではないことを銘記しています。第一研究を基盤とした次の二つの教訓も念頭に置いてください。(1)イスラエル人は,神の民のそばにいてある種の律法に従ってはいても,割礼を受けた改宗者ではなく,崇拝における兄弟ではない外国からの移住者たちに警戒しました。(2)コリントのクリスチャンは,「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか」というパウロの言葉ゆえに,『不信者と普通の人』に接する際に用心しました。―コリント第二 6:14。
6 「不信者」は集会によってどのように『戒めを受ける』ことがありますか。また,そうした戒めはどのような性質のものですか。
6 ですから,わたしたちは『不信者と普通の人』を迎え入れますが,彼らがまだ神の規準にかなっていないことを意識します。聖書のコリント第一 14章24節と25節が指摘しているとおり,そのような人たちは自分の学ぶ事柄によって「つぶさに調べられ」,場合によっては『戒めを受ける』ことが必要かもしれません。そうした戒めは審理処置として与えるようなものではありません。また,そのような人たちはまだ会衆のバプテスマを受けた成員ではないので,会衆の審理委員会の前に召喚されることもありません。むしろ,そうした新しい人たちは,自分が学んでいる事柄の結果として,神がどんな利己的で不道徳な道をも有罪としておられることを確信するようになります。
7 多くの生徒は,さらに新たなどんな進歩を遂げたいと願いますか。それはなぜですか。
7 そのうちに,バプテスマを受けていない多くの人は,関心を持つ学び手として集会に出席する以上のことを望むようになるかもしれません。イエスの次の言葉はその理由を示しています。「生徒は教師より上ではありませんが,すべて完全に教え諭された者は自分の教師のようになるのです」。(ルカ 6:40)聖書研究生は,自分の教師が野外宣教を極めて重要なものとみなし,その奉仕から来る幸福感を味わっていることを理解できます。(マタイ 24:14)ですから,聖書の真理を学んで集会に出席してきた人たちは,信仰が強まるにつれ,次の言葉を心に銘記するかもしれません。「良いたよりを携えて来る者,平和を言い広める者,より良いことについての良いたよりを携えて来る者,救いを言い広める者……の足は,山々の上にあって何と麗しいのだろう」。(イザヤ 52:7。ローマ 10:
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