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    聖書から論じる
    • そよ風があれば,空気を感じるでしょう。たとえ見えなくても,空気が肺に満ちるのは分かります。いろいろな影響が見られるので,空気の存在を信ずべき十分の理由があるのではありませんか』。(2)『また,重力を見ることはできません。しかし,何かを落とすと,重力が働いていることを示す証拠を見ることができます。また,香りは見えませんが,鼻でかぐことができます。音波は見えませんが,耳で感知できます。ですから,見えないものでも,確かな理由があれば,わたしたちはそれがあることを信じるのではないでしょうか』。(3)『では,見えない神が本当に存在することを示す証拠がありますか。(129ページの副見出し,「神の存在を信ずべき確かな理由がありますか」の項の資料を用いる。)』

      『神についてはわたしなりの考えがあります』

      こう答えられます: 『この問題についてはかなりお考えになっておられるようですし,神の存在も信じておられるようで,うれしく思います。神についてどのようにお考えですか』。それから,こう付け加えられます: 『何を信ずるにしても,それが神ご自身の言われる事柄と調和しているかどうかを確かめるのが大切であることはよくご存じと思います。このことについて聖書が述べる事柄を一つだけご覧になってみてください。(詩編 83:18)』

  • 記念式(主の晩さん)
    聖書から論じる
    • 記念式(主の晩さん)

      定義: イエス・キリストの死を記念する食事。したがって,イエスの死,すなわち他のどんな人の死よりもはるかに広範な影響を及ぼしてきたイエスの死を思い起こすための記念式です。これは主イエス・キリストがご自分の弟子たちに記念として行なうようお命じになった唯一の行事です。これはまた,主の夕食あるいは主の晩さんとして知られています。―コリント第一 11:20。

      記念式にはどんな意義がありますか

      イエスはご自分の忠実な使徒たちに,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われました。(ルカ 22:19)使徒パウロは,霊によって生み出されたクリスチャンの会衆の成員に書き送った際,次のように付け加えました。「このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです」。(コリント第一 11:26)ですから,記念式はエホバの目的を成し遂げる過程におけるイエス・キリストの死の意義に特別の注意を喚起する行事ということができます。それは特に,新しい契約と,イエスと共に天の王国の相続者となる人たちにその死が影響を及ぼす仕方との関係でイエスの犠牲の死が持つ意味を強調する行事です。―ヨハネ 14:2,3。ヘブライ 9:15。

      記念式はまた,創世記 3章15節で述べられている神の目的に調和した仕方でイエスが死を遂げられ,またその後,イエスの死がエホバの名の正しさを立証することになったいきさつを思い起こす機会ともなります。死に至るまでエホバへの忠誠を保たれたイエスは,アダムの罪は創造者が人間を造られた時の何らかの設計上の欠陥に起因するものではないこと,つまり人間は重圧を受けても敬虔な専心を全うできるということを証明なさいました。こうしてイエスは,エホバ神が創造者で宇宙の主権者であられることを立証されました。そのほかにエホバは次のことを意図しておられました。それはイエスの死によってアダムの子孫を贖うのに必要な完全な人間の犠牲を備え,それによってエホバの最初の目的を成就し,人類に対するその大きな愛の表現として,信仰を働かせる何十億もの人々が楽園<パラダイス>の地上で永遠に生きられるようにすることでした。―ヨハネ 3:16。創世 1:28。

      イエスは人間として地上におられた最後の夜,何とすさまじい圧力を受けられたのでしょう。イエスは自分のために天のみ父が意図しておられた事柄をご存じでしたが,試練のもとで忠実を証明しなければならないことも知っておられました。もしもイエスがそのことに失敗されたなら,み父はたいへんな恥辱を,また人類はたいへんな損失を被ったことでしょう! イエスの死によって成し遂げられようとしていた事柄すべてを考えれば,イエスがその死を記念するようお命じになったことは実にふさわしいことでした。

      記念式で出されるパンとぶどう酒にはどんな意味がありますか

      イエスは記念式を制定した際,使徒たちにお与えになった無酵母パンに関して,「これはわたしの体を表わしています」と言われました。(マルコ 14:22)そのパンはイエスご自身の罪のない肉の体の象徴でした。イエスは将来の命の見込みを人間に得させるため,その肉の体を与えようとしておられましたが,ここでは,その肉の体のゆえに,イエスと共に天の王国にあずかるよう選ばれる人たちが抱くことのできる命の見込みに特に注意が向けられています。

      イエスはご自分の忠実な使徒たちにぶどう酒を回す際,こう言われました。「これはわたしの『契約の血』を表わしています。それは多くの人のために注ぎ出されることになっています」。(マルコ 14:24)そのぶどう酒はイエスご自身の命の血の象徴でした。イエスの流された血によって,その血に信仰を置く人々の罪を許すことができるようになるのです。ここでイエスは,その血によって,将来ご自分の共同相続者となる見込みのある人々の罪を清めることができるということを強調しておられました。イエスの言葉はまた,その血によってエホバ神と,霊によって油そそがれたクリスチャンの会衆との間の新しい契約が実施されることを示しています。

      また,「ミサ」の見出しの401-403ページの項も参照。

      パンとぶどう酒にあずかるのはだれですか

      イエスは亡くなる少し前に主の晩さんを制定されましたが,その時だれがその晩さんにあずかりましたか。それは11人の忠実な使徒たちで,イエスはその使徒たちにこう言われました。「わたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなた方と王国のための契約を結び(ます)」。(ルカ 22:29)それらの追随者は皆,キリストと共に天の王国にあずかるよう招かれていた人たちでした。(ヨハネ 14:2,3)今日,パンとぶどう酒にあずかる人たちも皆,やはりキリストにより,その「王国のための契約」に入れられる人であるべきです。

      主の晩さんにあずかる人たちはどれほどいますか。イエスは,ただ「小さな群れ」だけが報いとして天の王国を受け継ぐと言われました。(ルカ 12:32)その人数は全部で14万4,000人となります。(啓示 14:1-3)そのグループの人々は西暦33年に選び始められました。ですから当然,いま表象物にあずかるのは,ごく少数の人だけです。

      ヨハネ 6章53,54節は,表象物に実際にあずかる人たちだけが永遠の命を得られることを示していますか

      ヨハネ 6:53,54: 「イエスは彼らに言われた,『きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう』」。

      ここで言われている食べたり飲んだりすることは,明らかに比喩的な意味で行なわれたに違いありません。さもないと,そうする人は神の律法を犯すことになったでしょう。(創世 9:4。使徒 15:28,29)しかし,ヨハネ 6章53,54節にあるイエスの言葉は,主の晩さんを創始することに関連して述べられたのではないことに注目すべきでしょう。イエスの言葉を聞いた人はだれも,キリストの肉と血を表わすために使われるパンとぶどう酒を用いる祝いについて何も知りませんでした。その取り決めは,それから1年ほどたった後に初めて紹介されましたし,主の晩さんに関する使徒ヨハネの報告は,同使徒の名が付されている福音書の7章以上あとの箇所(ヨハネ 14章)に初めて出て来ます。

      それでは,もし人が記念式でパンとぶどう酒にあずからないとすれば,どのようにして比喩的な仕方で,『人の子の肉を食べたり,その血を飲んだりする』ことができるのでしょうか。そのようにして食べたり飲んだりする人たちは「永遠の命」を持つようになるとイエスが言われたことに注目してください。少し前の40節で,人は永遠の命を持つために何をしなければならないかを説明した時,イエスは何がみ父のご意志であると言われましたか。それは,「子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと」です。ですから,『その肉を食べたり,その血を飲んだりする』ことは,犠牲としてなげうたれたイエスの肉と血の請け戻す力に信仰を働かせることによってなされると考えるのは道理にかなっています。満ちあふれる命をキリストと共に天で得るにせよ,あるいはそれを地上の楽園<パラダイス>で得るにせよ,すべてそれらの人には,そのように信仰を働かせることが求められています。

      記念式はどれほど頻繁に,またいつ祝われるべきでしょうか

      イエスは記念式をどれほど頻繁に祝うべきかについては特に明示しておられません。イエスは,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われたにすぎません。(ルカ 22:19)パウロはこう言いました。「このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです」。(コリント第一 11:26)「たびに」といっても,これは必ずしも1年に何度もという意味ではありません。何年もの期間にわたって毎年ということを意味していると言えます。結婚記念日のように重要な出来事を記念したり,あるいは一国民が自国の歴史上の重要な出来事を記念したりする場合,それはどれほど頻繁に祝われますか。1年に一度その記念日に祝われます。これはまた,クリスチャンになったユダヤ人がもはや祝わなくなった,年に一度の祝日であるユダヤ人の過ぎ越しの日に主の晩さんが制定されたということと一致しています。

      エホバの証人は,1世紀当時に普通に用いられていたユダヤ人の暦による計算に従って,記念式をニサン14日の日没後に執り行ないます。ユダヤ人の1日は日没に始まり,翌日の日没まで続きます。ですから,イエスは記念式を制定された,ユダヤ暦のその同じ日に亡くなられました。ニサンの月は,春分に最も近い新月がエルサレムで見えるようになった後の日没に始まりました。その14日後が記念式の日付となります。(したがって,記念式の日付は現代のユダヤ人の守っている過ぎ越しの日付と合致しない場合もあります。それはなぜですか。現代のユダヤ人の暦月の始まりは,天文学上の新月と合致するよう定められており,18ないし30時間後にエルサレムで見えるようになる新月に合うよう定められてはいないからです。また,今日,大抵のユダヤ人は,過ぎ越しを,モーセの律法に述べられているところにしたがってイエスがなさったようにニサン14日に守るのではなく,ニサン15日に守っています。)

  • キリストの再来
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    • キリストの再来

      定義: イエス・キリストは地を去る前に,戻って来ることを約束されました。神の王国に関連して生ずる胸の躍るような出来事がその約束と結び付けられています。注目すべき点は,来ることと臨在(または,いること)との間に相違があるということです。したがって,人が来ること(到着あるいは帰還と関連がある)はある特定の時に起きますが,その人がいること(または臨在)はその後何年もの期間にわたる場合があります。聖書では,ギリシャ語のエルコーマイ(「来る」の意)という語はまた,イエスがその臨在の期間中の特定の時に重要な仕事,すなわち全能者なる神の大いなる日の戦争でエホバの刑執行者として行なう業にご自分の注意を向けることに関しても用いられています。

      キリストの臨在と関連のある出来事は,ごく短期間に起きるのですか。それとも,何年もの期間にわたって起きるのですか

      マタイ 24:37-39: 「人の子の臨在は[「来るのは」,改標,共同; 「来臨は」,塚本; 「臨在は」,ヤング,ロザハム; ギリシャ語: パルーシア]ちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです」。(ここで描写されている「ノアの日」の出来事は,何年もの期間にわたって起きました。イエスはご自分の臨在を洪水当時に起きた事柄と対比されました。)

      マタイ 24章37節ではパルーシアというギリシャ語が用いられています。これは字義的には「傍らにいる」という意味です。リデルとスコット共編,「希英辞典」(オックスフォード,1968年)はパルーシアの第一の定義として「(人が)いること」を挙げています。フィリピ 2章12節では,この言葉のそのような意味がはっきりと示されています。その箇所でパウロ

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