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自制 ― 非常に重要なのはなぜかものみの塔 1991 | 11月15日
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自制 ― 非常に重要なのはなぜか
「真剣な努力をつくして答え応じ,あなた方の信仰に徳を,徳に知識を,知識に自制を……加えなさい」― ペテロ第二 1:5-7。
1 19世紀に,身体面での自己制御がどんな際立った仕方で発揮されましたか。
身体面での制御が最もすばらしく発揮された実例として,19世紀後半のチャールズ・ブランディンを含めることができるに違いありません。ある報告によると,ブランディンはナイアガラの滝を何度も渡っており,最初は1859年に,水面から50㍍の高さに張られた長さ340㍍のロープを渡りました。その後は,目隠しをしたり,袋をかぶったり,手押し車を押したり,竹馬に乗ったり,人を一人背負ったりして,毎回異なった趣向で自分の能力を発揮しながら滝を渡りました。別の場所では,地上52㍍に張られたロープの上で竹馬に乗ったまま宙返りをしてみせました。そのようなバランスをとるためには,身体面での極めて強力な自己制御が要求されました。ブランディンはその骨折りの報いとして名声と富の両方を手に入れました。
2 身体面での制御が要求される,他のどんな形態の活動がありますか。
2 これに似たことをすることさえほとんど不可能ですが,プロとしての技術の訓練やスポーツにおいて身体面での自己制御が重要であることはだれの目にも明らかです。例えばある演奏家は,亡くなった有名なピアニスト,ウラジミール・ホロビッツの技巧を描写し,「私を魅了したものは,すべてが完全に制御されている感じ……信じ難いほどのエネルギーが統御されている感じであった」と述べました。ホロビッツに関する別の報道は,「完ぺきに制御され,飛ぶように速く動く指の80年間」について述べました。
3 (イ)さまざまな形態の制御のうち,最も多くのことが要求されるのは何ですか。それはどのように定義されていますか。(ロ)聖書の中で「自制」と訳されているギリシャ語は何を意味していますか。
3 そのような技術を磨くには大変な努力が必要です。とはいえ,さらに一層重要で挑戦となるのは自制です。自制は,「自分自身の衝動や感情や欲望に対して行使される抑制力」と定義されています。クリスチャン・ギリシャ語聖書のペテロ第二 1章6節などで「自制」と訳されている語は,「自分の欲望や激情,特に情欲を制する人の徳」と定義されています。個々の人の自制は「人間の業績の極致」とさえ呼ばれてきました。
自制が非常に重要な理由
4 自制の欠如はどんな悪い実を刈り取ってきましたか。
4 自制の欠如は何という報いを刈り取ってきたのでしょう。今日の世界におけるもめ事の多くはおもに自制の欠如に起因しています。確かにわたしたちは「終わりの日」におり,『対処しにくい危機の時代が来て』います。人々は多くの場合,貪欲さのために「自制心のない者」となります。貪欲さの一つの形態は「神を愛するより快楽を愛する者」であることです。(テモテ第二 3:1-5)身の引き締まるようなこの真理がわたしたちにひしひしと迫るのは,昨奉仕年度中,罪を犯した4万人余りの人が,おもにはなはだしい悪行の理由でクリスチャン会衆との交わりから除かれたからです。そのほかにも,戒めを受けた大勢の人たちがいるに違いありません。その多くは性の不道徳のゆえに戒めを受けましたが,どの人の場合も自制しなかったことが原因でした。さらに,長年長老だった人の中に同じ理由で監督としてのすべての特権を失った人がいるという事実も,わたしたちの思いを引き締めます。
5 自制の重要性はどのような例で説明できますか。
5 自制の重要性は自動車を例にして説明できるでしょう。自動車には移動を可能にする四つの車輪,車輪を非常に速く回せる強力なエンジン,車輪を止められるブレーキが付いています。しかし,もしだれかが運転席に着き,ハンドルやアクセルやブレーキを制御しながら用いて,車輪をどこへ向け,どんな速さで回し,いつ止めるかを決めないなら,悲惨な結果になりかねません。
6 (イ)愛に関するどんな規準を自制にも適用できるかもしれませんか。(ロ)わたしたちはさらにどんな諭しを思いに留めなければなりませんか。
6 自制の重要性はいくら強調しても強調し過ぎるということはないでしょう。愛の重要性について使徒パウロがコリント第一 13章1節から3節で述べていることは,自制にも当てはまるかもしれません。わたしたちがどんなに雄弁な講演者であろうと,良い研究の習慣によってどれほどの知識や信仰を得ていようと,他の人の益のためにどんな業を行なっていようと,自制しないなら,それらすべては無駄になります。わたしたちは次のパウロの言葉を思いに留めるべきです。「競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい。また,競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます」。(コリント第一 9:24,25)わたしたちがすべてのことに自制を働かせるための助けとなるのは,コリント第一 10章12節にある,「立っていると思う人は,倒れることがないように気をつけなさい」というパウロの警告です。
警告となる実例
7 (イ)自制の欠如によって人類はどのように堕落の道を歩み始めましたか。(ロ)聖書はそのほかにも,自制の欠如に関する初期のどんな実例を挙げていますか。
7 アダムは理性よりもむしろ感情によって自分の行動が支配されるのを許すことにより,自制する点で失敗しました。その結果,『罪が世に入り,罪を通して死が入った』のです。(ローマ 5:12)同様に,最初の殺人も自制の欠如によるものでした。というのは,エホバ神はカインに,『なぜあなたは怒りに燃えているのか。なぜあなたの顔色は沈んでいるのか。罪が入口にうずくまっている。あなたはそれを制するだろうか』と警告しておられたからです。カインは罪を制しなかったため,自分の弟アベルを殺害しました。(創世記 4:6-12)ロトの妻も自制する点で失敗しました。はっきり言って,彼女は後ろを振り向かせようとする誘惑に抵抗できませんでした。自制の欠如のため彼女が支払った代償は何でしたか。そうです,彼女の命そのものでした。―創世記 19:17,26。
8 わたしたちにとって,古代のどんな3人の経験は自制の必要性に関する警告となっていますか。
8 ヤコブの長子ルベンは自制の欠如のために長子の権を失いました。ルベンはヤコブのそばめの一人と性関係を持つことにより,自分の父の寝台に不敬を示しました。(創世記 35:22; 49:3,4。歴代第一 5:1)モーセは,イスラエル人がつぶやきや不平や反逆によって彼を試みたことに腹を立てたため,約束の地に入るという心から待ち望んでいた特権にあずかれませんでした。(民数記 20:1-13。申命記 32:50-52)『神ご自身の心にかなう人』であった忠実なダビデ王でさえ,ある時に自制を欠いたため深刻な問題に陥りました。(サムエル第一 13:14。サムエル第二 12:7-14)このような実例はすべて,わたしたちには自制する必要があるという健全な警告となっています。
わたしたちが制御する必要のあるもの
9 自制の重要性を強調するどんな聖句がありますか。
9 第一に自制と関係があるのは,わたしたちの考えと感情です。聖書は,「心」と「腎」というような言葉を用いることにより,考えと感情にたびたび言及しています。わたしたちが自分の思いに考えさせる事柄は,エホバを喜ばせようと努力するわたしたちの助けになる場合もあれば,妨げになる場合もあります。フィリピ 4章8節にある,真実なこと,貞潔なこと,徳とされることを考え続けなさいという聖書の諭しに留意するためには,自制が必要です。詩編作者ダビデは祈りの中で同様の考えを言い表わし,『わたしの岩,わたしを請け戻してくださる方エホバよ,わたしの心の黙想が,あなたのみ前に快いものとなりますように』と述べました。(詩編 19:14)仲間の者に属するどんなものも欲してはならないという十戒の10番目の戒めは,自分の考えを制御することを要求しています。(出エジプト記 20:17)イエスは,「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と述べた時,わたしたちの考えと感情を制することの重大さを強調されました。―マタイ 5:28。
10 どんな聖句が,わたしたちの話を制御することの重要性を強調していますか。
10 さらに自制と関係があるのは,わたしたちの言葉,わたしたちの話です。舌を制するようわたしたちを諭す聖句は本当にたくさんあります。例を挙げましょう。『まことの神は天におられ,あなたは地にいる。それゆえに,あなたは言葉を少なくすべきである』。(伝道の書 5:2)「言葉が多ければ違犯を避けられない。しかし,唇を制する者は思慮深く行動しているのである」。(箴言 10:19)「腐ったことばをあなた方の口から出さないようにしなさい。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出し……なさい。すべて……わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい」。さらにパウロは続けて,愚かな話や卑わいな冗談を捨て去るよう諭しています。―エフェソス 4:29,31; 5:3,4。
11 舌を制するという問題をヤコブはどのように論じていますか。
11 イエスの異父兄弟ヤコブは制御されない話を非とし,舌を制するのがいかに難しいかを示してこう述べています。「舌(は)体の小さな部分ですが,大いに自慢します。ご覧なさい,ごく小さな火が何と広大な森林地帯を燃え上がらせるのでしょう。それで,舌は火なのです。舌はわたしたちの肢体の中で不義の世界をなしています。それは全身に汚点をつけ,生まれついた人生の車輪を燃やし,自らもゲヘナによって燃やされるのです。人間は,あらゆる種類の野獣,および鳥,はうもの,また海の生き物をならして従わせますし,実際従わせてきました。しかし舌は,人類のだれもこれを従わせることができません。御しがたい,有害なものであって,死をもたらす毒で満ちています。わたしたちは舌でエホバを,すなわち父をほめたたえ,しかもその同じ舌で,『神に似た様で』存在している人間をのろいます。祝福とのろいが,同じ口から出て来るのです。わたしの兄弟たち,こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません」― ヤコブ 3:5-10。
12,13 わたしたちの行動や振る舞いを制御することの重要性を示すどんな聖句がありますか。
12 もちろん,自制にはわたしたちの行動も関係しています。自制が大いに必要とされる一つの分野は,わたしたちと異性との関係に関連しています。クリスチャンには,「性の不道徳を避けなさい」という命令が与えられています。(コリント第一 6:18,新国際訳)夫に対して,「あなた自身の水溜めから水を,あなた自身の井戸から水の滴りを飲め」と述べる箇所もあり,夫は性的な関心を自分自身の妻以外に向けないよう勧められています。(箴言 5:15-20)「神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれる」という率直な言葉もあります。(ヘブライ 13:4)独身の賜物を培おうとする人たちにとって,自制は特に必要です。―マタイ 19:11,12。コリント第一 7:37。
13 イエスは一般に“黄金律”と呼ばれる規範を与え,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです」と言われましたが,その際,仲間の人間に対するわたしたちの行動をめぐる事柄全体を要約されました。(マタイ 7:12)実際,自分の利己的な傾向や外部からの圧力や誘惑によって,自分がその人に扱ってもらいたいと思う方法とは違う仕方で他の人を扱うことがないようにするためには,自制が必要です。
14 食べ物や飲み物に関して,神の言葉はどんな諭しを与えていますか。
14 そして,食べ物や飲み物に関する自制という問題があります。神の言葉は賢明にも,「ぶどう酒を多量に飲む者や,肉をむさぼり食う者の仲間に加わってはならない」と諭しています。(箴言 23:20)イエスは特に現代に関して,「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」と警告されました。(ルカ 21:34,35)そうです,自制にはわたしたちの考えと感情,それに言葉や行動が関係しているのです。
自制がそれほどの挑戦となる理由
15 クリスチャンが自制することにサタンは反対しますが,それが現実であることを聖書はどのように示していますか。
15 自制することは容易ではありません。クリスチャンならだれでも知っているように,わたしたちが自制するのを妨げようとして三つの強い勢力が結託しているからです。まず第一に,サタンとその配下の悪霊たちがいます。聖書は彼らが実在することについて疑問の余地を残していません。ですから,イエスを裏切るためにユダが出て行く直前に「サタンが[ユダ]に入った」と記されています。(ヨハネ 13:27)使徒ペテロはアナニアに,「なぜサタンはあなたを厚顔にならせて,聖霊に対して虚偽の振る舞いをさせ……たのですか」と言いました。(使徒 5:3)さらにペテロは極めて適切なことに,「冷静さを保ち,油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」と警告しました。―ペテロ第一 5:8。
16 この世に関連してクリスチャンが自制しなければならないのはなぜですか。
16 クリスチャンは自制心を発揮しようと努力するとき,「邪悪な者[悪魔サタン]の配下に」あるこの世とも闘わなければなりません。そのことについて使徒ヨハネはこう書きました。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。わたしたちが自制して,世を愛するどんな傾向にも断固として抵抗しないなら,かつてパウロの同労者だったデマスのように,わたしたちも世の影響力に屈してしまうでしょう。―ヨハネ第一 2:15-17; 5:19。テモテ第二 4:10。
17 わたしたちは生まれた時から,自制に関連したどんな問題をかかえていますか。
17 さらに,自分自身の受け継いだ肉の弱さや欠点と闘って勝利を収めたいなら,クリスチャンであるわたしたちは自制を必要とします。わたしたちは,「人の心の傾向はその年若い時から悪い」という事実から逃れることはできません。(創世記 8:21)ダビデ王の場合と同じく,『わたしたちはとがと共に,産みの苦しみをもって産み出され,わたしたちの母は罪のうちにわたしたちを宿した』のです。(詩編 51:5)生まれたばかりの子供は自制について何も知りません。何かが欲しいと,それが与えられるまで泣き続けます。子供の訓練に関するある報告はこう述べています。『子供は大人とは全く違った仕方で推論する。子供は「他の人の立場に自分を置く」ことができないので,自己中心的であり,極めて論理的な説得に対しても反応しないことが多い』。確かに「愚かさが少年の心につながれている」のです。しかし,「懲らしめのむち棒」を用いるなら,少年は徐々に,従わなければならない規則があることや利己心を抑えるべきであることを学んでゆきます。―箴言 22:15。
18 (イ)イエスによると,比喩的な心臓の中にはどんな傾向が宿っていますか。(ロ)自制するという問題をパウロが意識していたことは,彼のどんな言葉に示されていますか。
18 そうです,わたしたちの持って生まれた利己的な傾向は,自制する際の挑戦となります。そのような傾向は比喩的な心臓の中に宿っています。イエスは比喩的な心臓に関して,「心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます」と言われました。(マタイ 15:19)そのようなわけで,パウロはこう書きました。「自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっているのです。では,自分の願わない事柄,それがわたしの行なうところであるなら,それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに宿っている罪です」。(ローマ 7:19,20)とはいえ,これは負け戦ではありませんでした。パウロはさらにこう書いているからです。「自分の体を打ちたたき,奴隷として引いて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」。自分の体を打ちたたくためには自制しなければなりませんでした。―コリント第一 9:27。
19 自分の体を打ちたたくというパウロの言葉が当を得ていると言えるのはなぜですか。
19 自分の体を打ちたたくというパウロの言葉は当を得ています。というのは,自制するということは,高血圧,神経過敏,睡眠不足,頭痛,消化不良など数多くの身体的な要素によって複雑な問題になるからです。次の記事では,わたしたちが自制するのに役立つ特質や助けについて考慮します。
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自制という実を培うものみの塔 1991 | 11月15日
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自制という実を培う
「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」― ガラテア 5:22,23。
1 自制の最も優れた模範をわたしたちに示してこられたのはどなたですか。そのことはどんな聖句から分かりますか。
エホバ神とイエス・キリストは,自制の最も優れた模範をわたしたちに示してこられました。エデンの園で人間が不従順になって以来,エホバはずっとこの特質を働かせてこられました。(イザヤ 42:14と比較してください。)ヘブライ語聖書の中には,エホバは『怒ることに遅い』と9回記されています。(出エジプト記 34:6)怒ることに遅いためには自制が必要です。また,確かに神のみ子も大いに自制されました。『彼は,ののしられても,ののしり返したりしなかった』からです。(ペテロ第一 2:23)しかしイエスは,望むなら「十二軍団以上のみ使い」の支えを天のみ父に願い求めることができました。―マタイ 26:53。
2 聖書には,不完全な人間による自制のどんな優れた模範が記されていますか。
2 さらに聖書には,不完全な人間による自制の優れた模範が幾つか記されています。例えばこの特質は,族長ヤコブの息子ヨセフの生活に生じたある有名な出来事に際して発揮されました。ポテパルの妻がヨセフを誘惑しようとした時,ヨセフは大いに自制しました。(創世記 39:7-9)また,モーセの律法の制約ゆえにバビロンの王の美食をとることを拒んで自制した,4人のヘブライ人の若者の優れた模範もあります。―ダニエル 1:8-17。
3 だれが行儀の良さのゆえに注目されていますか。そのことはどんな証言から分かりますか。
3 現代における自制の模範として,エホバの証人全体を取り上げることができます。エホバの証人は新カトリック百科事典が述べた称賛の言葉に値します。彼らは「世界で最も行儀の良いグループの一つ」である,と同事典は述べたのです。フィリピンの大学の一教官は,「エホバの証人は聖書から学んだ事柄を良心的に実践している」と語りました。1989年のエホバの証人のワルシャワ大会について,ポーランド人の記者は,「5万5,000人の人々が三日間,1本のたばこも吸わなかった。……この超人的な規律正しさの証拠に私は心を打たれ,畏敬の念と感嘆の念の入り混じった気持ちにさせられた」と書きました。
神を恐れ,悪を憎む
4 自制する際の最大の助けの一つは何ですか。
4 自制を培う際の最大の助けの一つは,神への恐れ,つまりわたしたちの愛ある天の父を不快にさせることに対する健全な怖れです。神に対する敬虔な恐れがわたしたちにとってどれほど重要であるかは,聖書がその恐れについて幾度も述べているという事実から分かります。アブラハムが息子イサクをささげようとした時,神は,「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った」と言われました。(創世記 22:12)感情的な緊張が高まったことに疑問の余地はありません。ですから,愛する息子イサクを殺すために短刀を振り上げるところまで神の命令に従い続けるためには,アブラハムの側に相当な自制心が必要だったに違いありません。そうです,神への恐れはわたしたちが自制するための助けになるのです。
5 わたしたちが自制する際に,悪を憎むことはどんな役割を果たしますか。
5 エホバへの恐れと密接に結びついているのは悪を憎むことです。箴言 8章13節には,「エホバへの恐れは悪を憎むことを意味する」とあります。次いで,悪を憎むことはわたしたちが自制するための助けにもなります。聖書はわたしたちに対して再三再四,悪を憎むよう,そうです,憎悪するよう告げています。(詩編 97:10。アモス 5:14,15。ローマ 12:9)悪い事はしばしば非常に楽しく,非常に誘惑的で,非常に心をそそるので,それに対して自分自身の防備を固めるためには,悪い事を本当に憎まなければなりません。このように悪を憎むことはすべて,自制しようというわたしたちの決意を強める影響を及ぼし,それゆえわたしたちを保護するものとなります。
自制,知恵の道
6 自制することによって自分の利己的な傾向を抑えることが知恵の道であるのはなぜですか。
6 わたしたちが自制するためのもう一つの大きな助けは,この特質を発揮することの知恵を認識することです。エホバは,わたしたちが自分自身の益のために自制するよう求めておられます。(イザヤ 48:17,18と比較してください。)神の言葉には,自制することによって自分の利己的な傾向を抑えることがどれほど知恵のあることであるかを示す,数多くの諭しが収められています。わたしたちが神の不変の法則から逃れることは全く不可能です。神の言葉はわたしたちにこう告げています。「何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」。(ガラテア 6:7,8)分かりやすい例は飲食に関するものです。多くの病気は人々の食べ過ぎや飲み過ぎが原因で生じています。そのようにして利己心に屈するなら,人は必ず自尊心を奪い取られます。その上,利己心に屈する人は必ず他の人との関係も損ないます。何よりも重大なこととして,自制の欠如はわたしたちと天の父との関係を損ないます。
7 箴言の書の大きな主題の一つは何ですか。そのことはどんな聖句に示されていますか。
7 ですから,利己心は自分を破滅させるということを絶えず自分自身に言い聞かせなければなりません。箴言の書は自己鍛錬を強調していますが,その書の際立った主題の一つは,利己心は全く引き合わず,自制することには知恵があるということです。(箴言 14:29; 16:32)そして,自己鍛錬には単に悪を避ける以上のことが含まれるということを思いに留めてください。自己鍛錬または自制は,正しい事を行なうためにも必要です。正しい事を行なうことはわたしたちの罪深い傾向に逆行するので難しい場合があります。
8 どんな経験は,自制することの知恵を強調していますか。
8 自制することの知恵を例証しているのは,銀行で列に並んでいたエホバの証人の例です。一人の男性がその証人を押しのけて前に出ました。証人は少しむっとしましたが,自制しました。ちょうどその日,証人は王国会館の計画書にサインをもらうため,ある技師と会わなければなりませんでした。では,その技師とはだれのことでしたか。何と,銀行で証人を押しのけて前に出たその人だったのです。その技師はたいへん友好的だっただけでなく,通常の手数料の十分の一にも満たない金額しか証人に請求しませんでした。その証人は,その日の少し前に腹を立てずに自制して本当によかったと思いました。
9 宣べ伝える業において侮辱的な反応に直面した時には,どうすることが知恵の道ですか。
9 神の王国の良いたよりを宣べ伝えて戸別訪問をする時,また通行人にわたしたちの音信に対する関心を起こさせようとして街角に立つ時,わたしたちはしばしば侮辱的な言葉に直面します。どうすることが知恵の道でしょうか。箴言 15章1節にはこのような知恵の言葉があります。『温和な答えは激しい怒りを遠ざける』。言い換えるなら,自制しなければならないのです。そして,エホバの証人だけでなく他の人たちもこれが真実であることを認めてきました。自制に治療上の価値があることは医療関係者によってますます認められています。
無私の愛は助けになる
10,11 自制するのに愛が本当に助けになるのはなぜですか。
10 コリント第一 13章4節から8節にある,愛に関するパウロの記述は,自制するのに愛の力が助けになり得ることを示しています。『愛は辛抱強い』のです。辛抱強くあるためには自制が必要です。『愛はねたまず,自慢せず,思い上がりません』。愛という特質は,わたしたちが自分の考えと感情を制御し,ねたんだり,自慢したり,思い上がったりする傾向を抑えるのに役立ちます。愛は,それとは正反対の人になるようわたしたちを動かし,わたしたちをイエスのように謙遜で,思いのへりくだった人にします。―マタイ 11:28-30。
11 パウロは続けて,愛は『みだりな振る舞いをしない』と述べています。常に品位ある行動をするためにも自制が必要です。愛という特質は貪欲さや,ひたすら『自分の利を探し求める』ことからわたしたちを引き離します。愛は「刺激されてもいら立ちません」。他の人の言動のためにいら立つのは本当にたやすいことです。しかし,愛はわたしたちが自制し,後悔するような言動を慎むための助けになります。愛は『傷つけられてもそれを根に持ちません』。恨みや憤りを抱くのは人間の自然な傾向です。しかし,愛はそのような考えを思いから締め出すための助けになります。愛は『不義を歓びません』。ポルノや,テレビの下劣な連続メロドラマなどといった不義を喜びとしないためには自制が必要です。さらに,愛は「すべての事に耐え」,「すべての事を忍耐します」。物事を耐え忍ぶためにも,試練や重荷となる事柄を忍耐し,そうした事柄のゆえに落胆したり,仕返しに同じ事をしたり,エホバに仕えるのをやめたりしないためにも,自制が必要です。
12 エホバ神とイエス・キリストがわたしたちのために行なってくださったすべてのことに対する感謝を示す一つの方法は何ですか。
12 天の父を心から愛し,天の父のすばらしい特質とわたしたちのためにしてくださったすべてのことに感謝しているなら,わたしたちは常に自制することによって天の父を喜ばせたいと思うでしょう。さらに,わたしたちの主また主人であられるイエス・キリストを心から愛し,イエスがわたしたちのためにしてくださったすべてのことに感謝しているなら,『自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずイエスのあとに従うように』というイエスの命令を思いに留めるでしょう。(マルコ 8:34)確かにこの命令は,わたしたちが自制することを要求しています。同様に,わたしたちのクリスチャンの兄弟姉妹に対する愛があれば,何らかの利己的な道を歩むことによって兄弟姉妹を傷つけることはないでしょう。
助けとしての信仰と謙遜さ
13 自制するのに信仰が助けになるのはなぜですか。
13 自制するためのもう一つの大きな助けは,神と神の約束に対する信仰です。信仰があれば,エホバを信頼し,事態を正すためのエホバのご予定の時を待つことができます。使徒パウロは同じ点に言及し,ローマ 12章19節で次のように述べています。「わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。……こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」。この点で,謙遜さもわたしたちの助けになります。謙遜であるなら,傷つけられたように思えた,あるいは実際に傷つけられたことを理由に,すぐに腹を立てることはないでしょう。性急に,言わば自分勝手に制裁を加えたりはせず,自制し,喜んでエホバに仕えるでしょう。―詩編 37:1,8と比較してください。
14 自制が非常に欠けている人でさえ自制を習得できることを,どんな経験が示していますか。
14 わたしたちは自制することを学べますが,そのことは暴力的な気性の持ち主であった男の人に関係した一つの経験に如実に示されています。彼はそのような気性だったので,彼と彼の父親が引き起こした騒動のため警察が呼ばれたとき,他の警官に取り押さえられるまでに3人の警官を気絶させました。しかし,やがて彼はエホバの証人と接するようになり,神の霊の実の一つである自制を働かせることを学びました。(ガラテア 5:22,23)30年後の現在でも,この人はエホバに忠実に仕えています。
家族内での自制
15,16 (イ)夫が自制するのに何が助けになりますか。(ロ)特にどんな状況では自制が必要とされますか。そのことはどんな経験から分かりますか。(ハ)妻に自制が必要なのはなぜですか。
15 確かに自制は家族内で必要とされます。夫は自分自身を愛するように妻を愛するために,自分の考えと言葉と行動を強力に制御しなければなりません。(エフェソス 5:28,29)そうです,ペテロ第一 3章7節にある,「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻と共に住み……なさい」という使徒ペテロの言葉に夫が注意を払うためには,自制が必要です。妻が信者でない場合は特に,信者である夫は自制しなければなりません。
16 例を挙げて説明しましょう。非常に気難しい未信者の妻を持つ長老がいました。それでも彼は自制しました。これがその長老に大きな益を与えたので,かかりつけの医師は,「ジョン,君は生まれつき極々辛抱強いか,強力な宗教を持っているかのどちらかだ」と言いました。わたしたちは確かに強力な宗教を持っています。というのは,「神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えて」,わたしたちが自制できるようにしてくださったからです。(テモテ第二 1:7)さらに妻の側にも,特に夫が信者でない場合には,柔順であるために自制が必要です。―ペテロ第一 3:1-4。
17 親子関係において自制が重要なのはなぜですか。
17 自制は親子関係においても必要です。子供を自制心のある子にするためには,まず親自身が良い模範を示さなければなりません。そして子供が何らかの懲らしめを必要としているときには,いつも冷静に,そして愛のうちに懲らしめを与えるべきであり,それには真の自制が求められます。(エフェソス 6:4。コロサイ 3:21)また,子供たちが親を本当に愛していることを示すためには従順が求められ,従うためには確かに自制が必要です。―エフェソス 6:1-3。ヨハネ第一 5:3と比較してください。
神が備えておられる助けを活用する
18-20 自制するのに助けになる特質を培うために活用しなければならない三つの霊的な備えは何ですか。
18 神への恐れ,無私の愛,信仰,悪に対する憎しみ,自制などの点で成長するためには,エホバ神が備えてくださったすべての助けを活用しなければなりません。自制するための助けになる三つの霊的な備えを考慮しましょう。まず第一に,祈りという貴重な特権があります。決して忙し過ぎて祈れないようであってはなりません。そうです,わたしたちは「絶えず祈り」,『たゆまず祈る』ことを願うべきです。(テサロニケ第一 5:17。ローマ 12:12)自制を培うことについて祈りましょう。それでも十分に自制できなかった場合には,そのことを深く悔い,許しを求めて天の父に祈願をささげましょう。
19 自制心を発揮する点で助けとなる二つ目の分野は,神の言葉,およびわたしたちが聖書を理解し適用できるようにする出版物を食物とすることからもたらされる助けを得ることです。わたしたちの神聖な奉仕のこの部分をなおざりにするのは本当にたやすいことです。わたしたちは自制し,聖書と「忠実で思慮深い奴隷」が備えた物以上に大切な読み物はないと絶えず自分に言い聞かせ,そのようにしてそれを優先させなければなりません。(マタイ 24:45-47)人生は決してこれとあれではなく,これかあれである,とはよく言ったものです。わたしたちは本当に霊的な男女でしょうか。自分の霊的な必要を意識しているなら,わたしたちはテレビを消して集会の準備をしたり,受け取ったばかりの「ものみの塔」誌を読んだりするのに必要な自制を働かせるでしょう。
20 三つ目に,自分の会衆の集会や,より大規模な大会を正しく評価するという点があります。そのような集まりすべてはわたしたちにとって絶対に必要なものですか。参加するための準備をして出席し,機会があれば参加していますか。わたしたちが集会をどれだけ正しく評価するかに応じて,どんな状況のもとでも自制しようというわたしたちの決意は強められるでしょう。
21 わたしたちが自制という霊の実を培うことによって享受できる報いにはどんなものがありますか。
21 常に自制するよう一生懸命に努力することの報いとして何を期待することができますか。一つの点として,利己心の苦い実を刈り取ることは決してありません。わたしたちは自尊心と清い良心を抱きます。非常に多くの問題を経験せずにすみ,命の道にとどまることになります。そのうえわたしたちは,他の人に対して,考え得る最大の善を行なうことができます。何よりもわたしたちは,「我が子よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。わたしを嘲弄している者にわたしが返答するためである」という箴言 27章11節の言葉を思いに留めます。そして,それはわたしたちが得ることのできる最大の報いです。つまり,わたしたちの愛ある天の父エホバの心を喜ばせるという特権です。
思い出せますか
□ 神への恐れは,わたしたちが自制するのにどのように助けになりますか
□ 自制するのに愛が助けになるのはなぜですか
□ 家族関係において自制はどのように助けになりますか
□ 自制を培いたいなら,どんな備えを十分に活用しなければなりませんか
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