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わたしたちの王国宣教 1993
宣 93/1 3–6ページ

真理を心の中に広く深く根づかせる

1 1993奉仕年度の日本の目標について言及した「王国宣教」1992年8月号の記事は,個人および家族として進歩する必要性に関連し次のように論じました。『わたしたちは,表面的な知識で満足するのではなく,真理を心の中に広く深く根づかせる決意を抱くはずです。家族の霊的進歩を図るため,家族の頭はどのように聖書研究のプログラムを計画し定着させることができますか。聖書研究の成果が,会衆の集会の質の向上に貢献するためには何が必要ですか』。これはわたしたちすべてにとって,大きな挑戦となりますが,日本支部の掲げたこの目標に個人および家族そして会衆が真剣に取り組むなら,霊的パラダイスはさらに豊かな繁栄を見るに違いありません。

2 個人研究や予習の効果的な型を身につける: 「忠実で思慮深い奴隷」級は時宜にかなった霊的食物を信仰の家族に供給するという責任を長年にわたって受け入れてきました。したがって献身したクリスチャン各人は,奴隷級を通して備えられる霊的食物を感謝のうちに取り入れ,それを自分のため,さらには他の人々を霊的に養うために用いてゆかなければなりません。そのためには,出版物にある情報を単に知識として表面的に取り入れるだけでは不十分です。(マタイ 24:45-47)例えば,「ものみの塔」誌の研究記事を予習する場合,ある人々は熟読することなく欄外にある質問に対する答えの部分に単に機械的に下線を引くだけかもしれません。教え手となることが期待されているにもかかわらず,時間をかけて深く考える学び方を習得しないなら,わたしたちの霊的進歩に大きな期待を寄せることはできなくなるでしょう。(ヘブライ 5:12)おそらく,集会での注解は下線の引かれた文章を読むだけのものとなるかもしれません。もしそうした状況に自分を長く置くようになると,奴隷級によって備えられた霊的食物の益に十分にあずかることができず,絶えず前進してゆく神の組織と歩調を合わせることができなくなります。

3 現在の学校教育では,一般的に言って教師は限られた時間内に生徒たちに多くのことを教えなければならないため,ややもすると思考過程が省かれ,結論のみに重きを置くといった学習法が大勢を占めているようです。一方生徒の側も,教師の言うこと,教科書に記されていることを素直にすべて受け入れて暗記することが効率の良い学習法だと考えがちです。また,「なぜ」という部分が重視されないため,授業において物事を考える機会が少なく,また考えるよう促されることもあまりないかもしれません。このような学習法のもとで育った若者や大人が自主的に物事を考えたり,思考力や想像力を働かすことができるようになるためには,学び方そのものを大きく変化させてゆかなければなりません。

4 聖書は神の言葉の正しい学び方について次のように述べています。「これらのことをよく考えなさい。それに打ち込んで,あなたの進歩がすべての人に明らかになるようにしなさい。自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい。これらのことをずっと続けなさい。そうすることによって,あなたは,自分と自分のことばを聴く人たちとを救うことになるのです」。パウロはここで,「よく考え(る)」ことと,「それに打ち込(む)」ことの2点を強調しました。すなわち,自分が今学んでいる事柄の価値を評価し考えながら学ぶことと,学んだ事柄を十分に吸収し適用することに打ち込むよう勧めました。そのような個人研究の習慣を身につける人は,やがて火のような試練が訪れても,自分と他の人を救うことになるのです。―テモテ第一 4:15,16。

5 「ものみの塔」誌などの欄外の質問には,わたしたちの思考力を引き出す呼び水の役割があります。質問の種類も多岐にわたり,「何を,いつ,どこで,だれが」といった直接的なものから,「なぜ,どのように」といった理由や適用を尋ねるものや,「あなたはこの問題をどう思いますか」,「例をあげて説明してください」といったものもあります。それで個人研究の際,次に挙げる四つの基本的な要素を是非念頭に置いてください。

6 (1)読む時,まず書いてある事柄がどういう意味かを理解し,次に「奴隷」級がなぜそのように説明しているのかを考える。「ものみの塔」誌を例にとった場合,その論議が聖句や主題を中心に展開してゆくため,各々の論点がどのように発展しているかが分かれば,わたしたちの理解は一層深まります。

7 (2)他の人に説明することを意識しながら学ぶ。個人研究の目的は,ある事柄に組織的に心を向けて学び将来それを活用することであるため,その時だけの知識としてではなく知識の活用を意識しながら学んでゆきます。

8 (3)例えを理解する。わたしたちは,常に教える者としての資格や能力の向上に深い関心を持つべきです。イエス・キリストは,一見複雑で難しい問題を人々の生活や身近な例から取り上げ,分かりやすく説明しました。もし,研究資料に例えが出ていないなら,他の出版物からふさわしい例えを見つけるか,自分で考え出してみるのも一つの方法です。

9 (4)研究している資料と自分の生活や宣教との関係を考える。観察力を養うことは,良い教え手となるために不可欠な要素です。身の回りの出来事や人々にいつも興味を持ち,観察を怠らなければ,産出的な奉仕を行なった使徒パウロと同様,わたしたちの教える業もエホバからの祝福を受けるに違いありません。(使徒 17:21-31,34と比較。)このように正確な知識を増し加え,思考力の向上を目ざして個人研究に励むとき,わたしたちの霊性は健全な成長を示すようになります。

10 日々の聖句の討議: 個々のクリスチャンはもちろんのこと,クリスチャン家族が行なう日々の聖句の討議はエホバ神への崇拝の大切な部分となっています。わたしたちは,サタンの世からの不健全な影響を容赦なく受けているため,エホバに対する忠節を保つ点で霊的な励ましや助けを日ごとに必要としています。一日の生活が神の言葉によって導かれるよう,その日の聖句に思いを集中し,「心と知力」を守ることは極めて大切です。―フィリピ 4:6,7。

11 このように日々の聖句を討議することの意義を正しく理解するなら,「日ごとに聖書を調べる」の資料を毎日読むことを日課の一つとして定着させたいと願うはずです。しかしそれで満足することなく,日々の聖句の討議を真に充実したものとするため,家族全員で考える機会にするという目標を持つべきです。その日の聖句と印刷された注解を読むだけとか,単に書かれていることを答えてもらうために質問をする程度で終えているとすれば,家族に関係のある問題を取り上げ改善や適用を考慮したり,成員一人一人の心にあるものを引き出したりして十分に討議することはできません。子供たちは学校において不敬で下品な言葉を語る学友たちの中で多くの時間を過ごさなければならず,世俗の仕事についている兄弟姉妹たちはクリスチャンの忠節を全うするために日々闘わなければならないのが現状です。したがってわたしたちは,討議を通してその日の聖句が自分や家族にどう適用するかを考えながら学ぶ必要があるのです。

12 父親は家族との,また未信者の配偶者を持つ母親は子供たちとの日々の聖句の討議をいつ,どのように行なうかを真剣に考慮する必要があります。親は家族の成員の一人一人に関心を払い,野外奉仕の経験を織り交ぜたり,会社や学校で生じる問題を取り上げたりし,家族全員が読むだけの日々の聖句から考える日々の聖句の討議へとより高い目標を目ざして努力することが肝要です。

13 子供たちと共に集会の予習をする: 家族全員が集会によく備えるためには,子供たちの理解力に応じた教え方が親の側に求められます。単に書かれている事柄を読んで答える注解を準備するとすれば,子供にとっては知識を得ることにも,信仰を表明することにもなりません。では,どのように子供たちをも強める予習を効果的に行なうことができますか。

14 子供たちの年齢や理解力に合わせ,家族全体としての予習にどのくらいの時間をあてるかを親は決めなければなりません。例えば「ものみの塔」研究の予習をする場合,年齢層の違う子供のいる家庭では,幼い子供たちを対象とした前半の予習をまず行ない,後半の時間帯を年齢の進んだ子供たちのためにあてることもできるでしょう。おそらく最初に記事全体の流れを分かりやすく説明してから,序論にあたる部分を考えることができるかもしれません。こうして子供たちに記事の趣旨や目的を理解させ,次いで子供たちのために選んだ特定の部分を時間をかけて考えます。親が日ごろ子供たちに関心を払い,学校生活や家庭生活,さらにはクリスチャン会衆内での言動を観察しているなら,この討議は家族全体を築き上げ,健全な方向づけを与えるものになります。

15 集会で,親から耳打ちされて,あるいはただ書いてきたものを一字一字読んで,何も分からないことを口にするのではなく,子供なりに理解した事柄を自信を持って注解するなら,それは当人の信仰の表明となるばかりか,出席している大勢の人々を真に励まし鼓舞するものとなるに違いありません。(ヘブライ 10:24,25)そのためにはどうしても,子供が年齢に応じた事柄を自分の言葉で注解できるよう親が助けなければなりません。

16 「ものみの塔」研究をさらに充実したものとする: 「ものみの塔」誌は,「奴隷」級が信仰の家族を養うために用いている重要な備えであり,その資料はクリスチャンの崇拝,奉仕,生活全般を包含しています。各号の研究記事は,エホバの聖霊の導きと神の言葉の絶えざる研究による思考の所産です。―ルカ 11:13。

17 世俗の学校においては,カリキュラムをこなすための授業に終始することが多く,考えや論議を発展させる機会はごく限られています。そのため,教師も生徒も無気力,無感動になるケースが少なくありません。しかし,わたしたちは「ものみの塔」研究を通して教えられる事柄に大きな感動を覚えるのではないでしょうか。そうであれば,わたしたちの注解も,単に書かれている事柄を述べるだけにとどまらず,聖句の適用を注解したり,野外の経験を含めたり,わたしたちの感動を表明したりすることができるはずです。

18 「ものみの塔」研究において司会者が質問を読むと,最初は大勢の人が手を挙げて直接的な答えを述べるものの,答えの理由や根拠を尋ねる付加的な質問をすると,ごく限られた人しか注解できないといった傾向があるようです。さらに司会者が「補足的な注解がありますか」と尋ねると,節の中でまだ注解に出なかった部分が答えられるだけで,結局は節全体をもう一度読むのと同じことになってしまうという報告も寄せられています。

19 資料を深く考えずに書かれている事柄をただ読むような注解の仕方では,数日後にはほとんど忘れてしまい,真の意味で信仰を強めたり長く記憶にとどめたりする助けにはなりません。また後日野外で活用したいと思うことがあったとしても,学んだ事柄が記憶に残っていないため,用いることができません。それゆえ聖句でさえ,書かれているとおりに読んでから注解しなければならないわけではなく,自分の記憶と理解に基づいて意味や適用を注解することができるのです。

20 節が朗読されている時には,予習してきた事柄を整理する目的を持って一心に聴き,目で追い,注解する時は司会者と目を合わせながら自分の言葉で述べるようにしてみてください。司会者も注解部分を確認するために「ものみの塔」誌に目をやるのではなく,注解者の顔を見ながら聞いて誠実な関心を示すようにします。その時,他の聴衆も「ものみの塔」誌からさらに別の注解を探すようなことをせず,顔を上げ,なされている注解に耳を傾けます。このような仕方は,会衆の書籍研究や奉仕会の「質問と答え」のプログラムでも期待されています。

21 中学2年生になる一姉妹は,自分の経験を振り返り次のように述べています。『小さなころは,集会で注解することはあまり苦ではありませんでした。しかし,成長するにつれて,本当はあまり知識がないのに注解して間違ったらどうしようとか,もっとよい注解をしなくてはなどと思うようになり,注解しづらくなってしまいました。……しかし,予習や注解の準備の仕方を改善した結果,自分の言葉で注解できるようになったため,注解が楽しくなり,また印象深く自分の心に残るようにもなりました』。

22 すべての人が勤勉に予習して集会に臨むなら,変化に富んだ注解が行なわれ,それによって互いに良いものを分かち合うことになります。「ものみの塔」研究は特定の限られた人による話ではなく,多くの人が注解すなわち語ることによって信仰を表明し互いに学び合う集会です。それで,できるだけ大勢の人が短い注解で参加するようにし,司会者も話し過ぎたり細かいところにこだわり過ぎたりしないよう注意を払う必要があります。良い準備を反映した注解は,箴言 27章17節にあるとおり「他の人の顔を研ぐ」ことになるでしょう。

23 家庭聖書研究: これまで論じてきた事柄は,家庭聖書研究における司会者および研究生の双方にも当てはまります。もし,司会者が書かれている事柄のみを注解するよう研究生に期待するなら,研究生は次第に,考えながら自分の言葉で答えるよりも読むだけの注解を繰り返すようになります。ひとたびこうした習慣がついてしまうと,司会者は研究生が資料を本当に理解しているかどうか判断できなくなってしまいます。このような研究司会は,研究生の理解を深めたり信仰を築いたりする上でそれほど効果を上げることにはなりません。

24 それで司会者は,これまでに述べた個人研究や予習の方法を研究生が早く身につけるよう援助すると共に,研究の際に研究生と顔を向き合わせて目を見ながら司会するようにし,研究生が常に自分の言葉で注解するように助けてください。

25 個人および家族が霊的に進歩するためには,霊的食物を十分に取り入れ,そしゃくして消化し,自分自身の霊的な力に還元してゆかなければなりません。もちろん,人はみな同じ読解力,聖句に関する知識,霊的な把握力や認識を有しているわけではありません。しかしながら,すべての人は,表面的な知識で満足することなく,真理の「幅と長さと高さと深さ」を立体的に学び,クリスチャン会衆の霊的な資産である安定し円熟したクリスチャンになるよう期待されているのです。―エフェソス 3:18; 4:13。

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