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公にも家から家にも教えなさいものみの塔 1991 | 1月15日
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傾けたのは福音宣明,すなわち贖いに関する音信を告げることであった。……しかし,イエスの影響と教えが広まったことに関して言えば,最も初期の場合,宣教師と呼ぶべき人たちに負うところはごくわずかであった。それは,あらゆる職種と職業の人たち,社会のあらゆる階層の人たちによって成し遂げられたのである。[彼らは]霊的生活に関するあの秘訣,世に対するあの新しい態度,すなわち彼らの経験において救いとなったものを,[ローマ]帝国の最も遠隔の地にまで携えて行った。……[初期キリスト教は]現存する世界秩序が終わりに近づきつつあることを心から確信していた。そして,新しい世界秩序が突如,奇跡的に設立されることを信じていた」。
18 どんな壮大な希望は,政治指導者たちの夢よりもずっと勝っていますか。
18 エホバの証人は家から家の証しの業や他の形の宣教において,聞き手の注意を神が約束しておられる新しい世に向けるよう,喜んで努力します。予告されている終わりのない命に関する祝福は,今日,新しい世界秩序を設立するとされている人々のひとりよがりな夢より,ずっと勝っています。(ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-4)だれもが神のすばらしい新しい世で生きることを願うように思えますが,現実はそうではありません。しかし次に,エホバの僕たちがとこしえの命を求める人たちを教える際に用いることのできる幾つかの効果的な方法について考えましょう。
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永遠の命のために正しく整えられた人たちを探しなさいものみの塔 1991 | 1月15日
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永遠の命のために正しく整えられた人たちを探しなさい
「永遠の命のために正しく整えられた者はみな信者となった」― 使徒 13:48。
1 人間の心に関して,エホバはどんな能力をお持ちですか。
エホバ神は心を読むことがおできになります。そのことは,預言者サムエルが,イスラエルの王とするためエッサイの子に油をそそいだ時に明らかにされました。こう記されています。サムエルはエリアブを見て,「直ちに,『確かにその油そそがれた者がエホバの前にいる』と言った。しかしエホバはサムエルに言われた,『その容姿や丈の高さを見てはならない。わたしは彼を退けたからである。神の見るところは人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ』」。それでサムエルはダビデに油をそそぐよう指示されました。『神の心にかなう』のはダビデであることが分かりました。―サムエル第一 13:13,14; 16:4-13。
2 人の比喩的な心臓に深く根をおろしているのは何ですか。それで,聖書中にはそのことに関して,どんなことが書かれていますか。
2 人は特定の支配的な態度を表わし,自分の比喩的な心臓に根ざした独特の傾向を持っています。(マタイ 12:34,35; 15:18-20)ですから,『心が戦いに傾く』人のことが述べられています。(詩編 55:21)「すぐに激怒する者[英文字義,激怒する傾向のある人]は多くの違犯をおかす」と言われています。「互いに打ち砕こうとする[英文字義,打ち砕く傾向のある]友もいれば,兄弟より固く付く友人もいる」とも書かれています。(箴言 18:24; 29:22)幸いなことに,多くの人は,古代ピシデアのアンティオキアにいたある異邦人のようであることを示します。救いのためのエホバの備えについて聞いた時,「[彼らは]歓び,エホバの言葉に栄光を帰するようになった。そして,永遠の命のために正しく整えられた[英文字義,永遠の命を求める正しい傾向のある]者はみな信者となった」。―使徒 13:44-48。
信者は『心が純粋』
3,4 (イ)心の純粋な人とはどんな人ですか。(ロ)心の純粋な人たちはどのように神を見ますか。
3 アンティオキアにいたそれらの信者はバプテスマを受けたクリスチャンになり,それら忠実な人たちは,「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです」というイエスの言葉を自分に当てはめることができました。(マタイ 5:8)しかし,「心の純粋な人たち」とはどんな人たちのことですか。彼らはどのように「神を見る」のですか。
4 心の純粋な人たちとは,内面の清い人です。感謝,愛情,欲求,そして動機の純粋さがあります。(テモテ第一 1:5)彼らは,忠節を保つ人たちのために神が行動されることに気づくという意味で,神を見るのです。(出エジプト記 33:20; ヨブ 19:26; 42:5と比較してください。)ここで「見る」と訳されているギリシャ語には,「思いで見る,知覚する,知る」という意味もあります。イエスは神のご性格を完全に反映しておられたので,「心の純粋な人たち」はそのご性格を洞察することができます。彼らはキリストと,罪を贖うキリストの犠牲とに信仰を働かせ,自分たちの罪の許しを得ます。それゆえに神に受け入れられる崇拝をささげることができます。(ヨハネ 14:7-9。エフェソス 1:7)油そそがれた者たちの場合,彼らが天に復活させられるときに,神を見ることは極みに達します。彼らはそこで実際に神とキリストを見るのです。(コリント第二 1:21,22。ヨハネ第一 3:2)しかし,心の純粋なすべての人にとって,正確な知識と真の崇拝を通して神を見ることは可能です。(詩編 24:3,4。ヨハネ第一 3:6。ヨハネ第三 11)彼らは天における,あるいは地上の楽園における永遠の命のために正しく整えられているのです。―ルカ 23:43。コリント第一 15:50-57。ペテロ第一 1:3-5。
5 どのようにしてのみ,人は信者に,またイエス・キリストの真の追随者になれますか。
5 永遠の命のために正しく整えられていない人たちは信者になりません。そのような人たちが信仰を働かせることは不可能です。(テサロニケ第二 3:2)さらに,教えやすい人でない限り,そして心の状態をご覧になるエホバが引き寄せてくださらない限り,だれもイエス・キリストの真の追随者になることはできません。(ヨハネ 6:41-47)もとより,エホバの証人は家から家に宣べ伝える際,先入観をもって人を見ることはしません。心を読むことはできませんが,結果を神の愛あるみ手にゆだねます。
6 (イ)家から家の宣教における個人的な接触について,どんなことが言われてきましたか。(ロ)永遠の命のために整えられた人たちを見いだせるようエホバの証人を助けるための,どんな備えがなされてきましたか。
6 ある学者は適切な意見を述べています。「[パウロ]は公にも家から家にも真理を教えた。演壇からキリストを説いただけでなく,人々と個人的に接触する際にもキリストを説いた。多くの場合,個人的な接触は,他のどんな型や方法より人の心を動かす点ではるかに効果的である」。(オーガスト・バン・リン)「神権宣教学校案内書」,「聖書から論じる」,「わたしたちの王国宣教」といった出版物は,エホバの証人が話をする際にも,野外奉仕の際の個人的な接触を最も効果的にする際にも助けになります。奉仕会の実演や神権宣教学校で与えられる助言も役立ちます。この学校に出席する人々は,良い紹介の言葉,聖書の正しい使い方,論理的な話の進め方,納得させる論議,例えの用い方,効果的な結論など,話の種々の特質について,有益な訓練を受けています。永遠の命のために正しく整えられた人たちをより効果的に探せるように神の民を助けるこの教訓が,聖書によってどのように強化されているか,調べてみましょう。
考えを刺激する紹介の言葉
7 イエスの山上の垂訓の冒頭の言葉は,紹介の言葉について何を教えていますか。
7 家から家に行なう証言の準備をしている人たちは,イエスの模範から,関心を引き起こす紹介の言葉について学ぶことができます。イエスは山上の垂訓を始めるに当たって,「幸い」という言葉を9回用いられました。例えば,こう言われました。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。……温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」。(マタイ 5:3-12)これらの文章は明確かつ明快なものでした。また,この紹介の言葉は確かに関心を呼び起こし,聴衆を話に引き込みました。幸福になりたいと思わない人はいないからです。
8 家から家の宣教では,会話するための話題をどのように紹介すべきですか。
8 家から家の宣教で用いる会話するための話題は,どれも積極的に,また感じよく紹介しなければなりません。しかし,どんな人であろうと衝撃的な紹介の言葉を用いるべきではありません。「私はあなたに,宇宙からのメッセージをお持ちしました」などはその一例です。良いたよりは確かに天から発せられていますが,家の人はそのような紹介の言葉を聞いて,証人たちを真面目な人とみなすべきか,できるだけ早く追い返すべきか,考えてしまうかもしれません。
神の言葉を正しく扱う
9 (イ)宣教において,聖句はどのように紹介し,読み,適用すべきですか。(ロ)イエスの質問の用い方を示すために,どんな例が挙げられていますか。
9 野外で宣教を行なう場合にも,演壇の上で話すときと同じように,聖句は正しく紹介し,適度に強調して読み,明快かつ正確に適用しなければなりません。聖句の要点について家の人に考えさせる質問も役立つかもしれません。この場合にも,イエスの方法は啓発的です。あるとき,モーセの律法に通じた人が,「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」とイエスに尋ねました。それに対してイエスは,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」と質問されました。その人がこの質問に答えることができることをイエスはご存じだったに違いありません。確かにその人は正しく答え,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない』」と言います。そこでイエスはその答えをおほめになり,討論は続きます。―ルカ 10:25-37。
10 会話するための話題に関して何を念頭に置くべきですか。家の人に質問する時にはどんなことを避けるべきですか。
10 家から家で証言を行なう人たちは,会話するための話題の主題を強調し,その主題を展開する聖句を読む理由を明確にすべきです。エホバの証人は家の人の心を動かすことを目的としているのですから,人を当惑させるような質問は避けなければなりません。神の言葉を用いる際には,『わたしたちの発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけされたものとしたい』ものです。―コロサイ 4:6。
11 間違った見方を正すために聖書を用いることに関して,イエスがサタンに誘惑された時のことは,どのようにわたしたちの模範となっていますか。
11 とりわけ再訪問の際には,聖書が実際に述べていることや意味するところを示して,誤った見方を正す必要があるかもしれません。イエスもサタンを論ばくするに当たって同様のことを行なわれました。サタンはこう言いました。「あなたが神の子であるなら,[自殺するかのように,神殿の胸壁から]身を下に投じなさい。『神はあなたに関してご自分の使いたちに指図を与え,彼らはその手に載せてあなたを運び,あなたが石に足を打ちつけることのないようにする』と書いてありますから」。サタンが引用した詩編 91編11節と12節は,神からの賜物である命を危険にさらすことを正当化するものではありません。イエスは,命を危険にさらしてエホバを試すのは間違っていることを理解しておられたので,「『あなたの神エホバを試みてはならない』とも書いてあります」とサタンに言われました。(マタイ 4:5-7)もちろん,サタンは真理探究者ではありません。しかし,道理をわきまえた人たちが,霊的な進歩の妨げとなるような間違った見方を口にする時,神の言葉の奉仕者は,聖書が実際に述べていることや意味するところを巧みに示すべきです。これはみな『真理の言葉を正しく扱うこと』の一部であって,神権宣教学校で教えられる重要な教訓の一つです。―テモテ第二 2:15。
説得には説得の持ち場がある
12,13 宣教において説得という方法を用いるのが正しいのはなぜですか。
12 クリスチャン宣教において,説得には説得の然るべき持ち場があります。例えばパウロは同労者のテモテに対して,学びまた「確信した[英文字義,説得されて信じるようになった]」事柄に引き続きとどまるよう勧めました。(テモテ第二 3:14)パウロはコリントで,「安息日ごとに会堂で話をして,ユダヤ人とギリシャ人を説得」しました。(使徒 18:1-4)またエフェソスでは,「神の王国について話をし,また説得に努め」,成功しました。(使徒 19:8)同使徒はローマで軟禁状態に置かれていた時には,人々を自分のもとに呼び,証言して『説得した』ため,幾人かの人が信者になりました。―使徒 28:23,24。
13 もちろん,証人たちがどんなに説得に努めたとしても,信者になるのは,永遠の命のために正しく整えられた人たちだけです。彼らは,納得させる論議と明快な説明が巧みに行なわれるなら,説得されて信じるようになるかもしれません。しかし,そのような人たちを説得するのに,ほかにどんな事柄が助けになるでしょうか。
論理的で納得させる話をしなさい
14 (イ)論理的で一貫した話の進め方にはどんなことが関係していますか。(ロ)納得させる論議をするには,何が求められますか。
14 神権宣教学校で強調される話の特質の一つは,論理的で一貫した話の進め方です。それは,かぎとなる考えと,それに関連する資料をすべて理にかなった順序に配列するということです。納得させる論議も肝要な特質です。そのためには,しっかりした土台を据え,確かな証拠を提出することが求められます。これによく似た方法として,共通の立場を維持し,要点を適正に発展させ,効果的に適用することによって,推論するよう聴衆を助けるという方法もあります。この場合も,聖書が指針となります。
15 (イ)パウロはマルスの丘で話をした時,どのように注意を引き付け,共通の土台を据えましたか。(ロ)パウロの話には,論理的で一貫した話の進め方に関するどんな証拠が見られますか。
15 こうした話し方の特質は,使徒パウロが古代アテネのマルスの丘で行なった有名な話の中にはっきり表わされています。(使徒 17:22-31)パウロの紹介の言葉は人々の注意を引き付け,共通の土台を据えました。というのは,パウロはこう言ったからです。「アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました」。アテネの人々にとって,これはほめ言葉に聞こえたに違いありません。パウロは「知られていない神に」献げられた祭壇に言及した後,論理的で一貫した話の進め方,また納得させる論議によって話を発展させます。そして,彼らが知らなかったその神は,「世界とその中のすべてのものを造られた」ということを指摘しました。アテナや他のギリシャの神々とは違い,『その神は手で作った神殿には住まず,人間の手によって世話を受ける必要があるわけでもありません』。次に同使徒は,この神がわたしたちに命を与えてくださったこと,またわたしたちに神を暗中模索させたりはされないことを指摘します。それからパウロは,偶像礼拝を行なう無知の時代を創造者は見過ごしてこられたが,『どこにおいても悔い改めるべきことを人類に告げておられる』と論じます。そこで話は必然的に,『神は,ご自分が死人の中から復活させた任命されたひとりの人によって,人の住む地を義をもって裁く』という点に発展します。パウロは「イエスおよび復活の良いたよりを宣明していた」ので,それらのアテネ人は,この審判者がイエス・キリストであることを知りました。―使徒 17:18。
16 各自の宣教は,マルスの丘におけるパウロの話や,神権宣教学校での訓練からどのような影響を受けると考えられますか。
16 確かに,パウロはマルスの丘で家から家に証言を行なっていたのではありません。しかし,エホバの証人はパウロの話や神権宣教学校で与えられる訓練を通して,自分たちの野外宣教を向上させる多くの事柄を学ぶことができます。そうです,それらすべてが,一層効果的な奉仕者になるために役立つのです。パウロの論理的な話の進め方や納得させる論議が,それらアテネ人の中のある人たちを説得して信者にならせたのと同じです。―使徒 17:32-34。
教訓的な例えを用いなさい
17 宣教ではどんな例えを用いるべきですか。
17 また,神権宣教学校は,家から家の証言でも宣教の他の面でも良い例えを用いられるよう神の奉仕者たちを助けます。重要な論点を強調するために,上品で簡潔な例えを用いるべきです。証人たちはありふれた状況から例えを引き出し,適用を明確にするよう注意を払わなければなりません。イエスが用いられた例えは,これらすべての条件を満たしていました。
18 マタイ 13章45節と46節は,宣教でどのように役立つかもしれませんか。
18 例えば,次のイエスの言葉を考えてみてください。「天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人のようです。価の高い真珠一つを見つけると,去って行って自分の持つすべてのものを即座に売り,それからそれを買いました」。(マタイ 13:45,46)真珠は真珠貝など軟体動物の中にある貴重な宝石ですが,「りっぱな」真珠となるのはほんのわずかです。商人はこの一つの真珠の優れた価値を識別するのに必要な眼識を持っていて,それを手に入れるためならほかのすべてのものを進んで手放します。この例えは,多分再訪問や家庭聖書研究で,神の王国について真の認識を持つ人々はその商人のように行動するということを示すのに用いることができるでしょう。そのような人は,王国にはあらゆる犠牲を払う価値があることを意識し,生活の中で王国を最優先させるでしょう。
結論の部分で動機づけを与えなさい
19 家から家への宣教では,結論でどんなことを家の人に示す必要がありますか。
19 神の民は神権宣教学校で,話や論議の結論の部分は主題と直接関連していなければならないこと,なすべきことを聞き手に示し,そうするよう聞き手を励ますべきであることも学んでいます。家から家への宣教では,聖書の出版物を受け取ること,再訪問に同意することなど,どんな行動が期待されているかを家の人に明確に示す必要があります。
20 マタイ 7章24-27節には,動機づけを与える結論のどんな優れた手本が示されていますか。
20 イエスの山上の垂訓の結論は,非常に良い手本です。イエスは理解しやすい例えを用いて,ご自分の言葉に注意を払うのが賢明な道であることを示されました。イエスは結論として次のように言われました。「それゆえ,わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな,思慮深い人に例えられるでしょう。それは岩塊の上に家を建てた人です。そして,雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ちつけても,その家は崩れ落ちませんでした。岩塊の上に土台が据えられていたからです。そしてまた,わたしのこれらのことばを聞いてもそれを行なわない者はみな,愚かな人に例えられるでしょう。それは砂の上に家を建てた人です。そして,雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ち当たると,その家は崩れ落ち,その崩壊はひどいものでした」。(マタイ 7:24-27)この部分を読むと,神の奉仕者が家の人に動機づけを与えるよう努力することの大切さがよく分かります。
21 わたしたちの討議で何が例証されましたか。しかし,何を認めなければなりませんか。
21 これまで述べてきた幾つかの要点は,神権宣教学校が,資格を持つ王国宣明者となるよう多くの人をどのように援助できるかを例証しています。言うまでもなく,じゅうぶん資格があるのは,第一に神から出ています。(コリント第二 3:4-6)また,奉仕者がいかに資格にかなっていようと,人々がキリストを通して神に引き寄せられない限り,彼らを説得して信者にすることは,だれにもできません。(ヨハネ 14:6)しかし,確かに神の民は,永遠の命のために正しく整えられた人たちを探す際に,エホバが設けておられる霊的な備えすべてを活用しなければなりません。
どのように答えますか
□ 「心の純粋な人たち」とはだれですか。彼らはどのように「神を見」ますか
□ 家から家への業で王国の音信を紹介する時,どんな要素を考慮すべきですか
□ どうすれば,宣教において神の言葉を正しく扱うことができますか
□ 野外奉仕で,論理的な,納得させる話をするには,何が助けになりますか
□ 宣教で用いる例えについて,どんなことを覚えておくべきですか
□ 証言の業で用いる結論は,何を成し遂げるべきですか
[16ページの図版]
イエスは,「心の純粋な人たち」は「神を見る」と言われた。それはどんな意味だったのか
[18ページの図版]
聖句は正しく紹介し,適度に強調して読み,明快かつ正確に適用しなければならない
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