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  • どんな人の死を悼み,葬式をしますか
    ものみの塔 1977 | 9月1日
    • さらに,エホバ神の忠実なしもべで故人となった人の葬式が行なわれている際には,あらゆる障害にもかかわらず忠誠を保ち続けたその人の生涯に注目することもできます。(サムエル後 1:26)アントニウスが追悼演説の中で語った,「我はカエサルを賛美するために来たるにあらず,彼を葬らんがために来たるなり」という言葉は至言です。それと同様,わたしたちの目指すところは,被造物をほめたたえたり,賞揚したりするのではなく,そうした人々の示した模範を見倣うべきものとして考えることにあります。使徒パウロはこの点を次のように言い表わしています。「怠惰な者となったりせず,むしろ,信仰としんぼうとによって約束を受け継ぐ人びとに見倣う者と(なりなさい)」― ヘブライ 6:12。

      排斥された人の葬式?

      しかし,故人が排斥された人,すなわち何らかの理由でクリスチャン会衆から追放された人であったとしましょう。「読者からの質問」(「ものみの塔」誌,1961年,606ページ)の中では,排斥された人の葬式をするのはふさわしくないという見解が明らかにされました。そこにはこう書かれています。「わたしたちは,排斥された人が,実際には受け入れられておらず,会衆から排斥されていたのに,会衆内で受け入れられていたかのような印象を外部の人々に与えたいとは思いません」。排斥された人のための葬式を行なうことについて,例外が認められるようなことはないのですか。

      その質問に答える前に,排斥の問題について少し思い起こしてみるのは有益です。この取り決めに聖書的な根拠があるということは,ある不道徳な人を排斥するよう使徒パウロが命じているコリント第一 5章の言葉から分かります。しかし,現代のエホバの民が,この点に関する必要に迫られて行動を起こしたのは1952年になってからのことでした。義に対する燃えるような熱意と悪に対する憎しみを抱いた彼らは,会衆を霊的,教理的,そして道徳的に清く保てるよう,指導の任に当たっている人々のために指針を与えました。

      時たつうちに,エホバの民は排斥の問題をより明確に理解するようになりました。詳細な点が明確に説明されただけでなく,公正と共に知恵や愛をも働かせる必要のあることが徐々に分かってきました。そして,過ちを犯しても真に悔い改める者には憐れみを示す必要があり,酌量すべき情状や誠実な悔い改めの証拠を検討する余地があることも分かりました。最近になって,悪名高い罪人や攻撃的な背教者に対してクリスチャンの取るべき態度と「諸国民の者」のようにみなすべき者に対して取るべき態度には違いのあることが指摘されました。後者のような人々に対しては,あいさつをするというような普通の礼儀にかなった態度を示すことができます。―マタイ 18:17。ヨハネ第二 9,10。

      このような区別は,排斥された人の葬式にも当てはまるものと思われます。ヨハネ第二 9,10節の描写が当てはまるような人がたとえ死んだ場合でも,クリスチャン会衆はそのような人と関連付けられて自らの良い評判を傷付けたいとは思いません。しかし,排斥された人が誠実に悔い改めていることをある程度示し,集会に出席して,会衆に復帰したいとの願いを表わしていたとしましょう。そのような場合,その人の葬式を執り行なっても会衆の平和と一致を乱さず,神の民に非難をもたらすこともないと長老たちが考えるなら,一人の長老が葬式の話をしても差し支えはありません。悔い改めの証拠が幾らか見られたとすれば,エホバがその人をすでにお許しになったかどうか長老たちにどうして分かると言うのでしょうか。適切なこととして,長老たちはその人の悔い改めが心からのものであるかどうかを確かめたいと思い,待っていたのかもしれません。明らかに各々の事例は異なっているのですから,問題の真価に応じて判断しなければなりません。もちろん,葬式の話をすることになったとしても,個人的な事柄を長々と説明したり,その人が復活するかどうかについてはっきりしたことを述べたりしないよう注意をしなければなりません。しかし,聖書からの優れた話と証言は行なえることでしょう。

      それに加えて,悪行者を排斥する二つの基本的な理由を見過ごしてはなりません。一つの理由は,できることならその人を本心に立ち返らせることにあります。もう一つの理由はその人の悪い影響から会衆を守ることです。排斥された人が死んでしまったのですから,もはやそのどちらも当てはまりません。排斥された人が,言わば「諸国民の者」と変わらないような歩みを続けていた場合でさえ,聖書に基づく葬式の話をすれば,前述のとおり幾つかの優れた目的を達成するのに役立ちます。それは,遺族に慰めを与え,外部の人々に証言をする機会になります。事情はともあれ,優れた証言が行なわれるというだけでも,遺族は慰められ心の安らぎを与えられることでしょう。

      地球上の被造物の中で神の像に造られたのはわたしたち人間だけです。それゆえ,わたしたちには死とは一体何かを理解する能力があるのです。また,それゆえにこそわたしたちには,他の人の死を悼む能力や遺族を慰めたいという願いがあるのです。わたしたちの天の父は,実に,「優しいあわれみの父またすべての慰めの神」ではないでしょうか。まさにその通りです。ですから,死者を悼むことや葬式を行なうことなどの問題についても,生活上の他の事柄すべてと同様,わたしたちは神の知恵と公正と愛の原則を自分たちの感情や行動の導きとしてゆきます。―コリント第二 1:3,4。コリント第一 16:14。

  • 神による驚くべき裁き
    ものみの塔 1977 | 9月1日
    • 神による驚くべき裁き

      ヘブライ人の預言者ハバククは当時の世相にひどく心を悩ましていました。ユダの地の至る所で,彼は暴力や圧制,不和や争い,不正を見ました。嘆きのあまり,ハバククはこう叫びました。「[エホバ]よ,わたしが呼んでいるのに,いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに『暴虐がある』と訴えたが,あなたは助けてくださらないのか」― ハバクク 1:1-4,口[新]。

      おそらく,あなたも,神を代表するととなえるキリスト教世界の諸宗派の教会員の間に不法がはびこっているのを見て,同様の疑問を抱いたことがあるでしょう。ハバククの聞いた答えは信じ難いものでした。(ハバクク 1:5)それは預言者をさえ驚がくさせるものでした。(ハバクク 1:13-17)キリスト教世界の宗教体制に終わりをもたらす手段について知るなら,宗教心を持つ人々はそれに劣らぬ驚きを覚えることでしょう。

      カルデア人が用いられる

      ハバククを通して語られたエホバの言葉は次のとおりでした。「わたしはカルデヤ人を興す。これはたけく,激しい国民であって,地を縦横に行きめぐり,自分たちのものでないすみかを奪う。これはきびしく,恐ろしく,そのさばきと威厳とは彼ら自身から出る。その馬はひょうよりも速く,夜

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