ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 箱船,ひつ,箱
    聖書に対する洞察,第2巻
    • (創 6:14)ここで規定されているやに質の木とは,イトスギ,またはそれと同じような木であると考える人もいます。その地域では今日イトスギと呼ばれている木が大量に生育していました。それは特に造船用としてフェニキア人やアレクサンドロス大王から好まれましたが,今でもそれは変わりません。この木は水と腐食に強い樹木です。イトスギでできた戸や柱は1,100年持ちこたえたことがあると言われています。加えてノアは,すき間をふさぐだけでなく,「[箱船]を内側も外側もタールで覆わねば」ならないと言われました。―「瀝青」を参照。

      十分な積載能力 箱船に乗り込むものたちの名簿は非常に印象的でした。ノアとその妻,3人の息子,息子たちの妻たちに加えて,「あらゆる肉なる」生き物のうち「それぞれ二匹ずつ」が乗船することになりました。「それらは雄と雌で……飛ぶ生き物のうちからその種類にしたがい,家畜のうちからその種類にしたがい,地面のあらゆる動く生き物のうちからその種類にしたがって,それぞれ二匹ずつが入ってあなたのもとに行き,命を長らえさせる」のです。清い獣と鳥の中からそれぞれの種類が七匹ずつ取られることになりました。また,これらすべての生き物が1年以上食べてゆけるようにするため,多様な食物を大量に積み込む必要もありました。―創 6:18-21; 7:2,3。

      選ばれた動物の「種類」という言葉は,創造者によって定められた明確で不変の境界もしくは限界に言及するものでした。その境界内で生き物は「その種類にしたがって」交配することができます。中には,今日存在する幾十万もの動物の種は,比較的少数の科という「種類」に ― 例としてわずか二つを挙げるとすればウマ科とウシ科のように ― 減らすことができるだろうと推定している人もいます。エホバによって確立された「種類」ごとの交配の境界を越えることはありませんでしたし,越えることはできませんでした。この点を思いに留めながら,最低43「種類」の哺乳類,74「種類」の鳥類,10「種類」の爬虫類が箱船に入ったとすれば,今日知られている多様な種を生み出すことは可能だっただろうと述べる研究者もいます。また,もっとおおまかに,必要だったのは72「種類」の四足動物,200「種類」弱の鳥類だけだったと推定している研究者もいます。今日知られている動物の非常な多様性が大洪水後のそれほど少ない「種類」の中での交配から生じ得たことは,人類の限りない多様性によって証明されています。すなわち,背が高い人や低い人,太っている人ややせている人,髪の毛や目や皮膚の色の数えきれないほどの相違などのすべては,ノアの一つの家族から生じたのです。

      このような推計について,限定的すぎると感じる人もいることでしょう。アメリカーナ百科事典のような資料によれば,動物の種は130万以上あると考えられるので,特にそう感じられるでしょう。(1977年版,第1巻,859-873ページ)しかし,このうち60%以上は昆虫です。上の数字をさらに小さくするものとして,両生類,爬虫類,鳥類,哺乳類を合わせた2万4,000種のうち,1万種は鳥類,9,000種は爬虫類と両生類で,その多くは箱船の外でも生き延びられたはずです。哺乳類はわずか5,000種類で,その中に含まれるクジラやイルカもやはり箱船の外に残ったでしょう。また,陸生の哺乳類の中で,羊より大きいものは約290種にすぎず,約1,360種はネズミより小さいと推定している研究者もいます。(「石に記された大洪水物語」,B・C・ネルソン著,1949年,156ページ; 「聖書地質学および考古学から見た大洪水」,A・M・レーウィンケル著,1957年,69ページ)ですから,このような大きめの数字を基に推定したとしても,箱船はこれらすべての動物のつがいを容易に収容することができたでしょう。

      大洪水が始まって5か月後,「箱船はアララトの山にとどま(り)」ました。とはいえ,そこは最高峰(約5,165㍍)の頂上ではなく,箱船に乗っていたものすべてがあと数か月間快適に生活できるふさわしい地形の場所だったでしょう。最終的に,大洪水が始まった時から1年と10日が経過した後,戸が再び開かれて,乗っていたものすべてが箱船から降りました。―創 7:11; 8:4,14。

      箱船の残がいが発見されたという主張はまだ確証されていません。

      2. ヨケベドが,後にモーセと名づけられた生後3か月の「麗しい」赤子を隠した小さな箱。ファラオの娘がナイルの岸辺の葦の間でその子を見つけました。このひつ,もしくは大箱(ヘ語,テーヴァー)はパピルスでできており,瀝青とピッチを塗って防水してありました。―出 2:2-4,10,脚注; 6:20。

      3. シナイ山でモーセに与えられた,律法の記された二組目の石の書き板を,証の箱が数か月後に造られるまでのあいだ一時的に保管したアカシアの木でできた容器。(申 10:1-5)申命記 10章1-5節で「箱」と訳されているヘブライ語アローンは,他の箇所では「棺」(創 50:26),「大箱」と訳されています。―王二 12:9,10,脚注; 代二 24:8,10,11。

      4. 「契約の箱」を参照してください。

  • ハザエル
    聖書に対する洞察,第2巻
    • ハザエル

      (Hazael)[神はご覧になった]

      シリアの著名な王。ハザエルは,イスラエルのエホラム王の治世中(西暦前917-905年ごろ)に統治を開始したようです。(王二 8:7-16)そして,イスラエルのエホアシュ王の治世中(西暦前859-845年ごろ)に没しました。(王二 13:24,25)ハザエルは王統に属していたわけではなく,彼の前にシリアの王であったベン・ハダド2世に仕える高官にすぎなかった人です。―王二 8:7-9。

      ハザエルが統治を始める幾年も前,エホバはエリヤに,『ハザエルに油をそそいでシリアの王とする』よう指示しておられました。そのような任命がなされたのは,イスラエルが神に対して罪をおかしており,ハザエルがその国民を処罰することになっていたからです。―王一 19:15-18。

      ハザエルは決して文字通り油をそそがれたわけではありませんが,それでもエリヤに与えられたその使命は,後継者である預言者エリシャによって果たされました。そのことは,シリアの王ベン・ハダド2世が病気になり,ハザエルをシリアの主要都市ダマスカスへ遣わした時に起きました。ハザエルは贈り物を携えて行き,病気のベン・ハダドが助かるかどうかエリシャに尋ねることになっていました。エリシャはハザエルに,「行って,『あなたは必ず回復する』と[ベン・ハダド]に言いなさい」と告げましたが,それに続けて「ただし,エホバはわたしに,彼が必ず死ぬことも示された」と言いました。そしてさらにハザエルに対し,「エホバはわたしにあなたをシリアの王として示されたのだ」と告げました。ハザエルは戻るとすぐ,王からエリシャは何と答えたかと質問されて,「『あなたは必ず回復するでしょう』と,彼はわたしに言いました」と答えました。ところが,次の日に,ハザエルはぬれた上掛けで王を窒息死させ,彼に代わって支配しはじめました。―王二 8:7-15。

      エリシャがハザエルに語った言葉については,かなりの推測がなされてきました。マソラ本文の欄外,それにギリシャ語セプトゥアギンタ訳,ラテン語ウルガタ訳,シリア語ペシタ訳,および18のヘブライ語写本によれば,その聖句は「彼に言いなさい。『あなたは回復するでしょう』」となりますが,マソラ本文の本文では,「言いなさい,『あなたは回復しないでしょう』」となっています。

      もしこの部分の読み方を,ハザエルはベン・ハダドに「あなたは必ず回復するでしょう」と告げるように言われたと取るなら,ベン・ハダドの質問に対するエリシャの答えはなぞの形式で与えられたと考えられます。つまり,ベン・ハダドは病気そのもので死ぬことはないが,やはり死ぬことになる(実際,ハザエルの手に掛かって死んだ)という意味です。いずれにしても,ハザエルはエリシャの答えの最初の部分,すなわち王に「あなたは必ず回復する」という部分を口頭で伝えましたが,答えの残りの部分は暴力的な手段によって遂行しました。―王二 8:10。

      ハザエルはイスラエルを虐げる ハザエルは王になって間もなく,ラモト・ギレアデ(ラマ)でイスラエルの王およびユダの王と戦火を交えました。その時,イスラエルのエホラム王は負傷しましたが,戦争そのものの結末についてはその記述の中に述べられていません。(王二 8:25-29; 代二 22:1-6)エホラムの後継者である,イスラエルのエヒウ王の時代に,ハザエルはイスラエルの土地を少しずつ取りはじめ,ヨルダン川の東にあったギレアデとバシャンを攻め取りました。(王二 10:32,33)それによって後のユダ王国侵攻の道が開かれたものと思われます。ハザエルはフィリスティアの都市ガトを取り,次いでエルサレムに攻め上ろうと,その顔を向けました。しかし,ユダのエホアシュ王はハザエルに神殿と宮殿の貴重な品を与えたので,ハザエルはエルサレムを攻めずに退きました。―王二 12:17,18。

      ハザエルはイスラエルのエヒウの子エホアハズの治世中にとりわけ,イスラエルを大いに虐げ,預言者エリシャの予見していたこと,つまりハザエルがイスラエルの防備の施された場所に火を掛け,彼らの精鋭を剣で殺し,その子供たちを打ち砕き,妊婦たちを切り裂くことを成就しました。(王二 13:3,22; 8:12)しかし,神はシリアがイスラエルを完全に打ち砕くことを許されませんでした。(王二 13:4,5)ハザエルの死後,イスラエルのエホアシュ王は3度の勝利により,父エホアハズがハザエルに奪われた都市をハザエルの子ベン・ハダド3世から奪い返しました。(王二 13:23-25)後に,イスラエルの王ヤラベアム2世は「ダマスカスとハマトをイスラエルのユダに復帰させ」ました。―王二 14:28。

      古代の碑文に出ている アレッポの南西約40㌔の所にある,現在アーフィスと呼ばれている場所で発見された一つの歴史的碑文にはハザエルのことが記されています。この碑文はその中で「バル・ハダド」と呼ばれている,ハザエルの子ベン・ハダド3世がハザエルの跡を継いでシリアの王になったとしている点で聖書と一致しています。

      シャルマネセル3世の幾つかの編年誌にはシリアに対する軍事行動が記録されており,ハザエルに対して一度ならず勝利を収めたことが述べられています。それらの編年誌の中で,ハザエルは平民(字義,無名の人の子)と呼ばれています。それはハザエルが王族の出身ではなく,王ベン・ハダド2世を暗殺してダマスカスの王座を奪ったからに違いありません。一つの碑文には次のように記されています。「わたしは治世の第18年に,16回目のユーフラテス渡河を行なった。ダマスカス(イメーリシュ)のハザエルは自分の大軍を頼みとし,おびただしい数の部隊を動員し,レバノン山に面する山,セニル(サニル)山を進んで自分の要塞にやって来た。わたしは彼と戦って彼を撃ち破り,老練な兵士1万6,000人を剣で殺した。そして,兵車1,121両,乗用馬470頭を取り上げ,陣営を運び去った。ハザエルは生き延びようとして姿をくらました(が),わたしはその後を追い,王の居住地であるダマスカス(ディマシュキ)で彼を攻囲した。(その所で)わたしは(都市の外の)彼の庭園を破壊して(立ち去った)。そしてハウラン(シャデー マトハウラニ)山脈まで進軍し,無数の町々を滅ぼしたり,破壊したり,焼いたりし,それらの町から数えきれないほどの略奪品を運び去った」―「古代近東テキスト」,J・B・プリッチャード編,1974年,280ページ。

      しかし,シャルマネセル3世はダマスカスそのものを取ること

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする