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    聖書に対する洞察,第2巻
    • のクレオパトラによってもうけた息子。彼はローマで育てられ,ヘロデ・フィリポとヘロデアの娘であるサロメと結婚しました。彼の父親が死んだ時,アウグスツス・カエサルは王国を分割し,フィリポにイツリア,テラコニテおよび他の近隣地域から成る四分領を与えました。その年ごとの歳入は100タラントに上りました。(ヨセフスがイツリアを省いているのは,そこが後で加えられたためかもしれません。)彼は30年余り支配しました。ヨセフスはこう述べています。「彼は政治手法において,穏やかな,のんびりした気質を示した。実にそのすべての時間を自分の治める領地内で過ごしたのである」。さらにヨセフスによれば,フィリポはどこであれ自分がたまたま居合わせた場所で裁きを行ない,直ちに事件の審理を行ないました。彼はユリアスで死に,大々的に埋葬されました。フィリポには息子がなかったため,ティベリウス帝は彼の四分領をシリアの属州に加えました。―ユダヤ古代誌,XVIII,106-108(iv,6)。

      フィリポの名は,バプテスマを施す人ヨハネの宣教の年代を示すのに関連して,聖書の中に一度登場しています。(ルカ 3:1)この聖句と,アウグスツスやティベリウスの治世に関する歴史的情報を考え合わせれば,ヨハネの宣教が西暦29年に始まったことが分かります。

  • ヘロデア
    聖書に対する洞察,第2巻
    • ヘロデア

      (Herodias)

      ヘロデ・アンテパスの妻。西暦32年,娘のサロメを通してバプテスマを施す人ヨハネの首を求め,それを得ました。(マル 6:22-28)彼女の父アリストブロスはヘロデ大王が二人目の妻マリアムネ1世によってもうけた子で,ヘロデアの母のいとこに当たります。ヨハネの兄弟である使徒ヤコブを除き去ったヘロデ・アグリッパ1世は,ヘロデアの兄弟でした。―使徒 12:1,2。

      ヘロデアは最初,自分のおじと結婚しました。このおじはヘロデアの父の異母兄弟で,ヘロデ大王の別の息子(3人目の妻マリアムネ2世による)であり,イツリアおよびテラコニテの地域支配者フィリポと区別するため,普通はヘロデ・フィリポと呼ばれています。(ルカ 3:1)ヘロデアのおじであり夫でもあるこのヘロデ・フィリポがサロメの父となりました。サロメはヘロデアの唯一の子であったようです。しかし,ヘロデアは彼と離婚し,彼の異母兄弟で,ヘロデアの祖父ヘロデ大王が4人目の妻マルタケによってもうけた子ヘロデ・アンテパスと結婚しました。当時の地域支配者(字義,「四分領太守」)で,イエス・キリストが「あのきつね」と呼んだ(ルカ 13:31,32)ヘロデ・アンテパスも,ヘロデアと結婚するために最初の妻,つまりアラビアのナバテア人の王アレタの娘と離婚しました。

      したがって,バプテスマを施す人ヨハネがヘロデアとヘロデ・アンテパスのこの結婚を非難したのはもっともなことでした。その結婚はユダヤ人の律法下では違法かつ不道徳なものであったからです。そのように非難したため,ヨハネは獄に投げ込まれ,後に打ち首にされました。ヘロデアは彼の大胆不敵で義にかなった糾弾によって激しい憎しみをかき立てられ,最初の機会をとらえて預言者ヨハネを殺させました。―マタ 14:1-11; マル 6:16-28; ルカ 3:19,20; 9:9。

      ヘロデアの兄弟ヘロデ・アグリッパ1世は王に任命されて,西暦38年にローマから帰還しました。このことはヘロデアを大いにいら立たせます。というのは,彼女の夫は王の子であったにもかかわらず,相変わらず地域支配者にすぎなかったからです。それで彼女は絶えず夫に圧力をかけたので,ついに彼も一王国の王として王位に就けられることを期待してローマに赴きました。フラビウス・ヨセフスによると,ヘロデアの兄弟アグリッパは皇帝カリグラに密かに手紙を書き送り,アンテパスがパルチア人と共に陰謀を企てていると告発しました。結果として,アンテパスはガリアに追放され,ヘロデアも同行しました。―ユダヤ古代誌,XVIII,240-256(vii,1,2); ユダヤ戦記,II,181-183(ix,6)。

  • ヘロデオン
    聖書に対する洞察,第2巻
    • ヘロデオン

      (Herodion)

      パウロがローマのクリスチャン会衆にあてた手紙の中で個人的なあいさつを送った人。パウロはヘロデオンのことを「わたしの同族」と呼んでいます。(ロマ 16:11)ローマ 9章3節で同使徒が用いた「同族」という呼称の用法からすると,これはヘロデオンがパウロの家族の直接の成員というよりも仲間のユダヤ人であったことを意味しているにすぎないのかもしれないという人もいます。しかし,パウロは自分があいさつを送っているユダヤ人すべてを「わたしの同族」と呼んでいるわけではないので(使徒 18:2; ロマ 16:3と比較),ここで言っているのはもっと身近な親族ということかもしれません。―「アンデロニコ」を参照。

  • ヘロデの党派的追随者
    聖書に対する洞察,第2巻
    • ヘロデの党派的追随者

      (ヘロデのとうはてきついずいしゃ)(Herod,Party Followers of)

      この人々は,ローマから権威を受けたヘロデ王朝のユダヤ人の支持者または党派的追随者だったようです。イエス・キリストが地上で宣教を行なっていた間は,ヘロデ・アンテパスがこの王朝を指揮していました。

      ヘロデ党の者は世俗の歴史には全く出て来ません。また,聖書の中でも彼らについてはわずかしか言及されていません。(マタ 22:16; マル 3:6; 12:13)しかし,ヘロデ党の者がヘロデの家の召し使いであるとか,ヘロデの兵士であるとか,あるいはその廷臣であるといった一部の見方に対しては強硬な反対意見が出ています。

      政治的にはヘロデ党の者は中道を取っており,一方ではローマの支配から完全に独立したユダヤ王国を唱道するパリサイ人やユダヤ人の熱心党員の反対を受け,もう一方ではローマ帝国によるユダヤの完全吸収を唱道する人々の反対を受けていました。ユダヤ教の中では自由思想派また穏健派とみなされたサドカイ人の一部の人々は,ヘロデ党の学派

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